ロシア篇 ① 「オマエタチはコミュニストですか」 2004


威圧的な巨大さだったモスクワのウクライナ・ホテル
威圧的な巨大さだったモスクワのウクライナ・ホテル

明るいロシア民謡

~歌はどうして「暗く」なったのか~

ロシア篇① 

 

「オマエタチはコミュニストですか」 2004 

 

1 「オマエタチはコミュニストですか」

2 極北の港町アルハンゲリスクのジャズフェス

 

 

 

 

 

 


1メガロシティ・モスクワ「オマエタチはコミュニストですか」

 

 お客のほとんどがモンゴル系の若者の、学生食堂のようなファストフードで粗雑に盛られた羊肉料理を食べていると、唐突にヨーロッパ系の青年がわたしのところに歩みよってきて、「オマエタチはコミュニストですか」といきなり日本語で尋ねてきた。とまどい、一瞬黙ってから英語で「いいえ」と言っておいた。なぜそのような不思議な応答があったのか思い出せない。2004年秋、Exias-Jというグループでのリトアニア、モスクワ、アルハンゲリスク、サンクトペテルブルクのツアーのときだ。モスクワの空港まで車で迎えてくれたのは、秘密警察、元KGB(ソ連国家保安委員会)だという頑丈な体つきの初老の男性だった。ホテルまで赤の広場などを通り過ぎながら簡単にガイドしてくれたが、そのころロシア語をまったく知らず、なにもわからなかった。

 

 当時、まったくわからなかったキリル文字の圧力、巨大な建物と建物の隙間や割れ目から組成し始めたような野生の無秩序を感じる。夜人通りの少なくなったこのメガロシティの大通りを建物の大きさに圧倒されながら歩いていると、大柄な街、国から拒絶されたような気分だ。かつては人間より、建物や政治の仕組みが大きな存在であったのだろう、と思わずにはいられなかった。

 

 誰かがどこからか用意してくれた私が演奏するコントラバスはボロボロで、楽器本体と床を接続するエンドピンもない。困っていると会場スタッフдом(ドム)の倉庫から悪ガキそうな男の子がエンドピン代 わりの部品になるようなものを探してくれた。そこに打ち捨てられるように転がっていた箒の柄を見つけ、これを切ればなんとかなるよと、のこぎりを片手にほほ笑んだ。手伝ってもらいその通りにしてみた。若者だが英語は通じない。モスクワの地下鉄の長すぎる高速すぎるエスカレーターをわれわれをからかっているかのように小走りし、足のすくむ私たちを置き去りにする。終演後に、ドイツ語を話せるメンバーが、ドイツ語で挨拶とメンバー紹介した。老インテリ風な客は、はドイツ語かフランス語を喋ると、喜ぶという話しだった。実際老人から拍手が上がったのを覚えている。その後2019年までに6度訪れることになるこの会場で初めて演奏したときのことだ。

 

 コンサートが片付くと、さっきの悪ガキ青年も含めた若者スタッフたちが、倉庫からスクリーンを出して、ソ連か東欧のむかしのアニメーションを上映し、みな体育座りで行儀よく見入っていたので私たちも混ざった。同じコントラバスをペテルブルクまで、鉄道に乗って運んだ。狭い寝台車の部屋の中に放り込む。外気との温度差で、布製の使い古された茶色い安物のケースがじっとり濡れていた。この楽器は誰が持ち主で、いつまで弾かれていたのだろう。ふとそんなことを思った。どんな楽器も愛おしく思う。

 


2 極北の港町アルハンゲリスクのジャズフェス

  

  モスクワから鉄道で、北緯56度北極まで200キロの極北の軍港アルハンゲリスクに向かった。丸一日ほどかかったであろうか。夜に出発し、買い込んだ酒も早々になくなり眠りにつこうとするが、車輪のたてる轟音が通奏低音となってそれを邪魔する。一両に一人ずつ女性の車掌がいるのだが、無愛想な女の目を盗み、連結部で凍えながら喫煙するほかない。そんなことを繰り返しながら日が昇り始めると、車窓から見えるのは秋の黄色い平原。同じような景色が延々と続き、やっと体があきらめたように入眠した。

 

 目を覚ましてしばらくすると夜だった。駅に着き、随分なところまで来たものだと、さすがに途方にくれた。そのまま迎えの車に乗って、参加フェスティバルのレセプションパーティーに連れて行かされた。立派だが古びたレストランだった。地元の名士のような正装した人びとが会食し、ミュージシャンがまったりと古いスタンダードジャズを生演奏していた。何十年も前の小さなサロンに放り込まれたような不思議な感覚がしたが、 意図した「レトロ」ではなさそうだ。そこで演奏していたベーシストからコントラバスを借りた。土地の言葉があまりわからなければ、話半分に、いや半分以下も分らずにどこに何の目的で連れて行かれるのかも分らず、そこに着く。予定も把握出来ないまま、旅芸人のようなに流されて行く。そんな「ミステリーツアー」のようなスリリングさも好きではあるが、寒く湿度の多かった列車の長旅のあとでは、20代後半だった私でもさすがに疲労のほうが勝る。

 

 かつては、ペレストロイカ期に日本にも紹介され公演や公演もおこなった、北ロシアのフォークロアの声や打楽器を多用し、スコモローヒ(大道芸人、吟遊詩人)の伝統的なパフォーマン性を帯びたカーニヴァル的な要素を含む実験的なJAZZアンサンブル「アルハンゲリスク」のリーダーのウラジーミル・レジツキーが芸術監督をつとめた由緒あるアルハンゲリスク・ジャズ・デイズで演奏した。会場は埃だらけの古い公会堂の大きなホールだった。北の果ての国際的な前衛音楽の祭典だが、このころは事情が変わり前衛音楽だけではなかった。私たちの演奏の前はモスクワからのアカペラコーラスグループが、カーペンターズの名曲のいくつかを英語で披露した。あまり上手とは言えなかったが、会場は大喝采。

 

 直後のわたしたちの前衛音楽はどう迎えられるのかと不安が募った。しかし私たちの激しく、ノイジーな演奏にも、同じように、いやそれ以上の熱狂的な大喝采だった。観客はいったいなににこれだけ反応しているのだろう。演奏中のステージ上からも、このような「理解」しようと思えば難しい前衛音楽を知的な解釈で楽しんでいるのではないような熱視と熱気を感じた。「英語」にしても「前衛」にしてもかつて禁じられていたような種の芸術を、それがどんなんものであれ公に目の当たりにする興奮のようなものもあるのだろうと思ったが、それだけでは説明できない。なにか日本人やヨーロッパ人とは感受性に根本的な違いがあるようにも感じた。このとき私たちが演奏した即興的な実験音楽は、西ヨーロッパや、日本やアメリカの一部の好事家は例外としても、通常は大都市文化圏で受け入れられることはあるものの、由緒ある前衛に寛容なフェスとはいえ、の最北の辺境の街で熱狂されるような種の音楽とは思えなかった。その頃はロシアに対する関心を特別にはいだいていなかったので、深くは気にとめなかったが、客の思わぬ反応に不思議な感触が残った。

 

演奏したアルハンゲリスクの古い劇場。足が痛すぎて詳細を覚えていない、、
演奏したアルハンゲリスクの古い劇場。足が痛すぎて詳細を覚えていない、、

  記憶は定かではないが、Exias-Jは帰国してすぐ、スコットランドかニューヨークに行くことになっていたと思う。グループが呼ばれたところに行って演奏するだけだった。

 

 アルハンゲリスクの夜遅くにホテルに帰り同部屋の仲間が寝静まった後、部屋の窓から外を眺めると、学校の校庭がある。薄明るい蛍光灯に照らされた、なんの変哲もない誰もいない夜の校庭をぼおっと俯瞰して眺めながら、こんな生活がずっと続いてゆくのだろうか...ただそう思い、それが嫌だという訳でもないが、言葉にならない息がでた。なんとなく途方に暮れる場面や、理解に苦しむ状況が多かった、2004年の私にとっての初のロシア訪問だった。その後、偶然が重なってロシアに行く機会が増え、後になって思うと、その「途方に暮れる」感じがロシアなのではないか、とも思う。こんな溜め息も、憂愁も含めたロシア人自身がその感性を言い表す語「タスカー」に通ずるのかもしれない。

 

 あれから15年以上時を経て2020年、SNSのメッセージがロシアのノヴォシビルスクに暮らす日本人の友人から届いた。このフェスティバルのディレクターである演奏家(2004年当時とは違った)が、日本で演奏することを所望しているからなにかアイデアはないか、という内容だった。映像資料を送ってもらうと、陰鬱でもあるがその奥に深い優しさを感じさせる面持ちの彼を含む初老ともいえる演奏家たちが演奏していた。前衛音楽とも、ポピュラー音楽とも伝統音楽のミクスチャーともつかない、おそらくは北ロシアのフォークロアの歌や打楽器奏法を素材に、ジャズのようなロックなような演奏をしていた。垢抜けた感じはしなかったが、実直さを感じた。残念ながらわたしはまだ彼らをどのように紹介し、興行としてある程度成立するかアイデアが思い浮かばない。しかし、近い将来わたしがそこを久しぶりに訪れて、一度共演させていただきたいとも思う。できればこのフェスティバルのなかで。その音楽を聴きながらインターネット動画やSNSページの画像をみていると、あれから15年の時を経て、この街はそれほど大きな変貌は遂げていないようにも思えた。

 

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