アルメニア・モスクワ音楽創作記 2016

アルメニア篇

この修道院でホーメーをしたら叱られてしまった
この修道院でホーメーをしたら叱られてしまった

 第二章 アルメニア・モスクワ音楽創作記 2016

 

<エレヴァン(アルメニア)篇>

 

1 トルコのコーヒー占いによると

2 世界で一番哀しい音色・コミタス

3 エリヴァニ 禁じられた声 

4 「ざくろの色」コーカサスの歌王 サヤト=ノヴァ

5  朝のヴォトカ

6 アルメニア古謡と「天女羽衣」

 

 


1 トルコのコーヒー占いによると

 

 トルコあたりでは、「コーヒー占い」なるものがあるそうだ。どろっとした粉状のコーヒーを飲み終えると、カップを逆さにして底に沈殿する粉が受け皿に落ちた模様で占うという。2011年の夏、振付家のアイディン・テキャルとの稽古で滞在していたイスタンブールから、日帰り小旅行に出た。ひと月ほどの滞在期間中の唯一の休日で、微熱もあり休養したかったが、テキャルに連れられ気の進まぬまま船ででかけた。行く先も把握していなかったが、車が走らない楽園のような島、プリンスィズに着いた。避暑のためにここを訪れているアルメニア人の友人とそこでランチをとる約束をしていたようだ。賭けカードゲームや占いの名手だと聞かされた。水色の石造りの古い高級そうなホテルのテラスで待っていたのは、貴婦人のような出で立ちの90歳を越える老婆と、反対にラフなTシャツ姿の娘二人だった。食後にコーヒーを飲み終わってそれぞれがカップを逆さにしてしばらく待つ。カップをとると同席の人たちには複雑な形象が受け皿に現れ、 それに対して老婆はずいぶん長い解説を小声で行った。フランス語も話すそうだが、トルコ語は上手くないらく、娘たちが介助しながら説明し、さらにテキャルがそれを英語にして伝えてくれる。占いにあまり興味がないので、てきとう頷きながら聞いていたが、促されて私もやってみた。

 

 しかし粉が落ちてこず、「う~ん、なにか心に秘めていてなかなかそれをオープンにしない人だ」とのひと言で終わってしまった。そのままではないかと内心憤った。場の空気も少し私に対して懐疑的になったようにもみえてしまう。それにしてもこれでは占いにならないということでもう一度試してみると、「奇跡、なんて愛に満ちあふれた人でしょう」と老婆は微笑む。今度はハートの形が現れたのだ。それもそのままではないか、とは思わないようにして受け入れた。褒められた嬉しさもあったのか、おそらく再び出会うことはないだろうという寂しさからか、耳の遠い老婆の人懐こい微笑が、ホテルに戻っても頭からはなれない。 

 

  アルメニアという地をそれまで意識することはなかった。まだ当時日本ではロシア語読みでグルジアといわれていたジョージア、アゼルバイジャンとともニコーカサス三国をなす。学生時代にトルストイ原作の映画で見た記憶があるが、日本とはあまりに異なる峻険なコーカサス山々の風景には現実感がなかった。ベッドに寝そべり、アルメニアの音楽について、持参したノートパソコンで調べはじめた。しばらく滞在しているここトルコの東に位置する隣国であるということも地図をみて気づいた。安ホテルのエアコンは壊れているのかコントロールが効かず、ギンギンに冷えた部屋の中で、民謡やドゥドゥクとよばれる笛の音を聴いた。悲劇の作曲家、コミタス・ヴァルタベッドのことも知った。さっそくイスタンブールの新市街にあったいくつかのレコードショップを巡り、CDを買い求めた。隣国の大作曲家からだろうか、多くの種類が売られていた。

 

 


2 世界で一番哀しい音色・コミタス

大きすぎるコミタス像
大きすぎるコミタス像

  

 力強くはないが息の長い歌声は、まるでアルメニア文字のように繊細で複雑な肌理をもつ装飾音で始まる。歌を貫くのが杏の木でつくられるドゥドゥクによるドローンだ。ドローンとは歌や旋律とともにある長く持続する通奏音で、世界中の民族音楽に聴くことができる。人の声域を越える音域で奏でられ、一般的に低音が担うことが多い。人々の安定や普遍、永遠、途切れることのない時、動かざる大地の安定、まさに「ベース(バス)」を求めるのだろう。いっぽう日本の宮廷雅楽の笙によるドローンのように高音の場合もある。憂き世を離れた宙空にそれ漂わせ、そこに永久や永遠を求めたのだろうか。

 

 縦笛で奏でられるアルメニアのドローンは、まっすぐ一本の長い線をひくように、息の続く限り吹き続けるロングトーンで奏でられる。それが人声に近い中音域で奏でられるのは世界的にも稀なことだ。西洋古典音楽でコントラバスが担うような低音でもないし、バリ、インドネシアのガムランにあるような、低音から広がるゴングの倍音による長くふくよかな残響をたずさえたそれとも、シタールなどで奏でられるインドのドローン弦の震える音とも違っている。

 

 モンゴルや中央アジアの平原の喉歌も、ドローンの一種といえる。低音の基音から生み出される高音の倍音とともに、豊かな中声域も長く響かせる。それらの地の天空思崇拝の地下、地面、天空の三層世界をイメージさせる。しかしアルメニアのドゥドゥクによるドローンは倍音をほとんど含まない。山国アルメニアでは天空は近しく、麓には大地が広がる。山の中腹は一般的に食生活のもとになる作物の生産には向かない不安定な土地だ。そこで人々は空にも大地にも永遠を求めず、自らの目線に、空想の「地平線」を吹ききたくなり、雑味のないモノトーンを山々に響かせる。それを奏でるのが世界で 一番哀しい音色」ともいわれるドゥドゥクだ。

 

 アルメニアは301年に司教グリゴリーによってアルメニア教会が創設され、世界ではじめてキリスト教を国教化した国だ。

 

「かつて、ペルシア文明が圧倒的にな影響力をふるっていたときも、光りの神と闇の神との、永遠の二元論とたたかいを説くゾロアスター教にさからって、アルメニア人は、すべてに先行して「時間の神」だけがいる、と考えた。世界で最初の「キリスト教国家」(それはローマがそうなるよりも、十二年も前のことなのだ)となった民族であるのにもかかわらず、キリストは神にして人であるというカトリックで採用された狭義を採用しないで、キリスト単性説の異端を信じつづけたのもアルメニア人だ。人類最初の文明は、アルメニアにおこった。しかし、アルメニア人は、現存する人類の誰とも似ていない。」

 

 宗教学者の中沢新一は著書「ケルビムのぶどう酒」(河出書房 1992年)で、このように素描していた。14 世紀にはイスラム国家オスマントルコの支配下に入るが、高い税とのひきかえの寛容政策でアルメニア正教は保たれた。ミハイル・レールモントフ、レフ・トルストイなど多くのロシア人作家もエキゾチズムとして憧憬したコーカサスの地。「アルメニア」。少しゆっくりと声にすると、有性音と母音だけから成る、なんと甘やかな、とろけるような響きであろう。

 

 2011年に新潟大学のロシア文学者の鈴木正美氏が招聘し、その後現在に至るまでコラボレーションが続く、管楽器奏者セルゲイ・レートフ氏が来日した。ロシアのアヴァンギャルドジャズの最重要人物である。新潟で舞踏家の堀川久子と共演した後、東京の渋谷の映画館で私のプロジェクトを上演することになった。イスタンブールで関心を深めたアルメニアの作曲家コミタスを創作のテーマに選んだ。博学で知られるレートフ氏なら、かつてソ連圏だったアルメニア文化についても詳しいだろうと考えたからだ。すでに私が創作のテキストに用いていたロシアの詩人、オシップ・マンデリシュタームにも「アルメニア詩篇」があることを知り、鈴木氏に翻訳してもらった。

 

 マンデリシュタームは、1891年、当時ロシア領だったポーランドのユダヤ人家庭に生まれ、すぐにペテルブルグに移った。文学を学び、若くして詩人として創作を始め、新古典主義、象徴主義の新たな潮流として評価を得た。高度な純粋芸術性は反革命的とみなされた。5年のあいだ詩作を中断し沈黙する。新聞社の依頼で1930年に八ヶ月間アルメニアに滞在した。社会主義の計画経済である「五カ年計画」がその地でどのように実行されているかの調査が、公式な滞在理由だった。そこで受けたインスピレーションにより、マンデリシュタームはこの連詩を書き上げ、詩作を再開した。しかし政権、スターリン批判を含む詩などにより、再び流刑され、極東の収容所で1938年に非業の死を遂げている。

 

  6

石を管理する国家_

アルメニア!アルメニア!

しわがれ声の山々 武器を取れと叫ぶ 魅惑の_

アルメニア!アルメニア!

アジアの銀の喇叭(*ラッパ)へと永遠に思いを馳せる_

アルメニア!アルメニア!

太陽がペルシャの金貨を気前よく分け与える_

アルメニア!アルメニア!

 

   9

貧しい村になんという贅沢

毛製の水の音楽!

これはなんだ?紡糸?音?予告?

私に触るな!油断すると危険だ!

湿った旋律の迷宮で

あんなに息苦しい霞が音を立てている

 

 イスタンブールで買ったCDのなかには、収集して編曲したアルメニア民謡を作曲家コミタス自身が歌う古い音源もあった。その声は、沈黙の中にデリケートに美を響かせたマンデリシュタームの初期の詩篇も想像させる。細かいメリスマ(コブシ)を用い、さらに喉を震わせて歌う声のなんとか細く繊細なこと。長い伝統を持つが小国ゆえに翻弄されるアルメニアの、歴史や、その暮らしを背景に持つ声か。

 

 コミタスことゾゴモン・ゾゴモニヤンはアルメニア人だが、生まれはトルコのアナトリア地方だ。家族はトルコ語で会話した。孤児となりアルメニアの施設に拾われたが、はじめはアルメニア語は自由ではなかった。信仰の中心エチミアジン(「神が降臨した土地」という意味)の修道院で神学を学び、歌、音楽の才を開花させた。教会のコーラスを作曲、指導する傍ら、アルメニア民謡を収集した。たとえば同時代のハンガリーのバルトーク・ベラやヨーロッパの作曲家も、多くのフォークロアを収集し、それを元に作曲した。コミタスも彼らの作品に匹敵する西洋音楽的な技法にも精通した作曲作品を遺している。キリスト教国家でありながら、地理的にも宗派的にも独自の道を歩んでいたアルメニアは、キリスト教、カトリック的な宗教芸術に支えられた西洋古典音楽的な文化とは異なるコーカサスやアナトリア、ペルシャの音楽文化が近しい。

 

 ヨーロッパのなかでもまだ近代国家が確立していない国々では、民俗音楽の収集と体系化が民族主義の高揚に結びついて国家観の形成に利用された。バルトークはハンガリー領を越え、多民族のフォークロアを収集、研究したために非難された。バルトークは「民族」よりも「民俗」に、とりわけ農民の音楽文化にこだわったのだ。しかしコミタスがさらに彼らと異なるのは、彼らが作曲家という「芸術家」であったのに対し、コミタスはその前に「聖職者」であったということだ。聖職者でありながら俗謡も同等に扱い、研究した。聖歌だけではなく、生活とともにある歌がコミタスにとって創造の聖なる泉だった。この地に多く暮らす異教徒のクルド人の民謡にまでそれを求めて収集した。

 

 しかしそのような世俗の歌や「邪教」徒の音楽への接近は正教会では認められなかった。より自由な音楽活動を続けるため、トルコのイスタンブールに移住した。この地のアルメニア正教会で、合唱曲を書き、聖歌の指導を続けた。しかし進行する青年トルコ革命の混乱の中、1915年にトルコによるアルメニア人虐殺が起こる。本国への移送中にトルコ兵の蛮行を目の当たりにした。コミタスは奇跡的に生還したものの、トラウマで精神を病み絶望の淵に落ちる。その後友人が音楽協会からの正式な招聘という嘘でコミタスを音楽界に戻そうと説得したが、すでに生きる希望すら失っており、救いの手を拒んだ。心身の治癒のため約20年の時をパリで過ごしたが、癒えることなく1935年に死亡した。遺灰はエレヴァンへと移送された。年代的にはトルコで占いをしてくれた、フランス語を話す老婆も虐殺の記憶を残す世代だろう。この難を逃れるため多くのアルメニア人が世界中に亡命した。よく知られるところでは、フランスのシャンソン歌手シャルル・アズナブールもアルメニア移民である。 

 

 2015年、音楽詩劇研究所の作品として上演した音楽詩劇研究所の作品「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」に手応えを感じ、海外公演を試みた。この時点ではまだ「ユーラシアン・オペラ」という構想をもっていたわけではない。ただ、コミタスへの関心からアルメニアに行ってみたいという単純な動機があり、2016年のこの地での国際演劇フェスティバルでの上演につながった。インターネットで調べ、アルメニアにそのような国際フェスティバルがあることを知った私は、まずこちらからコンタクトをとりフェスティバルに招聘されることなった。とはいえ、アルメニアのような小国で私たちのパフォーマンス参加への旅費、宿泊費、ギャランティーなどが確保されるわけではなく、急遽日本で渡航費や制作費の助成を受けた。私が個人的にこれまでに関係を築いていたロシアでの音楽祭にも出演することを条件に、2016年の秋、なんとか渡航できることになった。


3 エリヴァニ 禁じられた声

修道院でホーメーして叱られた腹いせに夜の街で悶え踊る津田健太郎氏。世界一哀しい音色ドゥドゥクを伴奏に。
修道院でホーメーして叱られた腹いせに夜の街で悶え踊る津田健太郎氏。世界一哀しい音色ドゥドゥクを伴奏に。

 

  ふたたび、ロシアの詩人マンデリシュタームの「アルメニア詩篇」より

 

「ああ、エリヴァニ!エリヴァニ!小鳥がお前を描いたのか

それとも幼子のようにライオンが色とりどり筆箱から彩色したのか?

ああ、エリヴァニ!エリヴァニ!都ではなく_炒ったナッツ」

 

 音楽詩劇研究所のメンバーのなかから総勢10名で国際演劇祭HIGH FESTに招待され、標高1000メートル付近の高原の中腹の首都、エレヴァンに到着した。2016年10月のエレヴァンは東京よりも暖かかった。

 

 ソ連崩壊からすでに30年近く経つてもなお、建物や文字からはロシアを感じた。しかし風景は違う。木の少ない都市ときいていたが、実際に街の印象を色であらわすならば茶色。それゆえにかえって背の高い木々の鮮やかな緑が際立つ町並みだ。コーカサスから流れ落つる水が豊かに沸き、ほうぼうで水道管から溢れ出し、地面からも噴き上げていた。八角形の壁面と、とんがり屋根の特徴的な教会が、街中のみならず、なにもない草原にも廃墟のように佇み、吹きさらされているのを目にした。

 

 滞在中には大使館の計らいで、ゲガルト修道院という巨大な岩の中にある最古の修道院に観光案内された。そのなかでわれわれの幾人かが得意とするモンゴル、アルタイ系の倍音を多く含む喉歌を響かせてみると、案内人の方に、そのような「汚い声」はここで鳴らしてはいけません、と怒られてしまった。

 

 異教徒の音楽は、ときに人々の心を乱す驚異的な存在だった。モンゴル系の喉歌は中央アジアのテュルク族のイスラム受容に伴い、コーカサスやアナトリア方面にも、多少は喉歌が伝搬したはずである。それはこの正教の聖地では異教の邪悪な声とされるのだろうか。カトリック教会とも異なり、正教会系では聖歌の伴奏に楽器は使用せず、ハーモニーや対位法的な多声による華美を避ける厳格さがある。「ひきのばされた声」は修行や帰依を妨げるとされた。歌舞音曲自体を「八戒」のひとつとする小乗仏教でも禁じられた。イスラム教の多くの宗派でも音楽は禁じられたが、そのような厳格な禁忌をともなう宗教文化をもつ地域ほど、民衆による豊かでダイナミックな音楽文化があるように思える。

 

 標高5000メートルを越え富士山に似ていることで知られるアララト山は、その麓から50キロほど離れたエレヴァンの街のところどころから眺めることができた。アルメニアの人々にとっては民族の象徴だという。「旧約聖書」の「創世記」では、「ノアの箱舟」が「大洪水」の後に流れ着いた聖地といわれ、箱舟らしき遺跡も発見されているそうだ。しかしこの山麓地帯から、青年トルコ革命後のアルメニアジェノサイドにより、アルメニア人はこの聖地からも排斥され、現在もトルコ領のままだ。アルメニアにも多い、国家をもたない 離散の民であるこの地のクルドの人々もにとっても、アララトは民族を象徴する山だ。

  

わたしたちの紹介記事もアルメニア文字だとさっぱりわからない。わたしの名前は Յան Կավասակիի と書くようだ。
わたしたちの紹介記事もアルメニア文字だとさっぱりわからない。わたしの名前は Յան Կավասակիի と書くようだ。
この修道院で「汚い声」を出して叱られた。
この修道院で「汚い声」を出して叱られた。

 まったく理解できない文字に囲まれていると、言いようもない不安に囚われる。アラビア文字ほどではないが、アルメニア文字はかなりエキゾチックだ。コーカス地方のアルメニア、ジョージアは古くから独自の文字を持つ。アルメニア文字は5世紀に完成した。アラブ圏とヨーロッパの間に位置しながら、アラビア文字やローマ字とならず、この文字を維持させてきた。ソ連政権も容易にその基盤を崩すことはできないと考え、それぞれの固有の文化をできるだけ維持させるところから実行支配を始めた。アルメニア、ジョージアはロシアと共通するキリスト教文化であり、それぞれの正教の聖典ではそれぞれの文字を用いて信仰生活を維持してきた。いっぽう中央アジアの「スタン」のつくテュルク系民族の国々はイスラム化する前は、基本的に文字をもつ必要のない遊牧民族だった。イスラム化したのちアラビア文字を用いるが、一般の人々が長い間文字に親しんでこなかったぶん、キリル文字やロシア語の導入が比較的速やかだったといえる。状況により方針は変化するが、ソ連は言語的背景の異なる民族にたいし、それぞれ別の言語政策を行わなければならなかった。

  

 美女大国などといわれるとおり、目鼻立ち、眉の輪郭くっきりとした、英語学科の女子大学生たちが私たちのアテンドをしてくれた。ソ連崩壊後から時を経て生まれている彼女たちにきくと、ロシア語は勉強したが日常では使わないそうだ。ただ家の中では子供の頃からロシア語の番組が流れていて、そこで覚えるのでいちおう理解できるとのこと。くっきりと目立つ彼女たちの大きすぎるエキゾチックな瞳に囚われると、そのままさらわれてしまいそうで、直視できない。毎夜、彼女たちの本日の動向を、この地のコニャック「アララト」を飲みながら報告し合うわれわれ、とりわけ男子メンバーはなんとなく浮き足立ったまま、この聖山の麓で過ごした。こうして古い国の異国情緒に包まれていたが、やはり社会主義時代の面影も残る。


 アルメニア語から英語への通訳や手伝いをしてくれた学生スタッフ。とても親切で優しい。彼女たちのSNSの投稿をみていると、男性の友人あるいは異性の恋人などとの写真はほとんど投稿されない。男性も同様だ。特に女性に関しては、このように女性同士頬を寄せ合いだきあってい、ぺたぺたとくっついている仲良し写真みたいなのが異常に多い。なぜだろう。考え、調べるに値する問いではあるが、やや優先順位が低く、考えぬままいままできた。彼女たちの投稿は日々続く(さすがに卒業後は少ない)


4  朝のヴォトカ

本番当日の朝。劇場のオペ室は宴会場になってしまった。
本番当日の朝。劇場のオペ室は宴会場になってしまった。

 

 誰も居ない楽屋に入る。埃をかぶった大道具や小道具、忘れられた俳優のメモ書き、楽譜の切れ端、鏡台の切れた電球。劇場の楽屋は、自分も、この部屋をとおりすぎた名もなき芸人の一人だという実感を与える。そして芸人という存在の頼りなさと誇りとを同時に感じさせるような不思議な場所だ。異国の劇場ではとくにそう感じた。

 

 公演日の朝、劇場の音響ルームに挨拶に行くと、初老の男性がウォッカとチーズをおもむろに冷蔵庫から取り出し、ロシアスタイルの乾杯で出迎えてくれた。埃だらけの音響機材をオペレートするのは、エプロンのようなものをまとい、掃除のおばさんそのものようなスタイルで、いつだって鼻唄を歌ってそうな明るく小柄な初老の女性。「サウンドデザイナー」には見えないその出で立ちに一抹の不安を感じる。でもなるようになるさ、とすすめられたウォッカを呑みながら、単語の羅列のロシア語でなんとか会話しながら朝から杯を交わし続けた。

 

 公演をおこなった会場は、これまでにも東欧やロシアでよく公演したタイプの古い劇場。「国立青少年劇場」という名もまた旧社会主義を彷彿させる。ソ連時代は基本的に雇用に関しても男女同権であり、現在ももその名残りがあるようだ。重い機材を運ぶ照明家や音響家もそうだが、日本では女性や高齢者が携わることの少ない職種でも多く見かける。この劇場スタッフも6.70代と思われる方が多い。日本人の一般的な感覚とは異なるため、適材適所には見えないように思えてしまうこともある。たとえば日本の美術館では「おすまし」したそれ風な、知的な香りのする女性がフロアで無表情で監視し、存在感をなるべく消している。しかしロシアでは、およそ太りすぎたおば(あ)ちゃんが編み物などなどしながら、現代美術のインスタレーション作品のなかで場所に同化せず、いい味をだして堂々と存在している。

 

 おそらく社会主義時代から劇場に勤務していると思われる年老いた劇場スタッフに英語はまったく通じない。ずっと前にポーランドの田舎町の古い劇場で日本舞踊の公演をしたとき、照明の灯体が落ちて事故が起きれば、旧ソ連圏の劇場では死刑になるほどの重罪になると、現地スタッフから脅されたと聞いたことがある。だから古くても安全性の面は厳重であるそうだ。アルメニアのそれらがどうだったかはわからないが、直す予定はなさそうな「死んでいる」(使えない)灯体も多数、堂々と天井に吊られたままだった。それもまたまるで古い小説のなかのような風景。

 

エレヴァンからのぞむアララト山
エレヴァンからのぞむアララト山

 

 

サヤト・ノヴァのモニュメントの前で得意の腹鼓を打ったあと、満悦な坪井聡志氏。
サヤト・ノヴァのモニュメントの前で得意の腹鼓を打ったあと、満悦な坪井聡志氏。
シャルル・アズナブールのモニュメントの前で、一生を歌手として身を捧ぐ誓いを立てたあと、肩の荷をおろす三木聖香氏。
シャルル・アズナブールのモニュメントの前で、一生を歌手として身を捧ぐ誓いを立てたあと、肩の荷をおろす三木聖香氏。

5 アルメニア古謡と「天女羽衣」

マスタークラスのワークショップ
マスタークラスのワークショップ

 

  アルメニアでは現地のアーチストとのコラボレーションはなかった。かわりに引き受けたマスタークラスのワークショップで交流の場をもつことができた。短時間での濃密な交流を期待し、日本語通訳の方を依頼した。事前に通訳の方と打ち合わせをした。ほとんど日本企業の製品や看板をみることはなかったが、首都エレヴァンにはこの時、彼女の旦那さんや大使館職員を含め日本人が11人暮らしていた。コミタスの認知度も尋ねてみた。やはりよく知られており、ふつうの若者でもコミタスが編曲した民謡のいくつかは歌うことができるとのことだった。

 

 ワークショップは、メンバーの亞弥の舞踏と吉松章による能の所作や謡いを実演を交えながら紹介し、それらを参加者が模倣することから始めてみた。モスクワから来たロシア人の俳優が、能の謡い風にロシア民謡「カチューシャ」を歌いだす一幕もあり盛況。演出家であるという一人の男性が、反対に古い中世のアルメニア聖歌を我々と一緒に歌ってみたいというので試みる。音程の取り方、民謡にも残る独特の、節回しだった。アルメニアは隣国のイランとは比較的友好関係にあるようだ。演劇祭にはイランからきた劇団もいくつか参加していた。喉を転がすように唄うペルシアの伝統的唱法、タハリールにも似ているが、コブシはこちらのほうが、さらっとしている印象。こんどは私たちがアルメニア語を模倣しながらその歌唱法の特質を知る。そのような相互の学びを踏まえ、二つの異なる歌を同時に歌うことから新たに音楽を作りはじめ、簡単なパフォーマンス作品を創作した。

 

 ロシアから来た劇団の俳優も多く、お願いした通訳は、アルメニア後ではなくほぼロシア語になっていた。コーカサスや中央アジアの旧社会主義圏の人々は、現在もなおまったく違う言語を二つ用いながら暮らしている。

 

 

 ワークショップの最後に、半紙を配って参加者に差し上げた。たくさんの漢字を一文字ずつ筆で書き、昨夜の舞台で用いるために用意した小道具だ。稽古で試したとき、半紙は宙に舞いにくかったので、本番ではコピー用紙に書き直して使用し、オリジナルのが残っていた。シベリア抑留の体験を詩にした鳴海英吉の作品群のタイトルである。舞台では、漢字を翻訳してアルメニア文字もコピー紙に転写して織り交ぜた。アルメニア語がわからないのでロシア語や日本語で声にしながら、吉松が花吹雪のように宙に撒き散らした。

 

虹、風、河、列、夏、飯、鳩、北、飢、葦、棺、雪、贋、土、夜、湾、海、杭、鬼、砂、友、雫、蛙、酒、花、髭、樽、歌、墓、鶴、春、駅、神、砂、さよなら

 

 今回は日本からのメンバーのみでの上演だったが、 いつかアルメニアやほかのコーカサスのアーチストとともに作品を作ってみたい。モスクワへと移動する日の午前、私たちは大きな蚤の市に行った。サヤト・ノヴァやコミタスの古い楽譜を、乱雑に積み重ねられた書物や雑誌の山からみつけることができた。古い歴史と古来の独自の文字を持つ文化であるから古書も多いのだろう。

 

 

「親愛なるみなさん。この作品は18世紀の偉大なアルメニアの詩人、サヤト=ノヴァの人生を描いたものではありません。映画という手段を使ってその詩作品の創造的世界を表現しようしただけです。ロシアの詩人ヴァレーリィ・ブリューソフはこう言っています。『中世アルメニアの詩は。世界史に記された人間知性のもっとも輝かしい成果のひとつである』と。」(永田靖、永田共子訳「セルゲイ・パラジャーノフ」国文社)

 

 セルゲイ・パラジャーノフの映画「サヤト・ノヴァ(ざくろの色)」の冒頭で開かれる書物のなかに書かれた詩。

 

 

 「詩人は死ぬが―

 その詩才は不滅である

 私が死んでも旋律が

 人々を揺り動かすだろう

 私が去ったこの世では―

 髪の毛一本たりとも滅びないだろう・

            ―サヤト・ノヴァ

 

サヤト・ノヴァ

 

 18世紀初頭、トビリシで職工の息子として生まれる。詩人、音楽家「アシューク」となる。トルコやコーカサスで吟遊詩人を意味するアシューク(アシュク)は賢人とされ、結婚式や葬式、祭、巡礼に立ち会うことが望まれた。その言葉と音楽は、正義と真実のありかを示唆した。宮廷付き詩人となるも、すぐに宮中の陰謀により貴族階級と袂を分つことになる。アルメニアのハフパット修道院の僧となるが、18世紀末に興ったイラン・カージャール朝初代皇帝によるトビリシ征服の際にアルメニア教会で惨殺された。サヤト=ノヴァの詩はアルメニア語・グルジア語・アゼルバイジャン語で書かれ、コーカサスの人々にもっとも親しまれ、尊敬される詩人だ。現存するのは、アルメニア語詩68篇、グルジア語詩34篇、アゼルバイジャン語詩115篇。

 


      モスクワ篇


「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」
「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」