アルメニア・モスクワ音楽創作記 2016

公演ポスター「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」とロシア語で書いてある。
公演ポスター「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」とロシア語で書いてある。

 第二章 アルメニア・モスクワ音楽創作記 2016

 

<モスクワ篇>

 

1 モスクワでつげ義春を思い出す

2 ロシア・アヴァンギャルドが宿る場所

3 ウクライナの真珠 アーニャ・チャイコフスカヤとの出会い 

4 二つの子守唄 古謡のない日本

5 二つの湖へ

 

 


1 モスクワでつげ義春を思い出す

 

  10月の半ばだが、いまにも初雪が舞い降りてきそうな曇天のもと、私たち音楽詩劇研究所メンバーの10人は文字通り路頭に迷った。

 

 国際演劇祭HIGH FESTでの公演を終えてアルメニアの首都エレヴァンを発ち、私にとっても6年ぶりのモスクワに到着。

 

 電車やメトロを乗り継ぎ、ようやく到着したが、予約しておいた宿はそこになかった。街を歩く人にメモを見せてたどたどしいロシア語で尋ね、連絡先に電話をかけてもらう。メモの住所とは別の場所にくるようにとのことで、なんとかそこまで辿り着く。古いセーターの上に汚れたウィンドブレーカーを纏った男が現れた。スラブ系の顔ではなくタタール、アジア系の出自を思わせる骨格をもつ男だった。

 

 ここがお前たちが宿泊する部屋だといわれ、何棟かがまとまった典型的なモスクワの古いアパートの一室に通された。しかし中を見ると予約していた部屋数でなくベッドの数も足りない。五十がらみの陰気そうな男は部屋のオーナーと結託し不正に加担しているのだろうか 。部屋の中に荷を下ろせば、不正を受け入れることになると思い、メンバーを寒空のもと中庭に待たせている。片言のロシア語とジェスチャーを交えて、私なりに語気を強めて応対したが、交渉は難航。強面の表情を崩さぬこの男に、部屋の変更を要求するが、そんなものはないし、それでも予定通りの金をよこせという。なんとかアルメニア公演と移動で疲れているメンバーの寝場所だけでも確保せねばという重圧と怒りを感じながら、同時にこの男の居る「風景」に対して妙な親しみも感じていた。

 

 男は家族とともに階下の部屋に暮らしているようだ。モスクワでそのようなアパートに暮らしている家族は、貯金もなく貧しい生活を送っているらしい。しかしダーチャという郊外の別荘で野菜を作るので、最低限の食物には困らずに、なんとか生きていけることが多いようだ、と帰国後にロシア文化の研究者から聞いた。ダーチャは、日本人が想像する金持ちの別荘とは異なり、多掘建て小屋のようなものが多い車で郊外に向かうと、それらが淋しげにぽつぽつと佇んでいるのが見え、それはロシアらしい景色の一つである。土地が狭く、山地の多い日本とは大きく異なる生活感覚だ。

 

 老後等の社会福祉保証は良いわけではないそうだ。日本ではTVやいまでは動画サイトのCMでも保険会社のCMだらけだ。かつての宗教や伝統的慣習への信仰以上に、人々の死生観、人生観の変化をもたらしているようにも思う。現在をそれなりに安全に暮らすことのできる私たちは、子供の頃から、老後の不安を煽られながら生きる。

 

 英語は通じず、片言のロシア語と筆談を交えて、追加の簡易ベッドを運んでくることでうやむやなまに合意。ここでこのまま待っているようにいわれたが、男がそのまま逃亡しないようについてゆく。

 

 階下の彼の部屋を覗いた。乱雑で、裕福とは言えない質素な暮らしぶりが垣間見える。その陰鬱な風で家庭生活を淡々と送っているのか、部屋の中では冗談でも言いつつ明るくふるまっているのか。ウォッカを飲んで家族に粗暴な態度をとったりするのだろうか。瞬間そんなことを想像しながら、ふいにこの遠い異国でつげ義春の漫画のことを思い出してしまった。

 

 「リアリズムの宿」という作品がある。作者自身を思わせる貧しい漫画家が、取材旅行と称して、青森の辺鄙な漁村を一人旅をしている。あてにしていた商人宿が満室だった。しかたなく漁村の家族が仕事の片手間に営んでいる宿に泊まることになり、外も見えない納戸のような部屋をあてがわれた。持病で咳き込んでいる父親が家族にたいしていばりちらいている。貧しい家族の殺伐なリアルな日常が邪魔をして旅情のかけらもない。それに辟易としながら、早く眠ってしまおうと冷たい布団にもぐりこむと、宿の長男坊である 少年の声が隣室からもれ聴こえる。学校の教科書にのっている芥川龍之介の「蜘蛛の糸」をたどたどしく朗読している。その拙い音読ゆえにに、かえって仏教的な倫理観が強調され、それを強要されているように感じる。つげ義春はドラマのなかで情念を人情として描かず、風景のように描く。

 

 さて、簡易ベッドが上の部屋に運ばれてゆくのを確認し、悪臭のするいつ壊れてもおかしくないようなエレヴェーターで荷物を手分けしながら上がり、ようやくわれわれ10人は古びた3間ほどの部屋の中に荷を下ろした。新たなベッドは女性メンバー分しか用意できず、男性メンバーは雑魚寝確定。私は三日前のアルメニア公演をふまえて、あらためてモスクワでの上演構想を練り直せばならず、そのことに集中したいので、申し訳ない気持ちに苛まれながらベッドを確保させてもらった。

 

 こうして一週間ほどのモスクワ滞在が始まった。翌朝早く、煙草を吸いにアパートの中庭におりると、みぞれまじりの雪がふっていた。埃まみれのボロボロの青い車で中学生くらいの年の娘を学校に送るこの男の姿があった。社会主義時代に建てられた無機質なアパートでは、さまざまな資材が朽ちて剥き出しになって、有機的な内実を晒す。そこに懐かしさと不思議な安らぎも覚える。そのような日常の風景そのものが、詩であり歌のようである。旋律はこのような「貧しさ」から紡ぎ出される。それは叙情や旅情とは異なるものだ。「歌と逆に、歌に」。つげ義春の漫画とともに、その小野十三郎の詩と言葉と詩を思い出した。小野は貧しい暮らしの風景の中にある物や無機的な工場を描き、情緒の中に歌を埋没させない。私たちはここモスクワで、そんな風景や人との出会いの中から、新たな歌を探す。

 


2 ロシア・アヴァンギャルドが宿る場所

セルゲイ・レートフと音楽詩劇研究所。SNSのロシア語のコメントで、哲学者とふつうの人々、と書かれていた。
セルゲイ・レートフと音楽詩劇研究所。SNSのロシア語のコメントで、哲学者とふつうの人々、と書かれていた。

 

 現代美術館での公演は、「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」のアルメニアバージョンに、管楽器奏者セルゲイ・レートフが加わった。彼とは、2010年に新潟と東京でコラボレーションを行って以来の再会になる。聖者のような白鬚をたくわえ貫禄があり、学生の頃から日本の音楽雑誌等でも名前を目にしていたのでキャリアも長い。それゆえに70代くらいにも思えたが、当時まだ60を過ぎたばかりだった。抑圧されていた表現行為のエネルギーを多方向に放出したペレストロイカ期からロシアの前衛芸術を牽引した重鎮であり「生き字引」のような存在だ。

 

 日本で彼と共演したとき、出演者が日本語の歌を歌うパートがあり、本番前のリハーサルで即興での共演をお願いしたのだが、「そのパートでは共演できない」と言ったことが印象的だった。「歌詞の意味が分からないので演奏しようがない」というシンプルな反応が意外だった。

 

多要素が混ざり合うパフォーマンス作品にも慣れたものであろうレートフ氏なら、コンセプトや意義を知れば、声の響きをたよりにご自身の解釈でなんとでも自在に演奏するだろう、と考えていた。むしろ言葉の意味も分らぬままにいきなり共演したら、そえはそれで思いもよらぬ音風景があらわれるのでは、などと安易な期待もあった。しかし彼は、かつて言語表現が検閲された時代には、そのギリギリのところで格闘しながら創作してきたのだ。隠喩や隠語を駆使する言語表現を、レートフは熟知している。そういう時代を経験してきた観客もまた、安易なセッションなどお見通しなのかもしれない。

 

 だから今回はあらかじめ意味を伝えようと思い、エレヴァンのホテルで台本を英語に翻訳して、メールで送った。さらにリハーサルで、コンセプトを詳しく説明すると、あるパートは電子楽器もプレイをしたいと具体的な提案があり、わざわざメトロに乗って家に取りに戻るという。架空の民族を演じるこの作品では、民族的な属性がない電子楽器の演奏を交えたほうが、架空性を明確にできるだろうという氏の判断だ。

 

 私は心の中ではあえてアコースティック楽器のみでそれを表現することを希望していた。コンセプトを明確にすること以上に、「架空の民族」を演じる不可能性そのものを生々しく舞台の上に表現したかったからだ。しかしここでは、積極的に創作に関わろうと提案してくれた彼の判断とアイデアを重んじた。本番では、ステージ上で作品をみながら判断を変えたのか、その電子楽器を吹かず、サックスやフルートで即興的に陰影をつけた。このような臨機応変な判断もコラボレーションの醍醐味だ。

 

 舞台芸術として完成された作品を上演しようとしたアルメニアでの公演と比べると、即興的で削りだ。しかしレートフやメンバーの即興的判断がまざりあい、充実したコラボレーションだった。この後ユーラシアンオペラとして海外のアーチストとのコラボレーションによる創作がメインになる「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」にはじめて海外のアーチストが加わったことになる。

 

 セルゲイ・レートフとの共演は第三部に述べる3年後の2019年のユーラシアンオペラ第二作目「さんしょうだゆう」に続く。

 

左から3人目がリューだ。
左から3人目がリューだ。

 

 

◎セルゲイ・レートフとのコラボレーションの続き アルマティ、カザン、モスクワでのコラボレーションしました

草原の道日記 カザフスタン タタールスタン ロシア 2019

さんしょうだゆう 夢の歌への旅 4 セルゲイ・レートフとカザフスタン アラシュオルダ セミパラチンスク

 

 


3 ウクライナの真珠 アーニャ・チャイコフスカヤとの出会い

出会いの瞬間。このときよもや2年後に彼女の家族が埼玉は我が家の近所で過ごすことになるとは思いもよらない。
出会いの瞬間。このときよもや2年後に彼女の家族が埼玉は我が家の近所で過ごすことになるとは思いもよらない。

 

  国際音楽祭「ロングアームフェスティバル」に2日間出演。初日はアルメニア公演同様に日本からのメンバーのみで行う。音楽祭なので、構成をコンサートベースにアレンジした。これで今回のツアーでの「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」そのものの上演は終わった。

 

 翌日は、ウクライナ出身のヴォーカリストのアーニャ・チャイコフスカヤ、伝統音楽のリード楽器をあつかう、セルゲイ・クレヴェンスキーとのセッショだ。私の音楽的な意図、希望を汲んでフェスティバルのプロデューサー、リュドミーラ・ドミトリエヴァが考えて揃えてくれた二人のミュージシャンだ。さらにダンスのアリーナ・ミハイロヴァが加わる。同じ場所で6年前に共演した彼女との再共演はこちらから主催者に所望した。即興演奏とダンスが主体のこのコンサートを「モスクワ・ミーティング」と名付けた。

 

 終演後、翌日のプログラムで初共演するチャイコフスカヤが私のところにきて、われわれの作品にとてもエキサイトしたと伝えてきた。その後も関係が続く彼女との初対面だった。セッションではあるが、今後の創作にも繋がるなるべく充実させたいと思い、遠慮しつつも予定より早めのリハーサル開始時間を伝えた。するとさらに早く集まって、いろいろトライして可能性を探りたいと言った。嬉しい申し出だ。アルメニアでのワークショップで教えてもらった中世の民謡のことが頭にあったので、ウクライナの古い民謡や子守唄を歌ってもらいたいとお願いしてみた。

 

  翌日、またトラブル発生。会場の「ドム」に着く頃に連絡が入り、クレベンスキーが病気で来られないとのこと。会場でわれわれを待っていたチャイコフスカヤにそれを伝えると、自分が一番信頼している音楽家が演劇公演のリハーサルのためにペテルブルクから来ているから、代わりに呼ぼうとのこと。さっそく電話を入れた。きっと来る、とのこと。また不確定要素が増えた。

 

  リハーサルが始まり、チャイコフスカヤが歌い出した瞬間、これだ、私たちは思わず顔を見合わせた。彼女はいくつかのウクライナ民謡を歌い、私のコントラバスとギターの小沢あきが慎重に即興で音を添える。アジアのでもヨーロッパのでもない声と旋律だが、文化の差異を越えた、とても古い記憶にふれるような歌だった。英語で詩の内容について説明してから歌い始め、半分くらいの理解で私たちがそれに併せる。それらは古い民謡で、そのうちの一つは紀元前から伝わる歌だそうだ。アルメニアで、演出家の青年が中世の聖歌を歌ったときも驚いたが、日本とは歌の伝わり方や残り方が違うのだろう。日本で俳優や歌手、音楽家で、「古謡」や民謡をいくつも歌うことができる人は少ない。いやほとんどいないはずだ。なぜならそもそも再現できる形で伝えられていないからだ。なお、モスクワの観客はなんとなく、というレヴェルでウクライナ語の歌詞を理解できるそうだ。

 

 アーニャ・チャイコフスカヤは、「ウクライナの真珠」とも称されるジャズの歌手と事前にきいていた。しかしペテルブルクに移住し、そこでスキタイやタタールの記憶にもふれるようなウクライナの古謡を研究した。さまざまな先鋭的な音楽家たちと出会い、ジャンルを超えた。

 

 この人とは将来的にも創作が続いてゆく。リハーサルの時、すでにそうに思った。リハーサルといより「申し合わせ」程度のようなものだ。私はこんな歌を歌うから、あとはステージよろしく、と。しかしユーラシアンオペラの創作の実質的な始まりは、この日だったと後から思う。さて、ダンサーのアリーナ・ミハイロヴァ、そしてきっとここにあらわれる、という音楽家を加え、舞台の上で創作だ。

 


4 二つの子守唄 古謡のない日本

ダブル子守唄という良いシーンができた。アーニャ氏も満足し、終演後に花束を持って駆けつけた旦那さんにも、三木聖香と二人だけで歌ってあげようということになった。しかし途中でギターの小沢あき氏が乱入してしまった。さすがである。
ダブル子守唄という良いシーンができた。アーニャ氏も満足し、終演後に花束を持って駆けつけた旦那さんにも、三木聖香と二人だけで歌ってあげようということになった。しかし途中でギターの小沢あき氏が乱入してしまった。さすがである。

 

 

 いま日本で民謡といわれる伝統歌は、明治期に新民謡として「つくられた」ものも多い。しかも本来はほぼ無伴奏でみなで歌っていた歌を、一人の民謡歌手が、三味線や尺八や太鼓の伴奏をつけて歌う。同時期から作られ、日本人の心の拠り所といわれ文部省唱歌も、西洋風を取り入れたもので民謡とは遠い。日本の伝統芸能として海外に紹介されることの多い和太鼓集団の合奏も、近代以降につくられたものだ。桃山晴衣による平安末の歌謡集である「梁塵秘抄」などの「想像的な復元」もあり、私にはむしろ興味深い。

 

 日本に古謡の旋律が残っていないのは、再現性の高い記譜の習慣がないこともある。そもそも日本人にはわざわざ「残す」という発想があまりないからなのでは、とも思う。島国で外敵も少なく、自然環境も比較的穏やかなのでおおらかなところがあるのだろう。鎌倉時代以降は歌舞音曲に控えめな武家、仏教文化が長く続いたという理由もある。さらに江戸期の鎖国もあり、多文化の流入が少なく国内においても関所で封じられ、内外ともに外敵がないので、わざわざ固有性を保守する動機が少なかった。異種交配によって醸成される文化の豊かさはもちえないが、「残されていない」ことは自然でもあり、安全で平和な歴史を歩んできたともいえる。

 

  この日のセッションでは「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」で作曲した子守唄とウクライナの古い子守唄を同時に響かせることを試した。母親や奉公の乳母による労働歌でもある子守歌は、私が歌の源流だと考える「独り唱」の痕跡が残ったものだといえるからだ。それらは男性社会や集団労働における共同作業の歌とは異なる。

 

 古い日本の唄のほうが良いという意見もあったが、三木聖香が歌ったのは、日本語歌詞だが私が作曲した「架空の民族」の子守唄だ。これが私の選択だった。チャイコフスカヤがウクライナ人であるからウクライナの古い歌を用意してもらったのではない。彼女がアーチスととして自らのアイディンティティをウクライナ古謡の歌唱においているから、それをお願いしたのだ。

 

 私も母語である日本語や日本の土地に根ざした古い音楽や歌を知り、私自身との関係を繋げて深めてみたいという思いはある。しかし、少なくとも今回の作品の創作や私のアイディンティティに、古く遡る日本の「伝統の歌」はない。私は日本で生まれ育ち日本語で話し、思考する。これは逃れようのないことで、母語で生きられる幸福だ。そしてその日本語の歌を「創る」ということが、私の現在だ。だから伝承歌ではなく自作の子守唄を選んで、ウクライナの古謡と同時に響かせるのだ。これは、ウクライナと日本の出会いではなく、まずは彼女と私(たち)と個人と個人との出会いだ。それに私たちは、日本の伝統を紹介するためにではなく、日本語をつかう「架空の民族」というそもそも矛盾した設定を演じるために異国にきたのだ。

 

巨匠ヴァチェスラフ・ガイボロンスキー
巨匠ヴァチェスラフ・ガイボロンスキー

   彼は本番中に現れて、客席から突然トランペットの演奏を始めた。彼とは、ヴァチェスラフ・ガイボロンスキーその人だった。セルゲイ・レートフ同様にロシアのアヴァンギャルド音楽を長らく牽引しているるレジェンド的な存在だ。何枚かの録音作品を聴いたこともあった。先を予測できない即興的なに、さらに突如として現れたこの「ストレンジャー」が、シアトリカルな展開の中に自然に、ひょうひょうと存在感をはなった。腰掛けたり立上がったりあちこちに移動したり、なにか私には理解できない声を発しながら吹き鳴らされるトランペットは、一筆書きのように流麗で、けれんみがない。

 

 以前同じ場所ででダンサーのアリーナ・ミハイロヴァとともに共演したウラジーミル・ヴォルコフもそうだった。ロシアで最も著名なコントラバス奏者が、コントラバスを弾かず(私の作品では私自身がコントラバスを弾くので)、箒をもち、たらいを叩き、素晴らしい即興的なパフォーマンスで作品に貢献してくれた。

 

 一般的に、コンサートでは音響上の問題やアンサンブルのバランスや集中を保つことを優先させ、演奏者はあるていど一定の位置で音を奏でる。しかしロシアの実験音楽では、即興的なドキュメンタリーな関係性、視覚的効果を重視する。そのためステージ上を移動したりパフォーマン性、演劇性に富んだアンサンブルを作ることがよくある。ドイツでは演劇的な要素のあるこのような音楽を指して「ムジクテアトル」というが、ロシアではそれが当たり前なところがあるのだろう。このような伝統への共感が、ロシアの前衛ミュージシャンと共演を重ねてきた大きな理由だ。私は音楽とは演劇でありダンスであると考えている。だからこうして「音楽詩劇」なるものを創作している。

 

 本番はあらかじめ決めた構成が混乱することもあった。心配になってステージから横目で舞台袖を確認すると、進行を見失ったチャイコフスカヤが目を大きくして慌て、親友であるダンサーのアリーナ・ミハイロヴァに理解をもとめている。いっぽうのミハイロヴァは微笑みながら冷静だ。創作の現場で、共演者との一期一会のセッション以上の関係がつくられ、まだ聴こえなかった歌や音楽がじょじょに立上がって来る。演奏しながら、観客も一体となってそれを待ちのぞむ時間。それが私にとって即興だ。

 

  終演後、チャイコフスカヤの旦那さんが素敵なパーティーを開いてくれた。翌日はもう帰国。アリーナ・ミハイロヴァとのさらなる創作は、第三部で詳しく述べたい。

 


5 二つの湖(バイカル・黒海)へ

 

  エレヴァンで教わったアルメニア中世の聖歌やモスクワで教わったウクライナ古謡に刺激され、帰国後、私はさっそく次の旅の準備に取りかかった。とくに古謡を自由なスタイルで歌う歌手アーニャ・チャイコフスカヤとの出会いは大きかった。それが契機となり、偉大な歌手の存在を思い出した。チャイコフスカヤと同じく、歌と即興の間を往来する表現を持つ トルコ出身の女性歌手サーデット・チュルコズだ。2010~2011年 の日本トルコ現代音楽制作「Sound Migration」でコラボレーションした。彼女の両親は、東トルキスタン(新疆ウイグル)からトルコヘの移民という出自を持つ。

 

 コラボレーション主体の「ユーラシアンオペラ」への構想が始まった。チュルコズとの再会を目論みながら、さらなる歌手、歌もユーラシア大陸のどこかへ探しにゆこうと思った。翌年の2017年はそれに向けて二つのプロジェクトを設けた。一つは、この二人の歌手それぞれとのコラボレーションである「黒海プロジェクト」。黒海をはさむ、ウクライナのオデッサとトルコのイスタンブールの二都市で行。両都市ともロシア、アジア、ヨーロッパの扉、海運都市だ。

 

 もうひとつは「バイカルプロジェクト」。セルゲイ・レートフが、今回の共演により私の試みを知り、この作品のベースにある北方狩猟民族エヴェンキ族の起源であるバイカル湖近くで行われる国際音楽祭を紹介してくれた。それはシャーマニズムとチベット仏教の国、ロシア連邦ブリヤート共和国の首都、ウラン-ウデの草原で行われる。湖畔地帯は、日本人起源の地という説もある。翌年の公演の実現は時期尚早の感もあった。創作に深く関わるこの地での上演は、もう少し先の最終目標だったからだ。しかしフェスティバル側と交渉を進め、さらに紹介された、北方民族やモンゴルなど民俗と現代美術をつなげる同地の美術館のアートディレクターとのやりとりも始めた。

 

 次の旅からは、日本から古くからの友人である韓国打楽器奏者チェ・ジェチョル(崔在哲)も同行してもらいたいと思った。ルーツである朝鮮半島の農楽や伝統音楽を実践しながら、日本の伝統芸能を尋ね、東海道五十三次、熊野古道、八戸の豊年祈願の祭「えんぶり」でも地域の人々と交流しながら叩き歌う。身体と歌のありかを自らの足で確かめる。踊りやリズムの発生を考える。常に一緒に演奏している訳ではないが、数年関係を置いては大事なプロジェクトのときには彼に助けを求めてきた。私が創作に生ずる問題や不可能性を顕在化させるような回りくどいプロセスをとるのにたいし、彼はコミュニケーション、コラボレーションの可能性を素早く感じ取り、音楽を信じて一気に世界を明るく織り上げてゆく。だから彼の表現は濁りがなく力強い。 

 

 こうして生まれた「ユーラシアンオペラ」というヴィジョンが、どのように翌々年の実現へと向かったのか、次章以降でさらに遡って述べたい。

 


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