シベリア・トルコ・ウクライナ音楽創作記

バイカル(ロシア・ブリヤート共和国篇)

(第一部) 第三章 シベリア・トルコ・ウクライナ バイカル・黒海プロジェクト創作記 2017

 

バイカル編

 

1 かさなり合うウイグルのひとたち 

2 バイカルプロジェクト、日本からのツアー・メンバー

3 シベリアの音楽家との出会い 

4 イルクーツクのパンク少女 

5 ネオシャーマニズムと遊牧民の歌

6 バイカル湖を越えて 

7  ザバイカル民族学博物館

8 「機材が燃えたのでできません」ボイス・オブ・ノマド 

 

「遊牧民の声」について新聞(バイカル・ダイアリー)

 

9 古儀式派の合唱 ロシア音楽の古層へ 

10 チベット密教とレーニン像のある街で(ブリヤートの民謡について )

11 ラーゲリの家族劇場

12 顔たち 遊牧の民の末裔


1 かさなり合うウイグルの人々

「俺はお前を待っていた」というパンダに迎えられるが、こもあと何度かこの空港を利用したが、この店やっている気配がない。
「俺はお前を待っていた」というパンダに迎えられるが、こもあと何度かこの空港を利用したが、この店やっている気配がない。

 

/10

  

 2017年7月、音楽詩劇研究所は「バイカル・黒海プロジェクト」で、ロシア、ロシア連邦ブリヤート共和国、トルコ、ウクライナへと向かう。各地のアーチストとコラボレーションを行いながら。2015年に東京で初演した「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」を改作する。今回のプロジェクトは、昨年のアルメニア、ロシア公演から得た「ユーラシアンオペラ」というビジョンの実現のため、作品の各プロットの強化を目指して行われる。

 

 この年のプロジェクトの予算についても簡単にふれておきたい。主に二つの公的助成金を想定していた。渡航予定の数ヶ月前にそのうちの一つを得られないことがわかった。しかしすでにスケジュール調整をおこなっていたので中止することは現実的ではない。また実行しなければ既に採択された方の助成金を得ることはできない。メンバーへの報酬として予定していたもう一つの助成金のほぼすべてを渡航費に廻さなければ成立しない状況だった。海外アーチストには、その残りといくばくかの現地からの謝礼金で予算を組んだ。だから私を含む日本からのメンバーは無報酬である。彼らは事前にそれぞれの舞台活動や、そのほかの仕事で、長いツアーに備えて生計を補う準備をしなければならなかった。私はプロジェクと準備のための制作業務のため、それすらおこなうことができなかった(帰国後は、派遣業者に登録したが仕事がみつからず、案内された日雇いの肉体労働をしばらくの間続けた)。金銭的にひじょうに逼迫した状況でのツアーだった、という内実を念頭にお読みいただければ、よりリアルにこの創作ドキュメントをご理解いただけるかもしれない。

 

 まずは、シベリア、バイカル湖の東西、ロシアのイルクーツクとウラン-ウデ(ロシア連邦ブリヤート共和国)で、美術館や野外国際音楽フェスティバル「遊牧民の声」で上演する。航空便の事情により他の日本からのメンバーより一足先にイルクーツクに向かう。経由地であるソウルの仁川空港で、イルクーツクへ向かう出発ロビーで搭乗を待つ。一人でいるからか、異国の言葉や風景や音や未知の情報が、自分の中につぎつぎと飛び込んで来る。耳が開いている。

 

 4時間ほどでイルクーツクの空港に到着。これまでロシアには、モスクワやサンクトペテルブルグに数回、極北アルハンゲリスクにも公演で訪れていたが、私にとっては初めてのシベリアの地だ。明日共演のサックス奏者、初対面のアンドレイ・ギデイオンが待っていてくれた。

 

イルクーツクにあったアレクサンダー中央刑務所
イルクーツクにあったアレクサンダー中央刑務所

  古くて小さな空港の待合室は、中国からのテュルク系のウイグル族の人々やモンゴル系と思われる人々で溢れかえっていた。ウイグルといえば、このあとイスタンブールで7年ぶりに再会するサーデット・チュルコズも、中国の新疆ウイグル自治区(東ウイグル)のウルムチの出自をもつカザフスタン系のトルコ移民だ。スマートフォンを手に持っている率がロシア人と比べてかなり多い。何をやりとりしているのだろう 。狭く暗い一角に、彼らが隙間無いほど人々が重なり合うように密集している。人形遊びする子、カードゲームに興じる六十代くらいの女性たち。重なり合うように横たわり、仮眠をとるひとたち。どうしてそんなに固まっているのだろう。そこに私が知りえない人生観、死生観があるようにも思えるし、それを知りえぬもどかしさがある。 

 

 イルクーツクは歴史の授業で習った、農奴解放を求めて帝政ロシアで初めて起こった武装蜂起デカブリストの乱のイメージが大きい。その主人公である青年将校たちやその家族の流刑の地、政治犯の極東シベリア送還の中継地だ。「アレクサンダー中央刑務所の亡霊たち」。音楽監督をつとめている石橋幸の二年前のコンサートの第一部をそう名付けた。ロシアの囚人の歌のみで構成し、すべてロシア語で歌われた。その刑務所はここイルクーツクにあった。実際にこの小さな街を訪れ演奏するとは、そのときは思いもよらぬことだった。戦後は、日本人シベリア抑留者が建設した建物も多いと聞いた。かつてペテルブルグの貴族階級の若き反逆者や知識人の流刑者によって作られたイルクーツクは「シベリアのパリ」といわれる文化的な都市である。しかし、さまざまな事前のイメージをしす、予想以上に「アジア」な印象でイルクーツク滞在が始まった。

 

 空港到着は現地時間21時頃だったが、外に出ても白夜の夜空はまだ明るく、北国の短い夏の風が爽やかだ。後発隊の到着を待つあいだ、ギデイオンに中国人(ウイグル系)の方たちについて尋ねてみた。彼によると、中国系の人々はロシア人とは住んでいるエリアも違い、例えば友人同士になるような交流はあまりきかないが、市場、商店等、商売の交流はあるとのことだった。商店を営むことが多いそうだ。    

                

 一時間後、次の便で到着したメンバーと合流し車で街中に向かう。キリル文字と漢字の併記が多い。通りの名前は、偉人の名前が冠されることが多いが、モンゴル系の人物の名前の通りもある。私たちの滞在する場所も1921年モンゴル革命の偉人スフ・バートルの名である。道には土埃舞うが、白夜の空は澄んで静かだ。スーパーに食材を買いにいくと、昨年のモスクワと同様に、ここでも夜23時をすぎると酒の販売はなかった。レジの店員さんはみなモンゴロイドの顔だった。シベリアの街にきたのだと実感しながら、知人の知人がが準備してくれた一軒家に転がり込む。自身はバイカル湖上のオリホン島に住んでいるため、別宅を無償で提供してくれたのだ。さっそくダンスの三浦宏予が持ってきた泡盛をあけ、無事着を祝う。現地へのお土産用の酒を初日に飲み干してしまった。

 


2 バイカルプロジェクト、日本からのツアー・メンバー

イルクーツク エジソンバーでのライブ
イルクーツク エジソンバーでのライブ

 

 今回のプロジェクトに参加するダンサーはコンテンポラリー・ダンスの三浦宏予と舞踏の亞弥。予算の事情もあり、バイカルと黒海両プロジェクトにそれぞれ分れて参加することになった。亞弥とも長い付き合いだが、このバイカル組の三浦との付き合いはさらに古く、私が音楽活動を始めた二十歳くらいからだ。この後の「黒海プロジェクト」から参加の亞弥の舞踏は、その小柄な身体のなかの微視的な「震え」からじわじわと空間に満たしてゆく有機的なエネルギーの塊だ。三浦は情緒に流れずに、めぐまれた長い手足を駆使し、間接や骨格のポリフォニーを用いて無機的な現代性を体現する。その一方で、故郷である岩手の早池峰神楽への毎年の参加するなど、その身体の内側には古来の舞踊や演劇文化が担ってきたシャーマニズム的感性をつねに宿している。舞台女優としてのキャリアも豊富だ。演劇とダンスの間をしなやかに往来する彼女のような存在はヨーロッパではよく見られた。最近は日本でも若手を中心に見ることができるが、彼女のようにキャリアを重ねた世代としては珍しいことだ。

 

 ここで日本からのほかのツアーメンバーを紹介しておきたい。

 

 ギターの小沢あきは、この十年私が最も共演回数が多く、語り合いながら創作を続けてきた。端正な歌の伴奏も得意とするが、その内側には即興的感性や前衛的な初期衝動を内包している。また、フラメンコギターの習得を通じ、ギター音楽の「現在」の可能性を追求している。

 

 ヴォーカルの三木聖香は、数年私の歌曲を歌い続けてくれている。この作品のために作った「死者のアリア」のほとんどを歌う。音程をとるのが困難な難曲も、彼女自身の研ぎすまされた感性で繊細にそしてまっすぐに歌う。まだ20代の若手だが、ギリシャのサヴィナ・ヤナトゥ、ドイツのウテ・レンパー、ポーランドのエヴァ・デマルチク、ロシアのエレーナ・カンブロワなどヨーロッパのシアトリカルな女性歌手の系譜にも連なる歌唱だ。その一方で日本の民謡を学び、三味線、太鼓、踊りと、民謡一座のメンバーとしても活躍している。

 

 三行英登は映像作家でありドキュメントを撮影し、プロジェクトの制作業務も含め全体を支えている。15年来さまざまな活動の中でお互いのコンセプトを共有しながら、歩んできた同士である。

 


3 シベリアの音楽家との出会い

はじめて出会ったメンバーと楽譜、台本の打ち合せ
はじめて出会ったメンバーと楽譜、台本の打ち合せ

 

7/11

 

 メッセージのやりとりは重ねていたが、この「バイカル・プロジェクト」には現地で直接知る人は一人もいない。今回もまた不確定要素の多い旅だ。

 

 半分は不安、しかしまぁなんとかなるさという一方の気持ちをあらわしているようなシベリアの夏の真昼の青空だ。初対面となる共演予定者たちは、ほんとうにそこに現れるのだろうか。リハーサル会場の連絡がないまま明日の会場である美術館に向かって、汗だくで歩いている。このイルクーツクのあとのブリヤート共和国ウラン-ウデの状況もまだ把握できていない。

 

 バスにどこでどう乗るのかもわからず、タクシーの呼び方も分らない。地図を片手に行くが、昨晩ギデイオンが友人から借りて調達してくれたコントラバスには、肩にかけて運ぶためのストラップがケースについていないので、力点が分散できず、一分も歩くと、もう息があがる。メンバーに手伝ってもらい、二人掛かりで籠屋のように巨大な楽器を担いで運ぶ。そうして1時間弱、炎天下の青天井のもと、不安だらけで知らない街の道を行く。

 

 今回の「バイカルプロジェクト」は、作品の構想段階では、よりアジア性を求めた。だからバイカル湖を挟んで東側、ウランーウデ(ブリヤート共和国)での二つの公演をメインに想定していた。よって共演者もバイカルの東側、アジア色の濃いブリヤートの音楽家や美術家を考えていた。しかし事前の準備がうまくまとまらず、その当初の目論みとは異なり、全員、湖の西側、このイルクーツク在住の音楽家との共演となった。リハーサル会場も決まらぬまま、翌日の公演会場である美術館のレストランで共演者と初顔合わせ。

 

 事前の変更も多く、唯一直接メール等でやりとりがあった共演者は、紆余曲折の末に出発の半月ほど前に出演が決まったヴォーカルのマリーヤ・コールニヴァだけだった。そのほか、宿を提供してくださった、この地の音楽、教育プログラムのプロデューサーから紹介されたブリヤート人の歌手アクサナ・ジャンバローヴァ、ヴァイオリンのリュドミーラ・ザマシュチコヴァ、クラリネットのとイリア・ルンシュキン。翌年以降の集大成を見越して、今回の「バイカル・黒海プロジェクト」は、完全な形態の作品の上演ではなく、音楽詩劇研究所の主要メンバーとそれぞれの地のアーチストとのセッション的要素が強い。しか結果的には、最後に滑り込むように決まった、このシベリア現代美術館での公演がもっとも完成形に近い上演が可能だった。この年に作曲した室内楽を実現できるることが大きい。

  

 英語で作品の説明をしながら室内楽の楽譜を読む。しかしまずコールニヴァ以外は英語があまり通じなかった。会場にはリハーサルをする場所が用意されておらず、机上のの打ち合わせのみ。「こりゃ練習しないとたいへんだぁ」。まぁその通りなのだが、明日が本番。直接会ったことのない宿の貸し主の「自由に使ってください」というメッセージを都合良く解釈し、とっさの判断で演奏家たちを連れて、その家までTAXI(今度はロシア人が居るのですぐ手配できた)で向かい、リハーサルを行った。

 

行きがあれば、帰りもあるということ。真夏に知らない街を小一時間、こうやって運ぶしかない、、
行きがあれば、帰りもあるということ。真夏に知らない街を小一時間、こうやって運ぶしかない、、

  コールニヴァ、ジャンバローヴァの両ヴォーカリストは、複雑な楽譜にとまどうヴァイオリン、クラリネット奏者の傍について楽譜読みを手助けしてくれた。コールニヴァには即興系、伝統音楽、エレクトロニクス系のボーカリストとして期待していた。しかし想像以上に西洋音楽の読譜の面でもとても心強かった。私の英語をコールニヴァがロシア語に翻訳しながら他の演奏家に伝える。

 

 ジャンバローヴァにはいくつかのブリヤート民謡を歌ってもらい、そこから本番で使う曲を選んでゆく。ブリヤート語は彼女の日用語ではないので、その場で母親に電話をしながら作品に必要な語の発音を再確認。親戚はシャーマンだったそうだ。このあとウラン-ウデで会ったブリヤートの方も二代くらい遡ると、家系にシャーマンがいるという方に大勢会った。ここは「シャーマン天国」だ。


4 イルクーツクのパンク少女

目をしょぼつかせながら唄う。キュートなアコースティクパンクだが、歌詞はかなりヤバ目とのこと。
目をしょぼつかせながら唄う。キュートなアコースティクパンクだが、歌詞はかなりヤバ目とのこと。

 

  美術館での公演のためのリハーサルを夕方に終え、すぐに今晩の本番へと向かう。20時開演だが、白夜なのでまだ陽は落ちていない。アンドレイ・ギデイオンが準備してととのえてくれたコンサート。ちょっとアメリカンな、広めのロックレストランバーが会場だった。

 

 彼から頼まれ、東京で購入したサックスのリードをプレゼントすることもできた。世界で四都市でしか売っておらず、モスクワでも手に入りにくいそうだ。さっそくそのリードをアルトサックスにつけたギデイオンは打ち込み音源をバックに、衒いもなく朗々と英米ロックの名曲などを独奏した。確かな演奏技術に裏打ちされたエンターテイメントだ。しかし東京やヨーロッパやモスクワの地下鉄で見聞きしていたら、気にとめず通り過ぎてしまったかもしれない。でも目の前で対峙すると音楽に対する混じりけのない熱量が伝わってきてしまうのはなぜだろう。へんなことを思った。空気がきれいだから音楽がストレートに伝わるのかもしれない。日本でも同じだ。最近そんなことをよく感じるようになった。

 

 今夜はコラボレーションはなく、私たち4人だけでのステージだ。しかしこれまでこの小編成で練習をしたこともない。ヴォーカル、ギター、コントラバス、ダンス。作品で用いてきた「死者のアリア」を素材に、即興的な構成でのぞんだ。これまで私の楽譜どおりに正確に表現してくれていた三木聖香が、すでに身体に刻み込まれた言葉と旋律を即興的に崩しながら展開し、全体のサウンドをリードした。声が小沢の変幻自在なリズムアプローチによるギターと絡み合い、私の譜面のとおりよりも歌の世界が広がる。

 

 短い夏の夜風にあたりながら、「ユーラシアの臍」、シベリアを感じる。本番を終え会場の外に出てビールを飲んだ。まだ多くの観客の方がそこで談笑している。するとヒッピー風な初老の男性とともにいた坊主頭の小柄な女性が、ケースからギターを出して歌い始めた。ロシアの古い大衆音楽は短調の調べが極めて多い。パンク調だが彼女のような若者でも同様だった。すぐにソ連時代後半を代表するオクジャワやヴィソツキーなどの「バルド(吟遊詩人のロシア語)」の歌を想起させたが、ほとんど歌詞は分らない。隣で聞いていた初老の男が、アナーキーでシニカルなクレージーソングだと私の耳に囁きながら笑った。手が追いつかずおぼつかないギター、そして眉を寄せてなぜか哀しげな表情に引き込まれ、しばらく演奏を聴いた。ああ、ここはかつて社会主義国だったのだ、となぜかしみじみ思う。かつて禁じられていた自由な表現が、いまなお慈しまれているようだ。現地の現地のロックバンド、ジャズバンド、現代音楽の作曲家などたくさんの音楽家とお話をすることもできた。コンサートでの暖かい拍手も嬉しいが、終わったあと返歌のように歌を聴けたことも嬉しい。その後また会場に戻り、地元の演奏家とジャムセッション。

 

 大都市以外では感じることのある印象だが、音楽を聴いた後の感想や表情に嘘がないような気がする。イルクーツクのこの夜の観客の皆さん、緑色の髪の坊主頭のパンクス少女が、率直に反応してくれたことに感謝。

 


5 ネオシャーマニズムと遊牧民の歌

おっさん(たち)の頬もゆるむ
おっさん(たち)の頬もゆるむ

7/12

 

 あわただしく美術館での本公演の日を迎えた。四苦八苦しながらか会場スタッフと英語でやりとりしながら準備をしていると、そこにまるで天使のようなうら若き助っ人があらわれた。テレビ取材のクルーの一人だった。ロシア人にしては小柄な女性で、日本語を流暢に話す。背の大きなロシア人に囲まれていると小柄というだけでも親近感をいだいてしまう。

 

 ジャンバローヴァの表現にはブリヤート族のシャーマニズム性を勝手に想像し、期待していた。しかし、昨日のリハーサルで、彼女はシャーマニズムというより、素朴な「民謡」のほうが得意なようだと思った。逆にロシア人のコールニヴァからは、打ち合わせの時に話題にした「ネオシャーマニズム」という言葉と役割にビビッドな反応があった。

 

 上演作品の3人の歌手の人物設定と配置を次のように想定していた。

 

・「架空の民族」の民謡を歌う少女:三木聖香

・「架空の民族」の一族からはなれて美術家になった女の声:マリーヤ・コールニヴァ

・「架空の民族」の最後のシャーマンをアクサナ・ジャンバローヴァ

 

コールニヴァと三木を舞台の上下、中央にジャンバローヴァ。

 

それを次のように急遽変更した。

 

・「架空の民族」の民謡を歌う「異民族」の少女:三木聖香(そのまま)

・特定の民族(ここではブリヤート)の民謡を歌う歌手:アクサナ・ジャンバローヴァ

・ネオシャーマン(未来のシャーマン):マリーヤ・コールニヴァ

 

ジャンバローヴァと三木を舞台の上下、中央にコールニヴァを配置した。

 

「架空の民族」の一族からはなれてアーチストになった女(第一部 第一章 ◆ 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」 (「Continental Isolation」)登場人物)は、前年の東京での初演に引き続き、三浦宏予が室内楽のなかでダンスで表現した。

 

 三木も2015年の初演からずっと、一族が育てた異民族の捨て子の娘を演じ、端正に「死者のアリア」を歌った。小説「アルグン川の右岸」のエヴェンキ族の一族の登場人物たちの生と死のあわいを描く歌だ。ジャンバローヴァはブリヤートの労働歌、祭の唄、子守唄、民謡を歌った。コールニヴァは、どこの民族的属性も表現しない即興的な非言語による表現と、精確なピッチで声を低音から高音にダイナミックに飛翔させた。場面に応じてそれらの表現を使い分けたり混在させながら「ネオシャーマニズム」を表してくれた。

 

 タイプ、表現法、言語が異なる三人の歌手が同居し、ヴァイオリン、クラリネット、ギター、コントラバスによる室内楽パートも実現し、今後のユーラシアンオペラの基本構造を模索することができた。

 

 カーテンコールでは、ジャンバローヴァに導かれてみなで手を繋ぎ、ブリヤート民謡の円舞ヨホール(Yohor )の一節を歌いながら踊った。観客はほぼスラブ系のロシア人で、アジア系の方はほとんどいなかった。終演後、また昨日のスキンヘッドのパンクス少女が、美術館の表玄関の階段に腰掛けてギターをかき鳴らして歌っていた。挨拶すると、ドレスコードにひっかかり入場を断られてしまったとのこと。彼女にはぜひ聴いてもらいたいと思ったので会場スタッフとかけあって中に入れてもらっていた。さようなら、またいつか。

 


6 シベリアの囚人の歌

 

 朝早くイルクーツクの駅を出発し、シベリア鉄道でウラン=ウデに移動する。イルクーツクの駅で見た「指名手配」のポスターの容疑者たちの顔が気になってずっとみてしまう。アジア系、ロシア系さまざまな犯罪者一人一人の顔を見つめる。

 

「列車よ止まれ」(石橋幸訳)

 

列車よ止まってくれ、車輪の音を緩めてくれ。

機関士よ、ブレーキを踏んでくれ。

おいらは母さんのもとへ、

病に冒され、腹ぺこのおいらは、母さんに会いたくて急いでるんだ。

 

おいらは母さんのもとへ、

病に冒され、腹ぺこのおいらは、母さんに会いたくて急いでるんだ。

母さん、いい子だったおいらのことを待たないで。

待ってておくれよ、いかさまの盗人野郎を。

 

おいらを、監獄の泥沼が呑み込んだ。

おいらの人生は、永遠のペストだ。

おいらを、監獄の泥沼が呑み込んだ。

おいらの人生は、永遠のペストだ。

たとえ監獄の中に座らされたって、

おいらは、檻を破って出てくるだろう。

 

月影が裏切りの光でおいらを照らしたとしても、

おいらは逃げおおせてみせる。

 

たとえおいらが監獄の寝台に蹲っていても、

おいらが病に冒され、お迎えを待つばかりになっても――

 

母さん、おいらのとこには来てくれないだろう。

おいらを撫でて、さすってはくれないだろう。

キスしてはくれないだろう。

 

列車よ止まってくれ、車輪の音を緩めてくれ。

機関士よ、ブレーキを踏んでくれ。

 

おいらは母さんのもとへ、

お別れの挨拶をするために、母さんに会いたくて急いでるんだ。

 

 

 ロシアの俗謡、アウトカーストの歌を収集し、ロシア語で長年歌い続けている石橋幸の300曲近いレパートリーがある。私も、ギターの小沢あきとともに10年以上伴奏を務めている。「囚人の歌」も多く、これはその一つだ。毎年、新宿の紀伊国屋ホールで上演し、音楽監督として参加している。2014年の演目は、「アレキサンダー中央刑務所の亡霊」というタイトルをつけた。

 

「19世紀末イルクーツクの囚人たちの降霊。そこは人間の生という営みの悲喜劇が、死という形を与えられる特別な場所、時間。そこで私たち人間はこの世の牢獄の壁を叩く亡霊でもあり、その壁でもある」(公演パンフレットより)

 

 すべて囚人の歌で構成した。 悲惨な歌、陽気な歌、恋の歌、母を想う歌、とぼけた歌、女盗賊の英雄の歌、政治犯の歌 罪人となった、罪人にさせられた人々、収容所群島シベリアに流刑された無数の囚人たちがいた。

 

 アレキサンダー中央刑務所とはロシアのイルクーツクにあった巨大刑務所だ。ここで歌われた歌は、マクシム・ゴーリキの戯曲「どん底」で改作され、そのテーマ曲となって日本でも歌われた。社会派リアリズムの群像劇として、新劇で上演が多く、1910(明治43)年にすでに日本で初演されている。「どん底」か発表されたのが1902年だ。いかに当時の日本の、演劇、文学がロシアへの関心が高かったのかがよくわかる。この「どん底」のテーマは戦後の歌声喫茶の時代まではそれなりに知られた歌だった。トルストイ原作の「復活」のなかで松井須磨子によって歌われ大ヒットした「カチューシャの唄」が1912年。いずれもロシア革命前だ。

 

 収容所群島ロシアには詠み人知らず、だれがつくったのかわからない犯罪者とされた人が歌っていた歌もたくさん残され、「Блатнаяпесня」(ブラートナヤ・ピエスニャ 犯罪者の歌)と総称し、ジャンルとして確立している。それらは、1910年代あたり、地下社会、黒社会、ユダヤ人組織の多かった黒海沿岸の港町、当時ロシア一の国際都市だった現ウクライナのオデッサから流行した。人びとは常に何かの囚われの身であることや、罪へと至る過剰な感情や思いを、歌やそこにあるドラマに共感して泣き、代弁を求め、慰め、笑い飛ばしたのだろか。それらが現在にまでジャンルとして歌い継がれているのは、さらに社会主義時代はすべて国民が当局の監視下にあって、誰もが囚人になりうるような暮らしがあったからだろうか。

 

 遡って1825年12月、フランス革命に触発され独裁的なツァーリズムの打倒と農奴制に燃える青年将校たちによる、帝政ロシアに対するクーデター(デカブリストの乱)があった。彼らはシベリアのイルクーツクに囚人として流刑され、その若き妻たちも後を追ったという。イルクーツクの打楽器奏者のエフゲニー・マスラボーエフ(第四章)は、この街は彼らデカブリストの精神がいきづいているということを私に何度も強調していた。石橋幸も歌う彼らの心情をうたう「デカブリストの嘆き」という陰鬱な古いラメントがある。

 

 「デカブリストの嘆き」(翻訳 石橋幸)

 

風に撓む枝の音ではない。 森のざわめきでもない。 それは、私の魂の軋む音。 まるで木の葉が震えるような。 それは、私の魂の軋む音。 まるで、木の葉が震えるような。 苦しみが私に襲いかかる。 まるで、狡猾な蛇のように。 微かに残る命の焔よ、燃え尽きよ。 私の命を焼き尽くせ。 微かに残る命の焔よ、燃え尽きよ。 私の命を焼き尽くせ。 大地よ、その裂け目に、 安住の地を設けよ。 大地よ、私を受け止めてくれ。 懐に抱き、安らぎをくれ。暗い墓地で。 大地よ、私を受け止めてくれ。 懐に抱き、安らぎをくれ。暗い墓地で。

 

 茫漠とした大地に軋む絶望の嘆きが、かすかに揺らいでいる命の灯を慰める。石橋幸から毎年訪れたロシア極東での、この曲にまつわるあるエピソードを聞いたことがある。宿泊先近くの公園でギターを弾きながら歌っていると、ひとりの小柄な年老いた男が近寄ってきた。おそらくはモンゴル系かこの地の少数民族の浮浪者と思われる男だ。アジア系の出自を持つ彼の歴史に、囚人となったペテルブルグのインテリ青年将校の歴史は重ならない。しかし男に懇願され、彼女はこの曲を歌った。男は涙ながらに感謝を伝え、「また来年きかせてくれ」といい、「さようなら」と別れた。この老夫が来年生きているのかもあやしい。果てのない大地と社会に翻弄されて、まるで囚人のような心境で生き続けてきたのかもしれない。いま歌を聴きながら、消えようとしている自らの命を歌に重ね、「さようなら」をいったのか。

 

 囚人護送船が到着する極東のマガダンの歌はきわめて陰鬱だ。ここからさらに極東の僻地である鉱山地などに移送される。

 

「ヴァニノ港」(訳 石橋幸)

 

私は忘れはしない、あのヴァニノ港を。 気鬱にさせる船、また船...。 私たちは舷側の階段を、暗く冷たい船底へと向かった。 囚人たちは船酔いに苦しめられた。 まるで身内同士のように肩寄せあった。 ぽつりと口をついて出てくるのは、くぐもった呪いの言葉。

朝、港に霧がたちこめていた。

嵐の後、海は静寂に包まれていた。

マガダンの街が迫っていた。そこは流刑の地コリマの都。

全長500キロに及ぶタイガ。

道行く人々が影のように揺れている。

往来に車はなく、凍土に足を滑らせてトナカイが行く。 呪われてあれ、コリマの地よ。 “奇跡の惑星”とはよく言ったものだ。

正気でいることはできない。帰還の望みは絶たれた。

私は知っている。お前は私を待ってはいないことを。

手紙も読んではいないだろう。

私に会いに来ることもないだろう。

いつか相見える日があったとて、私に気づく事はないだろう。

 

 石橋によると、マガダンでこの歌を歌おうとしたら、主催者から「その歌は悲しい歴史と時代の象徴だから、いま歌わないでほしい」とお願いされたそうだ。

 


7 バイカル湖を越えて

「世界の車窓から」を口ずさむメンバーあり。やめてほしい。
「世界の車窓から」を口ずさむメンバーあり。やめてほしい。

 

 十年以上ぶりのロシアの長距離鉄道。私が初めてロシアに行ったのは2004年だ。20代後半の頃だった。シベリア鉄道でモスクワ、ペテルブルク、それから極北の街アルハンゲリスクを行き来した。途方に暮れる広大さ。変化に乏しい景色。深夜、連結のデッキでタバコを隠れて吸いながら、耳をつんざくほどに奏でられる鉄のきしむ音に犯されていると、歴史か地理の授業で習った「五カ年計画」という言葉を思いだした。古く長い車両は、 風景の中を鉄の塊が走っているようだった。

 

「ソロカウスト」(1920年セルゲイ・エセーニン 内村剛介訳)

 

おまえ いったい 知らないのかい?

鋼鉄の騎馬 それがもう 生き馬を負かしちゃったんだってことを?

非力な野には おまえさん いくら走ったって もう あのむかしは還らない。

 

 歌手で俳優のヴラジーミル・ヴィソツキーの歌も思い出す。止まらない列車のようにリズムよくカッティングされるギターに乗ってしゃがれた早口で歌う声は、走るシベリア鉄道の軋む車輪の音のようだ。流刑者、鉄道建設者、あるいは、すでに歌手本人はソ連崩壊前に死んでいたが、その時代を生きた人々への挽歌のようにも聴こえた。ペレスロイカのころに日本でも紹介され、1990年にテレビCMのBGMにもなっていた。中学生くらいの頃だったが、その聞き慣れぬ響きの言語と、強靭な声がとても印象に残り、レンタルCDショップで探し求めカセットにダビングした。日本で手に入るのは、パリで録音された正規録音を編集したその一枚だけだった。ヴィソツキーの歌を聴くことはペレストロイカ以前には禁じられていた。歌は非公式に地下流通で、人々に愛された。

 

 2004年頃のロシアは違法MP3CDの天国だった。過去に非正規に録音されたライブ記録の音源の数々が、駅のキオスク的なところで廉価で売られていた(現在ではそれらはインターネット動画サイトにたくさんアップロードされている)ので買った。持参したポータブルDVDプレーヤーで聴いた。次から次へと続く似たような短調の曲が、ギターで弾き語りされていた。正規録音では聴くことができない、荒々しいMCトークも収録されていた。歌と同じように巻き舌口調でまくしたてるアジテーションのようだった。当時はロシア語もまったくわからず、車内で音の砲弾を浴び続け、放心した。 

野苺を持っているが売る気概、買う気配まったくない。
野苺を持っているが売る気概、買う気配まったくない。

 

 鉄道は各車両に女性の車掌が乗務している。近年はロシアで長距離鉄道に乗ってもみかけないのだが、以前は身体に障害を持った方も車内で、ポルノ小説のペーパーバックを売り歩いていた。延々と続く同じ景色。黄味がかった雑木林を貫く線路の傍で、老人と幼子が手をつないで 、走り去ってゆく私たちが乗った列車を見送り、手を振っていた。

 

 さようならと手を振るしぐさは世界共通なのだろうか、などと想いながら、もうすぐ陽の落ちる時間の同じ景色を車窓から見た。起伏のない平原の農村で、散歩に連れて行こうにも、それくらいしか思いつかないのだろう。社会主義時代の社会保障制度の名残なのか基本的に女性も外に働きに出て、子守りは祖父、祖母の役目なのだろうか。

 

 ようやく停まる停車駅には駅舎といえるほどの建物もなく、周辺に広大な野がひろがる。ホームでスープを売る老婆たちがいた。じゃがいもが一個入った、美味くも不味くもない塩味のスープが、胃に染みて暖かくなった。どこまでも広がる晩秋の夕暮れの中に、どこまでも続くような線路と長いホームだけがあった。

 

 しかし今回はひたすらに長閑な真夏だ。車輪の音もむしろ気だるく聴こえる。七時間程度かけて、世界一深いバイカル湖の沿岸を迂回しながら東に向かう。蒼い。氷った湖上で音楽フェスも行われるという、冬のバイカルも見てみたい。

 

 停車駅でホームや周辺にいる人々を車窓から眺める。ロシアやこのあと行くトルコでもよく見る風景だが、特に商いに関して、あまりにも非合理的に見える風景がいつも印象に残る。逃れることのできない定めであるかのように、人々が買わぬようなものを作り、売り続けている。合理的な「工夫」というものが感じられぬその姿に、なぜか安らぎを覚える。今回各停車駅のホームで目にしたのは野苺売りの姿だ。けっきょく野苺は一つも売れず、なにかを呟きながら走り出す長い列車を目で追う。たいして売ろうともしていないのに、走りだした列車をただ見送る表情に哀感がある。

 

 まだ太陽がギラギラとしている午後、車両の数と同じだけ長い長いプラットホームの、ブリヤート共和国の首都ウラン=ウデ駅に到着。

 


8  ザバイカル民族学博物館

エヴェンキ族の家
エヴェンキ族の家

 7/14

 

 モンゴル系のブリヤートの人々は日本人の起源の一つであるという。バイカルの西、イルクーツクでは、アジア系人種とスラブ系の生活の場は異なる様子を感じた。しかしここでは混ざり合っているという印象。「共存」と「共生」の違いだろうか。こういう様子を見ると、私たちの作品の故郷とも言える場所、バイカルにいよいよやってきたのだという実感が強まった。

 

 黄砂であろうか、乾いて黄味がかった青空に、裾の広い小さな山々が立ち並び、そこに数々の煙を吐く工場の高い煙突。建物、空気、街の色調に乾いた黄色味がさらに増す。シャーマニズムのほかにブリヤート人の多くが信仰するチベット密教の装飾にも黄色が多い。ロシアのなかのアジア、というよりもアジアのなかのロシアといってよい風景だ。しかしブリヤート共和国といっても、といっても、ブリヤート人は全体の約30パーセントということだ。

 

 歌手のマリーヤ・コールニヴァも一足遅くイルクーツクから鉄道に乗ってやってきた。イルクーツクとここウラン-ウデはバイカル湖をはさみ、たとえれば隣の県の県庁所在地同士のような関係にある。しかし、コールニヴァにとっては初めてのウラン-ウデ訪問だそうだ。「隣の県」といっても7時間もかかるのなら、その地の人々にとって往来をする用事はさしてないのだろう。

 

 ウラン-ウデでは、草原の国際音楽フェス、現代美術館の2公演を行う。ブリヤート人のアクサナ・ジャンヴァローヴァはおらず、室内楽もなし。コールニヴァとわれわれ4人だけで上演し、三行英登が撮影する。全く異なるアレンジを、アイデアを出しながら探ることになった。

 

 リハーサル前に、少数民族の暮らしや復元住居、資料が閲覧できる巨大なテーマパーク(ザバイカル民族学博物館)へ、に全員で行きたいと思い、フェスティバル側が提供してくれた日本語を学ぶ通訳の青年に案内してもらう。住居などの実物も貴重であることはもちろんだが、私たちの創作のテーマの一つであるシャーマニズム文化への文字の導入、ソ連邦のなかでの位置づけなどをあらわす資料や写真も興味深かった。創作の素材としている小説に描かれていたエヴェンキ族に関するものも多数。テーマに直接関わるこの地に、こんなに早い時期に来られるとは考えもしなかった。

 

 博物館見学後、この地での最終公演となる会場の美術館、エスノギャラリー・オルダでリハーサル。ブリヤート族をはじめとするこの地のアジア系民族のアーチストの現代美術や伝統工芸品などが展示されている。予定ではこの美術館のコネクションで、そういう作家たちとコラボレーションする計画もあったが、残念ながらそこまで話しが進められなかった。

 

 ブリヤート人のジャンバローヴァが参加できなかったので、イルクーツクの美術館公演のような演劇的な人物設定の役割を設けなかった。非言語歌唱(コールニヴァ)と言語歌唱(日本語 三木聖香)による対等なダブルヴォーカルとして、通常のコンサートに近い形でアレンジした。コールニヴァがときどきロシア語やローマ字表記した日本語を用いたり、反対に三木が非言語表現をしたり、お互いの声が影響し合って、乗り移りあっているようなアレンジを実験した。二人の女性の声の光がビビッドに反射し合ってキラキラしていた。コールニヴァのさりげないアイデアは洗錬されていたおり、エゴイスティックな自己主張を感じない。新たなアンサンブルのアイデアが次々と生まれる。つい二、三日前に出会ったばかりの異国の歌手と、ここまで濃密に試行錯誤しながら音楽を創れることが嬉しい。コールニヴァも、この後オデッサで一年ぶりに再会するウクライナの歌手アーニャ・チャイコフスカヤとともに、今後のユーラシアンオペラへの道に欠かすことができない存在だと思った。

 

 三浦宏予のダンスも、東京初演やイルクーツクの美術館での公演のようにストーリー上の役割を限定しなかった。作品内のさまざまなキャラクターを複合化させつつ、彼女の経験と感性にお任せして、より自由に踊ってもらう予定。

 


◆ 古儀式派セメイスキーの合唱と先住ブリヤート族の音楽

われわれが演奏する予定だったセメイスキーの小屋。夜遠くからみたら灯りがともりきれいだった。
われわれが演奏する予定だったセメイスキーの小屋。夜遠くからみたら灯りがともりきれいだった。

 

 

  このバイカルの地に代表的な固有な、ロシア正教古儀式派のセメイスキーと呼ばれる人々、先住のモンゴル系の遊牧民ブリヤート族の音楽文化について、紹介したい。

 

古儀式派セメイスキーの合唱

 

 翌2018年春に、イルクーツクの教育や音楽などのイベント、バイカル湖氷上のアートフェスティバルプロデューサーであるナターリア・ベンチャローヴァ氏が来日した。ピアニストを伴い、イルクーツク市と文化姉妹都市だという金沢市のイベント出席のためだ。氏は、バイカル湖の聖なる島「オリホン」に暮らし、湖畔の都市イルクーツの仕事用の自室を我々の宿として、ある方を通じて提供してくれた恩人だが、現地ではお会いできず、東京で初対面となった。宿を借りたお礼の意味も込め、プロコフィエフ、ラフマニノフ、スクリャービンなどをプログラムしたロシアのピアノコンサートを音楽詩劇研究所でプロデュースした。ピアノ演奏の前に、私が聞き手となり、彼女がシベリアの民族音楽に関するトークを行った。フェスティバルでみたロシア正教古儀式派のセメイスキーといわれる人々の合唱が興味深かったので尋ねてみた。マリーヤ・コールニヴァの家族のルーツでもあるシベリアのセメイスキーの音楽文化はいかなるものだろう。

 

 まずセメイスキーに関して来歴を引用も用いながら簡単に概説しておかなければならい。

 

 彼らの祖にあたる古儀式派については、ソ連崩壊後、その生態がさらに明らかにされ、現在のロシアやロシア移民が形成する社会において、経済を含めさまざまな面で鍵を握る存在としても浮上し、それらに関するいくつかの著書が日本でも出版されている。

 

 17世紀のニーコン総主教の典礼改革に反対した数万人はシベリア、バイカル地方、現在のベラルーシ、ポーランド方面へ移住した。拷問、迫害が本格化すると森の中に隠遁し、古い儀式を遵守した彼らは古儀式派と呼ばれるようになる。ロシア文学者の中村喜和「古儀式派ロシア人のユートピア伝説」によると改革では、 ギリシャ正教に倣ってこのような変更がなされた。

 

・教会の聖堂内での礼拝は床にひざまずく礼拝(跪拝)は行なわぬこと。腰のあたりまで頭を下げれば十分である。

・十字を切るときは二本の指ではなく、三本の指を用いること。

・「イエス」を文字で表記するとき、iの文字を二つ重ねること。

・ミサの後で聖堂の周囲をまわるとき、入り口から南に回らぬこと。(時計まわりの禁止)

・聖歌の「ハレルヤ」を二度ではなく、三度唱えること。

・聖体拝受のさい、聖餅を七個ではなく五個に切り分けること。

・イコンの描き方はビザンツ流ではなく、イタリア式の新しい様式を認める。

・聖歌は斉唱ではなく、五線譜にもとづく多声のものにする。

 

「セメイスキーの祖先は、18 世紀中葉にヨーロッパ地域からザバイカル地方に強制移住させられた人々である。17 世紀の教会改革後、彼らは信仰の自由を求めてロシア領から当時のポーランド領(現在のロシア、ベラルーシ国境付近)へと逃亡したが、後にロシア帝国軍に捕らえられて農業開発の目的で南シベリアへ送られた。」(「旧」古儀式派農村はソ連時代にどう語られたか 伊賀上菜穂  スラブ・ユーラシア研究報告集)

 

 バイカル湖付近に暮らすようになったセメイスキーの人々は、先住のモンゴル系の遊牧民だったブリヤート民族の暮らしとも交流しながら独自の文化、慣習を築いた。成人になると木を切り倒し、それをくりぬいて何年もかけて自分用の棺桶を用意するという話しを、後に共演したイルクーツクの音楽家エフゲニー・マスラボーエフ(第四章)から聞いた。彼の祖先もやはり現在のポーランド、ベラルーシアたりからきたセメイスキーとのことだった。

 

 以下はベンチャローヴァが作ったトーク用レジュメを参考に、私が推測と補足を加えながらまとめたものだ。

 

 伝統的な歌唱文化は元来、男性によって歌い継がれた。楽器は用いずに、歌のみでおこなわれてきたそうだ。楽器を用いない正教会の聖歌のありかたを厳格にひきついだ可能性も考えられるが、世界の多くの古い民衆歌でも楽器を伴わないことは普通のことだ。たとえば多くの民謡の源流であるワークソングを思い浮かべてみても、ふつう仕事をしながら楽器は弾けない。

 

 セメイスキーの合唱の典型は、即興的なポリフォニーだ。それぞれの声部はリズムを共有しつつ自由な歌い方が許されている。一人が同じ旋律を歌い続け、それに対して他の歌い手が音程などを探りながら歌いはじめる。

 

 即興は具体的にこのように行われるようだ。

 

1)音程の用い方はは西洋音楽とは異なる

 

 西洋音楽に慣れた現代人の耳には違和感を覚えるかもしれないが、よりドラマチックに歌われるときに、しばしば長2度あるいは短2度のハーモニーを用いる。長2度(ドに対してレ)、特に短2度(ドに対してレの♭)は西洋音楽理論とそれが元になった感覚では不協和音である。ふつうメジャー、マイナーなどハーモニーに性格を与える3度音程(ドに対してミ。または短3度のミの♭)は基本的に用いない。さらに歌い手は歌いながら即興的に音程を変化させる。

 

2)シンコペーション

 

 近現代の合唱はふつう一定のリズムで歌われる。そうでないと「合わせる」ことが困難で合唱として成立できない。しかしセメイスキーはシンコペーションを用いて、より自由にリズムを伸縮させる。歌い手は母音をひきのばしたり短くしたりするので、結果的にそれぞれの声部が異なる旋律を歌っているようなポリフォニーに聴こえる。

 

3)音節が付加される。

 

 同じ母音に、意味をもたないような音節を任意に加え、調子を整えるようにフレーズに変化を与える。たとえば、

 

 例えば、“Стой, рябина(ストイ: 停まれ リャビナ 赤いベリー)” という歌では、

 

“А я себя-то сгубила (ア ヤー スィビヤ-タ スグビーラ)”という部分を

"А-ва я-ва то сама-я то себя-я-то сгубя-яла(ア-ヴァ ヤー ヴァ タ サマ-ヤ タ シビヤ ヤー -タ スグビャ ヤ-ラ)というように歌う。

 

  そのため歌詞を正確に聞き取ることが不可能で、言葉を理解する者であっても知らない異国の言葉で歌われているように聴こえるそうだ。

 

4)組になって歌われる節は、じょじょにキーを上げてゆく。

 

 旋律はフレーズの終わりなどで、しゃくり上げるように歌われることで自然と転調される。最終的に半音2、3度分キーがあがっていることがふつうだ。それにより高揚感が高まり、それが合唱する動機だったように思える。中村喜和氏の著書には、古儀式派の人々のユートピア伝説や、幕末明治にかけての日本との謎めいた交流について詳しく紹介、考察されている。2021年に歌手、マリーヤ・コールニヴァと創作したCD作品(第三部四章-2)では氏の著書から多くのヒントを得た。

 

 セメイスキーは隠遁し、森の奥深くに暮らした。表立った信仰活動を行えない彼らはシベリアの彼方の島国にユートピア(白水境:ベロヴォージェ)を思い描いた。それが日本にあるという説もあった。修道僧のマルクといわれる人物によって「旅案内」(「オポーニアへの旅案内」」)の書が書かれた。聖地を求めて実際に日本に漂着した人もいたと言われる。

 

 CDの中の一曲では、ここに記された道案内の手引きを、古儀式派にルーツを持つコールヴァが朗読した。

 

「モスクワより、カザン、エカテリンブルグ、チュメーニ、カメノゴルスク、イズベンスクを経て、カトウーニ川をさかのぼってクラスノヤルスクのウスチュバ村へ。この村で旅人宿のピョートル・キリーロフを訪ねよ。近くにあまたの秘密の洞窟があり、そこからいくばくも無いところに雪をいただく山々が三百露里(一露里=約一キロメートル)にわたって連なり、この山々の雪は融けることがない。これらの山々の背後にウミメンスク村があり、そこに小礼拝堂があって、苦行僧ヨシフが守っている。そこより中国に通じる道があり、徒歩で四四日行くと、グバニを経て、やがて日本国に至る。」

 

「神はこの地に充たされている」

 

 

ブリヤート族の音楽

 

 一方で、「日本人バイカル湖畔起源説」も存在し、日本人の起源とも言われることのあるバイカル周辺のモンゴル系のブリヤート族の歌はどのようなものだろうか。

 

 まずブリヤート族とはいかなる民族か。ポスト社会主義時代における、ルーツへの信仰やシャーマンの増加について、シャーマニズムの本質から研究された大著「増殖するシャーマン モンゴル・ブリヤートのシャーマニズムとエスニシティ」(島村一平 春風社)によれば、その起源はこのバイカル地域だという。そこは、ロシア帝国、ソビエト、現ロシアとモンゴルという国々に編入されてきた。

 

「帰属を語りえぬという困難。その理由として、まずブリヤート人と呼ばれる人びとが「国境」という境界をまたがった存在であること、つまり離散民族(ディアスポラ)であるということが挙げられる。帰属するそれぞれの国において、彼らは「民族」とされたり「部族」とされたり、あるいは「外国人」として他者視されたりしてきた。」

 

 「そもそもブリヤート人はシベリアバイカル湖周辺地域に居住してきた。彼らは狩猟や牧畜を生業とし、モンゴル語系の言語を話す人々であった。十六世紀以降、西から毛皮や地下資源を求めてシベリアに進出してきたロシア人は、十七世紀初めに「ムンガル(モンゴル)」と自称する狩猟民族と遭遇した。現在のブリヤート人である。激しい抗争の結果、ブリヤート人が最終的にロシアに屈服し、帝政ロシアの臣民となったのは十七世紀末のことだ。十七世紀後期以降、他のモンゴル系諸集団のほとんどが清朝に帰属したのに対して、ブリヤートはロシアに帰属する民として生きることになった。」

 

「200年ほどたった20世紀初頭、ロシア人植民者によるブリヤート人居住地域に対する牧草地の収奪が続いていた。ロシア革命が起こると、ブリヤート人たちが住む南シベリアは、赤軍と白軍の最も激しい内線の部隊の一つとなった。このシベリア内線によって平和な牧畜生活は困難となり、ブリヤートの一部は、集団で草原続きの国境を越え、現在のモンゴル国領内へ移住を開始したのである。彼らの中には、現在のモンゴル国領を通りぬけて、旧満州国のバルガ地方(現在の中国内モンゴル自治区ハイラル市)まで移動した人々もいた。こうしてブリヤートは、ロシア、モンゴル、中国の三ヶ国に分断されて居住する離散の民となったのである」

 

 バイカル湖周辺はシャーマニズムの発祥の地ともいわれている。タイラガーン(Тайлаган )というシャーマンの儀式では、「ヨホール」という伝統的な円舞が行われ、人類学者のなかにはそれを古い狩猟儀礼の名残であると指摘する人もいる。イルクーツクで共演したアクサナ・ジャンバローヴァは歌のみだったが、モリンホールという楽器を用いることも多い。馬の頭の形をしたヘッド部分をもち、日本でも童話「スーホの白い馬」でもしられる馬頭琴をイメージするとよいだろう。「モリン」は馬を意味し、「フール」は弦や声をあらわしている。そのサウンドは大草原の風や馬のいななきに喩えられ、馬の毛で作られた二本の弦が張られ、4度(ドに対してファ)、または5度(ドに対してソ)に調弦される。木製の弓にも馬のしっぽの毛が使われている。男性が弾く楽器とされ、一人で歌いながら演奏する。弓奏楽器なので、ある程度は音を絶やすことなく息の長い音を奏でることができる。叙事詩やオルティンドー(モンゴル地域の息の長い歌)と歌との関係において、そのような音色はとても重要だ。完全協和音程に調弦された弦楽器を弓で弾くので、その声とともに倍音が響き合う。受容したチベット仏教儀礼の伝統の中にも用いられているそうだ。

 

 大草原やその日常の暮らしや生活とシャーマニズムや仏教の読経などにおける倍音の重要性が、歌唱法や奏法を生み出したのだろうか。反対に撥弦楽器である中国から伝わったチャンザ(Чанза)は3弦からなり音色も三味線に似ている。モリンホールが馬の「いななき」なら、チャンザからは馬の「走行」をイメージできる。

 

 広大な草原に暮らす牧畜の民、広大な草原に暮らす牧畜の民であるブリヤートの伝統的な歌は、子供、子育て、感情の行き違いや、母親について歌われることが多いという。それらの感情は、隠すように内省的にではなく、感情を明らかにするように歌われるそうだ。

 

ブリヤートのタイラーガン
ブリヤートのタイラーガン

  


9 「機材が燃えたのでできません」ヴォイス・オブ・ノマド

 

7/15

 

  草原の中の小さな演奏会場でサウンドチェックを終え、控室に戻る。テーブルに用意されたこの地の料理のブーザ(肉まん)を食べながら、いそいそと10分後から行われるステージの進行の最終打ち合わせをしていた。すると日本のアニメキャラがプリントされたT-シャツを着た小柄なアジア系の彼女があらわれて、肉まんをほうばる私たちに、困ったような表情で、たどたどしい日本語でわれわれにこう告げたのだ。

 

「機材が燃えたので できません」

 

 「できない」とは本番を行うことが不可能だということ。

 

 しかし、こうなる以前にすでにわれわれは、遊牧民のシャーマニズムの聖地といわれるこの草原の丘で、「迷い人」となっていた。

 

 フェスティバルの送迎車でウラン-ウデ市街の宿から一時間ほど車に揺られ、というより体を車体のあちこちにぶつけながら宿泊先から草原の野外フェス会場へ。私はこのあとのトルコとウクライナでの「黒海プロジェクト」のための時差を超えたパソコンでのやりとりも続き、毎日2時間ほどの睡眠だから、それでも眠る。初めて訪ねる地の風景を眺めたいという好奇心より、眠気が勝る。会場に着く。快晴。見晴らしの良すぎる草原の野外フェスだ。作品とも大きく関わるこの地の聖域で音楽を響かすことができることに強く感慨を覚えた。控室にはリハーサルを終えたブリヤートの女性スター歌手、来日公演も行っていたナムガルもあらわれた。これまで尋ねても詳細が伝わってこなかったが、われわれの担当者にあらためて出演時間を尋ねると、今会場を探している、という。今,,,? 絶句。なんとわれわれの演奏は正式プログラムとしての場を確保されず、サブプログラムとして急遽行われることになっていたらしい。私の事前の交渉力の甘さだろう、メンバーにも申し訳が立たない。

 

 われわれの演奏会場としてあてがわれたのは、小屋を輪切りにしたような、なんとも頼りない場所であった。その外に開放された小さな小屋では、さっきまで、ロシア正教古儀式派のセメイスキーと呼ばれる方々が、古い暮らしぶりを再現しながら「民族舞踊ショー」をしていた。その後そのままみなさんがくつろいで食事をしていた。まさかここで演奏するとは...メインステージからエスノロックなサウンドが大音量で草原にこだまするので、その隙間の時間にパフォーマンスすることになり、仕方なく了承した。なんとも情けない気分を振り払い、食べ残しのケーキに群がる虫を気にしながら、そこでリハーサルやサウンドチェックを行った。それでもこの急場で、コールニヴァも含め、懸命にアイデアを出してくれるメンバーには感謝しかない。それらを終えて、まだ陽の落ちきらない早い夕刻、控室で用意れていた肉まんを食べながら、観念してこの小屋への出番直前の打ち合せをしていたそのとき。

 

「機材が燃えたのでできません...」

 

 頭の中が白くなり、一瞬呆然としたあとは笑うしかない。しかしこのような大きなインターナショナルフェスティバルの出演は、プロジェクトのためにわれわれが日本から公的助成を受ける条件でもあった。そのミッションを行わずに帰るわけにも行かず、なによりせっかくのこの遊牧民の聖地で演奏ができないことは残念極まりない。さすがになんとかせねば、と怒った口調でフェスティバル側と交渉した。結果、予定プログラム終了後に、メインステージに出演することになった。トリの後しか時間がないので、結果的に「大トリ」となり、出番は23時半からとのこと。

 

 大音量、舞台の大きさや使い方を想定して構成を考え直すために、メインステージの会場をチェックに行く。売店で買ってビールでも飲みながら、陽も落ちかけていよいよ賑わいを見せる野外フェスの気分も味わおうとするが、もう売り切れ。この広い草原から酒は消えてしまった。

 

 煌煌と光を放つメインステージから遠く離れ、闇に包まれつつある丘の入り口付近にある野外設営の便所の帰り、演奏するはずだった小屋が遠くにみえた。そこだけがはかなく灯に照らされていて、西洋のおとぎ話に出て来る田舎家のような佇まいだ。ここでひそやかにショーをしたら美しかったかもしれないと想像したが、いざ大観衆のメインステージへ。楽器や機材の転換中、大げさな口調で場を盛り上げる司会者にコールニヴァが渡り合い、われわれのプロジェクトの由来を説明しながら如才なくやりとりしながら時間を埋めてくれる。たった数日前に出会ったばかりの彼女が頼りになる。本番開始、あとはやるだけ。

 

 夜の草原で、強烈な照明に群がる蛾、舞台には無数の死骸。演奏中に強い夜風で譜面台から楽譜が飛ばされた。いよいよなるようになれだ。メンバー全員が頼もしかった。当時、結成してまだ2年もたたない団体だったが、こうしてチームとしての体力が備わってゆくのだなぁ、と、終演後のステージ裏で深く実感した。不手際や不測の事態が多く、この日はその極致であった。無事にそれを乗り越えたこの夜ばかりは明日以降のことは考えず、このまま充足感にみたされていたかった。

 


フェスティバルの大トリで演奏することになった。肉まん食べてる場合じゃなくなった。ステージはあかりに群がる蛾の大群、の死骸が風に舞う。
フェスティバルの大トリで演奏することになった。肉まん食べてる場合じゃなくなった。ステージはあかりに群がる蛾の大群、の死骸が風に舞う。

 「遊牧民の声」について

 

 

 私たちのパフォーマンスは伝統的な要素を直接的に扱うことは少ない。伝統文化の古層と現代の関わりを探りながら、それを新しく甦らせるような表現だと思っている。フェスティバルの出演者は、ブリヤート、ロシア、韓国、フィンランド、スペインなど、自国の伝統文化をロックやヒップホップやノイズなど現代的な表現や異ジャンルの融合で行われていたが、私はそのような意味での融合はまったく意図していない。心もとない状況で行った私たちのパフォーマンスを、この批評のように意図を汲んで解釈してもらえたことはとても嬉しい。

 

(バイカル・ダイアリー)批評記事新聞(バイカル・ダイアリー)(抜粋、拙訳)

 

「私は民族音楽と現代の音楽をミックスする著名なウクライナ人グループとコラボレーションして、かつてこのフェスティバル(ヴォイス・オブ・ノマド(遊牧民の声)に参加したことがある。そのコラボレーションは、このフェスティバルの主旨に対して意義深く、無限の可能性を提示する音楽的にも深い意義をもつものであったが、かつての運営体制の中では、好意的な評価を得ることができなかった。そして、それから9年もの間、このフェスティバルは本物の音楽評論家の注目を集めることはなかった。

  

 私は、音楽、歌、声の演劇的身振りというものを非常に重要なものととらえている。今年のフェスティバルには現代的な視点を持ついくつかのアートグループやビジュアルグループとのコラボレーションもあった。たとえばブリヤートの男性歌手とともに、古えの現象や国家的あるいは宇宙的な父性の本質を踏まえた衝撃的なパフォーマンスも行われた。それは、ブリヤートの音楽を世界的な音楽空間の中で新しく開拓し、神秘的な世界を創造するための儀式のようなものだった。彼らのパフォーマンスに参加したブリヤートの歌手には、シェイクスピアの演劇性とシャーマニズムを同居させることが求められた。それは同時に保守的な権威への批判を意味していた。

 

 そして、それらの試みは実験的な河崎純の音楽詩劇研究所の試みへと接続するものであることが、あとで明らかになった。この日本人たちの予期せぬ参加で、「遊牧民の声」というイベント全体の本来の本質があらわれたのである。

 

 結果的に彼らは、より攻撃的なかたちでステージにあらわれることになった。そのことで遊牧民の声はまさに、ニコライ・ゴーゴリ的な不条理を体現することになった。日本の助成金を得て到着した彼らは、この草原の中の小さなステージでショーを行うことになっていた。メインステージ上では爆音のパフォーマンスが行われておりその影響が心配されたが、日本の神々の仕業か、電気的なトラブル、あるいは他の要因によって彼らはメインステージの最後の出演者となったのである。

 

 とても高い技術の演奏と非現実的で幻想的な世界、宇宙的な声。それらはアコースティックの可能性の自由と音の可能性をあらわす神秘的な音楽だった。オロンホの歌(ヤクートの神々の歌)としても聞こえるものだった。この日本人たちはエヴェンキ族の伝説を持って現れ、遊牧民の声というイベントを最も象徴する存在になったのだが、それ以上に彼らの作品は、生態学なるものへのひじょうに生々しい取り組みであったといえるだろう。それはかつて私がウクライナの「ダーハブラーハ」とともにおこなったパフォーマンスのコンセプトをより自覚的に体現するものだった。

 

 日本から来た彼らのパフォーマンスは、声の周りを旋回し、形式化されたフェスティバルの定住性から、逃れ本来の遊牧性をもつものだ。事実、彼ら日本人たちは、自国家だけの音楽を追求するのではなく、音楽の採掘機となって、文化を商業的利用したのでもなく、繊細にその深層を発掘した。それらのさまざまな層を用いることへの責任への理解を伴った行為だったのである。」

 

トゥヤーナ・ブダエーヴァ(演劇批評家)

 


10 チベット密教とレーニン像のある街で

7/16

 

 フェスティバルを観にきてくれたノボシビルスクの大学で日本語を教えている土肥りかお氏と、その友人であるブリヤート人のサーシャさんが街を案内してくださる。いわゆる「ロシア人」よりはだいぶ背は低く、ヨーロッパ人かアジア人かでいえば、あきらかにアジアの顔。おだやかなウイグル人の面立ちといえばイメージしやすいかもしれない。バレェの振付家だそう。まだ50才を過ぎたばかりだが、引退してもう年金生活を送っているそうだ。夕方までだがやっと観光ができる。

 

 まずこの地のチベット密教寺院を見学。はじめてラマ僧のお経を生で聴いた。ソ連時代の宗教弾圧、特にスターリンの1930年代には他の宗教に比べても仏教は大迫害を受けた。ダツァン(寺院)は閉鎖され、多くのラマが強制収容所に送られたり殺害されている。シャーマニズムも同様に多くのシャーマンが殺害、迫害されたが、密かな信仰や習慣は家庭の中には留まって残ったそうだ。自然崇拝であるから仏教やロシア正教のように聖堂といえるものがなかったからだろうか。

 

 摩尼車(マニ車)を回しながら太陽が移動する方向に広大な敷地の丘を迂回する。サーシャの小学生の小さな娘は、母親の系統でチベット仏教の信者だそうで、慣れているのだろう、仏像を移動しながら小気味よく礼拝している。サーシャ自身はブリヤートのシャーマニズム信仰とのことで、そんな娘の姿を遠目に微笑みつつ案内のみ。家族内でも信仰が違う。街を一望できる丘に立つ。正教会の屋根もいくつかみえる。

 

 その後、有名なレーニンの巨大な頭像を観に行く。さしずめ無宗教時代の「聖像」である。写真ではチープな観光名所に見えたが、本物はなにもここまで、と思うほど大きかった。1971年に創られたのことだが、信仰入り乱れるこの土地では、社会主義への求心力として このくらい巨大な頭像が必要だったのかもしれない。今年2017年はロシア革命100年。アジア風なこの街でも至る所でそれを記念するレーニンの肖像画が描かれた垂れ幕をみた。

 

 人通りの少ない目抜き通りのベンチに座ってサーシャさんにブリヤートのことをいろいろ質問する。シャーマニズムの現在や、生活、習慣について。私たちのこのユーラシアオペラ作品でベースにしている中国の女性が書いた小説「アルグン川の右岸」に登場する中露国境のツングース系のエヴェンキ族は無文字社会だった。近い存在であるが、ブリヤート族はモンゴル系であり、元来のシャーマニズムとともにモンゴル文化の影響が強くそれに伴いチベット密教、つまり教典を有する仏教も信仰してきた。それゆえに周辺の諸民族の中では比較的早い段階で文字文化を受容した。チベット仏教とともに 17世紀頃、南のモンゴルからブリヤートに導入され、書道の伝統ももつ。

 

 言語の話しで印象的だったのは、ブリヤート語にはロシア語のキリル文字ではあらわせない音があり、特別表記とし3文字を加えて33文字であらわされることだ。サーシャはシャーマニズムを信仰するが、それについては朝まで話せるとおっしゃって笑った。2年後のタタールスタン共和国のカザンで共演したタタール人ダンサーは、タタール語がロシア語表記となったときに失われた7つの音をモチーフにダンス作品を作っている(第七章-タタールスタン篇 )。消え消滅した声から現代の表現を獲得する試みだといえる。

 

 レーニン像のある広場の傍にある岩田守弘(2019年現在はニジニノブゴロドにある国立歌劇場の副総裁)が芸術監督をつとめるウラン=ウデの国立バレー劇場の脇には、バレーダンサーの男女の銅像があった。「麗しのアンガラ」というバレー作品のヒロインと相手役。ヒロインの西ブリヤート族の娘アンガラ(バイカル湖から流れる唯一の川の名前)は、ロシア人の青年 エニセイに一目惚れされる。アンガラの父バイカルが富豪イルクートに嫁がせようと制止するが、それをふりほどいて二人は恋に落ちる。

 

 銅像の前で束の間佇んでいた元ダンサー、振付家のサーシャもきっと、この地のバレェ団の「十八番」であるこの作品をソ連各地で演じてきたことだろう。体格的にエニセイではないはずだから、父親による呪いの風の悪霊かもしれない。「悪霊の音楽(黒い旋風)」はブリヤート民族音楽のシャーマニックな打楽器性をイメージしたそうだ。ロシア人とブリャート人の友好を描いた作品であるとのことだが、ロシア人側の見方の植民地主義的発想であるともいえる。

 

 われわれはそこで記念撮影などしていたが、ひとしきり撮った後、何度もみているであろうその銅像を、改めて立ち止まって自らの来し方を振り返るように一人見つめるサーシャさんの眼差しが印象的で、哀愁とはこの男のためにある言葉なのか!!と思い、ついこっそりと盗撮。

 

なにしてんだ、おい、、 ロシア革命100周年を祝う女 2017
なにしてんだ、おい、、 ロシア革命100周年を祝う女 2017

 われわれはそこで記念撮影などしていたが、ひとしきり撮った後、何度もみているであろうその銅像を、改めて立ち止まって自らの来し方を振り返るように一人見つめるサーシャさんの眼差しが印象的で、哀愁とはこの男のためにある言葉なのか!!と思い、ついこっそり盗撮。

 

 

 

 


11ラーゲリの家族劇場

こんにちは、と通りざまに次々あいさつしてくれる礼儀正しき子供たち。
こんにちは、と通りざまに次々あいさつしてくれる礼儀正しき子供たち。

 

7/17

 

  「明日はラーゲリに招待します」とサーシャがいった。彼の振り付ける子供劇場?的なものを見るためにそこへ行く。「ラーゲリ」というと、「収容所」を思い出してしまった。シベリアや中央アジアの捕虜収容所のことを帰国者たちがそう言い、当時の日本人が知るロシア語の一つとなったようだ。収容所の刑務所の跡地だろうか..バスに揺られて辿り着くと、そこは子どものサマーキャンプ場だった。キャンプ=ロシア語で「ラーゲリ」なのだ。聞けなかったが、子らの声で賑わう雑木林の中にあるこの広大な一画は、まさに詩人の石原吉郎や思想家の内村剛介の本、香月泰男の絵で知ったかつての「収容所」跡かもしれない。この地にも、多くの収容所が点在していた。極寒のイメージが強いが、凶暴な虻の大群に見舞われるという熱暑のラーゲリを想像した。

ブリヤートの少女またはバイカルアザラシ
ブリヤートの少女またはバイカルアザラシ

  子供劇団にはサーシャの10歳になる娘もバイカルアザラシの役で出るとのこと。髪を二つに結った、シャイで愛らしい子。40人ほどの子供が長椅子を並べた客席にスタンバイした。ふたをあけるとそれは子供劇団というよりは、サーシャの家族劇団による、ほのぼのとしたバレェ・ショーだった。二十歳を過ぎた息子も、音響ミキサーを操作していたかと思えば、舞台にも登場し、裏に表に手伝う。観客の子供たち参加型の遊びの要素も含まれているし、じょじょに忘れられてゆくブリヤート語教育の要素も含まれていた。バレェのことは詳しくないが、小屋の中で赤いタイツをはいて踊る中年男のサーシャはロシア人の中では格段に背が小さいはず。西洋バレェ的な身体に恵まれているとはいえない。早く振付家に転じたのはそのためだろうか。

 

 サーシャがいうには自らもそうだったが、ロシアではソ連時代から子供の習い事が盛んであるという。彼もそんな風に10才の時に習い事の一つとしてバレェをはじめたそうだ。ソ連時代は国家の要求に応える人材輩出という目論みもあったのだろう、科学分野を中心に非常に高度なものとして懐古されることも多い。その時代の社会保障制度の名残か 、現代でも金銭的な保障も厚いようだ。現在の大学進学率(ほぼ国立)は、ブリヤート人は90パーセントとのこと。受験「産業」中心の日本では想像しにくい が、欧米と同様、いわゆる勉強のための学習塾はない。日本、東アジアでは課外教育における格差、そこにかけるお金の差が、学歴等の格差に如実に関連しそれに比例する。教育をここまで産業化するのはいかがなものだろうか。

 

バイカルアザラシ
バイカルアザラシ

12 顔たち 遊牧の民の末裔

スーパーの間にたむろするおやじたちとの写真撮影ができなかったことが悔やまれる。
スーパーの間にたむろするおやじたちとの写真撮影ができなかったことが悔やまれる。

 

 

ウズベク食堂の店主と息子。姉である娘は写真を撮ろうとするとはにかんで隠れてしまった。店主はこの夜、黒の正装を来てコンサートを観にきてくれた。
ウズベク食堂の店主と息子。姉である娘は写真を撮ろうとするとはにかんで隠れてしまった。店主はこの夜、黒の正装を来てコンサートを観にきてくれた。

7/18

 

 宿に帰る途中のスーパーの外にいつもたむろしている陽と酒に焼けた男女の老年の小集団。細い目をさらに細くして近づいて来る。毎日タバコをせびられたり、言葉が通じていないのに長く話しかけてきたり。アル中っぽくもある。アジア系の「いい顔!」。印象にのこる顔の人たちだったので、毎日「お約束」のように絡まれるのが楽しみだった。このおそらくは少数民族の出自を持つ老年の小集団にはロシア系のかなり太ったご婦人もまざっていた。そしていま、日がな一日みなでタバコを吸い、酒を飲み、何のうわさ話や思い出を語り合っているのだろうか。幼なじみなのかもしれない。どんな子供たちだったのだろう、どんな青年で、彼らの「習い事」はなんだったのだろうか。顔を思い出しながら、むろするチンピラみたいな老人たちの少年少女時代を想像する。

 

 われわれの上演作品のベースになった中国の女性作家遅子建の小説「アルグン川の右岸」で描かれた、狩猟民族エヴェンキ族の少年少女たちのことをつい思い出す。1949年に成立した中華人民共和国の政策で定住生活へと移行する中で、新たな暮らしに馴染む場合もあるが、適応に苦しむことも多かった。それまでの慣習に則した行動が「悪事」とされてしまい、こじらせて非行に走ることもある。ソ連ではその頃、革命からだいぶ時を経て、スターリンが死去(1953年)。日々会ったこの老人たちは、小説の中の少年や少女たちと同じように、狩猟や遊牧の生活の記憶を微かに留める世代だろうか。

 

 宿から本日の会場である美術館への通り道にある、10人も入れば一杯になってしまう食堂。朝食のでない安ホテルなので、日々そこで羊肉を食べてから出かけた。伏し目がちな憂いある瞳でいつも恥じらう十代半ばの娘と、素直でお手伝いをよくす る10才前後の息子。夏休みなのでいつも店で手伝いをしている。ツアーでお世話になる人々へとメンバーが用意してくれた日本のお土産がまだ残っていたので、この子たちに手渡すべく店に立ち寄った。しかし毎日通ってくれたお礼にと逆にごちそうになってしまった。店主は目が細いモンゴル系のブリヤートとは異なり、くぼんだ大きな眼と太い眉とのあいだが近寄った、トルコの人々を思い出す顔立ち。出身を尋ねるとキルギスタンに出自をもつテュルク系であるウズベキスタン人とのこと。テュルク系の顔と味。

 

 夜は美術館の施設「バイカルプロジェクト」の最終本番。「エスノオルダ」という、ロシアで初めての民俗芸能の現代に特化した場所だからか、観客もアジア色が濃い。マリーヤ・コールニヴァは野外フェスティバルのあとイルクーツクに帰ったので、きょうは日本人メンバーだけだ。細かい設定や構造は重視せず、この二都市でのツアーのエッセンスのみを凝縮した即興性の高いパフォーマンスだった。ラストシーンはバイカル・プロジェクトの大団円として、観客を巻き込み、この地の喉声も用いながら息の長い声を会場全体に響かせることを目論んだ。そこに三木の日本語の歌が溶け込んでゆく。しかしうまく誘導できず、この試みはほぼ失敗。このようにツアーでは、私の演出力や準備の不足もあり、実現できなかったことが多々あった。それでもすべて異なる内容で行った諸々の公演を通じ、今後のユーラシアンオペラ創作の核になる構造ができたように思う。

 

 終演後、件のテュルク(トルコ)系の顔の店主が声をかけてくれた。正装風の黒シャツを着て、わざわざ見にきてくれたのだった。黒海へ、イスタンブールに向けての橋がかかったような気もした。大都市と異なり、こういう異国の小都市にはふたたび仕事で訪れる機会はあまり望むことができない。

 

 明日はこの「バイカル組」のメンバーと別れ、長い時間をかけて中央アジアのテュルク系民族が移動したアナトリア、トルコへ飛行機でゆく。「黒海組」の韓国打楽器のチェ・ジエチョルと舞踏の亞弥とイスタンブールで合流。トルコではカザフ族に出自を持つサーデット・チュルコズと、チェとともに、亞弥演じている「架空の民族」の最後のシャーマン(第一部 第一章 ◆「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」 (「Continental Isolation」)登場人物)のパートを模索する。 

 

 もう見ることがないかもしれぬ風景や人々の顔を心にとどめておきたいといつもより強く思う。ここまで支えてくれたメンバーと別れるのは淋しい。感謝。宿のテラスでみなが眠りについた後も、一人夜明けまでウォツカを痛飲。しかしまだ「バイカル・黒海プロジェクト」は半分を終えたばかりだ。

 

 朝、ブリヤート共和国のウラン-ウデのホテルでメンバーと慌ただしく別れ、イスタンブールに出発。後できいたのだが、メンバーがふたたびバイカル湖を越えて東京便の空港のあるイルクーツクへ戻るとき、私がイルクーツクから借り続けていたコントラバスの同乗をシベリア鉄道3等車で乗車拒否されたらしい。「たらいまわし」にあい、ほんとうに大変な思いをしたそうだ。

 


黒海