シベリア・トルコ・ウクライナ音楽創作記

黒海篇(イスタンブール〜オデッサ)

はじめて黒海を訪れたとき。2009年。トルコのシレ
はじめて黒海を訪れたとき。2009年。トルコのシレ

 第三章 シベリア・トルコ・ウクライナ バイカル・黒海プロジェクト創作記 2017

 

黒海篇

 

1 懐かしいイスタンブールの大声

2 トルコ歌謡と日本歌謡

3 ガラタ橋ののセロニアス・モンク

4 アジアの両端 イスタンブール=釜山

5 テュルクの陸の雷魚、大地の声をもつ歌手サーデットとの再会 

6 東西最果てアジアの歌

7 骨の振付家 トルコのピナ・バウシュとの再会 

8 イスタンブール・ミーティング

9 ボスポラスの響きとユーラシアの大地を這う声

10 ユーラシアンオペラを夢想した街で

11  ウクライナの舞踏フェスティバルへ

12  JAZZ 誕生の街?

13  ウクライナの舞踏家たちと

14  白塗りしたダンサーたちの多言語子守唄

15  世界初の女性飛行士 サビハ・ギョクチェン


1 懐かしいイスタンブールの大声

イスタンブールの少年。カタツムリを並べて一緒に遊んでいたが、気づくと少年はすでにシンナーを吸って目がとろけていた。しばらくすると、不良少年の仲間たちが連れていった。
イスタンブールの少年。カタツムリを並べて一緒に遊んでいたが、気づくと少年はすでにシンナーを吸って目がとろけていた。しばらくすると、不良少年の仲間たちが連れていった。

7/19 

 

 

 紅色に染まる空と黒い山、あれがアクロポリスの丘を囲む山々か。イスタンブールへの経由地のアテネで、陽の落ちる時間に空港の外に出て一服。アテネは空港ではアスィンやアフィンと耳慣れぬ響きで呼ばれていた。

 

 くっきりあらわれた山の稜線がみるみる夕空の青に溶けてゆく日没。空港からなので、よくニュースで伝えられていた2010年前後の経済危機で疲弊しているであろうギリシャの街並みまでをみることはできない。

 

 現代のギリシャ最大の作曲家と言われたミキシ・テオドラキスは自らの曲を歌う歌手でもあった。ファシスト運動に抵抗し国外追放もされ厳しい人生を送ってきたその歌声は、切々としたしわがれ声だ。しかし、この遠くの山の稜線のカーブをゆっくりとなぞるように、深く沈み込んでまた昇ってゆくような朗々とした抑揚をもつ。あらゆるジャンルの曲を手がけ、「その男ゾルバ」や「セルピコ」などの映画音楽も書いた。

 

  第二次大戦後のギリシャ内戦下の若者を歌う名曲「汽車は8時に発つ」はギリシアの名メゾソプラ歌手アグネス・バルツァら内外の多くの歌手に歌われ、日本でも五木寛之の訳詞で森進一が歌っている。

 

 アテネで荷物のトラブルがあり、一便遅れて、夜の地中海の上空を渡って深夜、イスタンブールのアタテュルク空港に到着。迎えの車が空港まで来てくれることになっていた。しかしアテネやイスタンブールの空港のWIFI接続が上手くいかず、この遅れを連絡できなかった。連絡が途絶え、また少してんやわんやしたが、ウラン-ウデでメンバーと別れて一人なので、まだ気楽なものだ。

 

 これまで何度も降り立ったこの空港も5年ぶりだ。到着ロビーをでると、あの懐かしい「イスタンブールの声」がさっそく聞こえてきた。声が大きい。話す言葉というより、呼びかける声が大きいように思える。そして男性の声は低く野太い。想像するに、歴史的にもさまざまな文化、習慣が往来、交錯するこの地、とくにイスタンブールでは、雑踏の中で大きな通る声で呼びかけたり応えたりして商品を売るという習慣がずっと染み付いているのだろうか。身近にたとえれば、年末の上野のアメ横みたいなかんじだろうか。車のクラクションも同じように大きい。数年前に、この街のある大通り沿いのビルの最上階に稽古のためひと月間毎日通っていた。はじめは10階でも聞えて来るやかましさに辟易としたものだが、やがてそういう音にたいしてもいらだちは消え、挨拶を交わしているように朗らかにさえ聞こえた。世界中からさまざまな言葉を話す人や物が集る港。そこでものを売ろうとしたら声も大きくなる。こういうサウンドスケープも、文化や生き方や音楽に大きく影響を与えているはずだ。

 

 現政権のイスラム化の促進により街は大きく変わっているときいていた。6年ぶりだったが、空港の中では以前よりアラブ系の方が多く、頭髪を覆うヒジャブを纏う黒衣の女性が目立ち、見慣れぬ風景にすこし緊張感を覚えた。

 


2 トルコ歌謡と日本歌謡を比べてみると

(Zeki Müren1931~1996)
(Zeki Müren1931~1996)

  

 

 荷物を置いて、部屋の鍵を受け取りに階下の一室の扉を叩く。招かれて部屋の中に入ると若いアメリカ人女性はやや酩酊気味だった。今回のトルコで公演を支えてくれた在日トルコ人の映画プロデューサーの父親が所有する宿の一室を間借りしている今回の世話人である。ジンをすすめられ、グラスを手に窓際のソファに座ると雌の老犬と雄の若い猫がこちらに向かって駆けよってきた。犬はビリー、猫はザッキと名前をそれぞれ歌手の名前や性格に由来するらしい。ビリーはビリー・ホリデーの歌声のような哀しげな表情だから。ザッキはゼキ・ミュレンというトルコの大スター歌手の扇情的な歌唱の賑やかさから。

 

 ゼキ・ミュレンの名前は知らないと私がいうと、早速インターネット動画をスマートフォンでみせてくれた。古びた映像のなかでドラグクイーンのような中性的な衣装とメイクで大げさな節回しで、いかにもアラビア風の旋律を歌っていた。私がこれまでトルコで出会ってきたアーチストの多くは、大衆的芸能とは距離のある現代芸術を志向していた。私も、もっと土着的な古い民俗音楽CDは何枚も購入していたけれど、トルコの大衆歌謡についてはほとんど知らなかった。イスタンブールのような一大観光都市の街中で流れている音楽は、はたして現在流行しているものなのか、観光客向けの伝統的なのか、あるいはそれ風に新たに作られたものかも区別がつかない。

 

 ミュレンの歌は「サナート」といわれ、オスマン帝国の宮廷古典音楽を大衆的にしたものだそうだ。同じ歌謡曲のジャンル「アラベスク」は、さらにアラブ的要素が強い。日本でいえば演歌のような位置づけになる。民族音楽学者の濱崎友絵の論文「トルコにおける「アラベスク」の誕生と展開 」によると、近代国家成立以後、複雑な旋律体系をもつオスマン朝の古典音楽は、反近代的音楽としてさまざまなかたちで禁じられてきた。1938年のケマル・アタテュルクの死後も、それは続いた。1970年代半ばまで古典音楽が初等教育の場で教えられることがなかった。1960年代頃から格差社会が広がる中で、低所得層の精神の拠り所としてイスラム信仰が復権された。彼らからの支持を確保したい政府は、「低俗な」大衆歌謡と蔑視してきたアラベスクなどの古いオスマントルコ風な伝統的要素を持つ歌謡を、彼らが親しむ音楽として定着させた。国営放送で放映が禁じられた時期もあるが、ラジオやバスのなかやカフェ、酒場で街中に溢れた。

 

 イスタンブールのような一大観光都市の街中で流れている音楽は、はたして現在流行しているものなのか、観光客向けの伝統的なものなのか、あるいはそれ風に新たに作られたものかも区別がつかない。トルコ滞在のほとんどがこの街だった私が、この国やその地の音楽を強く意識するようになったのは、ドイツのベルリンでだった。テュルク族の伝承「デデコルクト」をベースに創作された現代音楽のプロジェクトに参加した2013年から14年にかけてだ。稽古では中央アジアの伝統楽器の音色を聴いた。プロジェクトの芸術監督であり、作曲家、ギター奏者の、マーク・シナンはアルメニア系トルコ人を母に、ドイツ人を父に持つ。作品の関連企画として、主に移民二世、三世の学生たちが参加する、映像作品制作のワークショップもあり、現代ドイツの移民社会の一端を垣間みることができた。日常における移民に対する差別的な風景が切り取られ、体験が、映像作品、音楽作品として制作されていた。1950年代~70年代にかけてトルコなどから移民労働者(ガストアルバイター)を多く受け入れ、一般的に移民や難民の受け入れに寛容であるというドイツにおいてもさまざまなかたちで歪みが生じ問題が顕在化している。クロイツベルグなどトルコ人街をよく散歩した。その一画に入ると車の中や店頭からトルコ語のポップスが聴こえてくる。ベルリンの寒空の下、はじめはその歌声が街にそぐわないような気がして違和感を感じたが、すぐに馴染んだ。

 

 濱崎氏の論文のなかで、興味深い二つの発言が引用されていた。西洋のクラシックやアメリカのジャズを横断し、世界中で活躍するトルコを代表するピアニスト、作曲家ファジル・サイの発言に「アラベスク音楽は幼稚だ」との発言があるそうだ。いっぽうでトルコから移民が多いドイツでは、次のように言われていた。

 

「現代におけるアラベスクをめぐって看過できないもう一つの動きは,ヨーロッパのトルコ人移民の間での動向である。2006年にラディカル紙が「ドイツ人のあいだで最近話題のトルコ人歌手,ムハッベット」との記事で報じたように(『ラディカル紙』2006年6月8日付),R&Bとアラベスクを融合させた「R&Besk」という新しいジャンルがドイツで生み出されることになった。トルコ人のムラト・エルシェンは,祖父が1960年代にドイツに移住した,いわゆる「第三世代」にあたり,ムハッベットというニックネームで活動するアーティストだ。「ドアは開いている/出て行くことだって出来る/でも僕は残ることを選ぶんだ/畜生,どこにも行くもんか!」と歌い出される『行くもんか Ichwillnichtgehn』(2005年)は,100万ダウンロードを記録するほどの大ヒットを記録した。ムラトはこう言っている。」

 

 "R&Beskは,R&Bとアラベスクの融合で生まれたんだ。R&Bが“リズム・アンド・ブルース”から生まれたのとまったく一緒だよ。アラベスクはトルコで生まれ,街角でその日その日を精一杯暮らしている庶民の物語を歌にしたものだ。「高いコンサートに行くお金は無い。自分の音楽を自分で作ろう」と考えた人の音楽なんだ。(アラベスクは)通りからやって来た人たちの情熱の結晶さ。僕の内面や,すべての感覚はアラベスクだ。僕の歌は情熱や,愛,別れ,辛い思いがテーマだ。僕は通りからやって来て,新しいR&Bの歌を歌っているんだ”

 

 アラベスクは,トルコ移民とともにヨーロッパへと渡り,第二,第三世代へと受け継がれ,移民社会の中で「新たなアラベスク」として読み替えられているのである。」 (濱崎友絵著「トルコにおける「アラベスク」の誕生と展開 」 信州大学人文科学論集 2 2015)

 

 いずれにしてもトルコでは大衆音楽のなかに伝統的要素が色濃く反映されている。欧米文化、とくに20世紀から現在に至るアメリカ文化の受容において、日本とトルコには差があるのだろう。地政学的条件を考慮しても、トルコ周辺は色濃いイスラム文化のほか、地中海文化、西洋文化にも囲まれている。だから音楽に関しても日本ほどにはストレートにアメリカの大衆音楽文化にも影響されてこなかったのだろう。日本は西の隣国に社会主義国家となった大国ロシア、中国を控え、東の隣国は太平洋をへだてるアメリカだ。トルコは、そもそもユーラシア大陸の中央辺りのテュルク族が、遊牧的生活を背景に、モンゴル系、イスラム化したペルシア系との多様な接触のなかでヨーロッパを含む多文化を抱合しながら移動し、オスマントルコ帝国を築いた。トルコ共和国があるアナトリア半島においても地中海世界、キリスト正教会ともハイブリッドされた文化を背景に持つ。19世紀以降、ほぼ同時期に西洋近代化の受容がみられ共通点も多いトルコと日本だが、地政学や、歴史的背景に由来する欧米文化受容の相違は、近代化以降の音楽や舞踊、エンターテインメント文化の違いに大きく反映されている。

 

 ミュレンの曲の中にもこの地域特有の楽器が多用されていた。日本でも邦楽器をつかうバンドや曲などはあるが、「伝統と現代の融合」を強調して意図的に用いられることが多い。民謡調や「○○音頭」などご当地ソングを意識して創られる曲には、尺八、三味線など邦楽器が積極的に用いられたが、古い演歌にはそれほど邦楽器は使われていない。しかし意識して聴いてみると、演歌では新らしい曲ほどふんだんに邦楽器が使われている。1986年に昭和、平成をまたぐように流行したスタンダードソングともいえる石川さゆりの「天城越え」は、曲や歌唱自体は民謡的要素が希薄だが、琵琶等の邦楽器がふんだんに使用されている。この曲の、邦楽器やエレキギターをフューチャーしたアレンジがひとつのプロトタイプとなって、以降現在に至る新作演歌の特徴的なサウンドとして意図的に用いられ続けているようにも思える。

 

 日本では西洋音楽化の過程の初期に、恣意的で流動的な揺らぎのある音程を省きながら5音階として整理された。さらにそれを8音階(ドレミファソラシド)へ拡張しながら洋楽的なハーモニーが付されてゆく。その過程では、西洋楽器の導入が比較的容易だったと思われる。それに対し、伝統的なアラブや中東音楽の場合は、旋律をなす基礎となる音階に、5音、8音以外の音も明確に認識されて用いられる。それらの音は西洋古典音楽の観点からは微分音、あるいは四分の一音(平均率の最小単位を「半音:二分の一」音とすると、さらにそれを半分に分割)といわれる。しかしそのような相対的な認識でもなく、またある音からの恣意的な「ずれ」としてでもなく、アラブや中東ではそれぞれが固有のピッチ(音程)として感じとられている。こうした音楽文化の体系の中では、西洋古典音楽理論を上位概念として適用させにくい。ゆえに日本とは異なり、西洋の楽器やハーモニーの導入が困難だったのではないだろうか。楽器も、伝統的、民族的な楽器をそのまま使用することのほうが自然だろう。

 

 中東の微分音を用いる演奏は私も以前東京で体験したことがある。イスラエルの作曲家、ピアニストのロネン・シャピラの現代曲の作品(ピアノ、鼓、尺八、コントラバスのための、若く自死した自身の弟へのオマージュであり、弟が愛したオルタナティブ・ロックバンドのニルヴァーナの曲が引用されていた)を作曲家本人のピアノ演奏とともに演奏した。通常のピアノでは微分音が出せないので、改造して微分音用に調律された電子キーボードとグランドピアノの両方をミックスしながら演奏した。ユダヤ文化でも特徴的な音階を用いるが、中東系音楽と異なり微分音が明確に規定されているわけではない。もっと慣習的で奏者の恣意的なものだ。ユダヤ人の彼がイスラム社会、中東の音階に存在する微分音を多用するのは、中東文化への敬意だということだった。

 

 中東音楽はさらにリズムも複雑だ。打楽器やリズムという観点では、撥で叩くのか素手で叩くかの違いに注目した。トルコでは2本の撥ではなく、片手で5本、両手であれば10本の指を用いて叩く打楽器も多用されるためリズムも細分化され、まるで何人かで叩いているようなポリリズムを奏でることも可能だ。一方日本の和太鼓、〆太鼓は2本の撥で叩かれるから、一つの太鼓で複雑なビートを奏でることは難しい。能などで用いる「鼓」は撥ではなく素手で叩かれるが、指全体で叩く他、指一本一本を用いる細かいパッセージは、ポリフォニックなリズムとしてではなく、風雨などの自然音の模倣の目的で奏される。湿気の問題もあるだろう。乾燥していれば太鼓の皮が張り、撥でなく素手、指で叩いてもそれなりに存在感のある大きな音がでる。

 

 イスタンブールやベルリンのトルコ人街の街頭で聴こえてきた最近の音楽は、打ち込みサウンドによって基礎ビートが強調される。そのことにより従来のアラブ、ペルシャ圏の音楽を特徴付ける打楽器の細やかで繊細なポリフォニーは失われる。しかし楽器で奏でられる旋律については、かなり細かく音が動いてそれらが重なり合って伝統的要素を保っている。

 

 音階の用い方がさらに音楽を特徴づける。そこではトリルも用いながら音階が急転直下または上昇と下降する旋律が多用される。例えば、ミ・ラ・ソ・ファ・シ・ミのように1音1音の跳躍の寄り道がなく、ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レなどと順次、急階段の昇降のように旋律が上がったり下がったりする。とくに急降下する旋律の多用は、基音と倍音の関係で形成される世界や日本のフォークロアや伝統の旋律には見ることができない。さらにその旋律は、西洋古典音楽や多くの世界の民族音楽の理論や聴感では不協和的な音程ととらえられる短2度と微分音が含まれた短調的な響きをもち、落ち着かない。この文化圏以外の耳には、不協和音程として得体の知れない恐ろしさ、いわゆるエキゾチックな印象を与える。

 

 それらは中央アジアから移動したアナトリア半島で、イスラム、アラブ化を受容するなかで、微分音を含むアラブ圏のマカーム(旋法)、地中海音楽を受容したオスマン朝の宮廷の古典音楽の特色だ。しかしトルコ人の起源である中央アジアの遊牧のテュルク系民族の音楽は、モンゴル系文化とも混ざり合いながら、もっとゆったりとしている。民謡や吟遊詩人の音楽にその痕跡が色濃い。民族の起源とアラブ、イスラム文化との融合がトルコ 音楽のダイナミズムだといえる。それは日本の歴史と対照的だ。音楽においても、他民族との衝突や融合による多様性や明確な理論をもたぬゆえに、のんびりとした歌唱文化は、すでに完成された欧米文化に飲み込まれやすかったのだろう。トルコは、先駆けて西洋化した日本の明治維新を手本に近代化を進めたといわれるが、音楽だけでなく、両国の文化の根底にはさまざまな相違があるのではないだろうか。

 

 一般的にはシリアスな哀感や暗さとして感受されることが多い短調系の音楽が、広く中東、アラブ、ペルシャの伝統音楽やポップスでは主流だ。トルコのように、アラビア文字をも用いず、宗教色を薄めた西洋化された国でも同様だ。だが、それらがすべて、暗さ、哀しさの感情を表するものではない。たとえば爽やかで明朗なアニメの音楽(絵は同じだが各国、言語版の「アルプスの少女ハイジ」のテーマ曲が動画サイトで紹介されていた)にだって、われわれの文化圏からすると、一見暗くておどろおどろしく不吉とさえ感じてしまうような短調や、短二度を用いる。いわゆる「アラブ、中東っぽい」音だ。少女の物語だが、歌唱に至っては大人の男声である。しかし、そんな音楽を背景にして、アルプスの雪山で朗らかに子供たちが、遊んだり仕事を手伝ったりしているのである。 

 

 コラボレーションを続け、今回の共演も予定される何人かのトルコのアーチストの友人たちの顔を思い浮かべる。彼らからみれば、私が幼い頃から馴染んでいた、あのアルプスの森の穏やかな暮らしそのものにマッチしているような、少女の朗らかな声や旋律に、違和感を覚えるかもしれない。私がトルコ版「ハイジ」の音楽を聴いて驚いたのだから、彼ら彼女たちも逆に日本の、西洋の「ハイジ」に違和感をいだくのだろうか。グローバル化されたといわれるこの世界で、創作をともにした親しい友人の暮らす文化圏でさえ、いまだ想像、理解しえない根深いドメスティックな心性が存在するのかもしれない。

 

 若いアメリカ人の女性のスマホで、彼女の飼い猫の名前に由来するゼキ・ミュレンのけばけばしく賑やかな歌を聴きながら、少しジンを飲んで、ぼーっとしながら上の階の部屋に戻る。犬のほうのビリー、ビリー・ホリデーの歌でも聴こうと、動画サイトを検索しようと渡されたメモのパスワードを入れてWIFIを接続する。思えば、初めてこの街に来た2010年はまだWIFIも一般的ではなかったと思う。その時のように長い滞在のときは、携帯用のCDフォルダーに何枚ものCDを選んで持ち運んだ。それ以前はポータブルCD再生機も必需品だった。

 

 ビリー・ホリデーを聴こうにも酒がない。この地のアニス酒のラクでも買いに行こうか。ブドウの葉っぱで作られ、水で割ると白濁する爽やかな甘さをもつこの酒に、ビリーの苦悶する声はあわないような気もするが、それもまた良し。やはりビールの「エフェス」か「マルマラ」にしようか、ビリー・ホリデーはやめて昭和歌謡にするか。久しぶりの一人の夜を満喫し、長くいろいろなことがあった昨日までの「バイカル・ツアー」から、明日から始まる「黒海ツアー」に気持ちを入れ替えるためにリラックスしようと表に出た。

 

 イスタンブール新市街の目抜き通りのイスクティラル通りはよく知っている慣れた場所だったので、深夜でも土地勘がある。2010年にここでともに創作したのを機に結婚したが離婚した前妻とも、夜遅くまであけている売店がいくつもあったガラタ塔の周りに腰掛けて、よく酒を飲んだ。

 


3 ガラタ橋のセロニアス・モンク

幼児が一人遊びしているように、エフェクターをセットするシェヴケット氏。
幼児が一人遊びしているように、エフェクターをセットするシェヴケット氏。

 

7/20

 

 ボスポラス海峡付近のベイオール地区を歩き、土地勘を戻しながらガラタ橋に近づいてカディキョイの街の変化を確かめる。昨夜、「酒難民」となる危機感を感じたので、昼間のうちに買っておこうと缶ビールを探し求めた。こころあたる店をいくつか回ったが通常はあるはずの酒が、また置いていなかった。イスラム化する政情が関係しているのだろうか。やっとみつけて一軒のキオスクのような店で購入すると、新聞紙でつつまれた状態で手渡される。やはりイスラム信仰の復興を促す政権への配慮や自粛であろうか。

 

 午後、ギター奏者のシェヴケット・アクンジュの勤めるガラタ橋近くの音楽大学にコントラバスを受け取りに行く。6年ぶりの再会。共に仕事をした日本の国際交流基金主催の2010、11年のプロジェクト日本トルコ現代音楽制作「Sound Migration」の後も気が合い、交流が続いた。このプロジェクトにトルコ側から参加したのが、彼と、今回の主なコラボレーション相手となる女性歌手のサーデット・チュルコズだ。

 

 その後も振付家アイディン・テキャルとのプロジェクトのリハーサルでトルコに行くと必ず会い、彼の家で夫人と子供が寝静まった後に夜明けまで語り合いながら飲み明かしたこともあった。少しだけ彼の方が年上だが同年代である。アメリカのバークリー音楽院に入学しジャズを学んだエリートだが、帰国後はアナキズムとしての音楽を追究している。トルコのアヴァンギャルド音楽シーンのリーダー的存在である。父親が外交官で、スロベニア、インド、ロシアのトルコ大使だった。彼自身も幼少はベルギーに暮らしていたのでフランス語もできる。

  

 大学の前に、黄色いサングラスをかけ汗をかきかき現れた巨体のアクンジュは、以前会ったときよりもさらに太っていた。大学の構内(といっても庭のないビル)に入ると、気さくに話しかけてくる生徒やそれに応える彼をみていると、信頼されている教師なのがよくわかる。今回のトルコでは、サーデット・チュルコズとの再共演のほかに、彼がリーダーを勤める即興音楽のトリオのグループのKONJOとのコラボレーションが当初の主たる目的だった。トリオは、同じテュルク族の中央アジアのロシア連邦トゥバ共和国の世界的にも著名な伝統的な喉歌を用いるアンサンブルの「フンフルトゥ」とのコラボレーションを行っていた。それは私のユーラシアンオペラのビジョンとも共鳴し、今回のプロジェクトでは、彼個人とだけではなくグループまるごとコラボレーションできる相手だと考えていた。

 

 ほかのKONJOのメンバーともグループメッセージを通じて連絡をとりあってきた。しかし会場と機材の都合もあり最終的に出演ができなくなった、と伝わったのは、私がブリヤート共和国のウラン-ウデに着いてからのことだったから、まだたった数日前のことだ。

 

 グループの女性歌手、スムル・アーギュリアンは、トルコ、ギリアシア、地中海方面の民俗音楽、歌謡をベースに自由な即興的表現とを往復する歌手だ。中央アジアからのテュルク族の移民の歴史を体現する方向の表現は、今回久しぶりに再会するサーデット・チュルコズとのかつてのコラボレーションによりすでに体感していた。しかし地中海、黒海、バルカン半島方面の民族音楽を演奏するアーチストとの共演経験はまだなかった。今後のユーラシアンオペラプロジェクトのひとつの新機軸として彼女との共演を目論んでいたので、この計画が頓挫してしまったことはとても残念だった。私の英語のコミュニケーション能力では限界もあり、うまくニュアンスが伝わらず、メンバーに不快な思いもさせてしまったらしい。金銭面の条件を整えることができなかったも大きな原因であろう。

 

 当初、この地でのセッションだけではなく、この後に訪れる黒海の対岸オデッサにもこのKONJOを同行させたいと考えていた。ここで待つウクライナの歌手アーニャ・チャイコフスカヤと彼らとともに、当地のダンスプロジェクトとコラボレーション作品を創作する構想をもっていた。

 

  彼らは当然グループ全員での渡航を求めている。しかし予算の問題で三人の同行はもとより難しく、オペラプロジェクトという性格上、歌手であるアーギュリアンと、これまでの信頼関係を築いてきたリーダーのアクンジュの二人だけに同行をお願いしていた。あとから聞いたところ、もう一人のメンバーの打楽器奏者と歌手は夫婦でもあった。この時点でまず問題が生まれてしまったようだ。さらに私のほうで、あてにしていた渡航費のための予算の獲得に失敗し、アクンジュと歌手のオデッサ渡航自体も既に断念した。そのために、今回はグループの活動拠点であるイスタンブールのみで、旧知のヴォーカリストのサーデット・チュルコズ、東京で出会ったピアニストのセレン・ギュリュンを含むコンサートの一部に参加してもらうつもりだったのだ。しかしイスタンブール到着数日前にそれも叶わなくなってしまった。東京とイスタンブールを往来しているギュリュンのパートナーである映画プロデューサーのエンギン氏が、急遽東京からの遠隔操作で奔走し、かなり整えてくれたのだが、音響機材などいくつかの面で彼らKONJOが快く参加できる状況までは整えられなかったのだ。

 

 私はこの数日前にブリヤート共和国のウラン-ウデでの安宿から、音響機器、予算やスケジュールの不備、自分の事情と詫びる思いを伝えた。アクンジュのみ個人的に私のプロジェクトに参加してくれることになった。しかしそれも彼自身の糖尿病の悪化で難しくなってしまった。親友である彼と、旅先でこのような残念なやりとりを重ねることはとても辛かった。それでも、私が弾く楽器の手配をしてくれ、きょう数年ぶりに再会したのだ。

 

 アクンジュの生徒のうら若き女性歌手とパートナーの男性がコントラバスを大学の中のスタジオまで運んでくれる。楽器の持ち主であるこの女生徒はCDもだしている歌手だが、コントラバスも習い始めたとのことだった。せっかくなので弾いてもらうと、Bフラットのブルースをジャズベースの教本通りに端正に弾いた。ギタリストのアクンジュが、傍にあったピアノでセロニアス・モンクの「ブルー・モンク」を控えめに添える。彼らしいな、と思う。モンクらしいぎくしゃくとしたブルースの名曲だ。以前よりさらに太った彼が、調律の怪しいアップライトピアノを片手で弾く後ろ姿は、肌の色こそ白いがなんとなくモンクを思わせなくもない。

 

 彼女と入れ替わって私もちょっとだけコントラバスを弾く。トルコのアヴァンギャルドミュージックを牽引するアクンジュと私は、ほどなくしてブルースコードから逸脱してアブストラクトな無法地帯に突入しそうになりつつ、生徒の手前、という訳でもないがそのあたりで止めて、彼女を伴って校内の屋上のカフェに移動した。 わが「ソウル・ブラザー」との一分にもみたない共演だったが、とても印象に残った。真夏のボスポラスの海と風。コントラバスもゲットし、どろっとしたトルココーヒーを飲みながら旅の緊張がほどけ、ああ、イスタンブールに帰ってきたのだ、と実感する。彼女はどんな教則本を用いるのがよいかなど熱心に聞いてくるので、滞在中にお礼にレッスンをすることになる。

 

 アクンジュは合うたびに私に一ひねりあるプレゼントをくれる。これまで彼が私にくれたものは、彼自身のCDや詩集のほか、フランス語のアルチュール・ランボーの詩集(彼は私が大学の仏文科卒ということを知っているのでフランス語が少しはできると思っているが、できない)、それからシリアの民俗音楽のCDであった。それはシリアに残されたイスラム教以前の、キリスト教文化の音楽のものだった。シリアにある最古のキリスト教徒の末裔が暮らす地域マアルーラの音楽で用いられているのはアラム語で、キリストが喋っていた言葉とも言われる。それはいわゆるキリスト教の聖歌とはひじょうに異なる、アラブな印象の音楽だった。アラブやテュルク音楽に特徴的なマカーム(旋律の種類)が用いられる。キリスト教の音楽というとヨーロッパの音楽だが、たとえばエジプトのコプト正教の聖歌もひじょうに特徴的だ。グレゴリア聖歌とは異なり、かなり「コブシ」 のきいた歌い方をする。トルコで差別されるクルドや、かつて大量虐殺したアルメニアなど、アクンジュは自民族の伝統音楽ではなく、複雑な関係を持つ周辺の民族の音楽をまず先に紹介してくれる。

 

 そんな彼から今回も三日後の「イスタンブールミーティング」のときにプレゼントをもらったが、それは後述。おかげさまでコントラバスも手に入れひとまず安心。コントラバスを日本から運搬できない海外公演では、まずその確保と無事な受け渡しが大事であり、難しい関門でもある。

 

  大学で彼らと出別れ、日本から夜中に到着する二人のために酒を買い、懐かしいイスタンブールの街の喧騒をききながら部屋の中で、舞踏の亞弥と韓国打楽器のチェ・ジェチョルを待った。

 

 


4 アジアの両端 イスタンブール=釜山

ラップサンドに食らいつく、舞踏家亞弥氏。
ラップサンドに食らいつく、舞踏家亞弥氏。

 7/21

 

 昨夜無事に到着した二人を案内しながら散歩。船着き場でジプシーの小さな子どもが、足に挟んだダルブッカ(太鼓)をものすごいテクニックで叩いている。初めてイスタンブールにきた時を思い出す。

 

 シェヴケット・アクンジュと今回の主なコラボレーション相手となるサーデット・チュルコズに出会った、2010、11年の日本トルコ現代音楽制作「Sound Migration」だ。イスタンブールで現地のメンバーと3週間ほどのリハーサルをしてから、イスタンブー ル、イズミル、カイロ、ブダペスト、東京、横浜と巡演した。

 

 地下鉄やタクシーで毎日大学の音楽スタジオに通い、セッションを重ねながらがら作品をつくった。稽古場だったビルギ大学の近くでは、すぐそばのジプシー街の子供たちが、われわれを珍しそうにみたり、挑発したりしながら、口三味線で歯切れ良くリズムを刻みながら通り過ぎて行った。

 

 ある日宿に帰るためにタクシーに乗ると、途中の岐路で目的地とは別の方向に車を走らせ、急勾配の坂道にある別のジブシー街に連れていかれ、ドリフト運転しながら坂を昇降するという危険に遭遇した。そこに入った瞬間に外部の者を排他するような空気感が漂っていた。色とりどりな洗濯物が無造作に屋外や建物と建物の間に紐伝いに吊らされ、褐色の肌の子供たちがボール遊びをしながら駆け回っている。「生活」そのものとしか言いようのない路地の坂道を暴走する若いやんちゃそうな運転手は、明らかになんらかの薬物を摂取しているような眼、表情だった。街の人々は、車中で怯える私たちを一瞥してから、「またやっているのか」という感じで、車中の彼に気さくに声をかけて苦笑いしていた。 

 

 今回、舞踏家と、韓国太鼓奏者は、このイスタンブール、その先のオデッサで何を感じ、どんな表現をするのか、私たちは何をなしうるのだろうか、そんなことを思いつつ唯一のオフ日を過ごした。私は古くから二人それぞれを知るが、チェ・ジェチョルと亞弥は二日前の成田空港が初対面だったそうだ。数日後のウクライナのオデッサの公演も未確定事項がたくさん残っていたが、思い切って久しぶりのイスタンブール観光のための休暇日と決めた。

 

 この街は韓国、とくに港町の釡山の人々と共通するものを多く感じると、初めてこの街を訪れたチェが言う。アジアの極東と極西の港町に共通点はあるのだろうかと歩きながら考えはじめていると、彼は早速、新市街と旧市街を結ぶボスポラス海峡のガラタ橋の上で散策に持参した太鼓(チャング)を叩く。考えるより先に動く!私も韓国の銅鑼(チン)をあわてて一叩き。チェとの偶然の出会いも新宿のガード下の路上だった。もう15年くらい前のこと。

 

 バカンス真っ最中だが以前とちがって、やはり観光客が街で昼から酒を飲む姿は少なかった。昨日、駅舎に飾られたエルドアン政権のプロパガンダの写真パネルを見ながら、アクンジュがイスラムファシズムの傾向を説明してくれた。そのなかで2013年22時以降の酒類の販売も一部規制されるようになったとのこと。たしかに旧市街の入り口に広がるグランドバザール方面のモスク近辺では、以前とは比較にならないくらい多くのイスラム教徒のお祈りの姿をみた。現政権が押し進めるイスラム化が表面化しているようだ。

 

 一日五回、礼拝を呼びかけるムアッジンのアザーンの声は以前と同じように、きまった時間になると方々のスピーカーから流れ、その声はイスタンブールの天井の高い空を交錯する。トルコ人の99パーセントがイスラム教徒であると聞いた。にもかかわらず、これまで数年の間断続的にこの街を往来したが 、信仰のある日常的生活を、モスク周辺以外にみることがあまりなかった。もちろんここはあまりに観光客が多いので、そこに埋もれて見えにくいということはあるだろうが。政教分離、 教育改革、文字改革、男女平等、その近代的生活の礎をつくる功績をたたえいまでも独裁者ともいわれるムスタファ・ケマルの肖像画のない店はほとんどない。多くの一般日本人の現在の宗教観、たとえば墓と法事と家の中の仏壇の「葬式仏教」や年に数度は神社で手を合わせるくらいな信仰の感覚なのだろうか?しかし今回はやや異質な印象で、観光客で溢れる通りでも、都会のトルコ人女性がかぶることが少ない黒いヒジャブを纏う人の姿を見かけることが多かった。観光客にしてもイスラム文化圏からの方が多くなったように見えた。

 


5 テュルクの陸の雷魚、東西最果てアジアの声

Sound Migration 2011  東京、横浜凱旋公演のポスター
Sound Migration 2011 東京、横浜凱旋公演のポスター

 7/22

 

 

  海を渡ってアジアサイドのモダ地区で本番。チェ・ジェチョルは、そのヨーロッパからアジアへと渡る船の中でもまたチャングを叩いた。船着き場から会場に向かって歩いていると、話にきいていた通りこの地区は土地の若者を中心に、「観光都市イスタンブール」とは異なる街自体の若いエネルギーによる賑わいを以前にも増して 見せていた。

 

 私たちの演奏の前に出演するイスラム神秘主義スーフィーズムを標榜するバンドYakazaアンサンブルは室内楽とエレクトロニクスのアンサンブルだった。小津作品など日本映画の台詞をサンプリングし、スーフィーの旋回舞踊でも演奏される尺八のような音色を持つネイも演奏する。来日経験もあり、会津若松出身の美術家SYUNOVENとのコラボレーションによる洒落たCDブックも制作している。

 

 ヴオーカリストのサーデット・チュルコズと6年ぶりの再会。彼女は、敬虔なムスリムとして育ち、たくさんのカザフ族の民謡、トルコ民謡をベースに即興で、歌詞を作ったり、ヴォーカリゼーションを展開したりする。30年近く一人でスイスのチューリッヒに住み、家族いるイスタンブールとを往復している。チュルコズの両親や家族は、現在の中国の新疆ウイグル自治区ウルムチに出自をもつ遊牧民である東トルキスタン地域の難民だ。1930年代からチベット、パキスタンを経て1950年代にイスタンブールに移住した東カザフから移民だ。チュルコズはここで生まれ、移民街に暮らし、若くしてヨーロッパへ移住した。

 

 移民として各地で翻弄されながら、音楽でコミュニケーションしながら生きてきた。それは彼女の即興表現そのものだ。2010年の「Sound Migration」のイスタンブールで行った3週間ほどの稽古では、作品を構築し固めてゆこうとすると、彼女はいつもそれに抵抗した。即興する余白、つまり「生きるための余白」の確保を主張したのだ。大きな声でよくしゃべる彼女の英語は、英語が苦手な私はそれゆえにそもそもあまり気にならなかったのだが、同行の国際交流基金のプロデューサーの畠由紀氏がいうには、英文法としては間違いだらけだそうだ。帰国後に送られてきた彼女からのメールを読むと、たしかに日本の中学二年生くらい。でも30年近くヨーロッパで、そうやって、英語あるいはドイツ語を使わずには、生きてはこられない。私が東京で、「音楽」ってなんだろう、「即興」とはなんだろうと、観念的な問いの中で音楽にかじりついているのとは違うとしみじみ思った。

 

 そのツアーの飛行機での移動中、チュルコズはトルコ語でトルストイを読んでいたことがあった。後ろに座っていたアクンジュはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を英語で読んでいた(日本公演の楽屋ではウィリアム・バロウズを原書で読んでいた)。英語のドストエフスキーとトルコ語のトルストイ。なぜロシア文学なのかはわからないが、なんだか二人のパーソナリティを象徴するようでもあった。彼女が本を読むのを止めて、やおら私の傍にやってきて隣席に座った。ポーチからとりだしてイスタンブールの家族の写真をみせてくれた。いつも唄のような独り言を大声でしゃべり、語りかけてくる大柄な彼女を何まわりも小さくしたような老婆がお母さんだった。いまもイスタンブールに一人で暮らし、体調が良くないとのこと。

 

 そんなサーデット・チュルコズとの共演はいつか必ずと望んでいたが、今回実現することになった。親族の結婚式のためにたまたまチューリッヒから帰省しているという偶然のために叶った。結局今回の私たちの短いイスタンブール滞在のうち、全てのコンサートで彼女とコラボレーションすることになった。

 

 かつてのように、演奏位置、機材のセッティングなど、すでに演奏前からどんどん自らの意見を主張して現場を仕切って行く。強引な「サーデット節」は本番前から健在だった。

 

 今日からからはじまる、チュルコズとのセッションは、舞踏家の亞弥が演じる架空の民族の一族の最後のシャーマンの老婆の生涯最後の降霊の舞いのシーンの創作が目的だ。チェや私が演奏する音の中で、チュルコズの声が降霊し亞弥の身体に憑依するイメージだ。

 

 開演前、チェから韓国のシャーマニズムについて興味深い話をしてくれた。放浪の芸能集団である男寺党(ナムサダン)や農村の祭りで行われる農楽と、シャーマニズムの巫俗の儀式の音楽性の違いだ。前者は基本的にはエンターテインメントとしての群舞の舞踊性を伴う。立奏でダイナミックに踊り廻ったり行進しながら太鼓を叩く。それに対して後者の巫俗においては、太鼓や鐘を座って叩く。演奏する身体において何を優先させるか、立って踊り歩くか、座って集中するか。踊ることと一体化したような立奏と異なり、座奏では複雑なビートが速度を加えながら、秘技性を体現する。その中でシャーマンであるムーダンが歌い、舞いながらクッ(神)を降ろす。農楽的な祭とは異なり、その空間でみなが一緒に踊ることは難しい。巫俗用語には一般には理解しにくい梵字サンスクリットの仏教用語も残るそうだ。それらは被差別的な存在である巫覡自身が、祭りや芸能とも差異化して特権性を維持するための工夫である。

 

 チェは、ムーダンの儀式では踵を地面に強く打ち付けて脳を震とうさせ、自らのトランス状態をつくることがあった、とも聞いたことがあるそうだ。客席で、多くの人が一つの空間で身体や頭を縦に動かして、一人一人が自ら「共同体」から切断された身ぶりでして個人に没入するヘヴィーメタルロックのコンサートの、「ヘッドバンギング」も連想させる。多くの人が一つの空間で、それぞれに身体や頭を縦に動かす、いわば、集団「独舞」だ。それがコンサート会場という共同の場でおこなわれる。群舞における横揺れの身ぶりは、左右に存在する他者を意識し、共同性の絆を深めるが、垂直の身ぶりは、個人的なトランス状態をつくりやすいといえる。北方のシャーマニズムでも、左右に跳ねない直線的なビートで速度を増し、トランスすることが多い。頭を強く振るのは、それをさらに加速させるためだ。

 

 さて、オープニングアクトとしてイスラム神秘主義の音楽とエレクトロニクスを融合する不可思議なバンドの演奏の後のわれわれのコンサートは、まさに一連の儀式のように、1時間ほど途切れることなく進んだ。チュルコズの語りと歌のあいだから裂けて絞り出てくるほとばしりは、まるで陽を浴びた地熱のように暖かくそして乾いている。雨風にうたれながら移動して生きてきたテュルク民族のたくましさに裏付けられた声。這うようにして地脈を広げ続けるような歌唱は、ムーダンの影響も受けた韓国のパンソリにも似ているが、より呪術性を帯びている。農楽の伝統を表現の基礎とするチェの声や太鼓の躍動感は、呪術的というよりは、やはり祝祭的だ。内部にエネルギーを貯め続けつつ、同時に外への接触を求めている、ここではあえて「日本の」といってもいいような亞弥の舞踏的身体。西洋のコントラバスを弾く私はそこで、いったい何者なのだろうか。いつの間にかコントラバスを置いてあぐらをかき、チェから借りた韓国の銅鑼(チン)を一心不乱に叩いていた。 

 

 イスタンブールで は、「バイカルプロジェクト」と異なり作品の構成はあまり考えず、とにかく即興。チュルコズとコンサーの全ての時間を即興演奏に費やすのは初めてだった。またこうして共演できてほんとうに嬉しい。しかし借りたばかりの楽器の音と私の身体がまだ関係を結んでいないことがよくわかる。そのことにも3日間苦しむ。

 

デットさん健在
デットさん健在

6 骨の振付家 トルコのピナ・バウシュとの再会

トルコのピナ・バウシュ、アイディン健在
トルコのピナ・バウシュ、アイディン健在

 

7/23

  

  楽器と身体の関係といえば、かなり特殊なやり方でそれを追求したのが、ここイスタンブールで振り付け家の女性、アイディン・テキャルとの創作の日々だった(*最終章コラム)。2011年から2014年まで二つのプロジェクトで長く共同作業した。トルコのピナ・バウシュなどとも言われる彼女のアイデアと演出による、音楽ともダンスともいえないような私のソロパフォーマンスによる「db-Ⅱ-bass(ダブルベース)」がその一つだ。

 

 それまで20年近く音楽を奏でる楽器としてコントラバスに接してきた私には、ある意味苦行のような日々でもあった。長年演奏してきたその楽器を、まるでダンサーが初めてそれを手に取ったときのように演じなければならなかった。目の前にしたコントラバスという音の出る「オブジェ」とどのような関係をつくるのか。アナトミー(骨格学)の原理からつくられた彼女の身体トレーニングのメソッドを、彼女のスタジオでひと月ほどの期間、毎日行う。日本に戻れば、それを維持するためのトレーニングもおろそかにできなかった。

 

 今回、イスタンブール到着後、チェと亞弥が無事に到着した翌日、アイディン・テキャルに連絡した。ベルリンでのプロジェクトの最終公演、2014年のリヒテンシュタイン公国のファドゥツで別れて以来だ。久しぶりに会いたかったが、この地での慌ただしさも予測され、事前に約束して会うことは控えていた。イスタンブール州立ミマールシナン芸術大学の舞踊科の学部長の職を二年前にリタイアし、いまは都会の喧騒から離れて田舎に暮らしているのだが、振り付けの仕事で偶然イスタンブールに来ているとのことだった。まずその夜のうちにカフェで落ち合い。あらためてゆっくり朝食でも、とわれわれ3人を、以前暮らしていたアパートに招待してくれた。

 

 仕事場をそのまま残してきた様なお部屋。壁には新作で使うはずだったという、骨の模型のオブジェが飾られ、創作意欲は衰えを知らない。スポンサーにコンセプトをうまく理解されずに新作は幻になってしまったそうだ。彼女自身の発案による私との作品でも、二年間実験を繰り返しても上手く行かなかったら公演はしないと主張し、プロデューサーの畠氏を困らせた。助成金を得てプロジェクトを行うには、2年先の上演まで綿密に計画を立てなければならず、創作者の立場からすればテキャルのいうことはもっともだが、なんとか氏が説得し、おかげで私の渡航費や、いくばくかの出演費が賄えたという次第だった。ひじょうにこだわりと信念をもったアーチストである。 しかし大学での繁雑な職務から解放されて、以前より気持ちや表情が穏やかなようだ。

 

 テキャルはまだ60代ではあるが、そのときどれだけ濃密な時を共に長く過ごしていても、とくにこうして遠く離れて暮らしていれば、その折々で、今生の別れを感じてしまう。何年か前東京で彼女を見送った時がそうだった。その後別の仕事でベルリンのプロジェクト「デデコルクト」で思わぬ再会があった。しかしそのプロジェクト最終公演の地でも、まるでまた明日会えるかのようにあわただしく別れ、「さようなら、また」ともいえなかった。あとになって別離をしみじみと想う。今回は一緒に創作するわけではないが、偶然に会うことができた。午後から行うイベント「イスタンブール・ミーティング」にもできたら顔を出すとのこと。こうしてまた会うことができたが、それが今生の別れとなるかもしれない。

 


7 イスタンブール・ミーティング

 

 この日は「イスタンブール・ミーティング」と称して、招待していた現地のパフォーマーや演奏家の友人も自由参加できるパーティー付きのセッションだ。今回のイスタンブールでのすべてのコンサートをコーディネートしてくれた日本在住のトルコ人映画プロデューサー、エンギン氏のお父様が営む新市街の中心地にあるアトリエ、ギャラリー「ピュー・イスタンブール」にて、サーデット・チュルコズと我々3人でいろいろな組み合わせで即興のコンサートとイベントを行う。夏のバカンスの時期に観光客向けでないイベントを行うことに無理があるのだが、エンギンが東京から遠隔で奔走してくれた。

 

 私たちもエンギンのアイデアで日本酒を持参した。休憩中に、楽器を提供してくれたシェヴケット・アクンジュの生徒のエスラにも楽器のレッスン。新しい出会いと再会のパーティーのような時間も落ち着きを見せていたが、最後は楽器をもってきた演奏家や表現者と即興でセッション。

 

 アクンジュもギターを持たずにやってきた。自分で楽器を運ぶのも難しいほどの膝の痛みがあり、私が持参した韓国の小型の銅鑼を叩いたり、部屋の壁を引っ掻いたり、ヴォイスで演奏。控えめではあるがさすがにいいタイミングで音を入れる。嬉しい。

 

 今朝会ったばかりのアイディン・テキャルも訪ねてきてくれた。私の予想通りチェ・ジェチョルの踊りながら叩く杖鼓(チャング)に 関心を示して、叩き方を教わりながらダンス。亞弥の、体内のコスモスをくまなく巡りながら震える舞踏の身体をこれだけ間近にみることも、テキャルにも集まったトルコの観衆やアーチストにも貴重なことだろう。私は慣れない借りたばかりのコントラバスに苦しみながら、スケールの大きい声やリズム、繊細な身体についてゆくことだけで精一杯。

 

 初対面のチェロのドゥユグ・ドゥミールとフルートのケマル・オザノグルも演奏に参加。強靭でカオスな即興表現がぶつかり合う中で、繊細なハーモニーを奏でるチェロとフルートの二人の西洋楽器の現代音楽的な端正な響きが良いクッションになっていた。明日行う今回のメインコンサートに参加する、トルコのジャズの新たなシーンを牽引するピアニスト、歌手のセレン・ ギュリュン、サーデット・チュルコズとのコラボレーションに加わるべき一要素は、彼女のチェロかもしれない。対照的な二人の歌手の存在感の違いを際立たせつつ、接着剤のように融合させるのは、ドゥミールのチェロの現代的なニュートラルな表現だと直感した。急遽、彼女に明日の劇場でのコンサートにも来てもらい、パフォーマンスに加わってもらうことをお願いした。

 

 今回の「バイカル・黒海プロジェクト」で、私が将来の集大成として目論む「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」のユーラシアンオペラ版の完全版に近い形での上演が叶ったのは、シベリアのイルクーツクでの美術館公演だった。私が作曲した西洋音楽的な室内楽編成の組曲を実現できたからだ。即興やフォークロアの要素の多い作品全体の中では異質な響きであるこのパートによって、他の様々なパートのコンセプトが相対化され、作品の多層的な構造が明確になる。即興ではあるが、西洋的な響きを持つ彼女のチェロが加われば、このイスタンブールでも単なるセッションではなく、私の創作ビジョンに近づける公演になると思った。

 

 少し遅れて会場に現れたギュリュンとは、昨年の2016年東京で出会った。日本に在住することになり、新たな地での共演を求めていたのだ。東京でいくつかの共演を重ね、お互いの曲を演奏し、彼女のCD発売記念の日本公演では、イタリアのサックス奏者マルチェロ・アルリとともに共演した。トルコと日本を往復しながら活動している。ギュリュンとアクンジュはそれぞれ独自の活動を行い音楽的な共通点や交流は少ない。別々に交流を重ねていた二人が知り合だったということも私には意外だったが、アメリカのバークレー音楽院の同期であったそうだ。

 

 シェヴケット・アクンジュ、サーデット・チュルコズ、アイディン・テキャル、セレン・ギュリュン、私にとってのイスタンブール。私にとってのトルコ。その全員がこの同じ場所にいることは私にとっては奇跡だった。そして新しい音楽家との出会い。そして古くからの共演者、チェ・ジェチョルや亞弥と彼らとの出会い。この小さなサロンでの今日のパーティーはまさに「イスタンブール・東京・ミーティング」だった。

 

 コンサートの後は、イスタンブールらしく賑わう路上のテラスで夕食。アクンジュ は自分の大きな腹をなでながら「エロティックスモウ」なる謎の言葉を残す。楽しい夕べだ。あれだけいろいろなことがあった、数日前にいたロシアのイルクーツクやブリヤート共和国のことがすでに遠く感じる。

 

 ギュリュンのボスポラスの青い海とその波を輝かせる陽射しの繊細な陰影を描くピアノ。サーデット・チュルコズの移動を続ける乾いたアジアの大地を這いまわるような声。この両面はイスタンブールのエッセンスである。そこにユーラシア大陸の東端の韓国の太鼓と舞踊、そして日本の舞踏。さらにドゥミールの奏でるヨーロッパの近現代音楽な響きのチェロも加わって、私が目指すユーラシアオペラにさらに近づく。今回の大きな目的であった地中海の歌声、スムル・アーギュリアンや親友アクンジュらKONJOとの共演は叶わないが、明日の本番への期待が高まった。

 

 今回の前衛音楽家シェブケット・アクンジュからの私へのプレゼントは、フランス語の原詩。ロートレアモン伯爵「マルドロールの歌」。あはは。明日のセッションが「解剖台の上でのミシンと雨傘の偶然の出会い」のように「美しい」かどうかは分らないが、イスタンブールのアーチストの友人たちは、ぶれない。しかしぶれなすぎて困ることもある,,,

 

終演後。サーデット、シェヴケット、そして東京在住で共演を重ねたセレン。それにしても腕。しかしこの三者とイスタンブールで出会えたことがなにより嬉しい。
終演後。サーデット、シェヴケット、そして東京在住で共演を重ねたセレン。それにしても腕。しかしこの三者とイスタンブールで出会えたことがなにより嬉しい。

8 ボスポラスの波の響きと地を這う声

 

7/24

 

 7月のイスタンブールで公演を行うことは難しい。バカンスのため、公演をやるような劇場やスペースほぼ全てクローズ。機材不足が想定されたが、当日会場の劇場に行くとピアノから機材まできちんと用意されていた。日本の銀行に勤めながら世界を駆け巡り、さらに映画や音楽のプロデュースも行っているというエンギンのおかげである。独特の石造りのとても良い感じの公立劇場だ。入場客も既に満席の300人を超えているという。

 

 劇場の外庭の海風が心地よいカフェテラスで、ドゥミールを加えた私の構成や意図をギュリュンとチュルコズに説明。しかし彼女たちは、濃密なコラボレーションに新たな要素はいらないと、強く主張して譲らない。それは理解できるが、コンサートに対する考え方の違いだ。

 

 私は、自分の目指すユーラシアンオペラに近づけたい。彼女たちは、もっとそれぞれが主体となって、われわれ3人と濃密なセッションを行いたい。直前になっていろいろなプランを思いついてしまう私がいい加減過ぎるのだろうか、といわれればその通りだし、昨日のうちにきちんと伝えれば良かったのだろう。互いの英語でのコミュニケーション能力も影響する。複雑な説明を要する会話はなるべく避けたいものだ。まぁ大丈夫だろうとたかをくくっていたのも事実だ。あくまで私のプロデュースで行う公演なので、最終決定権は私にあるという思いもあった。私自身借りたばかりのコントラバスを弾きこなせずにいるので、作品全体を考えると私の出番を少なくし、同じく低音の擦弦楽器であるチェロに補ってもらいたいという思いもあった。しかたなくチェロの出番を控えめにしつつ、新たな構成を考え直して説得し、いちおう納得したようだ。

 

 開演直前からドゥミールが現代音楽のようなフレーズをチェロで弾きはじめる。ヨーロッパの都市の街角や路上で練習のように演奏するなかで、私が韓国の銅鑼をゆっくり叩きはじめその音が空間を満たす。そこに突如チェ・ジェチョルが会場側の出入り口から現れ、祝祭的な韓国の太鼓と舞いながらこの日を言祝ぐ。厳かな儀式がはじまるように亞弥の鎮かな舞踏が加わり、その間にドゥミールはいつの間に姿を消している。いよいよいよいよ満を持して、トルコの両面性を表すような、ギュリュンのチック・コリアやハービー・ハンコックのような和声の進行を強調しないモーダルなジャズの響きのピアノが揺らぐ。さらにチュルコズの声が加わり、私もコントラバスに持ち替えてセッションが始まる。二人をフューチャーするシーンのつなぎ目では、私とドゥミールが、コントラバスとチェロの低弦二重奏で、計画的に二声が絡み合っているヨーロッパの近現代曲風な即興演奏をした。

 

   それにしても自分の演奏はまだ、ままならなかった。チュルコズのアジアの大地の強靭な声、ギュリュンの鍵盤との自在な戯れ、チェの太鼓と舞、亞弥の舞踏とともに演奏していると、やはり音と身体は不可分なものだと実感する。私は普段は、コントラバスと格闘したり戯れるように演奏し、そこからさまざまな音色、声を引き出そうとしている。しかし借りたばかりの楽器と私の身体の関係がまだ結べずにいる。演奏に即興性が増してくるほどにそのことがもどかしくて苦しい。

 

 イルクーツク~ブリヤート共和国の「バイカル・プロジェクト」の上演では私自身が書いた音符を、アンサンブルのなかで弾くことが中心だった。しかしこのイスタンブールでは、身体が楽器そのものでないと成立しないような即興演奏がメインだ。音符には表せないような音もたくさん演奏する。この楽器の持ち主であるシェブケット・アクンジュの生徒のエスラが、ジャズやクラシックの音色の範疇で演奏をしたのを昨日の「レッスン」で聴いた時は素朴な音色の良い楽器だとも思った。しかしその楽器でできる最良のものを引き出すということが、私には難しかった。あらかじめ目指すべきゴール地点をもたずに、今その場で起こるすべてのことを大事にするのが即興演奏なのに、先に頭の中で追い求めている「あるべき、良い」状況にこだわりすぎ、それを手放すことができずにいたのだ。即興とはそのような「こだわり」を捨てるためのレッスンでもある。

 

ガラタ橋の上でなぜか亞弥氏に後ろからケリをいれられていた。
ガラタ橋の上でなぜか亞弥氏に後ろからケリをいれられていた。

9 ユーラシアンオペラを夢想した街で

公演後。だれかわからんがとりあえず写真
公演後。だれかわからんがとりあえず写真

 

 トルコという地は、ユーラシアンオペラを構想し実現するうえでもやはり最重要地だとあらためて思った。

 

 しかし忘れてはならないのはここが大都市であることだ。現代の楽旅とは主に都市と都市とを移動する旅だ。大きな都市はその国や土地のエッセンスであろうが、郊外、田舎にも行かなければ、その国や地域の本当の姿を感じることができないと思っている。私が海外の国で一番長く滞在したのは合計するとトルコであるが、仕事で来ているので遠くには行けず、イスタンブールやイズミル以外の地域に出たのは数えるほどだ。純粋な旅行は休日に小旅行した近郊の黒海沿岸の小さな街シレや観光地のプリンスィズくらいである。

 

 都市部から離れることは、特にこのユーラシアンオペラのような、フォークロアを重要視する創作のプロセスにおいては本来不可欠なことだ。しかし私にはそれを実現するための、時間もお金もない。仕事が終わればすぐに日本に戻らなければならない。だからこそこうして、フォークロアのエッセンスを体現できるアーチストとコラボレーションするしかないのだ。

 

 今回のイスタンブールでのセッションは、2015年初演のこの作品の大きなテーマである少数民族のシャーマニズ、それを集大成として将来、舞台の上で演じるであろう舞踏の亞弥と、その音楽を奏でるであろう私とチェ、そしてサーデット・チュルコズの関係を深めることに重きがおかれた。アジアの両端で西洋化、近代化の恩恵を最も受けてきた日本、トルコ。ユーラシアンオペラの創作のベースとなる音楽詩劇研究所の「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」自体が、ユーラシアの大地や草原に潜むフォークロアを、現在にグロテスクに顕在化させるような作品だ。だが、今回もそうして舞台に表れたものがいったいなんなのか、私自身がまだ捉えきれない。

 

 エルドアン政権の功罪は、シリアやIS、クルド人、アメリカ、ロシアなどとの国際関係、民族問題の中で、歪んだ形で発露しているようだ。あいかわらず街のざわめきは鳴りやむことなく落ち着きがない。私たちがそれぞれの背景に負っている伝統や価値観、いまここに即興的に立ち上がってくる音楽や踊り、街の混沌と海峡のざわめきのすべて抱きすくめたかと思うと、ほうりだす 。イスタンブールという街の空気は、落ち着きがないが、心地よさがある。アジアとヨーロッパ、新市街と旧市街、海の青と空の青、それらを分かつボスポラス海峡は出口も入り口でもありどちらでもない。そこに集る万物の律動のざわめきと共振れながら、それらすべてが瞬間、鎮まってゆくような音楽が作りたい。そんな欲望に駆られたイスタンブールの、最後の公演となった。

 

 カーテンコールのあと、どういう流れでそうなったのかは不明だが、出入り口で私たち全員が並らび、見送ることになった。 そこで三百人近くのトルコのお客さんほぼ全員と握手した。言葉もなにもわからないが、一瞬でもこうして肌で触れ合えたことが嬉しかった。次ぎにここに来るのはいつのことだろうか。

 

 劇場は海沿いの周りに高い建物のない高級住宅地のエリアにあり、賑々しくやかましい中心街では味わえない静けさだった。その庭のテラスで気持ちのよい海風で涼みながら簡単なパーティー。久しぶりのイスタンブールでの最終公演をなんとか無事に終えた充足感に少しだけ浸った。

 

 劇場が用意してくれたチャーターバス帰路につく。何度も訪れたイスタンブールだが、初めてのエリアを通る。ネオンで賑わってはいるがなにか殺伐とした雰囲気だ。東南アジアの裏町のようだ。チュルコズが窓の外を指差し、古く壊れそうな高層アパートの上の方をみて言う。

 

「あそこでいま母が一人でテレビをみているわ。」

 

 「ゲジェコンドゥ」が立ち並ぶこの一画は、かつてはバラッグが立ち並ぶスラムに近いような場所だったらしい。ゲジェは「夜」、コンドゥは「建てられた」を意味するようだ。つまり一夜にして建てられたような不法居住のことをいう。彼女はバスを降り、もう一度テレビの灯りのついた小さなアパートの一室を指差して、もう90歳近くになる母の元に帰った。バスは市街地に入り、セレン・ギュリュンも降りた。

 

 明日はチェ、亞弥と3人で、黒海を渡り対岸のオデッサに向かう。

 


10 ウクライナの舞踏フェスティバルへ

なぜこの写真をポスターに使ったのか、、
なぜこの写真をポスターに使ったのか、、

 

7/25

  

 喧噪のイスタンブールから、飛行機で黒海を渡りたったの50分。ウクライナ南部の港町オデッサへ移動した。文字も言葉も雰囲気も、ギラギラと光り輝く世界から一気に変わった。別世界。ウクライナは以前、内陸の首都のキーウで演奏したことがある。ポーランド、リトアニア、ロシア、ソ連、などさまざまな統治下にあった歴史を持つこの国は地域により主要都市も景色が異なって多様だ。

 

 今回は、前年に出会ったモスクワに住むウクライナ東部のドネツク出身の歌手、アーニャ・チャイコフスカヤとの共演を念頭に置き、国際演劇祭か音楽祭への出演を画策していた。当初、候補地となり招聘が確定したかつてはポーランド領であった西部のリヴィウ(この年は野外演劇祭となるため、作品の性格や、前バイカルプロジェクトとの日程調整が必要となるため、翌年の出演を提案された)は、写真で見るとたしかにヨーロッパの古都の趣があった。ここオデッサは黒海沿岸。トルコ、コーカサス各地への玄関口であり、ロシア的な暗さのない明るい開放的な海洋都市という印象もあった。しかし到着が夕方ということもあり、この地も真夏の暑い夜だが、まるでいつ雪が降り出してもおかしくないようなロシアの都市の空気の重さを感じた。

 

 出演することになったインディペンドな国際演劇祭「OITF」は、私たち音楽詩劇研究所をフューチャリングし、舞踏に焦点を当てたダンスフェスティバルとして行われる。オデッサの舞踏グループ「ウロボロス」を主催するドミトリー・ ダツコフがオーガナイズした。ヨーロッパやアメリカでは、バレェなどの既存の表現技法に対し、身体と精神の関係をさまざまな角度から問い直すことがめざされた。そうした実験性を包括するコンテンポラリーダンスとも一線を画した日本の舞踏への関心は、特に西欧、近年はロシア、東欧でも高い。おそらくこの地でも神秘的な暗黒舞踏の哲学性が求められている。前年のモスクワでも、メンバーには舞踏家である亞弥が参加していることもあり、現地の舞踏に関心を持つダンサーから出演やセッションのオファーがあった。そのような世界的な広がりに対し、日本の舞踏家は誤解のジレンマを抱えることもあるようだ。それは舞踏の本質が安直に共感されることへの危惧から生まれる。

 

 たしかに舞踏は方法化、言語化することが難しい身体表現である。こだからその嚆矢の本質を頑なに追求することになる。それが神格化、秘儀化されることにつながって「閉塞性」をうんできた一面もある。れまで私自身は舞踏家との共演は多く、共感も多く身近な表現だといえるが、日本の舞踏界には閉塞性も感じてきた。

 

 グローバル化した社会の中で新たな表現の根拠を求めるアーチストたちは、他文化のローカルな秘儀性にそれを希求する。私自身も、出自とは縁がないような地の、やがて消滅してゆくその地のフォークロアや民謡のなかに、音楽や生に対する新たなビジョンを求めている。しかしただ求めるのではなく、あくまで「コラボレーション」すること。私はむしろ、各地での誤解を真正面から受けながら、伝統を再発見し、新たな本質を獲得すべきではないかと考える。私たちは今回のように、ときに海外で舞踏の教えを乞われ、それを伝える立場にもなる。しかしそれ以上に、教えを乞う彼らそれぞれの身体や精神から学び続けたいと思う。音楽詩劇研究所の「ユーラシアンオペラ」とは、そのための「仕組み」や「装置」のようなものかもしれない。

 

 近年、日本の舞踏界でも、閉塞的な状況を突破すべく、アジア圏を中心に積極的な試みがなされているようだ。日本の秘伝や秘儀を神秘性のベールに包んで世界に広める時では、もうないのだろうと思う。さて、この地で暮らす人々、あるいはアーチストたちにとって、それはどのような関心や必然があるのだろう。

 

 今回のオーガナイザーのドミトリー・ダツコフ自身もそのように舞踏に求道するダンサーの一人であり、この地のそのようなダンサーの精神的な支柱だ。彼は交渉の段階から熱心で、私たちの公演と現地のダンサーへのワークショップをフェスティバルのメインイベントとして準備してくれていた。メディアへの広報も積極的に行って私たちを紹介し、なんとかフェスティバルを成功、発展させて行きたいという熱意がひしひしと伝わる。ダツコフ本人が空港で出迎えてくれる。長身で痩身だが魁偉な印象。しかし笑顔が人懐っこく爽やかだ。金銭のやり繰りも苦しいということだったが、純粋で気持ちのこもったフェスティバルに違いない。

真夏の真珠
真夏の真珠

 

 夜の空港、夜の街。運転手の男が音楽を流し、「シェルタリングスカイ」「リューイチ・サカモト」と、得意げに固有名詞を言った。英語を話さない彼がわれわれを歓迎し、言葉でコミュニケーションをとるための唯一の手段なのだろう。想像していた港街の華やかな開放感や明るさからは遠く、陰気な風を感じながら滞在先のアパートに到着。中心街ということだったが街は真っ暗で、アパートの門をあけると、なんとも言えぬ悪臭。数時間後に到着したアーニャ・チャイコフスカヤはそれは猫の糞と古い建物が醸し出すオデッサ特有の匂いだと教えてくれた。

 

 250年前のアパートの空き家の一室の中は、調度品も古く、埃をかぶっていた。壁にかけられた何枚かの肖像画には、陰鬱な表情の南米のシャーマンのような女が描かれている。見つめられているようで少し落ち着かない。

 

 現在人が暮らしていないが、持ち主の娘であるという若い女とそのパートナーである男が、部屋の使い方を説明してくれた。あまり英語は通じなかったが、チェが一生懸命コミュニケーションをとってくれる。スキンヘッドの彼女はとても照れ屋さんであった。彼女がこの肖像画の作者だった。われわれに部屋の鍵を渡して彼らが帰ったところで、どことなく陰気な室内を勝手に模様替えしてインテリアを急場でしつらえる。一時間もすれば、昨年モスクワで初めて共演したウクライナの歌手、アーニャ・チャイコフスカヤがここに現れ、一年ぶりの再会。モスクワから飛行機でキーウへ、そこから鉄道でやってくる。

 


11 JAZZ誕生の街?

強引に手を引かれ、レオニード・ウチョーソフの銅像で記念撮影
強引に手を引かれ、レオニード・ウチョーソフの銅像で記念撮影

 

7/26

 

 サフランの樹とそこから落ちた白い花びらが鼻をくすぐる柔らかな刺激。朝の光が眩い。昨日の夜とは正反対な印象だ。郵便局に用事があるというチャイコフスカヤがわれわれを連れて町案内がてらの午前散歩。昨夜の到着後の小さな宴で動画サイトでみせてくれた有名曲「黒海の沿岸にて」の「チョールナエ モーリエ(黒海)」と言うフレーズを、彼女は歩きながら陽気に口ずさんだ。私は石橋幸のコンサートでよく演奏している「オデッサ監獄の歌」をつい口ずさむ。どちらも古い歌で、ソ連時代の国民的歌手(ジャズのイノヴェーター)で喜劇俳優、この街出身のレオニード・ウチョーソフが歌ったものだ。

 

「オデッサの監獄から」(石橋幸 訳)

 

オデッサの監獄から、二人の大泥棒が脱走しました。

二人の大泥棒が脱走しました。朝未だ来に。

二人は侯爵のお屋敷の庭で、一息つきました。

「兄弟、兄弟よ、傷が痛みやがるぜ。脇腹の傷が痛みやがる」

傷口のひとつから膿が吹き出し、

ふたつ目は傷口が塞ぎかけていました。

みっつめの傷は、脇腹にぱっくりと口をあけていました。

「兄弟、兄弟よ、盆暗者の兄弟よ、いったい何が悲しくて、

俺たちゃ血だらけになってるんだ。

 

「赤い口紅を塗った唇のためか、スカートから覗く膝小僧のためか、

呪われたこの恋のためなのか。

「女どもは娑婆でのほほんとし、

ポケットはぱんぱんに膨らんでやがる。

それに引き替え俺たちは、目も当てられない有り様よ。

「追っ手はすぐに迫ってる。俺たちゃ砲火に曝されてるよ。

 

「兄弟、兄弟よ、お袋に伝えてくれよ。

『お前さんの倅は歩哨の最中に死んだんだって。

 

『片手に鉄砲、片手に銃弾を抱えて死んだって。

唇は陽気に笑っていた』ってさ。」

 

 チャイコフスカヤに手を引かれ、水夫の格好をしたレオニード・ウチョーソフの銅像と写真撮影。ウチョーソフと同じような水夫のマリンルックを着て誇らしげな老父と妻とのカップルが散歩しているのをよく見かけた。海風の少し鄙びた香りが鼻をくすぐる。港町には荒くれ者の水夫や、マフィアさまざまな人が行き交ったのだろう。

 

 ウチョーソフの脱獄囚の歌のような囚人の歌も、港町の猥雑さとクレツマー音楽のリズムや曲調と結びついて、収容所群島たるロシア中に広まった。かつてはユダヤのクレズマー音楽やトルコ、バルカン音楽が鳴り響き混交し、ジャズは(ニューオリンズでなく)オデッサで誕生したとの異説もあるくらい様々な文化が交じり合う祝祭性のある都市だ。そんな時代もあったというがその面影が強く残っている印象は少ない。かりにロシア、ウクライナという国が社会主義国家とならなかったら、ここはラティーノを介してヨーロッパとアフロのリズムを混合させてタンゴを生んだアルゼンチンの港町、あのブエノスアイレスのような音楽や文化の中心地になっていたのかもしれない、などと想像してみる。

 

 チャイコフスカヤが街中の建物についての説明をたくさんしてくれた。第二次世界大戦のとき独ソ戦、1941年のドイツ軍からの攻撃で多くの建物が壊され、今もそのまま壊れかけては増築されて残っている。イスタンブールはとにかく声や車の音、そして物を修繕するためになにかを叩いている音や機会の音が四六時中していたが、ここオデッサも道路工事が多い。きちんと作ったり、作り直していないから、このようなことになるのだろう。しかしなんだかその「いい加減さ」に親しみも感じる。計画経済の社会主義時時代は、次の計画期で予算内容が変更されると、途中でも建築が中断したそうだ。それらが、ほとんどそのままの姿で現在に残されていることもある。

 

 昨夜、チャイコフスカヤから提案があり、オデッサ在住のギタリストもわれわれの音楽に加わることになった。ドネツクの音楽学校時代の旧友だそうだ。ギターではなくバンスリというインド方面の笛をもって、われわれの泊まっているアパートにやってきた。素肌に襟を大きく空けたシャツを着流し、まるでアメリカの「西海岸」のファッションモデルを想像させるようないでたちのヴィターリ・トカチュク氏は、ぼくの名前は打楽器の音みたいなんだといっていた。本来はドイツのECMレーベル系の端正かつ浮遊感のあるエレキギターサウンドを得意とするようだ。この秋には豪華客船での演奏の仕事で沖縄に来るらしい。しかし、今回はなぜかインドの笛。

 

 チャイコフスカヤからウクライナ古謡、民謡の歌詞の内容を教えてもらい、その場でみんなでセッションしながらヘッドアレンジ(その場で即興的に楽曲のアレンジ構成を行うこと)。ある人物たちの人生の歌(長いバラッド)、自然の歌、宗教の歌、子守唄などに分類してからピックアップ。コサックや匈奴(スキタイ)の記憶も想像させる古い歌。シベリアやロシアの森や平原の古い歌い方で、一節の最後をしゃくり上げるように歌うことが多いが、ウクライナの古謡にも多いようだ。

 

 練習のあと、本番会場の「東西美術館」を下見。東西の古典美術が展示される中、人気(ひとけ)のないウクライナの現代美術のコーナーを当日の出演者が舞台へ入る控室の候補として案内された。「戦争がなかったら」という企画展の会場だった。恋人や母親と一緒の姿、普段着、趣味に興じる姿と、同一人物が銃を抱えている軍服姿の肖像が一枚の絵の中に収まっている。そのようにして描かれた200人くらいの戦死者の肖像画の一枚一枚と対面する。2014年以降のロシアとのウクライナ紛争で亡くなったウクライナ軍の兵士たちだ。もしわれわれの作品に出演することになるウクライナのダンサーたちがここで控え、舞台へ出たら精神的、肉体的に及ぼす作用はどんなものだろうか。私には想像できない。そうすることは控えた。

 

 下見の後、ウクライナ、ロシア、ポーランドのダンサーたちとのリハーサル会場に向かった。当初、上演とワークショップは別のものだった。しかしダツコフとメッセージを交わし合っているなかで、私がダンサーたちとのコラボレーションによる、ウクライナ版「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」の上演を提案した。そのため、ワークショップというより創作稽古になった。ダツコフ自身はこの地のダンスシーンを牽引するダンサーであるが、今回はディレクターとして忙しく、自身はパフォーマーとして参加できない。

 

 どんなメンバーが待ち受けているのか。伝統的な音楽学校のような古い施設の稽古場に到着。階段の壁にはウクライナカラーの水色と黄色の入ったユニフォームを身につけた、演奏家の古めかしい肖像写真がたくさん飾られている。先ほどの美術館の肖像画を思い出しながら、軍楽隊だろうかと想像してしまう。気温は三十度近くあり暑いが、夏が短いからだろう、どこも冷房設備がない。やがてダンサーたちが集ってきた。上演のために5人ほどのダンサーにワークショップに参加してもらう予定だったが、あらためて尋ねると参加者は全員で10人になり、この日は6人ほど来るという。作品の構想、練り直し!

 

 挨拶をしてから稽古を始めようとした。ダツコフからは、たぶん大丈夫だと言われていたが、英語がほぼ通じなかった。チャイコフスカヤが私の下手な英語を懸命にウクライナ語(ロシア語)に二重通訳してくれる。しかしその分時間もかかり、効率が悪く、短期間の創作のこの先が心配だ。見た目からして個性派揃いの面々だが、短時間のリハーサルではなにができるのか。亞弥には彼らに伝えたい舞踏のエッセンスもあるし、私もなんとか作品の意図や意義を伝えたい。自由に踊りたい人、逆にもっと演劇的なシナリオを必要とする人。あらかじめできるだけシンプルにしていたとはいえ、それでもこの作品多層構造を持つ。そこで言葉によるコミュニケーションの不具合が、さらに複雑な状況を生んでしまう。なんとも明後日の本番への不安を感じさせつつ、管理のおばちゃんが鍵締めにやってきて21時にて強制終了、問題は山積み。 

 


12 ウクライナの舞踏家たちと

アーニャの旧友、謎のちょい悪イケメンギタリスト、ヴィターリ・トカチュク氏インドの笛を持って部屋にあらわる。
アーニャの旧友、謎のちょい悪イケメンギタリスト、ヴィターリ・トカチュク氏インドの笛を持って部屋にあらわる。

 

7/27

 

   「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」は「死者のオペラ」として創作した作品だ。ある架空の民族の死者たちが、その昇天とともに歌う自身の生涯を歌詞にした短いバラッド(「「死者のアリア」)が、死後の共同体で「架空の民謡」として歌われる。アリアの旋律が声だけで合唱される。旋律の作曲とその独唱を伴う器楽アレンジが私個人の創作の肝で、即興的でポリフォニックな合唱の創作が集団創作の肝だった。オデッサでは、私の曲の以外に、実際のウクライナ民謡のいくつかがアリアに相当し、チャイコフスカヤが独唱する。「架空の民謡」のほうは、今回はパフォーマーがダンサーなので、歌ではなく「架空の民族舞踊」として数日の稽古で創作することになる。

 

 そこで、なぜ「死者」なのか、「架空の民族」なのか、「なぜ」の部分を共有し、問いを深めながら創作することはとても重要だ。しかしそこから始めるのは、今回は時間的な制約が大きく難しい。中途半端に言葉で背景やプロットを説明してシナリオを演じてもらうのではなく、参加者の個性を重視して構成することは当初から考えていた。昨夜感じたコミュニケーションの困難な状況が、さらにその考えを強くさせた。なるべくシンプルに踊ることに集中してもらえるようにしよう。

 

 私たちは死者を演じる。それは架空の民族の一族の死後の世界。彼らの集団舞踊は、生者によるそれとも、既存のあらゆる民族芸能とも異なる。この程度に伝えたうえで、舞踏のエッセンスを用いて創作する。それなら行けるだろうと、と明日に期待し、酒盛りを始めた。もうひと踏ん張りだが、このオデッサ公演を終えれば、帰国。これまではツアー中各地で、つねに並行して次の地での創作環境への準備を行ってきたが、ここではもうその必要がないのだ。

 

 酩酊し始めた夜遅く、ダツコフからメッセージが入った。考えていたことと逆に、コンセプトを理解してパフォーマンスするために、やはりシナリオがほしいという声がダンサーたちからあがっているとのこと。「まじか、もう呑んじゃったじゃん」。目覚ましをかけて仮眠し、夜明け前に起き台本の作成を開始。稽古場で英語を介する時間はない。まず英語で書き、翻訳ソフトにも頼りつつロシア語に重訳し、舞台図や動きの絵も書き入れながら書いた。パソコン、WIFIがないとできない作業だった。しかしキリル文字のパソコン入力に慣れないのですべて手書きで書いた。

サフランに包まれるチェ・ジェチョル
サフランに包まれるチェ・ジェチョル

 一息入れて古い屋内市場(ルィノク)を散歩。チャイコフスカヤが黒海の小魚とスイカを購入。彼女がキッチンで調理してパンと一緒に食べる。車の迎えが来る昼過ぎまでになんとか台本を間に合わせた。

 

 ロシアとの国境付近の北東部のウクライナ第二の都市ハルキウからのダンサー3人もさらに加わり、リハーサル二日目。みんなで思い切り体当たりでいきましょう、と、チェ・ジェチョル。心強い。台本も功を奏し、昨日よりスムーズに事が進む。構成の確認。

 

 これでやっと翌日の午前中の稽古からは、亞弥による舞踏のエッセンスを用いた身体的な訓練や、リハーサルができる準備もできる目処が立った。

 

 チャイコフスカヤもダンサーたちになんとか伝えようとしてくれている。ヴィターリ・トカチュクも事の成り行きをクールな眼差しでみつめ、ときどき通訳してくれる。チェ曰く、

 

「なんとかみんなで細い道を駆け抜けましたね」

 

 夜はフェスティバル本番のために早退したハリキウからの三人のダンサーの公演を見にゆく。舞踏的ではあるが、アンサンブル重視なのは古典音楽をはじめとする音楽やバレェや演劇の伝統や影響だろうか。会場には先ほどまで一緒にリハーサルしていた面々の姿も。 外でビールを片手に話す。今日あたりからリーダーシップをとりはじめた比較的英語ができるアンドレイが、オデッサのダンスシーンや生活の状況を熱心に語ってくれる。彼の仕事は、ダウン症などの子供への情操教育的、イルカセラピーだそうだ。メンバーのウラディーミル(ボーヴァ)とイレーナは、病院で子供やお年寄りの前でクラウンに扮する仕事をしているといっていた。福祉とダンス表現が結びついているようだ。そんな話をきいていたら脇道で、生真面目でおとなしそうな優男のそのボーヴァが外で女の子と腰を寄せ合いながら、だらしなく恍惚とした表情でチークダンス踊っていた。

いちおう行ってみたポチョムキン階段。
いちおう行ってみたポチョムキン階段。

 

 タフなチャイコフスカヤはアパートに戻り一休みしたあとも、さらなるオデッサ案内に連れて行ってくれた。公演のための問題は一旦据え置き、たっぷり酒をきめてふらふら朦朧としながらエイゼンシュタインの映画「戦艦ポチョムキン」で知られるオデッサ階段を千鳥足で昇る。夜の黒海にたたずむ軍艦の脇を通り、ビーチに辿り着き、パラソルの下で寝そべったり、チャイコフスカヤの奢りでステーキを食べたりした。明日は本番だが、緩みきってだらだらと過ごす。フュージョン音楽のBGMと波の音。黒い水に足を浸しながら、対岸の灯りは一昨日までいたトルコの灯りだろうか、などと思いにふける。急に眠気が襲ってきて、漆黒のビーチにまどろむ。

 

 タクシーで部屋に戻ってWIFIを繋ぐと、イスタンブールのシェヴケット・アクンジュの家が火事になったことがSNSで判明。本人による写真付き投稿記事を見ると、丸焦げになったキッチンやリビングがみえた。かなりの燃え方。そこで食事をしたこともある。家族はバカンスで御夫人の実家に里帰り中で無事。一昨日オデッサへと発つ前に、借りていたコントラバスをガラタ橋近くの彼の勤める大学まで返しに行き、路面電車の駅まで送ってくれたので立ち話をした。そこに向かう前、良好な関係を築いていたコーディネーターのエンギン氏からきつい言葉で罵倒されてしまった。先述した最終公演前のセレン・ギュリュンらとのコンサートの構成を巡る違いをが生じた際、日本にいる彼にそれに対する不満がSNSメッセージで逐一報告されており、さらに別の件でのかなり些末な金銭授受の誤解もあった。逆に、構成について説得して解決されたことまでは彼には伝わっていなかったようだ。非難されたが、私の英語力ではこちらの正当性をとっさに主張するのも難しかった。このあと車で空港まで送ってくれる手配も彼が整えてくれていたが、それも断られた。前夜までの交流や公演はとても充実したものだったが、それゆえにかえって私の心は凹みまくった。そんな私をアクンジュは静かに受け止めてくれた。愚痴をこぼしながら、ロシアのイルクーツクから始まるこのプロジェクトの計画中からここに至るまでの、さまざまな不測の出来事や、それによってメンバーなどにかけた迷惑が一気に思いだされた。まだ、ここウクライナでの公演も控えていたが、そこでまた起こりうるトラブルを解決しながら乗り越えてゆくことはもう無理だ、思わず潤んでしまった私の目を彼はみた。涙が溢れる前に、再会を誓いつつ不自然に足早に別れた。それから二日後の出来事。

 


13 白塗りしたダンサーたちの多言語子守唄

楽屋は美術館の倉庫。そこで白塗る人々。ここを会場にしても面白かったかも、と思うがお客さんが入れない。
楽屋は美術館の倉庫。そこで白塗る人々。ここを会場にしても面白かったかも、と思うがお客さんが入れない。

7/28

 

  個性派のみなさん朝から真面目に登校!本番当日だが、昨日作品の構造を共有できたので、やっと内容重視の時間にこぎつける。しゃがんだ姿勢、目の据え方、歩き方、西洋のゴーストと日本の幽霊の違い(足の有無)、などをトレーニング。死者の民族、架空の民族の舞いを目指して、あきらめずに何度も繰り返す。亞弥も舞踏のエッセンスを伝えられればと必死。

 

 本番会場の美術館へ。プロデューサーのダツコフ自らが、我々の要望に応えステージを自ら雑巾がけしてくれていれる。本番当日になってなんとか初の通し稽古。しかしその最中にも、貴重な作品や古美術のセキュリティー確保のため、演者の動線の変更を美術館からお願いされたり、あちらこちらで同時多発するそれらの諸問題を曖昧にクリア?しつつ、ようやく幕が開くのを待つのみ。

 

 楽屋になった倉庫は。彫像等、作品が無造作に散乱し、まるで前衛演劇の舞台のようである。そこで、きゃっきゃしながら互いの顔や身体を、暗黒舞踏のように白く塗り合うダンサーたちをみていたら、マルセル・カルネの名画「天井桟敷の人々」をなんとなく思い出した。詩人ジャック・プレヴェールが脚本を書いた、芸人たちの舞台裏の悲喜劇だ。アーニャ・チャイコフスカヤが率先し、楽屋でロシアやウクライナではこうするのだと、本番前の精神統一のためにみんなで手を繋いでしばし黙想。倉庫の扉を開け、夢遊病者のように歩みながらと舞台となるロビーへ次々と出てゆく彼らを見送り、さぁこれから、出会ったばかりの愛おしき人たちと本番だ。

 

 みなの集中力が素晴らしい。幼少の頃はバレリーナをめざしていたというチャイコフスカヤの動きも美しく、ゆっくりとよろめくように立ち上がる亞弥の舞踏と対をなしながら交錯し、歌いはじめる。チェ・ジェチョルが韓国語で、死者と生者の出会いの物語の上演をオデッサで行うことへの言祝ぎを伝統芸能のスタイルで述べてから、チャングを叩き、舞い始める。チャイコフスカヤとクライナ古謡のいくつかを演奏し、その中で起き上がったりしゃがんだりを繰り返していたダンサーたち全員がゆっくりと立ち上がり、あらゆる意図から放たれた眼球のような身体になる。そして「架空の民族」の最後のシャーマンの死を演じる亞弥に歩み寄る。そのとき彼らが一斉に、それぞれに自分が記憶しているウクライナ、ロシア、ポーランドの子守唄を小声で囁くように歌う。そこに、チャイコフスカヤによる私が作曲した古代ギリシアの旋法(リディア旋法)の聖歌のようなウォカリーズ(無言歌)がまじりあう。亞弥とダンサー全員の身体が墓を形作って終演。

終演!このあと狂乱の「舞踏」パレードがまっていたが、、
終演!このあと狂乱の「舞踏」パレードがまっていたが、、

 

 これで、ロシアのイルクーツクから一ヶ月弱の「バイカル・黒海プロジェクト」ツアーの公演が終わった。終演後、金曜夜のオデッサの中心街は イスタンブール以上の人波で溢れんばかりだ。黒海の夜空に花火があがる。私たちも合流して参加する予定だった「舞踏パレード」なるものに向かう。現地であおうと、ダンサーたちと別れたが、顔を白く塗り異様な姿で目立つ彼らをも、この群衆のなかで見つけることができない。

 

 あきらめて人の波に揉まれながら彼らの稽古場である地下劇場へ。彼らが生業とする「道化」の衣装や小道具がそこら中に散乱している「アジト」だ。階段で、通路で、小さな舞台や物置部屋のようなところで、すでにあちらこちらでパレードから戻った各々が好き勝手に踊っていた。少し雨が降ってきたが、内も外もなく中庭でも踊り続ける魑魅魍魎たちの宴は終わりがない。考えてみれば人はなぜ踊りたくなるのだろう。なにかを求める真摯さや愛情、それにともなう危うさも感じる。だんだんと雨が強くなってきたが、そんなことを想いながらただそれをみつめる。

 

 終わらないダンスに別れを告げて、アジトをあとに。ユダヤのクレツマー音楽がBGMに流れるレストランの灯りをみつけたが、もう片付けはじめている。アーニャ・チャイコフスカヤが執拗に食事の提供を交渉するも断念。広場に立ち並ぶ屋台のトルコケバブ屋のテントの中で乾杯。紙コップでビールを飲みながら、あわただしい日々をねぎらいながらオデッサ最後の、ツアー最後の夜を過ごそうとしていた。

 

 すると遠くから「魑魅魍魎たち」が群れなして向かってくるのが見えた。ダツコフに居場所を聞いて、私たちにあらためて別れを告げにやってきたのだ。やや年配でベルリン在住のもの静かなイレーナさんが感謝の念を言い。プレゼントをくれた。切りをつけなければと本当にお別れ。部屋でまた飲む。皮肉の利いた「アーニャ節」炸裂でフェスティバルの数日の出来事を振り返りながら笑いが絶えない深夜4時。終わった。

 

 今回のバイカル・黒海プロジェクト旅の始まりは夏のシベリアの涼しい白夜。「機材が燃えて」演奏できなくなってしまいそうになった遊牧民ブリヤートの聖地がすでに懐かしい。極東日本を発ち、ユーラシアの臍だというロシアのイルクーツクから空路を用い、たった20日間で移動した。私のプロデュース力がいたらず、参加した日本からのメンバーに謝礼も払えず、まったくの低予算のツアーだった。思いがけない協力もあり贅沢な時を過ごした例外もあったが、たいがいは安宿や提供されたアパートで雑魚寝状態だった。それでもこのような未知数なプロジェクトに対して助成金をいただけるのはとても有り難い。

 

 すべて同じ作品「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」をベースに創作したのだが、イルクーツク、ウランーウデ、イスタンブール、オデッサとすべてまったく違う上演になった。そして翌2018年はそれらのコラボレーションを統合しながら、いよいよユーラシアンオペラとしてまとめあげてゆくことになる。

 


14 世界初の戦闘機女性飛行士 サビハ・ギョクチェン

7/29

 

 空港まで見送りにきてくれたこの小さな国際舞踏フェスフェスティバルのディレクターのドミトリー・ダツコフは別れ際まで、熱く舞踏について語り、スマホの翻訳アプリも使いながら私たちに質問する。熱い抱擁をして別れ、チェックイン。

 

 カウンターで韓国の大太鼓チャンゴ等の超過荷物を指摘され、高額の支払いを命じられた。これまでの移動では問題なかったのだが、日本の旅行会社に最安値の経路として依頼した便は、いわゆるLCC便だったのだ。 旅行会社からはこのことははっきりと知らされていなかった。たしかに帰国後に確認すると、小さく英語でそのような記載があり、それも私自身のミスだ。交渉したが、英語がわからないという顔で無視されてしまい、支払わなければならない。しかしユーロでは精算できないと言われ、手持ちのユーロ紙幣をウクライナの紙幣に換金して支払うことに。お別れに少々時間をかけすぎ、出発時刻が迫りレートを正確に計算する時間もなかった。もし不足を指摘されたら、換金所に戻る余裕もない。しかたなく明らかに多めの額を換金。現状、この紙幣の国際的な価値は高いとはいえず、それを欲しがる国も少ない。今後使い道の予定のないそれなりの額のウクライナ紙幣は、次のイスタンブールの空港でさらに不利なレートと手数料ででユーロに戻すことに。

 

 オデッサから一時間もかからず黒海の上空を渡ってイスタンブールで経由。イスタンブールの空港はいつも利用するメインの空港「ケマル・アタテュルク」空港ではなく、「サビハ・ギョクチェン」空港だった。

 

 サビハ・ギョクチェン。数奇な運命の女性の名である。空港に名が冠されるほどの存在である。近代トルコ建国の父、ムスタファ・ケマル(アタテュルク=トルコの父)には実子がいなかったため、養子の一人としてトルコ北西の古都ブルサの孤児院で出会った12歳のサビハを養女とする。彼女は空への思いを語り、航空士となる。世界初の戦闘機の女性パイロットだ。帰国後に、住まいの近所のブック・カフェ、ココシバ(当時:しばしば舎)で行われた『クルド文学短編集 あるデルスィムの物語』(さわらび舎 ムラトハン ・ムンガン編)読書会に参加した。その時まで、彼女については名前を知っているくらいだった。

 

 1937~38年にかけトルコ中東部のデルスィム(現トゥンジェリ)で起きたトルコ軍によるクルド人「虐殺」の記憶と葛藤をテーマに、クルド人を含む十人の作家がトルコ語で書いた短編集だ。クルドは現在も国をもつことが達成されていない。その短編集の二つにギョクチェンが描かれている。

 

 1918年第一次世界大戦に敗戦し、オスマン帝国は廃絶した。連合国との間で結ばれたセーブル条約(1920)は、トルコにとって厳しいもので、そこにはクルド人国家の成立も約束されていた。しかし1923年にムスタファ・ケマルがトルコ共和国を成立させ、近代国家、民族国家を目指す。そこでクルド人国家の成立は反古にされた。以来、トルコはトルコ人しかいない国とし、羊の牧畜などを生業としてきたやクルド民族も「山岳トルコ人」と呼ぶようになった。そして民族自治の最後の拠点であったデルスィムを攻撃した。ギョクチェンは若き血を燃やし、父となったケマル-アタテュルクへの忠誠と正義感からクルド人虐殺部隊の先陣を切る。クルド人もトルコ兵に加わって参加したアルメニア大虐殺のわずか十数年後の出来事だ。女性作家のハティジェ・メリェムの「白頭鷲」には、若魚のようにいきいきと躍動的な彼女のアクロバット飛行が描かれる。身体と機械の合一は官能的でさえある。彼女はトルコの英雄となった。

 

 この短編のなかに、サビハが「わからない言葉」を話す幼なじみとの、偶然に一瞬だけ再会するシーンがある。そのとき、背後にふと養父ムスタファ・ケマルの幻が現れた。彼女は幼なじみと話すことを自重する。この謎めいた一場面が何を意味するのか、一切書かれていない。

 

 この小説の後に並ぶ短編は、アルメニア人作家カリン・カラカシュルによる「サビハ」である。サビハ・ギョクチェンはデルスィムのアルメニア人だったのではという説があるが、トルコでは彼女の出自について語ることはタブーであるそうだ。「白頭鷲」で示唆された「わからない言葉」とはアルメニア語だったのだろう。デルスィムのクルド人虐殺の約15年前のアルメニア人虐殺があり、これについてまだトルコ政府は国家主導のジェノサイド(大量虐殺行為)だったという見解は公式に示してはいない。国家の要請でクルド人もそこに参加したが、現在、トルコのクルド系諸政党をはじめ、多くのクルド人はこの事実を認めているようだ。

 

 値段を優先して非効率な経路を選ばざるを得なかった私たちは、ここサビハ・ギョクチェン空港内で半日ほど滞在し、ロシアの飛行機でモスクワをさらに経由する。父方の朝鮮籍から変更して母方の韓国籍のパスポートをもつチェ・ジェチョルは、イスタンブール、トルコへ再入国が危険だった。逆に日本旅券では許可されていないロシア国内の再入国は韓国旅券では可能だった。黒海ツアーの前に、イルクーツクやウラン-ウデ、ロシアに滞在した日本のパスポートの私は、ロシアへの再入国が禁止されていた。

 

 危険の回避を求め、渡航ギリギリまで空港、各国大使館、旅行会社関係者に問い合わせ続けてきた。在日韓国人の知人に連絡しアドヴァイスを求め、朝鮮総聯系、在日本大韓民国民団系の機関や法律事務所にまで電話し、片端から事情を話し、尋ねた。むろん大金を払って航路を選べばそのようなリスクは避けることができる。しかし、そのようなお金は返すあてのない借金でもしないと私の手元にはなかった。なんとか現状で解決できる道を探す。その後ルートを調整するなどとしておそらく安全だろう、となったが、それまでに得られた答えは、けっきょくのところ、すべて「運」だった。空港のパスポートコントロール(出入国審査)の判断次第だという。

 

 数日前久しぶりに夜遅く一人で降り立ったアタテュルク空港と同じように、タクシードライバーが、私が訪れたほかのどの国の空港よりも大声で客引きをする。あの「トルコの声」だ。できるだけ安く済まそうと、外に食べ物を買いに行くことになった。空港と外とを分かつ扉のところで、外に出てもおそらく尋問されることはないのだが、やはり外出を自制することにしたチェが呟いた言葉が忘れられない。

 

「こういう危険を考えるとき自分の国籍ってなんなんだろう、俺ってなんなんだろう。国とか民族ってなんなんでしょうね。」

 

 私はひとり扉の外に出て、その言葉を心の中で反芻しながら、空港と直結する人のいない地下街を歩く。スーパーでファストフードを買って二人の待つ空港の中に戻った。

 

 テレビやメディアの報道、特にフェスティバルの特別ゲストであった昨日までのオデッサでは、あたかもひとかどの「文化人」みたいな扱いを受けていたともいえる私たちは、イスタンブールやモスクワの空港のなかをさまよい歩き、仮眠場所、長く居座れる安全な場所を隅にさがす。まるで「難民」のようだ。モスクワの空港のトランジットには24時間かかった。40がらみの3人の男女は疲れきった体で、時間つぶしに酒を賭けてトランプ遊びに興じ、代わるがわる地べたで眠った。ツアーの始まりのロシアのイルクーツクの小さな古い空港の狭いロビーには、100人近くの中国、ウイグルの人々が固まっていた。彼らがあちこちで花札のようなカードゲームをしながら飛行機を待っていた姿を思い出す。

 

 小学生の頃1980年代半ば、テレビで「難民」という言葉を耳にした。当時増えていた主に東南アジアからの「インドシナ難民」の人々のことを指していた。意味はわからなかったが「まずしい人々」がなにかの理由で国にいられなくなり、小さな船で日本に逃げてきた、くらいには思っていたのかもしれない。埼玉県蕨市にあった実家の10階建てのマンションには、住人があまり利用しない屋内の暗い階段の踊り場や、各階に設けられた倉庫ルームがあった。そこに潜んで、友達と駄菓子やゲームをもちこんで遊んだ。住人や親に見つからないように、耳をそば立てて階を移動しながら居を変えて、言葉に少しませていた私は、テレビで聞いたその言葉を早速使って、そんなスリルを「難民ごっこ」と言って面白がった。

 

 長いツアーの終わり。その意味を少し知る大人になったいま、まるで難民のように、と無邪気に言うことはできないが、まさにまるであの頃の「難民ごっこ」を思い出した。地べたでのトランプにも疲れ、ぼおっと窓の外の飛行機が飛び立つのを見つめる。モスクワの空港は無料WIFIがアクセスできない場所がなぜか多かったので、スマホやノートPCで時間を潰せない。あと何時間こうして待つのだろう。やっと時間がきてモスクワからユーラシア大陸の空を飛び、日本へと帰る。

 

 自宅に最寄りのJR京浜東北線の蕨駅を出る。一ヶ月近い長旅だった。その間に多少は暑くなったものの、変わらない街の風景だ。 ここは「ワラビスタン」とも呼ばれることがある。私の暮らす蕨駅近くの埼玉県川口市に多くのクルド人が暮らしているからだ。トルコから逃れ日本に来た人々だ。現在もトルコ人として約50万人のクルド人がトルコで生き、差別的な扱いを受けている。クルド人は日本とトルコという国家間の友好関係を保つために「難民認定」を受けられない。「仮放免」の「不法滞在者」として、いつ入国管理からの拘束を受けてもおかしくない状況で2000人以上が暮らしているという(第四部)。

 

 なお「ギョクチェン」の「ギョク」とはトルコ語で「空」を意味し、サビハは自らその姓を選んだのだという。「ギョクチェン」、トルコ語をまったく理解できないままトルコを浴び続けてきた私にとってとてもトルコ語らしい美しい響きだ。私の大切なトルコの友人たち、彼らそれぞれの声で、夏のイスタンブールの、あのぬけるような青空を「ギョク」というのが聞こえてくる。ドスのきいた低音のシェヴケットの、猫の泣き声のようなアイディンの、乾いてしゃがれたサーデットの、麗しく濡れたセレンの...その声が日本の、蕨の空に浮かび上がって響き合う。低空には成田から出発して間もない飛行機がよく飛んでいる。トルコから逃れここに暮らすクルドの人々も、この青空を「ギョク」とトルコ語でいうのだろうか。あるいはトルコでは公には禁じられていたクルド語なのだろうか。

 

 そんなことを考えているとドミトリー・ダツコフのことをよく思い出す。彼は、オデッサで日本の舞踏を探求をするようになる前は、ユダヤ人の国際空軍「ツァハル」の飛行士だった。戦闘を覚悟して大空を飛んだ彼は、これからどのように地を踏み、舞うのか。