山椒大夫〜沈清歌 ユーラシアンオペラ in 韓国への路(創作ドキュメント篇)


 

  カザフスタンのセミパラチンスクのソ連時代の原爆実験でできた人工湖に訪れたのは韓国から旅行中の若い兄妹。湖畔でまどろむ兄の夢のなかに鳴り響くのがユーラシアンオペラ版「さんしょうだゆう」だ。

 

 福島から行方不明となった父親を探す旅に出発した母と乳母、安寿と厨子王は日本海で生き別れる。涙を流しすぎて盲目となったが、子供たちとの再会を求めて漂着した北の地を彷徨する母。苦役のストレスで聾唖となったが、祈り続けながら入水した安寿。安寿の犠牲死によって奴隷農場から脱出し、母を探して北へ向かい韓国の済州島に流れ着いた厨子王。それぞれの裡に鳴りやまぬ声、歌。彼らを導くのは日本海で離別の絶望で海に入水した乳母が転成した水の精の舞と声。母は北海道、樺太、韃靼海峡の氷の道を渡り極東ロシア、カザフスタンへと続き、そこで生を終えた。

 

 若い韓国人兄妹は済州島で生を終えた厨子王の子孫だった。夢から醒めた兄は、行方不明の父を探して日本に向かう。

 

 第1、2章に述べたカザフスタンでの上演から、物語の流れや登場人物の設定に変更はない。しかし今回の「in 韓国」では「さんしょうだゆう」にパンソリ「沈清歌」を融合させる。それぞれのストーリーのヒロインが重なりあって入れ替わる。自害した安寿が沈清となって転生するのだ。

 

 新メンバーである韓国宮廷音楽の歌手ジー・ミナや、カザフスタンからの若い伝統楽器奏者ヌルリハン・ラフムジャンを加え、日本とロシアの現代音楽や舞踊的な演奏家やダンサーがどのようにコラボレーションし、ユーラシアンオペラとしての「さんしょうだゆう」をメンバーが織り上げていったか。作品のシーンごとに作曲やコラボレーションの過程をドキュメント風に追いながらお伝えしたい。

               

                ●<0 「チャガン湖」, Kazakhstan>

                ①誕生,福島 ,Japan

                ②離, 新潟 ,Japan

                ③人魚, 東海(日本海)

                ④盲, アイヌコタン, 北海道, Japan 

                ⑤ 寒, サハリン in Japan 

                ⑥邂逅, Ice road (韃靼海峡)

                ●<インタリュード,シベリア・ザバイカル,Russia>

                ⑦一九三七,ウシトベ, Kazakhstan in USSR

                ⑧受難 ,佐渡島, Japan

                ⑨沈, 印塘水、Korea

                ⑩着, 済州島, Korea

                ●< 0「チャガン湖」, Kazakhstan >〜 東京(映像)〜福島

 

音楽詩劇研究所ユーラシアン・オペラvol.2

「さんしょうだゆう in コリア」


 2019108日、9 performing Arts Market in Seoul 2019PAMS Link」参加作品

 

                        DONGJA ART HALL(ソウル/韓国) 演出・作曲:河崎純

 

20193月にカザフスタンで初演した「さんせう大夫 in カザフスタン」をソウル公演バージョンへと大胆に再構成。母と子の離散の物語をベースに、カザフスタンの近現代史や韓国で広く知られる物語「沈清伝」に接続しながら、日本・韓国・ロシア・カザフスタンからのアーティストとともに織りあげる、ユーラシアンオペラプロジェクト第2弾の続編。

 

亞弥(舞踏)

吉松章(謡、舞、俳優)

 アリーナ・ミハイロヴァ(ダンス/ロシア・サンクトペテルブルグ)

 三浦宏予(ダンス)

 ジ・ミナ(ヴォーカル/韓国・ソウル) 

 マリーヤ・コールニヴァ(ヴォーカル/ロシア・イルクーツク)

 セルゲイ・レートフ(サックス、フルート/ロシア・モスクワ)

 チェ・ジェチョル(韓国打楽器、ヴォイス)

 ヌルリハン・ラフムジャン(コブス、ドンブラ/カザフスタン・シムケント)

 河崎純(コントラバス)

 

Nouvelle Quartet(韓国・ソウル):

  ソ・ジウン(第1ヴァイオリン)

 グォン・ヨウンギョン(第2ヴァイオリン)

 パク・ヨンジュ(ビオラ)

 ヨン・スジン(チェロ)

 

映像:三行英登

照明:宇野敦子

音響:増茂光夫(楽屋)

韓国語字幕:石川樹里

協力:白澤吉利 佐藤行衛 ケイト・ズヴォニク

主催:国際交流基金ソウル日本文化センター

 


●<0 「チャガン湖」, Kazakhstan>

 

 (冒頭)  アリーナ・ミハイロヴァがカザフスタンのウシトベの荒野で踊ったドキュメント映像

 

  極東ロシアに移住した高麗人たちは、1937年にスターリンの強制移住させられ、移送列車に押し込まれた。「バストベの丘」といわれるカザフスタンのウシトベの荒野に、降り立った。ミハイロヴァの母や祖父母もその中にいた(*オーラルヒストリー⑤)。

 

カザフスタンのチャガン湖に、韓国人の若い兄妹が訪れる場面

 

 2019年、カザフスタンのセメイ(セミパラチンスク)のチャガン湖に、韓国人の若い兄妹(吉松章とジー・ミナ)が訪れる場面から始まる。この地は山庄太夫を演じるロシアのサックス奏者、セルゲイ・レートフの出身地だ。ソ連時代の核実験により生じた人造湖を生命のない場所とし、そこに歌が宿るという設定を設けた。

 

 湖畔に現れた妹が口ずさんだのは、亡き母から伝え聞いた「故国山川」という歌だ。極東ロシアや中央アジアの高麗人が苦難の道のりを歌い継いだが、原曲は日本の「天然の美(美しき天然)」だった。

 

「故国山川をあとに数千里 山も川も見知らぬ他郷に身を置いて 淋しい心に思うは故郷 思い出すは懐かしい友よ」(姜信子訳)

 

 ジー・ミナはこの短い歌詞を正歌の歌曲(カゴク)のように5分ほどかてゆっくりと歌った。永遠を願う切なる祈りの声だ。続けて彼女が、亡き母の故郷の湖に訪れた若い兄妹一家の来歴を語る。

 

「母から聞いた話です。済州島で生まれ釜山近郊に暮らしていた私の曽祖父とその一団は、ロシアの極東へ移住した。曾祖父はその途上で盲目の日本人女性と出会い結ばれた。曽祖母は日本の福島に家族とともに暮らしていた。2011年に津波や原発事故のあった福島です。生き別れた子供たち探し求め、北へ北へと進み、サハリン島の韃靼海峡を渡り、曾祖父と出会った。彼女は無口な人だったが、よく不思議な歌を歌っていたと言います。曽祖父たち一団が歌う歌も韓国語で覚えました。彼らは極東ロシアに集落を作って暮らし、そこで祖父が生まれました。しかし1937年に日本軍の諜報員であると疑われ、カザフスタンに強制的に移住されられます。ウシトベという町の集団農場で働いていました。曾祖母はここに来て間もなく死にました。幼かった母は北部ソ連時代に核実験場があったセメイ付近で育ち、1996年に家族の祖国である韓国のソウルに移りました。ソウルに赴任していた日本の外交官だった父と出会い、兄と私を産んだ後、原因不明の病で死にました。私が生まれたときにすでに父は姿を消していたといいます。父についての記憶はなく、行方も知りません。」

 

 ジー・ミナによる語りは次の一節から、またゆっくりとした歌になる。

 

「陽が落ちてきて真空の暗闇に包まれる。その前に目を閉じてこの世界の闇から聴こえて来る声をきかなくては」

 

  やがて歌唱に無生物湖をあらわすエレクトロニクス音楽がかぶさる。歌い終わった妹は舞台上から姿を消し、眼を閉じた兄は微かな歌声の幻聴とともに入眠する。

 

 音楽には韓国の愛唱歌「青い鳥(セヤセヤパランセヨ)」をサンプリングした。1894年の抗日思想をともないつつ広まった農民蜂起、東学党の乱(甲午農民戦争)の先導者で、のちに密告され処刑された全琫準を象徴する曲だ。さらに、高麗人と同じくこの地に移送されたチェチェンの子守唄、今回新たにカザフスタン公演の前に取材に訪れた高麗人の暮らすタルディコルガンという街で、老婆二人と同席していた同年代の友人が歌ってくださった歌の録音が素材だ。

 

 シベリアの歌姫マリーヤ・コールニヴァが、さらなる深い眠りに誘うように、日本語で歌う。

 

「この世界に 世界の上に 降ってきて そこから 生まれるのが 眠りというものです  あなたはそれを聞きたくて 啼いているのですから 私が聞かせてあげますよ  そう歌うんだと 眠りのお舟が 降りたぞ」

 

  翻訳されたアイヌの子守唄の歌詞に、ヴォーカル、弦楽四重奏、フルート、コントラバスの編成で作曲したものだ。曲にはアイヌの伝統音楽の要素を用いないが、例外的に、終止部のカデンツァフで、有名な子守唄「ピリカピリカ」の一節をフルートが奏でる。

 

 ここから先、眠りつづける兄の夢の中で展開するのがユーラシアンオペラ版「さんしょうだゆう」だ。

 


1 誕生,福島 ,Japan

 

 安寿の 再生の場面

 

 安寿は舞踏家の亞弥が演じる。生まれてすぐに土の中に埋められてしまった安寿が「笑いながら土の中から生まれてきた」という、青森のイタコ語りの「さんしょうだゆう」である「お岩木様一代記」の設定。訛りの強い方言をを聞き書きしてなんとか記録した文から、埋められた理由を知ることはできない。しかし姦通で生まれた赤子を父が忌み嫌ったためとも、推測できるようだ。

 

 このシーンでは、カザフスタンの伝統楽器コブスで瞑想的な旋律が奏でられる。奏者のヌルリハン・ラフムジャンに尋ねると、このような古曲では、旋律やモチーフの定型はあるが、奏者各々の解釈を加えて、即興的に演奏されるそうだ。

 

「阿毘羅吽欠(on-a bi-la-un-ken) 阿毘羅吽欠  阿毘羅吽欠、、、、」

 

「お岩木様一代記」の語られていた、地・水・火・風・空を表す仏教のマントラだ。乳母を演じる三浦宏予が唱えた。ひきつずきマリーヤ・コールニヴァがロシア語で、ウズベキスタンの高麗人女性リュドミーラ・ツォイの詩から引用した歌詞を歌う。

 

「熱で温め  藁笛吹いて ゆりかごのような 巣の中で鳥のように眠り いま花は開く」

 

安寿が再生し、三浦が「お岩木様一代記」のその場面の一節を語る。

 

「死んだものだべが 生きだものだべか 掘りあげで見れば 私の身の上は 死んだわけでもなし 成長(おが)つて笑ってる身体である」


2 離 新潟 ,Japan

 

日本海で、人身売買の策略により家族が生き別れる場面

 

乳母が歌う「砂山」ではじまる。

 

「海は荒海向こうは佐渡よ...」

 

 北原白秋の歌詞によるこの「唱歌」にはいくつかのバージョンがある。ここでは。短調の山田耕筰バージョンではなく、中山晋平の長調のバージョンを選んだ。まさに道を分かつ分岐点に由来する「越後追分」にも挑戦したがさすがに難しい。盲目の瞽女が歌う、もっとプリミティブで野性味溢れるバージョンの録音も残されていたが、無拍節で歌われる追分節は、洗錬された高度な節回しの技術が必要で民謡でも屈指の難曲だ。

 

  ロシアのテュルク系のバシキール人が使った細長い縦笛クライをセルゲイ・レートフが即興で伴奏。トルコのイスラム神秘主義スーフィーのセマー(メレヴィー教団の旋回舞踊)でも用いらるネイに似た瞑想的な音色。この種の笛は、アラブ中東のほか、コーカサス、中央アジアに多い。西洋楽器のフルートと異なり、吹きこむときに笛の音と同時に息が漏れる量が多いので、尺八の音にも近い。管が細い分、尺八よりやや音も細い。

 

 つづけて伝統音楽の要素を解体して作曲した弦楽四重奏組曲の第一番「日本海(東海)」。ここでは日本の伝統音楽を用いた。

 

 曲中で、コントラバスを彼らが乗せられた船に見立て、私が船頭を演じる。右腕で紐を使って楽器を引っ張って動かす。左腕は弓を使いダンスをする。数年前トルコの女性振付家アイディン・テキャル(*最終章コラム)とエクササイズした方法を用いて、宙空に文字を書く。今回ははからずも上演最終日が、1446年に世宗により公布された「訓民正音」で制定されたハングルの記念日だった。

 

「산쇼다유(さんしょうだゆう)」

 

 実際にお客さんに伝わったかどうか。なお、映像によって投射した各シーンのタイトルのハングル表記は、韓国の子供たちが初めて字を学ぶときに用いる練習帳の字体を選んだ。夏に公演準備でソウルに滞在したとき、書をたしなむ若い女性に書いてもらった。かつて日本語学習を強制した歴史も念頭におき、あえてこの字体で書いてほしいとお願いした。書き順の習得が目的であるために、やや不自然な文字になるそうだ。その字を見れば、誰もが懐かしい記憶を呼び起こすだろうとのこと。

 

 それに続く弦楽四重奏曲の中で、マリーヤ・コールニヴァが青い霧がたちこめる荒海の風景をロシア語で歌ったあと、ソ連時代の労働へと誘うプロパガンダのイメージを重ね、山庄大夫を演じるセルゲイ・レートフにこう叫んでもった。

 

「罪人追いし 母子と乳母   二手に分けて 北の島へと南の地へと 人買い船に乗せ 売り飛ばそう」

「вот наша прибыль!(ヴォトナシャ プリブィリ:これがわれわれの利益だ!)」

 

 ユーラシアンオペラの第一作目に引き続き、舞台の上にはさまざまな言語や文字が響き合う。安寿と厨子王は佐渡へ、母と乳母は北方へと分けられた。

 


3 人魚, 東海(日本海)

 

 乳母「うわたけ」の入水と転生の場面

 

 家族の別離を悲嘆し海に身を投げる乳母うわたけを演じた三浦は、自身のルーツである遠野、早池峰の神楽舞をアレンジして、彼女の表現の特色でもある、儀礼性とコンテンポラリー性を併せ持つようなダンスを行った。

 

 この乳母の場面は、森鴎外の「山椒大夫」や絵本等では重要なプロットとして語られない。しかし新潟の説経祭文では「うわたけ(宇和竹)の段」として独立して語られ、伝説も残している。

 

 ヌルリハンによるシャーマニズムに由来するコブスの古曲「白鳥」を伴奏にした。カザフスタンの古い伝説にも、死者が白鳥に転生する話がある。擬人化してメロディに抽象化するのではなく、羽ばたきや泣き声を直接模倣するように演奏するる。静かになったり、激しくなったり、速くなったり、雑味ある掠れた音色で奏でながら乳母を海底に導く。

 

 うわたけは、韓国の済州島や半島の東海岸に伝わる海の精「イノ」へと転生する。マリーヤ・コールニヴァが私の作曲したロシア語の旋律を歌い、セルゲイ・レートフのフルート、私のコントラバスが即興で伴奏した。歌詞は、リュドミーラ・ツォイが韓国の神話や伝説をもとに書いたロシア語詩からの引用だ。

 

「波の奥底  

静かな海で 寂しいイノは生きる

イノは静かに歌う 

静かなる波の布地

そこに無限の模様が織りなされる」

 

 この曲は次章に述べる「コロナ禍」の間、マリーヤ・コールニヴァと遠隔録音しながらを作った CDでは、音域の広い21絃箏(スタンダードな日本の伝統的な箏は13弦)を伴奏にした。奏者の八木美知依は、さざ波から深海までを表す驚異的な表現力で演奏した。

 


4 盲, アイヌコタン, 北海道, Japan

わたしのなんちゃって書道
わたしのなんちゃって書道

 

北の島に漂着した母が、鳥追いの畑仕事をしながら子らを探して北上する場面

 

 母が漂着した蝦夷地に暮らすアイヌの歌や音楽の断片化し、再構築して、弦楽四重奏曲第二番「アイヌコタン」を作曲した。しかしこの曲に重ねる予定だった、ジー・ミナの日本語による清廉な歌唱の印象が強く、今回は五つの組曲の中からこの曲を削り、歌と口琴のみでこのシーンの音楽をつくった。盲目の母を演じるアリーナ・ミハイロヴァが、客席の通路から舞台へと進みながら踊る。

 

「安寿恋しやほうやほれ 厨子王恋しやほうやほれ」

 

 韓国からカザフスタンの湖に訪れた若い娘として歌った後、舞台から姿を隠した彼女が、客席最後列の扉付近に現れ、日本語で歌う。民謡風の5音階(ペンタトニック)から少し逸脱した音を用いて作曲した短い旋律だ。

 

 稽古初日、彼女は楽譜通りにそれを歌った。そこにはローマ字表記でZushi-oと書いたが、「ずしおう」の「ず」は「じゅ」にも聴こえた。われわれ日本人メンバーは彼女の声と発音の可愛らしさに、みな魅了された。コールニヴァも前作のユーラシアンオペラ「Continental Isolation」から引き続き、理解しない日本語で歌うことを躊躇なく引き受けてくれている。だが日本人が朝鮮人の日本語の発音を嘲笑しつづけてきた過去も思い出さなければならない。かつてこの国の人々に強制した言語で歌ってもらうことにはさらに躊躇がある。それでも異国語の中に残る母語の痕跡が、民族性の差異を超える新たな響きを音楽に宿すことができるかもしれない。勝手な思いだろうか...

みんなのアイドル
みんなのアイドル

 

 「母は二人の子らとわかれしとき 近くに佐渡の島をみた あのこらはそこで幸せにくらしているのだろうか 嘆き泣き濡れて盲いた母たまき いまは北の島の畑の鳥追いの身」

 

 

 


5 寒, サハリン in Japan

 

韃靼海峡に辿り着いた盲目の母が、陸路を断たれて立ち往生している場面

 

 弦楽四重奏曲第三番「サハリン」は樺太アイヌの弦楽器トンコリの響きや、北方狩猟民族の歌の旋律が素材になった。マリーヤ・コールニヴァが重ねるロシア語歌詞は、サハリン島在住の高麗人である詩人、歌手のロマン・ヘの詩からの引用だ。前場面から引き続き、ミハイロヴァが盲目の母の孤独を踊る。

 

 

「この土地  すべての唸り声  巨大な蜂の巣の子宮のようなもの !  ほかに何も聴こえなくなって  そのうなりだけを聞くだろう 血の流れ 無名の体の奥深くに…おまえが生まれた土地のざわめき !  私が死ぬところで地球のざわめき !」

 

 韃靼海峡(間宮海峡)で立ち往生する母のために、海の精イノが語りかけながら氷の道をつくる。

 

わたしの難曲を素晴らしい演奏で弾きこなした。ヌーベルカルテット。渡航前とあるメンバーは「実はぜったい40超えだよ」と断言していたが
わたしの難曲を素晴らしい演奏で弾きこなした。ヌーベルカルテット。渡航前とあるメンバーは「実はぜったい40超えだよ」と断言していたが

「この海はいま氷の道となります。神々の声を歌いながらひとびとが渡り歩いた氷の道。国と国とにわけられて、いまはもうその道をゆくものはない。道を渡れば、もうすぐ人々がやってきます。彼らは受難の旅を続ける、まつろわぬ民。彼らとともにその道をゆくのです。彼らはあなたの言葉をすこしわかるでしょう。あなたはまるで 、空を渡る蝶のようにひらひらと風を受けて、この海上の道を渡るでしょう」

 

道を進むと、対岸からまた耳慣れぬ言葉の歌が聞える。故郷朝鮮の歌を歌いながら異国を移動する「アリラン隊列」とも呼ばれた人々の歌声だ。「あなたの言葉(日本語)をすこしわかる」とは、満州、極東ロシアへと移住したミハイロヴァの曽祖父がそうだったように日本語を少し解する可能性もある、ということだ。李朝末から困窮する農民だけでなく、実行支配を進める日本に抗う独立運動家が農民に偽装して移住することもあったそうだ。

 

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」

 

 安西冬衛の有名な一行詩をダンス創作のモチーフとした。曲の後半で、組曲の他曲でもしばしば用いた、中世のヨーロッパのホケトゥス技法で「アリラン」を分解した。一つの旋律を休符を挟みながら、アンサンブルの各パートに分散する。12世紀フランスのギヨーム・ド・マショーやギヨーム・デュファイなどが合唱音楽の作曲において試みた手法だ。旋律とリズムを異なる周期で反復するイソリズム(アイソリズム)とともにこの時期に用いられたが、のちの西洋古典音楽文化や、各民族音楽、現代の大衆音楽の中には見られない作曲法だ。だが一本の旋律、単旋律を複数の人間が繊細につないでゆくさまは、例えば西洋古典音楽の圧倒的な合一感による恍惚的で重厚なハーモニーと真逆の美をもつと私は思う。

 


6 邂逅, Ice road (韃靼海峡)

 

「氷の道」を通って極東ロシアに渡った母が、ひとりの男と出会う場面 

 

 半年前の3月のカザフスタン公演と同じように、私の元々の意図では、誰を演じるのでもなく、あくまでもミハイロヴァとチェの二人の「邂逅」のドキュメンタリー性を重視した。私にとって忘れ得ぬ瞬間となった、その日のレポートを記した第二章を思い出していただければ幸いだ。

 

 今回は、チェの提案で、男女の出会いの意味合いを強め、やや具体的にそれを演じることが試みられた。抽象的なダンスを指向するミハイロヴァにはとまどいもあったようだが、二人におまかせした。チェは国際交流基金の倉庫の奥に茶道大会などの文化交流行事等で使う畳を見つけ、借りてその上を舞台上の自身の演奏スペースとし韓国太鼓を叩いた。在日コリアン3世である自らの出自を重ねたのかもしれない。この場面ではそこから降り立って、頭上でサンモをくるくると回しながら、ソルチャング(太鼓を叩きながらの独舞)を舞台を駆け回って演奏した。身体の軸やリズムとの関係が重要なサンモの旋回はセクシャルな行為、悦びをあらわすという面もあるそうだ。韓国の舞台上でソルチャングを演じるのはチェにとって初めての機会だったとのこと。

 

20193月 カザフスタン公演レポートの引用)

 

 「音慣らし、体慣らしのように見えた二人のセッションはそれに留まることがなかった。ミハイロヴァがこれほど軽やかに跳躍したのをこれまで見たことがなかった。彼女は民族舞踊や、バレェの技巧的な跳躍を遠ざけるように自らのダンスを追い求めてきた。共演歴のある音楽家も私も含め、彼女のダンスと同様な傾向をもつ即興演奏家が多い。チェの躍動感のある踊りとともにある太鼓(チャング)によって奏でられる韓国のビートをつかまえ、徐々に熱をおびてゆく。しかしあらゆる民族舞踊とも異なっている。彼女の踊りはどこにもない踊りだった。

 


●<インタリュード,シベリア・ザバイカル,Russia>

自らの故郷シベリアのバイカルの歌を熱唱するマリーヤだが、背後では山庄太夫が自慢の電子管楽器でノイズの海をつくる。
自らの故郷シベリアのバイカルの歌を熱唱するマリーヤだが、背後では山庄太夫が自慢の電子管楽器でノイズの海をつくる。

 

 安寿と厨子王が山庄太夫の荘園におびよせられる場面

 

 前回のカザフスタン公演では、京都の被差別部落に伝えられた民謡といわれる「竹田の子守唄」を、三木聖香が1970年代にこの歌を有名にしたフォークギター伴奏付きのバージョンで歌った。彼女の透き通って真っ直ぐな声で歌う。舞台の上に絡み合うさまざまな出来事からも離れ、ずっと遠くから聞こえてくる現実離れした美しい歌声をここに響かせたかった。それまで舞台上で、日本の民謡や、難曲とも言える私が作曲した人工的な旋律を試行錯誤して歌っていた三木が、私の意図やコンセプトから解放されて、伸びやかに歌った。

 

 今回の公演に参加しなかった三木の代わりに、同様のコンセプトでマリーヤ・コールニヴァがロシアで広く知られる曲を歌うことになり、曲を探した。このシーンの選曲について、セルゲイ・レートフにメッセージして相談した。レートフは、モスクワのタガンカ劇場をはじめ多くの前衛的な舞台音楽の作曲、音楽監督を行ってきた人物であり、私の意図を理解したうえで、的確な選曲をしてくれるだろうと思った。この歌が内容にもコンセプトにもあうというメッセージとともに、ソ連のジョーン・バエズとも呼ばれた女性フォークシンガーの第一人者、ジャンナ・ビチェフスカヤが歌う「バイカル湖のほとり」を推挙してくれた。囚人が脱獄してシベリヤの荒野を通って母にあいにゆく歌だ。囚人が脱獄してシベリヤの荒野を通って母にあいにゆく歌だ。すでに収容所群島であった帝政ロシア末期の心象風景だが、のちのロシア人にもそれが共感され親しまれつづけてきたようだ。

  

(日本語詞:大胡敏夫)

 

ザバイカルの荒野のステップで

山々で金を掘る

放浪者は運命を呪いながら

両肩に袋を背負い引きずって行く

放浪者は運命を呪いながら

両肩に袋を背負い引きずって行く

 

暗い夜に牢獄を抜け出し

監獄では正義のために苦しんだ 

これ以上逃げることができなかった

彼の前にバイカル湖が開けてきた

放浪者はバイカル湖に歩み寄る

漁師の船を奪い

悲しい歌を歌い始める

故郷について何かを歌う

悲しい歌を歌い始める

故郷について何かを歌う

 

 故郷バイカルの歌を熱唱するコールニヴァの背後で、レートフが電子管楽器でノイズの海をつくった。「ハーメルンの笛吹き」のように人を誘惑したり駆逐したりする笛文化の古来からの特性と、邪悪な誘惑を想起させる電子音で、強制移住政策を行ったとスターリンと、安寿と厨子王を奴隷農場に導く自らが演じる山庄太夫とを重ねて表現した。

 

巨匠が奏でる電子楽器。絶好調。
巨匠が奏でる電子楽器。絶好調。

7 一九三七,ウシトベ, Kazakhstan in USSR

はじめは、有名伝統楽器グループおじいさんにも見える奏者を所望したが、パスポートが送られてきてびっくり。1997生まれ。問い合わせると、そのグループの「ジュニア」であることが発覚。プラン変更して、後のシーンで王子様役に設定をつくりかえることに。功を奏す!
はじめは、有名伝統楽器グループおじいさんにも見える奏者を所望したが、パスポートが送られてきてびっくり。1997生まれ。問い合わせると、そのグループの「ジュニア」であることが発覚。プラン変更して、後のシーンで王子様役に設定をつくりかえることに。功を奏す!

 

「アリラン隊列」と母が、カザフスタンのウシトベの荒野に降ろされた場面

 

「時は千と九三七年。母、高麗人とともにここカザフスタンの地へ。チェチェンからウクライナからドイツから、たくさんの人々がここウシトベの草原で働いた...」

 

 厨子王を演じている吉松章が舞台袖で念仏のように言葉を唱え、チェが韓国語で重唱する。歯切れよくリズムを刻む撥弦楽器ドンブラによるカザフスタンの「キュイ」をベースに、チャング、コントラバス、クライとの即興演奏が始まる。

 

  キュイはカザフスタンの器楽曲のジャンルだ。とくに伝承や物語、自然にまつわる現象や出来事を音楽であらわしている。歌はないので、そのような背景を演奏者が事前に説明することも多い。ヌルリハンには、なにか5拍子の曲を弾いてほしい、とまずリクエストした。するとすぐに、乾いた大地の人々の心を慰めるような憂いのある短調をリズミカルに奏でた。古い伝承曲の一つだと思った。

 

 後になって曲の由来を尋ねると、彼が演奏した曲は「Konil Tolqyny」という曲で、1980年代の後半にサケン・チュリスベコフという人がつくった比較的新しいキュイだとわかった。インターネット動画を調べてみると、プロ、アマチュア問わず多くの人々に演奏され、聴かれている名曲だとわかる。作曲者は、ウシトベよりやや東方の東カザフ地方で生まれ、セミパラチンスクの音楽学校で学んだ。二人の幼い子供を失った哀しみから生まれ、詩人のオルザス・スレイメノフを代表とする1989年に設立された反核団体「ネバダ-セミパラチンスク」のために作ったとインタビューに答えている。その象徴的な反核の歌「ザマナイ(時代よ)」)も歌い継がれて日本にも紹介されている。

 

 乾燥した風土とも関わるであろう高音成分が目立つ撥弦楽器ドンブラの疾走感は世界随一だと思う。韓国の杖鼓がじょじょにそれにあわせる。ドンブラで5拍子を弾いてもらいながらアンサンブルを模索するなかで、チェ・ジェチョルと私は韓国の伝統音楽のなかにも「江原道アリラン」など5拍子(2+3,  あるいは3+2の)の曲が多いことに同時に気づいてリズムをあわせた。

 

 かつて、師匠であったコントラバス奏者の齋藤徹からさまざまな韓国のリズムを教わった。師は、複雑な「変拍子」でも、民俗的なノリや舞踊性をもつ場合、それらの基礎となる「2(拍子)と3(拍子)の組み合わせ」で成立しているのでは、と語っていた。韓国の農楽やシャーマニズムの演奏家との共演中であらためて気づいたそうだ。教わったリズムにはたとえば、韓国のシャーマンビートの41拍子などというものもあった。まさに41を一つのサイクルとしながら、それをいちいち数えているはずはなく、2と3の組み合わせを集積しながら身体に刻み込んでるのだろう。

 

 後の場面で演奏した巫俗合奏シナウィのクッコリなどによくあらわれる、3(奇数)と4(偶数)の複合拍子としての複雑な12拍子は、まるで元から自分の身体の中にあるリズムであるかのように感じるほど、私にとっては自然になってしまった。私はベース奏者としてリズム感があるほうでもなく、リズムキープも得意ではない。しかし韓国の二つのビート(5拍子、12拍子)だけはまるで自分の体内のリズムのようにあるのが我ながら不思議だ。 

 

 師が教えてくれた、ジャズドラマー、エルビン・ジョーンズのエピソードを思い出す。彼は12小節あるブルースを、大きな「一まとまり」としてとらえていたそうだ。48拍子(4拍子×12)を自在に分割してうねり(パルス)を作っていたという。「1」を大きく捉えたり、逆に細分化したり、 私にもその両方を常に意識するようにと言われた。

 

 カザフスタンと韓国の5拍子をベースにしたセッションのあと、弦楽四重奏曲第4番「チェチェン」が演奏される。

 

 チェチェン民族主義に手を焼いたスターリンは、彼らをナチスに協力した民族として、50万人ほどを中央アジアに強制移送したが、その半数くらいは移送中に死去したといわれる。1944年の出来事だ。

 

 チェチェンの音楽についてあらかじめ知っていることは少なかった。女性コーラスで民謡をアレンジする、ジョージアのチェチェン人のアンサンブル・アズナシの音楽など作曲のためにくり返し聴いた。コーカサス山岳の峻険さと、イスラム圏の音楽を混合させたような音楽から、まずいくつかの特徴を探していった。

 

 この第4番はチェチェンの民謡やイスラム儀式「ズィクル」に極めて特徴的だったD音とC音のロングトーンを繰り返すドローン(持続低音)を用いて作曲した。これはストーリーにまつわる各地の民族的音楽的な要素をなるべく細分化し、ポリフォニックに分散させながら作曲した5曲のなかでは、例外的なことだ。とくに持続低音、リズムなどのそれぞれの音楽の基礎になる部分は直接的に用いることを極力避けてきた。そこにはその民族の精神のエッセンスがあらわれる、それを安易に引用することは憚られる。しかし、この「チェチェン」のみは、民謡や宗教儀式にみられる二音によるあまりに特徴的なドローンの反復を避けることができなかった。ズィクルは弦楽器とともにある朗唱に、かなりの人数の集団が追従して神の名を唱念するイスラム神秘主義スーフィズムの儀式だ。女性たちが部屋の中でそれを行っているものも興味深かったが、男性の集団がそれをおこなう儀式を見た時は、じょじょに陶酔してゆく人々の声や姿に、インターネット動画であるにも関わらず恐怖感をおぼえた。自宅でチェとそれをみていたとき、思わず彼が呟いた。

 

「これみちゃいけないやつですね」

 

 探したが、他地域のズィクルにはこのドローンはあまりみることができなかった。それを引用した弦楽四重奏の背景に、カザフスタンのウシトベで撮影した映像を映し、ミハイロヴァのダンスが重なる。彼女は、チェの演奏場所だった畳へと移動した。影のようにただ佇んで、高麗人の老夫婦のインタビュー、丘の墓地を踊る場所を求めて彷徨する自らの姿に重なりあった。この曲の中でマリーヤ・コールニヴァが歌唱や朗読するのは、サハリン島の詩人ロマン・へによるロシア語の詩だ。

 

「私が家を離れて死ぬとき 青い海の上に私の骨を撒いてほしい 風がそれを春川まで運ぶ 私の臍の緒が埋まっている土地に。 私は私の人生にひとつの願いがありました: 母国の地に雨が降って、 草が伸びること 私の臍の緒が埋まっている場所に。 風が吹いて私の灰が吹かれて 軽くなって重さを失い塵になる 梨の花が咲き乱れ 私の臍の緒が埋まっている土地へ…  /父の記憶の日に」

 

 1949年生まれの詩人の両親は1940年日本統治時代の樺太へ渡り、「日本人」として暮らし、第二次大戦後、「ソ連人」として暮らした。戦後故郷への帰還や親族が暮らす日本への渡航も困難であった在樺コリアンである。

 

 

*2019年3月。アルマティでの「さんしょうだゆう in カザフスタン」のために、カザフスタンのコリョサラムを訪ね取材した。(撮影、編集 三行英登)


8 受難 ,佐渡島, Japan

 

安寿と厨子王が山荘太夫の荘園農場で強制労働し、拷問される場面

 

 

 山荘太夫の荘園の地を、世阿弥も流流された佐渡島に設定した。流刑地で芸能や文芸が豊かになる。済州島や、サハリン、極東ロシア、バイカル湖のあるシベリアも同様だ。それらの地も含んで、ロシア、朝鮮半島、日本列島に囲まれる日本海(韓国では「東海」)は、実際に陸の上では混ざり合わなかった歌が渦巻いて響き渡る「夢の歌」を生む磁場だ。

 

 まず吉松章が能の「羽衣」を舞と謡いで演じた。山荘太夫(セルゲイ・レートフ)が宴の中でそれを堪能する。そのあと私とのduoで安寿、厨子王をサディスティックに陵辱する場面となり、レートフの重厚なテナーサックスと私のコントラバスで楽譜のないフリーインプロヴィゼーションを開始する。じょじょに激しさを増しながらカオス的になる音楽の中に、歌声が聴こえる。この奴隷農場に北の島から売られてきた幼子が口ずさんでいる歌だ。今度はコールニヴァが日本語で歌った。

 

「安寿恋しや、厨子王恋しやほうやほれ」

 

 それを聞いていた安寿と厨子王は自分達の名前を耳にし、母の生存を悟る。安寿は自らが湖に入水し姿を消し、その騒動中に厨子王を農場から逃走させて母を探しに向かわせるという一計を案じた。

 

 耳をつんざくような小さな銅鑼ケンガリの金属音の中で、一人になった安寿は幻聴を聴き、聾になる。

 

 チェ・ジェチョルによると、ケンガリを連打し激しく響かせることは、繊細なタッチとしなやかな手首の運動を要し、まさに達人の領域だそうだ。チェはそれを研究し、その音色を求め今回も滞在中に楽器屋でいくつものケンガリを試奏してから、購入していた。

 

 金属音が発する高次倍音による残像は、無数の民の叫びが木霊しているようにも聴こえる。その響きの中で安寿が踊りながら入水する。残響が消え、水を打ったような無音を作った後、両面太鼓のチャングに持ち替え、チェが「シナウィ」の合奏を先導する。シナウィは韓国のシャーマニズムの巫の舞や歌に伴う即興的な音楽で、通常、短調の旋律の中核をなす3~4音を深いビブラートを用いてじょじょに激しくなってゆく。

 

 その中で、ロシアの前衛を牽引してきた巨匠セルゲイ・レートフのフリーキーなサックス、カザフスタンの弦楽器奏者、ラフムジャン・ヌルリハンの疾走するドンブラ、私のコントラバスが絡み合う。私はそれを「ユーラシアン・シナウィ」と呼んでみる。ロシアの前衛を牽引してきた巨匠セルゲイ・レートフのフリーキーなサックス、カザフスタンの弦楽器奏者、ラフムジャン・ヌルリハンの疾走するドンブラ、私のコントラバスが絡み合う。私はそれを「ユーラシアン・シナウィ」と呼んでみる。

 

 リハーサルでは、ドンブラの演奏をイントロに、まず長調のメロディーで即興を試みた。安寿が犠牲死するこの場面を悲壮的に表したくなかったからだ。カザフスタンは、5音以下の旋律を基調とすることが多い世界の民族音楽には珍しく、西洋音楽的な8音の音階も用いる。交通の要衝であった中央アジアでは、さまざまな文化が複合し、使われる音も多くなったのだろうか、旋律自体も複雑で繊細だ。そのために器楽曲キュイにも、素朴な民俗音楽とは異なる洗錬された長調的なメロディをもつものもある。レートフや私がドンブラの響きから長調の音階をつかんで、即興演奏する。

 

 しかし、なかなかしっくりこない。チェが、やはりシナウィでは長調はありえない。様々な楽器でポリフォニックに奏でる短調の旋律リズムと激情的に絡み合い、生命、人生の喜怒哀楽を表すがその本質だという。短調で奏ではじめるとやはりそのような音の絡みが自然と起こり出した。

 

  この「ユーラシアン・シナウィ」の中で聾になった安寿が死の舞踏を行う。そこには、誕生の場面の「おがって笑ってうまれてきた身体」に戻ってゆくようなイメージがあった。亞弥にも、この舞踊はけして、悲壮なものに見えないようお願いしていた。舞踏は病身的な舞いや脱力と緊縮をくり返しが、ともすると苦痛に耐えるような表現にみえてしまうことがある。

 

 今回の韓国上演のパフォーマンスに関して、障がい者の身体を模した韓国の伝統の病身舞(ピョンシンチュム)、日本の14世紀の出雲の阿国などが踊った歌舞伎の源流でもある「ややこまい(あやこまい)」(幼女の動きを模して娼婦が踊るエロチックな舞)なども参照してもらっていた。また、亞弥は自身が共演を続けている聾のダンサーである雫境の踊りを稽古の中でも観察、研究した。

 

 稽古でそれを見ながらマリーヤ・コールニヴァは、「笑いながら死へと向かう」聾唖の安寿の身体の中の声を表すことに専念したいと言った。笑い声でも泣き声でもない、あらゆる感情から解放されたような歌になる。コールニヴァのアブストラクトなヴォーカルが加わって、この「ユーラシアン・シナウィ」は、単なる異ジャンルのセッションを超えて新たな響きを得た。つうダンスは音楽を前提に、音楽のなかで踊ることが多い。しかしこうして踊りが新たな音楽を生むのだ。

 

 ヌルリハンは若く、またカザフスタンの伝統音楽そのものがもつ即興性の枠からはみ出てアンサンブルすることに少し苦労した。しかし経験豊富な演奏家たちが、韓国のリズムの中にカザフのリズムも浮かび上がるように陰影をつけて即興する。

 


9 沈、印塘水, Korea

 

 安寿が蓮の花の中に入り沈清に転生する場面

 

 安寿の死と重なるように客席後方から聴こえるのが、ジー・ミナによる、きわめて朗々と歌われる、凛とした正楽の声だ。パンソリの歌唱のような、民衆を喜ばせるダイナミックな乱調の美とは異なる。しかし歌詞は、パンソリ演目「沈清歌」の中の一節だ。貧困にあえぐ盲目の父を救うために、生け贄となって海に身を捧ぐことになった少女の沈清(シムチョン)が、船上からの景色を歌う。心情の振れ幅を強調して歌う場面とは異なり、漢詩の強要を交えて描かれた景色を歌う声は、格調高く荘厳だ。

 

茫々と果てなく広がる蒼海を船は行く。果てしなく波濤が逆巻いている。白い花の咲く水草の生えた中洲の鷗が飛び交い、紅蓼の岸に舞い降りる。雁が砂浜に降り立つ景色に、騒がしき波音に漁師の吹く笛の音がまざる。曲終われども笛吹く人の姿は見えない。江上数峰青(ただ山々が青く霞んで見える)。船唄の声のように、うねりながら流れる水。有名な漢詩に詠まれたのは、まさにこの世の絶景。

 

 ジー・ミナは蓮の花のような桃色の布を引きずってゆっくりと歩みながら歌い、舞台の上に辿り着くと、死体になった安寿(亞弥)にその布をかける。安寿は沈清と同化し、再生する。すると、ジー・ミナは最初の一節だけ、本物のパンソリ風に口上を述べ、そのまま再びゆっくりと、チェの9拍子の伴奏で歌い続けた。ビートのテンポは民衆音楽としてはかなりゆっくり、宮中や両班に好まれた正楽としてはかなり速いそうだ。 二人が韓国語で話し合ってこのシーンのために選んだリズムだ。

 

実は、これと同じカザフのシャーマンタイプの衣裳もわざわざヌルリハン氏に持ってきてもらったが、今回の舞台にはえぐすぎた、、
実は、これと同じカザフのシャーマンタイプの衣裳もわざわざヌルリハン氏に持ってきてもらったが、今回の舞台にはえぐすぎた、、

 親孝行が称えられ沈清に転生した安寿は王子に迎えられることになり、蓮の花の中に入って海をゆく。そのラブシーンには、弦楽四重奏に、セルゲイ・レートフのテナーサックスと私のコントラバスが加わった室内楽編成の、この作品の中では最も西洋古典音楽風な重厚な曲を作った。

 

 そこに重ねて王子を演じるヌルリハンが、「沈清歌」をカザフスタン語訳した言葉と、カザフの国民詩人アバイ・クナンバイウルの詩の一節を朗読し、安寿(沈清)を妃に迎える。

 

「心と花をいっぱい持って行きます。

あなたは蓮の花になりました。

青い波に

目と耳を開きます。

永遠に生きます。

この歌が止まったとしても、あなたの美しさは決して忘れられません。」(沈清歌)

 

「歌はあなたのために世界の扉を開きます

歌はその最後の安静に魂を伴います 

悲しみのある場所、歌は永遠の味方です

地上の喜び それで、それを大事にしなさい、感謝しなさい、

 

大好きです !(アバイの言葉)

 


10 着, 済州島, Korea

 

厨子王が済州島に漂着する場面

 

 一方歌を頼りに母を探しに佐渡から北に向かった厨子王(吉松章)は、潮の流れを誤って韓国の済州島に漂着した。

 

 南洋の済州島は、海にかこまれ、海女唄、舟唄、馬追い歌も多く、独自のシャーマニズム文化もある。標高約2000メートルの漢拏山(ハルラサン)から麓にかけて、部落ごとの民俗文化が多様だ。古代から中世にかけて存在した王国の耽羅(たんら)の文明を残し、13世紀にはモンゴル(元)の直轄地だったため、「馬の島」ともいわれ牧畜も盛んだ。琉球文化との交流もあったという。古来、流刑地として、レジスタンスの精神にも溢れ、半島とは異なる独自の文化の宝庫といわれている。

 

 漁夫(チェ・ジェチョル)が浜辺で歌を歌っている。

 

 この場面では当初、「沈清歌」のなかで、妻を亡くした盲目の父によって歌われる葬送歌を予定していた。美術家の鄭梨愛のビデオ作品にも用いられた箇所だ。このシーンについてチェに相談すると、カザフスタン公演でも口ずさんだ、自分の一方のルーツである済州島民謡の舟歌「イヨドサナ」のほうができればよい、とのことだった。

 

 チェは前作「春香伝考」では、「春香伝」のベッドシーンのエロチックな言葉を「教科書」にして、舞台上で韓国語教師の役をつとめてくれたが、パンソリの言葉を「歌うこと」についてはためらいを感じた。チェにとっても、パンソリの歌唱は素晴らしい伝統だ。しかし同時に、歌唱者のエゴイスティックなまでの強い自己主張を感じることもあり、自らの音楽人生の基盤である、みなで歌い踊る農楽の音楽性とは異なるものも感じていたという。だからこれまでも意識的に共演等も遠ざけてきた面もあったそうだ。私のような韓国の音楽や歴史をよく知らない人間は、パンソリや巫歌、農楽、民謡の境目も曖昧であり、一括りに素晴らしい民衆音楽だと早合点する。チェの言葉は意外だったが、そのような観点があるのだと知る。この場面は彼の感覚を尊重し、カザフスタン公演と同じ済州島の舟歌に戻した。

 

 「海をまたいだ船だけがぼくの思想の証ではない。 またぎきれずに難破した船もある。人もいる。個人がおる。 空漠とした宇宙這いだす 昆虫すらいる。頑迷の果てに埋もれた 丸木舟の日日を」

 

 済州島から日本に渡った詩人、金時鐘の詩「新潟」とチェが歌う舟歌とが私の頭の中で同時に鳴り響いている。ユーラシアンオペラ「Continental Isolation」のベースとなった作品「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」の2015年の東京での初演(第一部 第一章)で、以下の部分の作曲を試みていた。

 

「地平にこもる ひとつの 願いのための 多くの歌が鳴っている 求め合う 金属の化合のように 干潟を満ちる潮がある。 一つの石の 渇きのうえに 千もの波が くずれているのだ」 

 

「ぼくを抜け出た。 すべてが去った。 茫洋とひろがる海を 独りの男が歩いている」

 

 母を探して海を渡った厨子王は済州島で、韓国人として生きることを覚悟した。決意に至る葛藤を、弦楽四重奏曲最後の第5番「コリア」の中で、吉松章が能の囃子方の掛け声と舞で演じる。作曲はシナウィと、「0」の場面でもサンプリングした「青い鳥」の旋律、クッコリのリズムを分解してから再構築した。 

 

  曲の最後のチェロによるロングトーンの中で、厨子王は扇子を土に埋め、済州島の面をかぶる。

 

 作家の姜信子に、日本人が、済州島で韓国人として生きようとするというこの設定と演出についてアドヴァイスを求めていた。氏はちょうどその頃に済州島に行かれていて、日本に戻ってから島の仮面のことを教えてくださった。済州のヨンガム(令監)というシャーマンの「口寄せ」の儀式(クッ)で用いるそうだ。

 

「ヨンガムは鬼神です。死者であり、疫病神である場合もあります。」

 

「厨子王が、済州島で、単に日本人から韓国人になるということではなく、生と死のあわいを越えてゆく、ということですね。」

 

 また、友人の著述家、金村詩恩にも同じシーンについて意見を訊ねると、

 

「(済州島が)自らの肉が滅んでも生きつづける場所であり、島を通ったひとの背中に乗って、あたらしいどこかへ旅立つ地点ではないか」

 

と解釈を語ってくれた。

 

 扇子を土に埋め、葛藤と幸福のなかで生を終える厨子王の顔から鬼神の仮面が落ち、暗転する。沈黙の暗闇の中でも、また金時鐘の別の詩一節の声なき声が私の耳の中で鳴っている。

 

 「閉じる眼のない死者の死だ。葬るな人よ、 冥福を祈るな」

 

 前作のユーラシアンオペラ「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく(Continental Isolation)」では2015年の初演から、舞台の最後の暗転中に語られる言葉だ。架空の民族の一族から離散した女を演じた三浦宏予、ロシアではアナスタシア・シュレヴァコヴァがロシア語で語り、舞台の幕を閉じた。

 

 今回、この一節を舞台上で用いることはなかったが、私は金村に、あなたが金時鐘のこの日本語を韓国語へ翻訳することは可能なことなのか、尋ねていた。こんな不躾な質問をするまでにはいくばくかの時間を要した。しかし彼はこう言ってくれた。

 

「やってみます。でもいつできるかわからない。それでもいいですか?」。

私は「待たせてください」と答えた。

       厨子王は、扇子を土に埋め、済州島の仮面をかぶり、暗転する中死の床へ着く。仮面が顔から外れおちる。


● < 0「チャガン湖」, Kazakhstan >〜東京

 

 舞台の最初のシーンに戻る。若い韓国人の青年がカザフスタンのチャガン湖畔でまだ眠りつづけている。この無生物の湖に登場人物の運命を導いてきた、三浦宏予が演じる海の精イノが現れて踊り、生命を呼び起こす。

 

 エレクトロニクス音楽に、少しずつ生音が即興で加わる。カザフスタンには生き物の泣き声や動作を音で模した演奏がたくさんあるらしい。それらの音が演奏の中にたくさん組み込まれる。楽器で動物の声や仕草を抽象化するというより、生き物そのもののような音だ。キルコブスで模した馬や牛などの音をヌルリハンが加える。セルゲイ・レートフは自慢げにこれは韓国の鳥笛なんだと言って、ソウルの楽器屋で購入したそれを吹いた。チェ・ジェチョルは韓国の銅鑼、チン(ジン)を、私は仏具の鈴を響かせた。コントラバスは前の済州島のシーンで船頭となったチェが曳いた「丸木舟」になってしまい、もうそばにない。

 

 カザフスタンで死んだ母たまきを演じたアリーナ・ミハイロヴァにもここで登場してもらいたかった。彼女は私に、どのように再び舞台上に再生し、踊るのが良いのかを質問した。私は少し考え、

 

「この舞台で起きていることを今初めてみた、役ではなくあなた自身、という設定で踊り、存在してください」 

 

というと

 

「アリーナ ダンス アリーナ、ということね。やってみるわ。」と言い、納得した。

 

ミハイロヴァはダンスで主張せず、控えめに音の渦のなかに佇んだ。

  

 湖に戻った妹(ジー・ミナ)に起こされ兄(吉松章)は目を覚まして気づく。いま眠り、夢の中で聴いた、音楽=「夢の歌」(この舞台上で起きたすべての音や出来事)はすべて亡き母の歌かもしれない。本作は、厨子王の夢の中に展開した、日本海(東海)に木霊して響き合う声や音が融合するまさに「夢の歌」だ。青年=厨子王はカザフスタンから日本に向かい、今度は「父の歌」を探す旅に出る。青年=厨子王はカザフスタンから日本に向かい、今度は「父の歌」を探す旅に出る。

 

  <ここからスクリーンに映像>

 

 父の出身地である福島、磐城へと向かう予定の青年は東京の上野の街に着いた。東上野二丁目のコリアンタウンから「アメ横」へ。その後、不忍池でひとやすみ。花の季節を終えた蓮の葉を見つめている。

 

 カザフスタンのシャーマンの楽器コブスが独奏で、中央アジアのコリョサラムの人々が歌ってきた「故国山川」(「天然の美」)を奏でている。

  

 安寿を演じていた女(亞弥)が、舞台袖から現れる。王子に迎えられた沈清を運んだ蓮の花の桃色の布をまとって、不忍池の映像の中に重なる。布で顔を隠したまま、厨子王が死の間際で土に埋めた日本の扇子を口に咥え、その時顔から落ちた済州島の仮面を拾い上げる。女はそのまま池の中に進み、そこに群生する蓮の葉の緑の絨毯のなかで花になる。

 

 このとき、チェ・ジェチョルがこの舞台ではじめて、彼の母語である日本語を静かに響かせた。韓国語で同じ言葉を発するジー・ミナの声に重ねて、パンソリ「沈清歌」の一節を朗読する。

 

心と花をいっぱい持って行きます。

あなたは蓮の花になりました。

青い波に

目と耳を開きます。

永遠に生きます。

この歌が止まったとしても、あなたの美しさは決して忘れられません。」

 

盲目の父と再会し朝鮮全ての盲人の眼が開く「沈清歌」のラストシーン

 

 <暗転>

 

 映像が終わり、ロシアと韓国の二人の歌手だけが暗闇の中に残っている。盲人の目が開く音を模した韓国語のオノマトペだけで1分間の「沈黙の歌(サイレンスソング)」を作ってください、と二人にお願いしていた。ジー・ミナが教えるように囁き、コールニヴァが反芻した。

 

右舞台袖から亞弥の大声。「アボジ(父さん)」

 

左舞台袖から、杖鼓の1音 。

 

<明転>

 

それと同時に劇場の明かりがすべてつき、終演。失語し聾唖となった安寿の唯一の言葉は、盲目の父と再会した沈清の一言。

 

 


 

第四章 「さんしょうだゆう」その後

 

1 ワルツ

 

 私も上野の繁華街とは逆の側にある、コリアンタウンを訪ねてみた。私自身の知る家族のルーツに朝鮮半島はないが、父方の祖父母も家がその近くにあった。父母もしばらくこのあたり、東上野二丁目に暮らしていたらしいが、私にはその記憶がない。その一画のすぐ裏で、小さな古い総合病院に出くわした。名前を見ると、私が生まれた病院だった。昭和50年6月、上野駅を挟み反対側不忍池の蓮の花が咲き始める前の頃だ。

 

  昭和50年代の終わり頃、その頃すでに、池の畔の水上動物園に面する、池之端のマンションへと引っ越していた祖父母の家に家族で訪れた時の帰り道、夜、不忍池を通り抜け、上野公園の裏手のピンク映画館がある暗がりに出る。そこから御徒町か上野の駅へと向かうのがいつものルートだった。西郷隆盛像のある公園に上がる階段のところに、幼少の私にはすこし不気味さを覚える佇まいの、痩せて年老いた男が座っていた。諦めと睥睨とが同居するような視線で、外から見れば幸せに見えるだろう3人家族を一瞥する。幼い私は少し怖じけながら近づいては離れる。汚れた制服のような服を着て、箱形の楽器を持ち、松葉杖を抱えた男がいつも気になっていた。

 

 あの人はどういう人なのかと、一緒に歩いていた父にあるときようやく尋ねてみた。現在の私と同じ歳くらいだったであろう、このあたりで育った昭和14年生まれの父は丁寧に説明してくれた。詳しいことを理解したわけではないが、私はそういう事情を初めて知った。ああ、そうなのかと子供ながらに思った。そこを通ってももうその人に出会うことがなかった。おそらく、傷痍軍人がこの周辺にいた最後の時期であろう。

 

 あれから30数年、父、息子とはたいがいそういうものであろうか。私もそれにもれず、齢80越え、老いたが幸い健在な父と顔をあわす機会は多々あるが、ほとんど会話というものをしない。互いに接触を避けているかのようでもある。私はこの舞台で、「お父さん」と言う言葉を他人に叫んでもらうことも正直なところ恥ずかしかった。しかしあとになって考えると、あまり話せないでいる年老いた父に向かって私自身が叫んだ言葉のようにも思う。

 

 また、この年の5月に亡くなった私の「音楽の父」、「アボジ」である音楽家、コントラバス奏者齋藤徹に叫んだ言葉であるようにも思った。師から独立して以来約15年、結局亡くなるまで、まともに言葉を交わしたことがなかった。師匠と交流を絶ちいつの間にかはじめて会った頃の師の年齢を超えた。インターネットなどを通じて知る師の音楽活動は、反目することはあっても、指針であり続けた。韓国の伝統音楽だけでなく、ほんとうにたくさんの音楽を教えてもらい、創作の姿勢を教えてくださった。逝去の翌日、師匠に話しかけるように書いた、私なりの追悼の意をここに記すことをお許しいただきたい。

 

 

 私と師匠はちょうど20年歳がはなれていた。19歳の頃、昨日亡くなったコントラバスの師匠のご自宅で、初めて対面した。チャイムを鳴らし、部屋に呼ばれた。ぎこちなく挨拶し、そのあといろいろ質問された。

 

「わたしはこの人の歌が好きです」というと、師匠になった人は 「わたしはああいうのは嫌いです」と仰った。

 

ビートについてきかれたので 

 

「(ジャズの)4ビートは弾きやすいけれどあまり好きではありません。3拍子のワルツは好きだけど演奏が難しい」 

 

と私がいうと、そこにあなたの何かがあるはずだと仰った。 

 

「インプロヴィゼーション(即興演奏)がしてみたい」 

 

というと、いまここで即興をしてみなさいと言われ、止めろと言われなかったので、しかたなくなにも出なくなるまで弾いた。 

 

 その頃、授業にはあまり出なかったが大学の文学部に通っていて、詩に関心があるというと、「いつかそれがあなたがやるべき仕事になるだろう」と仰った。  

 

 それから10年間バッハの36曲のチェロ組曲ばかりを弾いた。レッスンでバッハを弾く前には毎回30分くらいかけて、教わった韓国の伝統音楽の12拍子で分割して、それを身体で感じながら呼吸を深くして、弓でロングトーンを弾くことになっていた。毎月2回程度だが3時間を超える個人レッスンだった。ときどき、バリ島のジェゴグやガムランのレコードが終わるまでかけ続け、それにあわせて右手だけ使って弓で高速でトレモロを弾き続けた。ジャズのオーネット・コールマンのレコードで二人のベーシスト(チャーリー・ヘイデンとスコットラファロだったか、)が入っているレコードをかけて、左手はめちゃくちゃでいいから、とても速いビートの音楽を右手の指弾きでリズムに合せてレコードが終わるまで弾き続けるようにいわれた。そうやってそのあとの脱力を身体で覚えるのだと言われた。たまにはバッハだけでなくロマン派を弾いてみるようにといわれ、シューマンやシューベルトを弾いて半年くらいはバッハを弾かなかったこともあった。レッスン中に現代音楽の楽譜やCDをコピーしてくださって、故郷の韓国への帰還が終生叶わなかったユン・イサンのファゴットの曲などをメトロノームを流しながら弾いた。バッハの単旋律の無伴奏曲に和声をつけてみろといわれたのでつけた。ブラジルのサンバを弾くと、お前の弱点はここだといわれ、しばらくサンバやショーロを弾いた。 いつも、俺があなたの年の頃にはこんなに弾けなかったといって励ましてくださった。

 

 なぜ、そんな「汚い音」を出すのかと突然に言われた。私の演奏の仕事が忙しくなった頃、あるレッスンでいつものように、緊張しつつも呼吸を乱さぬように、韓国のビートを身体の裡でならしながらロングトーンを弾き終えたすぐ後だった。理由もわからず戸惑った。それもきっかけとなりレッスンを辞め、会うことがなくなった。だが混乱は私のなかでそれから10年ほど続いた。まるでこれは自分の音楽か、と勘違いするほどに聴き、体に刻み込んで愛した師の音楽だが、その時からいままでCDなどで聴いたのもほんの数度きり。大切な人に自分のことをわかってもらおうとうするときにだけこっそりと聴かせて、相手の反応をみるような私のさもしい根性かもしれない。しかし私も歳を重ねれば、世の中や人間の、あるいは自身の矛盾の仕組みが少しは分るようになり、いつしか気にしなくなった。

 

  師匠の訃報はその前日に出会い初共演したばかりの、私より若いコントラバス奏者、落合康介氏が伝えてくれた。すでにFacebookで知ってはいたが、伝えてくれて嬉しかった。彼は師と同様に、一般的に用いられることの稀な、雑味のある野太いガット弦をつかってきれいな音を紡ぎ出す素晴らしいベーシストだった。すごいと思った。

 

 「伝統とは異端と異端とが細い糸で繋がったようなもの」

 

 師がよく語っていた言葉だ。たくさんのことを教わった師匠を「先生」とお呼びしたことがなかった。そう呼ばないようにして「テツさん」と呼んでいた。レッスンを受けながらの10年の間、話しはたくさんしたがずっとぎこちなかった。だからろくに会話もできていなかったように思う。 

 

エセーニンの辞世の句 (内村剛介訳)

 

さようなら 友よ 

さようなら わが友 君はわが胸にある 

別離のさだめ ―――それがあるからには 行き遭う日とて またあろうではないか      

お別れだ! 手をさしださず ひとことも言わず 友よ 別れよう

うつうつとして たのしまず 悲愁に眉をよせるなんて

――― 今日に始まる死ではなし さりとて むろんことあたらしき生でなし  

 

 ロシアの革命詩人ともいわれたセルゲイ・エセーニンは自らはっきりとこの世に別れを告げた。しかし私には出会いも別れもいつもぎこちないものだ。 師匠がその日、ああいう歌は嫌いだとおっしゃっていた友川カズキの歌が私にはずっと鳴りやんでいない。友川は、人と人とは別れられない、ただ出会いだけがあるのだというようなことを仰っていて、少しずつ出会いや別離を経験しながら私もそのように思っている。   

 

 初めてあなたに出会った日に、徹さんが嫌いだと仰っていた「ああいう歌」です。3拍子、ワルツです。

 

流れてそして君

ボロボロになるのだや君

夢は果て無く宙舞い

雲みたいに

漠々とあるのだや

 

生きても生きてもワルツ

死んでも死んでもワルツ

出会いも出会いもワルツ

別れも別れもワルツ

 

晒すのは恥しかない

ありのままあらん限り

血肉とていつかは

皮膚を出て

不明になるのだや

 

生きても生きてもワルツ

死んでも死んでもワルツ

出会いも出会いもワルツ

別れも別れもワルツ

 

(友川カズキ「ワルツ」より。)

 

 さようなら、私の音楽の父(アボジ)。徹さんほんとうにありがとうございました。 

 

 私は「さんしょうだゆう」の中で「お父さん」という言葉以外に、安寿(沈清)が叫ぶ言葉を探してみたいと思った。それは母のでも父のでもなく私自身の声だ。それを探す旅に出なくてはならない。

 


2 原郷と異郷の旅

 

  「さんしょうだゆうin 韓国」参加してくれたコールニヴァとジー・ミナに関していえば、ともに直前まで他の歌手と交渉し、頓挫したために代役として急遽、偶然にみつかって出会った歌手だった。翌2020年はこの二人の歌手と、録音作業を行い、「さんしょうだゆう」にまつわる曲も多数録音した。

 

 2020年は、ユーラシアンオペラ「さんしょうだゆう」の日本での上演を画策しつつ、次のユーラシアンオペラの創作に向けての充電期間を予定していた。現実的には活動を継続するための金銭的な事情もあった。一年間の音楽詩劇研究所としての大きな活動は控え、以降に備えようと考えていた。3月初頭には個人的に演奏家としてゲストで招かれていた韓国ソウルでのいくつかの音楽フェスティバルに出演し、さらにジー・ミナや韓国のアーチストと交流を深めたり、念願だった韓国の田舎の風景を訪ねてたりしてみたいと考えていた。そこへ世界的な新型感染症コロナウィルスが、日本、東京より少し早く韓国に蔓延し、ソウルでのフェスティバルやコンサートは中止された。私は自費で渡航し、いくつかの新たな出会いを重ねたり、チェ・ジェチョルの友人を頼って待望の山村を尋ねたりした。江原道、朝鮮民主主義人民共和国との国境付近からソウルに戻り、今後の創作のためにジー・ミナの声を録音した。

 

 急なお願いだったにも関わらず、短時間で葬儀歌、子守唄などの民謡、北朝鮮の子守唄、私の楽曲(日本語)などさまざまな歌を歌ってくれた。

 

 渡航禁止令直前に帰国すると、やがて日本でもさまざまな行動が規制され「自粛生活」に突入した。いくつかの公的補助金等にたよりながら自宅に籠り、彼女の声にあわせてひたすらコンピューターで作曲し、音楽詩劇研究所は映像作品「さんしょうだゆう in Tokyo ver.1」として公表した。それを旧知の音楽プロデューサー、エンジニアの近藤秀秋とともに整え、楽器奏者が録音した。日本録音の楽器演奏陣も、邦楽からは箏奏者八木美知依、笙の大塚惇平。バッハ・コレギウム・ジャパン、読売交響楽団など古楽やクラシック音楽の気鋭の奏者から組織された弦楽四重奏をはじめ、伝統音楽、タンゴ、ジャズ、アヴァンギャルド、プログレの最前線の演奏家が多数参加してくださった。

 

 この流れでシベリアの歌手マリーヤ・コールニヴァとも同じ方法で創作した。この時期に互いに渡航はできず直接は立ち会えなかったが、オンラインでつながりながら録音した。彼女が親しむアンナ・アフマートヴァやソフィア・パルノークなどの近現代詩に私が作曲した作品、彼女の出自であるロシア正教古儀式派の湖底都市「キーテジ」のユートピア伝説や、その近世時代の謎めいた日本との交流を素材に創作した。

 

 ロシア民謡も歌った。作曲家ミリイ・バラキレフが収集し、歌曲として編曲されていたシベリアの民謡だが、原曲は広く伝えられていない。バラキレフのメモには、楽譜に書きあらわせない民謡の歌唱方についての資料が付されている。私のロシア語能力では歯が立たないので、コールニヴァにに分析してもらった。彼女は民謡を歌う歌手ではないが、伝統的な歌唱方の言葉とメロディの関係を実に客観的で明晰な分析をしてくれた。子音は各言語に実に多様だ。しかし声は引き延ばせば必ず母音になる。母音の装飾のしかたに文化的特性の本質が現れる。

 

 2021年に入り、録音や編集が終わって一段落した頃、東京オリンピックが始まった。開幕式のとき、ある歌手が「君が代」を歌うのを聴いた。感染症が蔓延があらためて広まった時期であり、開催反対派も賛成派もいたが、双方の多くの賞賛の声があった。たしかに素晴らしいR&Bの歌手である。しかし、古来、母音優性の日本語の言語特性に対して効果的とは言えないように思った。彼女はおそらくそのことには無自覚に、西洋言語の子音優性の歌唱法で歌い、ある種の新たな時代の雰囲気を醸し出していた。日本語の「民謡」を通過した歌唱ではない。むろん伝統的な言語と歌唱の関係に自覚的であることが、歌の善し悪しの判断にはならない。しかしナショナリストの側からこのような指摘を聞くこともない。「君が代」が民族主義を謳うナショナリストにとっての大切な歌であるとするならば、なぜ民族の歌の日本語の発音にこれほど無自覚なのだろうか。急遽依頼されたというこの歌手の、自らの表現の基礎とするR&Bに基づく真摯な表現とは裏腹に、民族主義的なイデオロギーをもつ人々からそのような指摘がないのは、ひとことでいえば「愚の骨頂」である。私なりにではあるが日本語にこだわって作曲してきた立場から、そのくらいのことは言わせてもらおう。

 

 私自身「君が代」は歌としては好きではない。私は「君が代」はみっともない音楽だと言う家に育ち、私もそう思ってきた。だが他国の国歌に比べれば音楽としては好きなほうだ。軍隊の勇壮な高揚を想起させるマーチング等のリズム感がなく、声を合わせて歌う斉唱にも向かないような音楽は嫌いではない。意図的な荘厳さは鼻につくが、それがカタルシスを感じさせるまでにはみたない中途半端さも悪くない。さらにいえば、この曲はまったく異民族によって「つくられた」歌でもある。

 

 この曲の実質的な作曲者は、プロイセン王国からきた「お雇外国人」のフランツ・エッケルトによるものである。李朝最末期、1897年から日本統治が始まるまでの1910年に存在した「大韓帝国」の国歌「大韓帝国愛国歌」の作曲者でもある。これもまた、私のいう想像の、「架空の民族音楽」の一種なのかもしれないと、ふと思う。

 

 国家間の利害をも超えるような世界的な感染症の蔓延の中で、半ば公的に身動きは規制されながら、社会との交わりが少ないことが心地よくもある、この不思議な時間にまどろみながらあらためて思う。

 

 結局のところ国家という人間が作り出した物語の中にしか生きるほかないのだろうか。考えてみれば、これまで述べてきたような私の創作もまたすでに、まさに劇中「劇」のような構造をとりながら、夢の中に展開させたり、架空の民族を演じたり、基本的に、「」のなかの物語の中に、音楽を描いてきたように思う。それが私なりの国家に対するささやかな抵抗なのかもしれないが、そうすることしかできず、自然なことでもあった。

 

 感染症の蔓延が始まって以来、2021年の春に録音を終えるまでの丸一年、私はほとんど自宅スタジオの密室に引きこもり、「さんしょうだゆう」をともにした二人の、ロシア語と韓国語、ときどき日本語の、歌声のなかで眠るように暮らしていた。そして「夢」の中で、コンピューターに向かってただひたすらに音楽を創った。まるで舞台の上で、生物のいない人造湖にまどろんだ、厨子王の生まれ変わりの韓国の青年の夢の中のように音楽が響いた。目を覚ますと、2021年の夏も終わろうとしている。しかしいつの間に46になった夢の歌を探す厨子王は、いまここにある現実の歌を求めて旅の準備をはじめる。次なるユーラシアンオペラへの旅への思いを次章に述べたいと思う。

 

 CD  ユーラシアン・ポエティック・ドラマ / 河崎純

 

Vol.1 「HOMELANDS」 ジー・ミナ(韓国)Vol.2「STRANGELANDS」マリーヤ・コールニヴァ(ロシア)

 

<録音、ミックス>近藤秀秋

<演奏者>

 

青木菜穂子(ピアノ)イム・キョンア(チェロ)大塚惇平(笙)小沢あき(エレキギター・エレキベース)河崎純(コントラバス・キーボード)熊坂るつ子(アコーディオン)小森慶子(クラリネット、サックス)近藤秀秋(ギター、薩摩琵琶)

チェ・ジェチョル(韓国打楽器)立岩潤三(ドラムス、打楽器)TAMURAN MUSIC(シンギングボウルほか)中澤沙央里(ヴァイオリン)

松本ちはや(打楽器、マリンバ)渡部寿珠(フルート、ピッコロ)

サインホ・ナムチラク(ヴォーカル)セルゲイ・レートフ(サックス)ヌルリハン・ラフムジャン(ドンブラ)

 

弦楽四重奏

 

1st ヴァイオリン:髙橋奈緒 2nd ヴァイオリン:高岸卓人 ヴィオラ:森口恭子 チェロ:山本徹 

 

音楽詩劇研究所

 

坪井聡志(声)三浦宏予(朗読)三木聖香(ヴォーカル)吉松章(謡)