山椒大夫〜沈清歌 ユーラシアンオペラ in 韓国への路(準備篇)

国境線イムジン川の遊園地
国境線イムジン川の遊園地

さんしょうだゆう〜沈清歌 ユーラシアンオペラ in 韓国への路(準備篇)

 

1 野球〜演歌〜シャーマニズム 

2 韓国語のわからない私 / 韓国語と歌

3 「さんしょうだゆう」から「沈清歌」へ

4 美術家 鄭梨愛とパンソリ オーラルヒストリーから

5 「正歌」の歌手、ジー・ミナとの出会い

6 「この国に近代はありませんでした」

7 ふたたび「イマジン」

 


1 韓国との出会い 野球〜演歌〜シャーマニズム

触りたくなるお腹多し。また違う意味で大きい。
触りたくなるお腹多し。また違う意味で大きい。

 

 国際交流基金のソウルセンターから依頼があり、2019年3月にカザフスタンで初演した「さんしょうだゆう」の改作公演を10月に行うことになった。その準備のために8月に約一週間のソウルに滞在した。折しも徴用工訴訟問題から双方の国民感情を煽り立てるような報道で日韓経済報復合戦がエスカレートしていた。「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」の慰安婦像撤退問題等も重なるなか、独立記念日である「8・15光復節」直前の滞在となった。

 

 私の韓国、朝鮮半島の文化、音楽への関心は比較的高かった。大学生だった二十数年前の、まだ音楽活動を始めたばかりの頃、この年の5月に逝去したコントラバスの師匠の一人齋藤徹からさまざまな伝統音楽を教わって興味を持った。そのときすでに将来、韓国の音楽家やダンサーとの共演を夢みた。師が最大の敬意を表して共演を重ね、その頃亡くなって間もなかった韓国東海岸のシャーマンのキム・ソクチュル(金石出)に捧げられた、箏アンサンブルとコントラバス2台とピアノによる「Stone Out」という作品や、韓国の様々な伝統音楽とのセッションは、当時の私の憧れだった。

 

 1990年代半ばは、韓国や中国、東南アジアとのさらなる経済的な交流や市場の拡大が芸能や文化においても予測される時代だった。私の夢は比較的実現しやすいように考えていた。そんな頃、在日コリアンの音楽家チェ・ジェチョルとの偶然の出会いもあった。あるコンサートの帰り道、新宿駅の東口と西口を繋ぐガード下のほうから太鼓の音が聞こえ、近寄ると大学の時に在籍していた音楽サークル(モダンジャズ研究会)の二つ年下の後輩たちだった。彼らの演奏とともにチャングを叩いていたのが、チェだった。その夜のうちに友達になり、新大久保の彼の実家で朝まで語り合った。東京の十条の朝鮮中高級学校を卒業し、私立大学に進学後、民族衣装をつかった衣服の創作を続けていたが、じょじょに太鼓、音楽に目覚めたと話していた。彼との出会いは韓国への夢をさらに広げた。

 

  しかし、だまっていてもそういう機会が訪れるような状況にはならなかった。しばらく時を経て、韓国に限らず大きな影響を受けた師との関係からも独立した。それゆえに韓国の伝統音楽との交流は、師が辿った道とは別の新しい道をつくらなければならないと思った。さらに韓国は遠くなった。今回の機会をもつまで、直接的に韓国の音楽家やアーチストと交流したり、創作したりする場をもつことができなかった。後には「韓流ブーム」や、徐々に高揚した「嫌韓」の風潮もみられた。40歳になり、音楽詩劇研究所を結成しユーラシアンオペラの創作を模索するなかで、パンソリの演目を原作とした「春香伝考」を日本人メンバーだけで創作したが、まだすぐに韓国での上演を目指すような完成度ではなかった。 

 

 今回得た機会は、私自身が積極的に韓国のアーチストと交流を積み重ねるなかで実現するのではない。国際交流基金からの提案も、とくに韓国文化とのコラボレーションを前提にするものではなかった。まだ、3月のカザフスタン公演のために作曲や台本作成の作業の途中だったが、この機会に韓国のアーチストも含めて「さんしょうだゆう」を上演することに決めた。私にとってほとんど唯一の韓国との繋がりだったともいえる20年来の友、チェ・ジェチョルと一緒に韓国で公演できることが、まずはとても嬉しい。

 

 偶然とはいえこの話は、交流を長い間絶っていた師が逝去したこととの巡り合わせを感じなくもない。数十年の間断続的に韓国文化との交流を続けていた師が、もしご健在だったならこのような流れになっていなかったような気もする。この話をいただいた1月の時点では、60代前半の若さで逝去した師はまだ闘病中だった。感謝や誤解が絡まり合ってわだかまり、すでに久しくお会いすることすら半ば避けていた。だが終末医療の闘病と、その中でも止めることがなかった創作について記したブログは気になって読んでいた。5月、痩せ細ったお顔で微笑む病床の写真と共に、命の灯が消えたことを伝える記事が届いた。写真を見ながら、この韓国との交流の機会も「あなた自身で開いてゆきなさい」とあらためて言われた気がした。

 

 8月、真夏のソウルに到着。韓国に来たのは10年ぶりだったが、街並は大きな変化を感じさせるほどではなかった。古びたものは古びたままに、新しいものはさらに新しく、という感じだろうか。今回、事前準備の滞在中に作業を行う国際交流基金のソウルセンターの事務所はその新しいほう、ソウル駅と接続するタワービルのなかにあった。多くの先端企業がそこにオフィスを構えている。

 

 韓国人はこんなに大きかっただろうか?私はあまりそのような印象をもっていなかった。ソウルに来て二日くらい経ってタワービルのエレベーターのなかでふと気づく。いつも混み合っているこの箱の中で、韓国語の少し塩辛いような響きにかこまれながら、多くのサラリーマンとおぼしき若い男性人々の身長がかなり大きいということに気がついた。私の身長は176センチで日本人男性の平均身長よりは高いと思う。しかし狭いエレベーターの中で囲まれていると自身が小さく感じられた。街を歩いていても次第にそのことを意識するようになった。

 

 インターネットで調べると、韓国人男性の平均身長は日本人より約3~4センチ高いらしい。国際交流基金の日本人スタッフにもそのことを尋ねてみた。たしかに、と納得し、DNAが残り続けているのでしょう、と憶測した。朝鮮半島は南北や各地域によって体格の差があるそうで、北部地域と比較すると南部地域は小柄な方が多いらしい。そう考えると地理的には日本は小柄な方の多い南部との交流が歴史的には長い。しかし最近のK-POPアイドルの男性たちも、たしかに日本のアイドルに比べて大柄だ。

 

 韓国への関心は、音楽文化を中心にそれなりに持ち続けていたつもりだが、結局のところ書物やCDを通じてのことで、生の情報や印象ではない。思えば、そもそもそれ以前の私と韓国との出会いはなんだったのだろう。

1986年の荒唐無稽なな韓国野球映画「外人球団」(李長鎬)
1986年の荒唐無稽なな韓国野球映画「外人球団」(李長鎬)

 

 最も古い記憶は小学生に上がる1980年前後の頃のことだ。私の実家はオーディオセットなどはなく、音楽鑑賞を趣味にする環境はなかった。LPの聴けないポータブルなレコードプレーヤーととラジオ付きのカセットテープ再生デッキがあるだけだった。数枚のドーナツ盤の他、単身赴任していた父が台湾から持って帰るカセットテープがあった。いつも駅前のスーパーの屋上のビアガーデンから聴こえてくる歌が、別の言葉で歌われていて不思議だったが、やわらかな言葉の響きが心地よかった。

 

 台湾だけではなく「李美子」や「李成愛」と書いてある別の国の歌手のテープもあり、日本語の歌もあった。身を捩って絞り出すような声は、南国のゆるやかな時間を想像させる台湾語とは違ったが、「オッチョンジー(黄色いシャツ)」という耳慣れぬ面白い響きの言葉が印象に残った。日本でもヒット曲をとばしていた、韓国出身だという桂銀淑(ケイウンスク)のキャンペーンコンサートが近所のスーパーの駐車場であり、独特なハスキーな声の日本語に聞き慣れぬ響きを感じたことも覚えている。音楽にはそれほど興味を持っていなかったが、野球への関心と結びつけて、父に内緒でそれらのテープをこっそり聴くこともあった。

 

 一冊の本を思い出した。うろ覚えだったタイトルをあらためて調べてみると関川夏央の「海峡を越えたホームラン祖国」という名だった。野球少年だった私に父がその文庫本を買い与えてくれたのだ。中学生に上がった頃のことだっただろうか。1987年に北朝鮮の大韓航空機爆破事件の金賢姫の報道でテレビを賑わせ、翌年はソウルオリンピックだ。1975生まれの私は、それ以前の80年くらいに至るまでの韓国の民主化運動の闘争などの報道等はまったく記憶がない。本を読んで、日本やアメリカ大陸以外にプロ野球リーグがあることを知った。

 

 すでに台湾からは1980年代半ばから、「東洋のエクスプレス」といわれ鳴り物入りで日本球界入りした西武ライオンズの郭泰源選手や、シーズン途中で入団し、独特な打撃ホームでホームランを連発した読売ジャイアンツの呂明賜選手が来日して活躍していた。アンチ巨人だったが、この選手だけはすぐに大好きになった。祖父母の家からの帰り道、上野の不忍池を通ると、「紙切り芸人」がショーをしていたので、呂選手をリクエストした。腰を低く落とした野武士のような打撃姿をその場で見事に切ってくれた。韓国プロ野球でもスターだった、宣銅烈(ソン・ドンヨル)、李承燁(イ・スンヨプ)、林昌勇(イム・チャンヨン)選手たちが日本で活躍するようになるのは、もう少しあとの2000年前後からのことだ。

 

 韓国でプロ野球が始まった1982年の二年後に書かれたこの本には、アメリカの大リーグにも似たダイナミックで野性味溢れる野球スタイルや、観客の様子、杜撰とも言える組織などが紹介されていたと思う。それらとともにこの本の内容の中心をなしていたのは韓国プロ野球界に身を転じた「日本人」選手についてのレポートだった。日本で第一線級とはいえなくなった引退間近とも思われる選手や、期待されてドラフト会議で指名されたが大きな活躍を残すことができなかった選手が韓国に渡った。アメリカで最盛期を過ぎたメジャーリーガーや、若いマイナーリーグの選手が日本のプロ野球で活躍するように 、突如としてタイトル争いをするような大活躍をする。

 

 韓国プロ野球に入団できる日本人選手は韓国籍をもった「在日」の人だけだと書いてあった。初めて「在日」という言葉や、そう呼ばれる人たちの存在を知った。日本で暮らす台湾人や中国人といえば、中華料理店を営んでいる家族のようなイメージがあった。ならば日本プロ野球選手の中にも一定数存在するらしい韓国人、「在日朝鮮人」といわれる人々はどこにいるのだろう。

 

 小学生だった1980年代当時、たとえば自分の学校の中に、この本やカセットテープで覚えた、韓国人の姓をもつ子どもは一人もいないのだ。私が韓国や北朝鮮を意識し始めたのはこのときからだったと思う。日本名を名乗っていた選手が韓国でプレイすることは、公に自らが韓国人であるということを公表、いまの言い方でいえば「カミングアウト」することを意味した。そうすることにはさまざまな葛藤や困難があるのだということも分った。なにか正体の知れない日陰めいた暗さと、ダイナミックなプレースタイルのプロ野球との陰影が私にとって韓国、朝鮮のイメージとなった。小学校の教室にもあった漫画本「はだしのゲン」(中沢啓治)の登場人物の「朴さん」を思い出したりしながら、プロ野球の選手名鑑の本からたとえば名字に「金」という字のつく選手を探して、この選手は「韓国人」なのか、などと思ったりした。

 

 テレビを見ているときに、母が無防備に「韓国人」「朝鮮人」という語を用いて「あの顔の特徴は」云々などというと、父はやや「上から目線」の教条的な言い方で、母の言葉を遮り非難した。「(日本人と)同じ顔じゃないか。偏見だ。」というのである。強要された訳ではまったくないのだが、「同じ=平等」と思わないといけないような気がした。しかし幼い私も、明らかに顔のパーツや骨格に異なる特徴があると思った。父にしてもほんとうに「同じ」とは思っていないはずなのだが、まず一度「同じ」ということにしなければいけないという考えだったのだろうか。

 

 中学生や高校生になり、私の興味は野球から音楽に移った。レンタルや中古のCDショップを巡り、むさぼるようにさまざまなジャンルの音楽を聴いた。学校の近くに現在は中古店だけになってしまった東京のお茶の水の有名なレンタルショップ「JANIS」があったので便利だった。いわゆる民族音楽も借りたがその中で、韓国の音楽との出会いはほとんどなかった。その後、大学に上がってから、コントラバスを師匠について習いはじめ、そのとき韓国の伝統音楽を知り、将来に共演を夢見たあとのことは先に書いた通りだ。

 


2 韓国語のわからない私

ショッピングモールの巨大書店
ショッピングモールの巨大書店

 

 残念なことに私は隣国の韓国語を全く理解しない。せめてハングルの読み方の規則くらいは知らないと、と思いながら歯が立たない。ということで、長い間いつかはと思いつつ、しかし40代も半ばにさしかかると、もう死ぬまでその機会を作ることはできないだろうと諦めかけていた。だが今回この機会に韓国語の入り口だけには立たなければと思い、参考書とインターネットの動画レッスンを往復した。

 

 あまりの初学ゆえか、または私が音楽、歌、さらにユーラシアンオペラという観点で結びつけるからか、かえって想像が膨らむ。韓国語を文字で表すハングルには子音+母音さらに子音(パッチム)が加わることもあり、一音節内に複雑な音をもつ。

 

 そしてこの発音の種類の多さからは、ユーラシア大陸のさまざまな言語が、その痕跡を留めながら大陸東端の半島に集積したようにも感じてしまう。実際に少数民族も含むさまざまな民族の言語の半島への流入によるところが大きいのではないだろうか。たしかに北方狩猟民族エヴェンキの言葉と「アリラン」の関係も、ユーラシアンオペラ一作目の創作中にきいたことがあった。今回の旅で実感した、韓国人の背の高さにも関係すると思える。体格の良いモンゴル方面の民族の半島北部、高麗への流入に由来するのだろう。

 

 幼少の頃の印象に残った桂銀淑の日本語の歌を思い出す。歌に現れる独特のハスキーな声や、日本語のネイティブとは微妙に異なる発音は、この歌手に固有の表現や身体的特性だけに由来するのではない。それは言語そのものや、その文字表記の特性に由来するのだと、発音規則を学びながらわかった気がした。

 

 少し不自然な響きの日本語で歌われる歌には、多くの在日コリアンは、家族の来歴を重ね、複雑なノスタルジーを感じたのかもしれない。また、韓国バーのホステスや買春ツアーの妓生(キーセン)たちの日本語を想起し、奉仕された悦びや安堵を、歌を聴くことで追体験する日本人男性もいただろう。

脱北者が経営するという北朝鮮料理、やや味が柔らかい。テレビでは子供から老人までが歌い倒す野外のど自慢大会。
脱北者が経営するという北朝鮮料理、やや味が柔らかい。テレビでは子供から老人までが歌い倒す野外のど自慢大会。

 

 ところで、「さんしょうだゆう」の韓国バージョンでは、パンソリの演目の「沈清歌(伝)」を作品に接続したいという思いがあった。その経緯は後述するが、今回の事前渡航の主目的は、コラボレーションする韓国のアーチストとの打ち合わせと「沈清歌」についての情報を得ることだった。国際交流基金のソウルセンターでインターンシップとして勤務する日本語を学んでいる若い男女に尋ね、韓国語や日本語で朗読しもしてもらい録音した。そのうちの一人の日本語がかなり流暢な青年からこんな話を聞いた。

 

 日本語の文字を見ながら朗読する時は自然と抑揚がつく。平仮名のビジュアルの流線性もあるが、やはり漢字の表意文字性が大きいかもしれない、と彼は憶測する。それに対し機能的な表音文字のハングルを音読する時は、イントネーションが少なく、平板に、無機的に声に出せるそうだ。一音節が含む音情報、唇や舌の動きの多さ、複雑さ、機能的な表音文字のハングル表記が、感情的、音楽的な抑揚の余地を残さずにそれを可能にするのだろうか。

 

 実際に声に出して読んでもらうと、たしかに言うとおりだと思った。たとえばテレビで耳にする北朝鮮の国営放送の特徴的なわざとらしい抑揚のアナウンサーの読み方とは正反対だ。強調して私に伝えたいということもあろうが、まるで音声ソフトの声が文字認識して読むように左から右へと淀みなく平板に声が流れた。それなら、パンソリや巫覡の深いビブラート、日本の演歌の源流と言われる歌謡曲トロット 、そのようなダイナミックな抑揚をもつ伝統音楽の歌唱や楽器奏法にみられる大仰な「コブシ」は何に由来するのだろう。私にはわかりえない「恨」という情感が大きく関わるのは漠然と想像できるが...

 


3「さんしょうだゆう」から「沈清歌」へ

上野不忍池の蓮の花 
上野不忍池の蓮の花 

 

 カザフスタン公演では、テュルク系のイスラム受容以前のシャーマニズムのなかで語られてきた英雄譚「デデコルクト」との接続を試み、それに由来する古楽器コブスと共演した。コブスの響きの中で死んだ安寿を転生させた。カザフスタンの伝統音楽奏者が参加する今回の韓国上演でも、このモチーフを継続させる予定だ。

 

 今回の韓国公演では、さらに日韓両伝統の口承芸能のストーリーの接続、融合も試みたい。説経節で民衆に語られてきた「さんしょうだゆう」とパンソリの最も重要な演目である「沈清歌」を重ねて繋げ、入水した安寿をヒロインの沈清(シムチョン)に転生させてみたいと思った。

 

 ユーラシアンオペラという観点では、異なる国の異なる価値観のうえに形成されたそれぞれの口承芸能を接続、融合することで、ナショナリズム的な分断を避けた新たな共同性を音楽や舞台に体現させたい。第二部で述べたように、すでに「春香伝」を素材にそれを試みたが、今回はそれと並ぶパンソリの二大作品の一つ「沈清歌」を選んだ。身分差のある恋愛がストーリーの主軸である「春香伝」より、「沈清歌」の方が「さんしょうだゆう」との融合に適していた。ともに少女の犠牲譚がストーリーの主軸をなすからだ。

 

 ともに主人公である若い女性(少女)安寿と沈清(シムチョン)の自己犠牲によって成し遂げられる孝行や救済が描かれるが、その過程やそれを遂げた後のストーリーはそれぞれに異なっている。

 

 よく知られている森鴎外の「山椒大夫」では、安寿の犠牲死により奴隷労働から脱出しに成功した厨子王が、生き別れた母親を探し、再会を果たして終わる。しかし古く中世から語られてきた説経節では、自身を陵辱していた特権階級への復讐がさらに語られる。それこそが抑圧された民衆にとって、語りを聴きながらおぼえるカタルシスだったという。しかし、江戸時代以降に民衆に仏教の救済観や死生観が浸透してゆくなかで、それらの抑制的な倫理観が物語に反映され、安寿の自己犠牲に基づく成仏譚としての性格が強まる。1915(大正4)年に発表された森鴎外の「山椒大夫」は、復讐、報復譚の要素はさらに薄く、救済、赦し、キリスト教的博愛の眼差しも加わり、西洋近代的倫理観を受容した物語ともいえる。

 

 一方の「沈清歌」では少女(孝女)沈清(シムチョン)が命を海に捧げる代わりに米を得て、妻に先立たれた貧しい盲目の父親を救う。海に身を投げたが、孝行が認められて海の王子に妃として迎えられる。桃色の蓮の花の中に入り王子の元へゆきそこで暮らした。父を救う目的の宴を開くことが許され、父と再会し、父の眼を開く念願を叶える。さらに集った韓国中の全盲人を開眼させてしまうハッピーエンドだ。李朝時代は、高麗時代に信仰された仏教やシャーマニズムなどの民間信仰が禁じられた。そうして抑制された民衆の、権力に対する不満や抵抗の要素も語りの中に刻印しながら、同時に官僚社会を支える儒教的な精神や教養的要素も織り込んでしたたかだ。それゆえに双方で愛好されたという。

 

 二つの説話のこのように異なる性質は、ストーリーやプロット、人物のキャラクターの描かれ方、語りのスタイル、形式の多様さにも反映される。

 

 韓国の「沈清歌」では登場人物が状況や立場に翻弄されながら、たとえば盲目の父のキャラクターは多面的で、心情の振れ幅もダイナミックだ。大泣きしたかと思えば大笑いしたり、妻や子を不憫に想ったり、怠惰になり女との愛欲に溺れたり、と性格に一貫性がないようにも描かれる(歌われる)。それに対し日本の「さんしょうだゆう」では、時代を経ながら物語が洗錬させてゆくにつれ、登場人物の性質は一貫性をもったキャラクターとしてそれぞれ描かれているように思える。生のダイナミズムも人間像も、じょじょに禁欲的な仏教的な倫理に収斂されたのだろうか。

 

 それを語る説経の声も、後に浪曲等にも引き継がれるように、情念の起伏をいったん口内に押し殺してから、声を絞り、唸るように発せられる印象が強い。 声を絞り、唸るように発するのは共通するが、パンソリではそこからさらに多様な歌唱表現に広がる。歌唱者の「広大(クァンデ)」は、「チュンモリ」「チュンジュンモリ」などのリズム的特徴をもつ歌謡表現が交互に現れる。いっぽう「アニリ」という平調子の語りの部分では、官僚社会の教養語である中国の漢詩、漢文からの引用も多用され、さらにダイナミックな陰影が帯びる。そこに聞き手のかけ声も加わって、ひとつの物語空間がたちあがる。

 

 盲目の父を救う娘の忠孝心は、李朝が重んじる儒教的な側面として重要だ。一方で、沈清が救った父親と娼妓との愛欲の場面では、広大 のパフォーマンスにより感情の起伏が強調され、人々を喜ばせる。その即興的な語りの中には、民衆に親しまれてきた子守唄、葬列歌(サンヨソリ)などの民謡の要素、ライム (押韻)のくり返しによるリズム遊び、民間信仰の要素、オノマトペ、漢文調の音声など、さまざまな音楽的、歌謡表現が総動員される。特に「沈清歌(伝)」はその要素が多く、さまざまな感情を喚起させる。韓国の口承芸能はこうして歌謡性を豊かにすることで、現在でも誰でも知るようなストーリーとして愛されている。

 

 パンソリの「パン」は場、「ソリ」は音を意味する。その解釈は多様で言葉に変換しづらいが、たとえばこのように説明される。

 

パン・・・人が多く集まって、あることが行われている場所。その開始・経過・終結の全過程。

ソリ・・・自然界の音響・音声がすべて。笑い声、泣き声、溜息など人間の多様な情と「恨」の声。

 

 パンソリには大きく二つの流派がある。全羅道山岳地帯の東便制は男性的で、装飾が少ない、天賦の声量による重厚で素直な歌い方といえる。一般的に日本でイメージされる「パンソリ」とは、私も封切り時に映画館で観た林權澤(イム・グォンテク)監督による映画「風の丘を越えて」(1993)のオリジナルタイトルそのものでもある西便制といえるだろう。全羅道西方面平野地帯の西便制は、深いビブラートをかけた修飾によって哀切を表すような歌い方を、苦行、修行によって獲得することが特徴的だ。全羅南道は農業が盛んなゆえに収奪の対象として差別的に扱われ、また島が多いことから流罪の地であったともいわれる。政治犯の儒教的教養は、土地の民俗芸能をさらに発展させたそうだ。

 

 声によって伝えられてきたパンソリの物語も19世紀に、文章に起こされるようになり定本化される。自分は「日本語学科」であり「国文学」については詳しくないが、と前置きしながら国際交流基金ソウルセンターの若いインター生の彼が言う。現在韓国の国語教育の中では、教科書に「文学としてのパンソリ」が用いられるので、学生はみな学ぶそうである。

 

 実際に「試験問題」となった例をみてみると、古典的な文学作品として心情や知識を問う読解問題も日本の試験問題に似ていた。しかし語り芸、歌唱の技法に対する設問もあり、文学性のみならず音楽性も重要視されているのがわかる。 古い言葉づかいや漢語の意味がわからなくても、合理的な表音文字であるハングルの性質上、声に出して音を楽しむことは難しいことではないとのこと。 ついでに学校教育における漢字学習の現状についても尋ねてみた。政権によっても異なり、たとえば左派的といわれる当時の文在寅政権では、基本的にハングルのみの教育が推奨されているとのことだった。しかし中学校、高校の校長の判断によりまちまちだという。

 

 こうして少しずつ「沈清歌」やパンソリについて知っていった。センターでの打ち合せのときに韓国語翻訳者で現代演劇のプロデューサーである石川樹里氏にも上演のために助言を求めた。現在の韓国では、女性の自己犠牲にまつわる話題には敏感な反応があるとのこと。たしかに男性政治家のセクシャルハラスメントを訴追するニュースも日本で読んだことがある。「さんしょうだゆう」にしても「沈清歌」にしても、創作にあたっては、フェミニズム的な観点への配慮が必要だと、アドヴァイスをいただいた。

 

 私は、「さんしょうだゆう」と「沈清歌」の自己犠牲や孝行という前近代的ともいえる心性についてあらためて考えながら、死してなお生き続ける安寿の魂のゆくえと、沈清(シムチョン)の再生から、新たな歌の創作に近づいてゆきたい思いに駆られた。双方の口承芸能を繋ぎ合わせるという試みと、ロシア、中央アジア、日本の「コリアンディアスポラ」の道程と存在をもう一つの軸に物語を織り上げてゆく中で、埋もれ、眠っていたフォークロアの声が響き合うような気がした。韓国の地からそれらを生み出すことが、今回のユーラシアンオペラ上演の目的になった。

 


4 美術家 鄭梨愛とパンソリ オーラルヒストリーから

帰国後、鄭梨愛さんとトークイベントを行った。
帰国後、鄭梨愛さんとトークイベントを行った。

 

  今回「さんしょうだゆう」とこの「沈清歌」をさらに濃密に繋げてくれたのは、若い美術家の鄭梨愛(チョン・リエ)だ。企画展「Behind the Terrain – sketches on imaginative landscape」(小金井アートスポット・シャトー)が彼女との出会いだ。前年のユーラシアンオペラ「Continental Isolation」の東京公演の上演にむかう中で、美術研究家、キュレーターの渡辺真也氏に紹介された、渡辺はドイツの美術家ヨーゼフ・ボイスとアメリカのナム・ジュン・パイクのユーラシアのビジョンを自身で辿りながら映画も制作していた。

 

 鄭梨愛は朝鮮大学校などで美術を教えながら作家活動を行っている。この企画展の案内には「現代における移住や境界線といった言葉の定義付けが“風景”とどのように結びつけられているのかを、個人の歴史性だけでなく、追憶・記憶といったものの政治的な相互関係から考察することを目的にしています」と書かれていた。

 

企画展の資料でキュレーター丸山美佳氏は彼女の創作と来歴についてこのように説明している。

 

 「鄭梨愛はこれまで自身の祖父(在日コリアン一世)をモチーフにした作品を多く手がけてきています。近年は親族としての祖父像から「在日コリアン」として歴史の一部として存在する祖父像へと移行しながら、作家自身を取り巻く社会やバックグラウンドに対して意識的に制作するようになっています。映像作品『沈睛歌』は、朝鮮の民俗芸能パンソリの曲の 一つである「沈睛歌」の歌詞を詠みあげる音声に、祖父が思い出を語っているモノクロ映像、 そしてその思い出の中で語られた「火」のイメージで構成された作品です。モノクロ部分は、祖父が故郷である韓国の全羅南道を訪れたときのもので、当時(2013年)の政治的情勢によって「朝鮮籍」である作家自身が韓国に行くことができなかったため、韓国籍である母親が 代わりに撮影したものです。映像には祖父が彼の父(作家の曾祖父)について話をしている場面も含まれており、「銃殺され、火葬した」という逸話は、朝鮮戦争前の朝鮮半島動乱期に 共産主義勢力を統制するために各地で起こった集団殺害の犠牲者となった曾祖父のことを指しています。映像では、当時幼かった祖父の目に焼きついている埋葬の光景と、「沈睛歌」の歌詞に見る「孝」の精神が重ね合わせられています。パンソリは、朝鮮民族の精神「恨(ハ ン)」を表出した芸能であり、この「恨」とは日本語の「恨み」とは全く異なるもので、宿命性と楽天性が共存した精神であり、被支配階級であった庶民の諦念と妥協によって「恨」 から解かれようとする希望が込められています。絵画作品『Image』も同様に、祖父の故郷 訪問のために韓国を訪れた母親と叔父によって撮影された風景写真をもとに制作したもの です。平穏な原風景には不穏さを掻き立てるような爆発や火が描き加えられており、風景に潜む暴力性は容易に消費されていくイメージへの抵抗でもあります。」

 

 今回の韓国での「さんしょうだゆう」とパンソリ「沈清歌」を繋げるという構想の中で、彼女の作品を思い出した。 

 

 その名も「沈睛歌」(2018/ビデオ/5分)だった。口承芸能である古いパンソリの言葉を、あえてネイティブとはいえない声で入れたのだという。「沈清歌」の日本語漢字表記は、一般的に「清」という通字を用いることが多いが、彼女は物語のラストの開眼のストーリーを踏まえ「目へん」の「睛」を用いている。

 

 自らの祖父が日本に渡って以来はじめて全羅南道の郷里を訪れるドキュメント映像作品だった。そこに「沈清歌」の言葉を朝鮮大学校の後輩に朗読してもらった音声を重ねている。パンソリの歌唱でもなく、ネイティブの朗読でもない声を重ねた意図についてもお聞きしたいと思っていながら時が経ってしまった。そのような創作をする彼女の来歴を詳しくお伺いしたいと思い、新宿駅の中のカフェで会った。 

 

 1991年生まれの鄭梨愛は横浜で育ち、父親の仕事で北海道に移住し朝鮮学校高級部を卒業した。創作を始め、東京の朝鮮大学校で美術を学んだ。2011年母方の祖母の葬儀で再会した祖父は創作の重要なモチーフとなった。ご家族と母方の家の関係は難しい面もあったそうだが、6年ぶりの再会で彼女は屈強なイメージもあった祖父が憔悴し小さくなった姿が目にやきつく。その後、祖父の肖像画を描き始めた。祖父の語りや表情を絵画として表現し、コミュニケーションを重ねる中で関係はじょじょに修復されてゆく。それににつれて、絵画が自然と抽象的になっていったという。いっぽうでテーマは「老い」や「時の経過で生まれる美」から、次第に具体的な「個人史」へと移行したそうだ。

 

 2013年になると祖父の体力も回復し、生きている間に、と故郷である全羅南道を訪ね、親族の方に会うことになった。同行を望んだが、「朝鮮籍」である彼女が韓国に渡航することは手続きが困難で叶わなかった。かわりに韓国籍であるお母様が同行し、家庭用ビデオにその故郷での様子を録画した。そこに収められた祖父やその故郷、渡ることが叶わなかった自らのルーツの一端をみる。当初はその映像を自らの創作の素材にしようとは考えていなかった。

 

「特に私が気になったのは曾祖父の逸話です。韓国軍により突然銃殺され、曾祖父が倒れた麦畑は彼の流した血によって土が肥えて、そこだけ麦がよく実った。曾祖父を火葬するとき、当時幼かった祖父の弟は自分の父が死んだことが分からず、曾祖父が焼かれる火の回り をぐるぐる走っていた、という話です。」

 

 前述の丸山の解説にあるように、朝鮮戦争前の話だ。その後成長した祖父は、争乱を避け「日本へいけば経済的にも何とかなる」という内容のプロパガンダをラジオ放送でよく耳にし、半ば刹那的に済州島から日本へと渡ったそうだ。現代の多くの人たちが忘れがちなのは、支配統治の開始から戦前だけではなく、太平洋戦争敗戦後の朝鮮半島の混乱と、それ以降の済州島等からの日本への移住者が多いという事実だ。

 

 日本へ帰国後、祖父はじょじょに体調を悪くし、2016年に亡くなった。その衰弱や死は彼女の表現を、よりドキュメント性の強いビデオアートへと向かわせた。「ある所のある時におけるある一人の話と語り聞かせ-。」(2015)は、彼女の母が撮影した故郷を訪れる祖父や再会した家族、全羅南道の霊光の風景、祖父の危篤の際に全羅南道から訪れたご親族との対面の様子、作家自らが暮らした北海道の麦畑の映像を重ねながら構成された。

 

 「対馬まで」(2017)は、対岸を眺めながら多くの韓国人観光客が「釜山」「韓国」という言葉を発する中で、ふと耳にした「朝鮮がみえる」という言葉が、創作の重要なテーマになる。対馬は、彼女のように容易に韓国へと渡ることができない「朝鮮籍」の人が、韓国にもっとも接近できる地だ。と同時にそこは、いわば越えられない「国境」でもある。

 

 ミクストメディアによるインスタレーション「忘れられたパンソリ(語り唱)」(2017)を彼女は次のように自解する。

 

鄭さんの作品「ハルベ(祖父)」
鄭さんの作品「ハルベ(祖父)」

 

「両側に映し出された映像は、全羅南道を調べて得た要素(農民が行う麦踏み、巫堂が行う祭儀クッから連想したサルプリという舞)、朝鮮戦争の資料写真から引用した印象的な図像(手を後ろにして歩く捕虜)、曾祖父の逸話から私が勝手に紡いだ物語(土饅頭がある丘で遊びまわる子供たち)をもとに映像化したものです。麦で作られた道に沿って鑑賞者が歩き、プロジェクターの前を通るときには鑑賞者の影が映像にうつることになり、「イメージ」のなかに鑑賞者が重なる仕組みになっています。」(鄭梨愛)

 

 鄭はパンソリと恨の関係についてこのように語る。

 

「パンソリは現在韓国で言われている、朝鮮民族の精神「恨」(ハン)を表出した芸能とされます。この「恨」は日本で言う「恨み」とは全く別なもので、宿命感と楽天性が共存してい る精神世界を指します。 たとえばパンソリの「恨」は支配階級である両班や君主の葛藤と恐怖、被支配者である庶民の生存と幻想的理想の、二つの「恨」があります。 両班や君主の「恨」は呪詛など物理的対決に訴える「恨」からの解脱が主ですが、それに対し庶民は諦念と妥協によって「恨」から解脱しようとし、それは明日に希望と生き甲斐を見出すものでした。 なので、庶民が両班を辛辣に嘲笑罵倒する場面でもどこかユーモラスがあり、それを聞いた 両班はむしろ吹き出して笑い転げてしまうと言います。 このように庶民の哀歓を充分に反映させながら、支配階級すらねじ伏せてしまうその庶民精神の勝利は「恨」が持つ独特な精神世界ゆえです。

 

 私はこの反骨精神にも似た「恨」というものを自身の祖父にも重ねました。苦境を乗り越え た生涯に反してガッシリとした祖父の肩や手を私は時折思い出します。 そして偶然にも祖父の故郷が、パンソリが発展した全羅南道という事実に対し、全羅南道が 継承してきた歴史による抵抗精神と「恨」との何らかの因果関係を思わずにはいられないし、 また祖父のあの屈強な面影も思わずにはいられません。土地がもたらしたかも知れないその「恨」を、私は積極的に知りたいとも思いまた作品に反映させたいとも思いました。」(鄭梨愛)

 

 彼女が映像作品中の朗読テキストとして、「沈清歌」のどの部分をどのような意図で選択していったのかも気になった。きいてみると葬儀歌や子守唄など歌の部分だった。彼女が作品に用いた箇所を学生に、日本語と韓国語で朗読してもらい録音した(それらのいくつかは、2022年に、ジー・ミナをヴォーカリストに迎えたCD「HOMELANDS」に収録した)。それなりに貧乏な私でも、多少の金策をほどこせばすぐに韓国に行くことができた。故郷やルーツを訪れることが困難な方が大勢いることを忘れてはならない。

 

 鄭梨愛は2018年韓国京畿道美術館での中央アジアやロシアからも出展された「コリアン・ディアスポラ」展に招待された。

 

 


5 「正歌」の歌手、ジー・ミナとの出会い

今回出演出来なくなったパク・ジハ(Park Jiha)のアルバム「Communion」.国楽で用いるピリ、センファン(笙簧)、ヤングム(洋琴)、ヴォーカル。クールな新感覚なスピリチュアルミュージック。 
今回出演出来なくなったパク・ジハ(Park Jiha)のアルバム「Communion」.国楽で用いるピリ、センファン(笙簧)、ヤングム(洋琴)、ヴォーカル。クールな新感覚なスピリチュアルミュージック。 

 

 

 前章までに述べてきたプロジェクトでは、言葉のコミュニケーションや予算等の制作面の難しさとゆえの、情報の不足を補う想像力を、創作につなげてきた。しかし今度の公演は、少し勝手が違う。日本の国際交流基金のソウルセンターの主催ということもあり、通訳を含め、これまでと比べれば、自力でやらなければいけないことが少ない、有難い環境だ。今回の事前の渡韓の目的も、通訳も介して、そのための準備をより入念に行うことだった。さっそく出演予定の一人の伝統音楽の歌手と、通訳者を介して初顔合わせすることになった。

 

 数ヶ月前からインターネットを駆使して、創作条件に合いそうな歌手を探した。まず若いパンソリの唄い手を探したが、みつけることはなかなかできなかった。発想を変え、それに拘らず、もう少し幅広いジャンルから探すことにした。ようやく一人の素晴らしいアーチストをみつけ、連絡をとった。民衆の芸能としての側面が色濃いパンソリとは異なる伝統的な正楽を学び、それをより現代的に表現する若い新世代のトップランナーであるパク・ジナだ。

 

 彼女は、李朝の宮廷や上流階級の合奏で用いる楽器を演奏する。日本の雅楽の「ひちりき」のようなピリ(篳篥)、笙をかなり大きくしたようなセンファン(笙簧)、ヨーロッパのチターのような多弦楽器のヤングム(洋琴)だ。時々歌うが、その凛とした自身の歌声や伝統音楽の歌謡性を強調して多用することは少ない。そこにテナーサックス、コントラバスなどの落ち着いたアンサンブルが加わり、JAZZ的な即興も含む「クールなスピリチュアルミュージック」と讃えられていた。ヨーロッパを中心にさまざまな音楽祭に招聘されて、日本でもCDが発売されている。

 

 あえてパンソリの出自を持たない演奏家に、そのテキストを歌っててもらう。しかしその音にもあらわれるだろう、民衆の生の微かな痕跡に耳を澄ます。そもそも私たちの創作は、伝統芸能そのものをコラージュしたり融合させたりすることではない。私が作曲した日本語の旋律をも歌ってもらう。事前の英語でのメッセージのやり取りで簡単に概要を伝え、今回は日韓通訳を介してさらに深い次元でミーティングを行う。できればこの滞在中にリハーサルセッヨンまで行う段取りだ。

 

 初めて直接会った若きアーチストは、高麗人や「在日」をはじめとするコリアンディアスポラの存在や、その歴史的背景を含む私の創作プランを聞いたあと、私にこう尋ねた。

 

「なぜあなたはそのような「難しい」テーマを音楽にしようと思うのですか?」

 

 唐突な質問に、私は、数ヶ月前にカザフスタンでコリョサラムの老婆にインタビューをしたときに聞かれたのとおなじように「仲良くしたいと願うから」としか言えなかったが、少し間を置いて「そのためには難しさに向き合い、芸術にはそれを乗り越えてしまう瞬間もあると信じているから」と控え目に付け加えた。せっかく通訳も介したのにそれぐらいしか言葉にはできなかった。このような創作にあらかじめ確信があるのではなく、創作の過程でそのことを確かめて行くことが私の本意だった。

 

 しかしスケジュールの問題を理由に出演を断られてしまった。日韓関係の影響もあるのだろうか。その連絡があったのは話し合いの数日後の帰国の前日のことだったので、大きな目的が果たせないままに日本に戻ることになってしまう。それだけは避けたかった。国際交流基金の事務所に籠って、またインターネットに頼った。

 

 ひとりの歌手の声の佇まいに息をのんだ。正歌(チョンガ)の若き女性歌手ジー・ミナの声だ。

 

 民衆の歌が「ソリ」と言われるのに対して、宮廷音楽から派生する正歌は「ノレ」といわれる。楽器の伴奏がつく歌曲(カゴク)、それをより簡素化した時調(シジョ)、やや長い詩を歌う歌詞(カサ)に分類される。特徴的なのは歌う速度の尋常ならざる遅さだ。子音等の後に延ばされる母音はとても長い。

 

 民衆音楽や信仰にまつわる流行や、外から輸入された歌や音楽が、俗世から離れた宮廷や特権階級社会の中で洗錬され、たとえば日本の雅楽もゆっくりとした悠久の調べをもつ。古来の神楽た中国、韓半島の雅楽に由来をする雅楽が、元々そのような性質だったといえば、そうでもないようだ。京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターのwebページに次のような記事を見つけた。「平家物語」での描写等から、実演も交えながら当時の音楽を復元しており、センターのウェブページで映像もみることができる。

 

「極めてゆったりとした雅楽を聴いて、平安貴族の雅な文化を想像される方は、多いとおもいますが、このような音楽となったのは、実はもっと後の時代のことで、平安時代や鎌倉時代、室町時代、つまり中世より以前の時代の雅楽は、今の雅楽とは全く違う音楽だった、という研究があります。その草分けがイギリスの音楽学者ローレンス・ピッケン(Laurence Picken )です。彼は、今の雅楽のゆったりとした音の進行のなかに、舶来した当時の大陸的・歌謡的なメロディーが潜んでいることを発見しました。すなわち、雅楽は、千年以上の歳月をかけて、何倍も、曲によっては10数倍も “まのび”したというのです。」(https://www.kcua.ac.jp/jtm/)

 

 時代が進めば、語彙も膨増え、喋るスピードも早くなり、一般的に音楽のテンポもそれに準ずる。しかし浮世から離れた宮廷雅楽は逆に遅くなる。たとえば、祭り囃子の笛の音や太鼓で奏でられる民衆の里神楽も、テンポをとてもゆっくりにして聴いてみると少しずつ雅楽と似てくるようにも思える。

 

 ジー・ミナが歌う李朝時代の上流階級間に隆盛した「歌曲」では、たった四行の詩が10分以上かけて歌われていた。高音や低音が息長く歌われ、長く続く母音に深いヴィブラート(こぶし)がかかる。後に公演の時に、ロシアからきた歌手、マリーヤ・コールニヴァが楽屋で、歌唱法について質問しているのを隣りで聞いていた。まずはじめは節を付けて歌うのではなく、ヨーロッパの山岳歌唱のヨーデルのように裏声とヴィブラートを用いる節回しを、師と一対一で、一音一音歌い方を習ってゆくのだそうだ。

 

 

 この身 死に死にて 百たび死すとて

 白骨 塵となり 魂魄

 ありとも消ゆとも 君への一片丹心 変わることあらんや

 

 これは正歌でも歌われる14世紀の鄭夢周(チョン・モンジュ)による「丹心歌(タンシンガ)」といわれ広く知られるハングル誕生以前の定型の三行詩だ。「君」とは高麗君主をさす。君主への忠誠をうたった詩だ。鄭夢周は日本でも人気の韓国時代劇にも登場する、李朝への移行期の高麗の高官、儒学者だ。李朝の開祖者、太祖 (李成桂)と対立し、その息子李芳遠に現北朝鮮の開城の橋で白昼、暗殺された。その血痕から竹が良く育ったため「善竹橋」と呼ばれるそうだ。

 

 李芳遠はのちの李朝第三代国王太宗となり第四代の世宗のとき訓民正音でハングルが施行された。10.000ウォン紙幣の肖像画が世宗だ。16世紀頃には音韻の定まった時調がハングルで書かれるようになり、両班階級から広まった。

 

 朝廷が安定してくると、自然や叙情が詩の題材になることが多くなった。 後に、男性だけではなく、歌舞を習得した、娼妓(キーセン)にも詠まれるようになった。儒教社会では恋愛を歌うことも推奨されなかったが、たとえばこのように詠んでその名を轟かせた。

 

冬至月のながながし夜を 真中より二つに断ちて

あたたかき春のしとねに 畳み入れ

君の 訪(と)いくる短か夜を 延ばし延ばさめ(黄真意)

 

  

 帰国日になって、コラボレーション相手の第一候補になったジー・ミナは、伝統的な国楽以外にも、現代的で前衛的な響きをもつアンサンブルにも参加していた。インターネット動画でみたのは、伝統音楽の要素を織り込んだ現代音楽だった。彼女を含む三人の若い歌手がメインヴォーカリストだった。彼女と同年代と思われるもう一人の女性歌手と、語り手的な男性歌手も、パンソリの声を洗錬させつつも伝統の素朴な情感を併せもち、素晴らしかった。

 

 ジー・ミナの声は三人のなかでは最も控えめに佇んでいた。聞き手をも巻き込んで激情的に喜怒哀楽をあらわすパンソリや民謡の声とは違い、空間のなかで凛と佇み、静謐な空間へと導くような透き通る歌声だった。私は今、その声で、宮廷や特権階級ではなく、民衆のフォークロアや、現代の言葉を歌ってもらいたいと思った。日本の説経節、安寿と厨子王の顛末を描く「山椒大夫」、パンソリ「沈清歌」、両国の民衆に愛された古い物語の登場人物たちが、この若き歌い手の静けき声に蘇り、魂の拠り所を失ってさまよう現代人の心を鎮めてくれるのではないか。

 

 なんとかひとりの歌手を見つけ、連絡だけはとっていただけることになった。候補はみつかったが、コラボレーション相手を確定できぬまま、振り出しに戻って翌日には帰国せねばならなかった。

 

 しかし今回の困難な共演者探しのなかで、いや、だからこそあらためて韓国の伝統音楽の現在を少しは知ることができた。伝統楽器を現代の方法で演奏することがさかんだが、まずそれを学ぶ層の厚さが日本とは異なる。革新性もあり、融合のレヴェルは日本と比べると相当が高く思える。そもそも伝統音楽じたいが多様である。シルクロードから中国を経て伝わる楽器の多様さ、モンゴル方面の北方諸民族文化や、台湾、琉球を経た南方海洋文化の流入などが、それを醸成する理由として考えられる。男寺団の諸芸の影響を受けた農楽や、巫楽などにおける打楽器を中心とした祝祭的合奏、その際の即興性の伝統が、身体レヴェルで受け継がれて現代にも受け継がれている。

 

 韓国では日本のようにジャズ音楽が根付かなかったという説を聞いたことがある。即興性と打楽器(ドラムス)は、ジャズ音楽を特性づける要素だ。そもそも伝統的にそれらの特性を有する韓国では、目新しさや新しい価値観をそこから感ずることがあまりなかったのではないだろうか。もちろん、日本同様に特にベトナム戦争時における米軍兵駐留期にさまざまなアメリカ音楽がもたらされ、ジャズをはじめロック、ポップスが韓国の音楽文化に大きな影響をもたらしたことは事実だ。しかしたとえば姜泰煥(カン・テーファン)、金大煥(キム・デファン)のような先駆者はその枠をすぐに飛び越えた。彼らは、東洋的な哲学や老荘や仏教思想と直結するような静謐さと激しさを併せ持つ独自の即興音楽を創出した。

  

 さまざまな音楽ジャンルの越境や、楽譜に書かれた音楽を演奏する際に、伝統音楽の即興性がしなやかに発揮される。10月に出会うことになるジー・ミナもかつて所属した「Jeong Ga Ak Hoe」という団体は、さまざまな音楽劇や音楽公演を提供するプロデュースチームで、若手ミュージシャンプールでもあり、アンサンブルや専属的な作曲家も有している。ユーラシアの両端、同じく12拍子のサイクルをもつスペインのフラメンコとの共演もあった。宮廷音楽、パンソリ、農楽が、ダイナミックに融合しながらシアトリカルな「現代音楽」として上演される。彼女をみつけたインターネット動画の作品は、1945年に日本の刑務所で非業の死を27歳で遂げた詩人、尹東柱の生涯を追いながら、中国北方やサハリンに「アリラン」を求めるロードムービー的な映像を伴う作品だった。社会的なテーマ性のある現代音楽作品の中のなかでも、古典芸能の魂が躍動していた。

 


6 「この国に、近代はありません」

ソウル駅付近の夜の路地
ソウル駅付近の夜の路地

 

  交流基金の事務所で日本語を学ぶ若いインターンの方に、学校における音楽教育についても尋ねてみた。日本では、古典芸能や、明治時代以降に作られた唱歌や童謡を習うが、韓国でも童謡や民謡を習うのかときくと、もっと古い時代の音楽は学ぶが、それ以後の音楽についてはほとんど知ることができないといい、つづけて

 

「韓国は近代はないんです。なぜならその時代は日本の植民地であったから。ないから習わないのです」

 

 と彼は日本語でこう答えた。あっけらかんと事も無げな口調ゆえにかえってはっとさせられた。

 

「韓国では1910年の日韓併合、すなわち「近代」以前の朝鮮王朝以前の音楽や文化を学びます。古い民謡もあります」

 

 この若者に、伝統音楽の本や楽譜があるか尋ねると大きな本屋を紹介されたので、事務所で仕事を終えた後に行ってみた。専門書を中心に、冊数は、日本の同じ規模の大型書店の日本の伝統音楽関連の書籍とは比較にならない多さであった。わからないなりに本を開いて中をのぞくと、楽譜やら音声の科学的分析やら、ひじょうに研究が進んでいる、と一見しただけでも分かる充実した内容が多かった。

 

 パンソリのような民衆芸能も1980年くらいにから復興し。現在では格式高い「国楽」公演の重要な一部として、権威化、観光資源化されている。新たなコラボレーション予定者のジー・ミナや出演を断られてしまったパク・ジナもそのようななかで多様な国楽を学習し、習得している世代だ。言葉もわからず印象に過ぎないが、もしもナショナリズムに健全さを求められるのなら、日本より洗練されたそれがあるのかもしれない。

 

 タワービルのエレベーターで背が高く屈強そうな身体にYシャツ姿の先端企業に勤める若い男たち、駅舎で兵役から往来する若い軍服の男に囲まれながら、またふと思う。強制させられた慣れない日本語を話す、少なくとも腕っぷしではとうていかなわぬ屈強な男たちを前にした日本人が、「近代」という権力をたてにコンプレックスを優越感にすり替えて、彼らを「前近代人」として蹂躙する心性を想像することもまた難しいことではない。

 

 私もまた、ソウルの路上やエレベーターで、ヨ−ロッパ、ロシアやほかのさまざまな地ではかえって意識することもない身長差や体格を、隣国では少し強く感じてしまった。昨今の、ネット上での隣国を揶揄する言葉をきいていると、日本にもまた、近代などなかったのではないだろうか、とも思える。あるいは近代という西洋のシステムや思想がそもそもアジアやロシアにおいては、幻のようなものかもしれない。

 


7 ふたたび「イマジン」

伝説のミュージシャン登場
伝説のミュージシャン登場

 

 出演者選びに奔走したが最終確定までに至らず、当初の目的を達せずに心身ともに疲弊していた。しかし帰国前日の夜、長年ソウル在住の音楽家佐藤行衛に、さらなるアドヴァイスをいただくために会えることになった。いちど東京で会ったことがあり、知人ではあるが話したことはなかった。ちょうどこの日、イスタンブールや東南アジアでの演奏ツアーからソウルに帰って来る。

 

 ソウル駅から遠くないホンデ(弘大)の雑居ビルの地下にある小さなライブバーで待ちあわせた。佐藤の活動のホームベースとなるような場所だそうだ。疲れ果てていたので、隣国とはいえ言葉の分らない異国のバーに先に入り、自分で注文してビールを飲みながら待つ元気はなかった。店に降りる途中の階段の踊り場で煙草を吸いながら氏を待っていた。すると地下から生演奏が聴こえてきた。スリーピースバンドのややルーズなビートをバックに、ジョン・レノンの「イマジン」が英語で歌われていた。

 

 前日に訪ねた半島を南北を分かつイムジン河を思いだしながら、韓国人の歌う「イマジン」かと思い、数ヶ月前のカザフスタンでの初演の開演前のBGMに選んだ忌野清志郎の歌を思い出していた。すると、間奏をはさんで途中から清志郎バージョンになっていた。韓国のミュージシャンが日本語でイマジンを歌うのかと驚いていると、佐藤が到着し、地下の店内に潜る。

 

 多言語が交錯する私たちの公演にはなんだかできすぎたシチュエーションだと思ったが、そうではなかった。歌い手は韓国人ではなく、佐藤の友人の宮崎から来た歌手の方で、自然農法を行いながら歌手活動をされている子連れのミュージシャンだった。お客さんは2、3人だった。

 

 その後彼らが何を演奏していたのかは思い出せないほど、しこたまビールを飲んで佐藤の豪快な笑いとともに時を過ごし、思い通りにならなかったソウル滞在の憂さを晴らした。器楽奏者やら私が弾くコントラバスの提供等、パク・ジナのもほかにもいくつか出演や協力を断られてしまっていたが、彼らも佐藤の音楽仲間であり、ほんとうに気軽に協力したり共演してくれたりする方たちらしい。この地下の小さなライブハウスでフランクなセッションをおこなったりもするようだ。今回のように公の機関が間に入ると、いろいろと「かまえて」しまうのではないか、とのことだった。パク・ジナをはじめ断られてしまった音楽家とももSNSをつかってあらためて不備を詫び、いつかの共演が実現できるようメッセージを互いに交わし合った。

 

 翌日、ソウル駅から空港にむかう。駅前の広場から周辺のタワービルディング群を見上げると現代の先端都市そのものだ。しかし、目線を人々の歩行する姿に合わせると、通りの路地は古い建物そのもので、目に入る看板の類いもしばらく時を止めたような古いものが多い。日本統治時代の住宅も残る。。基金の職員に尋ねてみるとその周辺は、本来は東京で言えば北千住や上野のような下町ですよとのこと。

 

 猛暑の昼間に日陰にも入らず何もせず道で寝そべったり、座ったりしている人々は路上生活者なのだろうか。夜同じ場所を歩くと路上に佇む人はだんだんと増えてゆき、東京ではみることができないほどの賑わいだ。独りでいる人もいるが、地べたで酒盛りをしている人たちも多かった。楽しげな様子にもみえた。むろん虚ろな表情のお年寄りも多く、そんな姿が目に入ると、植民地時代からの人生の来歴を勝手に想像してしまうこともある。国際交流基金の職員に事情を尋ねてみると、職業斡旋業者が近くにあるので、そこで朝、仕事の斡旋があり仕事が得られない場合は昼間から路上路上に佇み、得られれば仕事の後に、コンビニなどで酒や食料を求めるようだ。キリスト教団などによる「炊き出し」などもあるという。現文政権の政策では雇用問題を重視し、最低賃金の引き上げを決定して社会保障を整えようとした。しかしかえって中小企業の雇用を減らし、職を得ることが難しくなってしまったともき聞いた。

 

 成田空港から高速バスに乗り、ソウル駅に比べて幾分静かな東京駅の八重洲口に降りる。その静けさと秩序だった街並の内側に、資本主義社会、近代の個人主義や理性主義に疲れ果てた人々の暴挙や暴言を表裏に錯覚する。私のような生半な「平和主義者」こそ、自らのうちに潜む野蛮な暴力性の存在を自覚しなければ、創作もできないと思う。

 

 数日後、あらためてコラボレーション相手の新たな候補者となった、「正歌」の若き女性歌手、ジー・ミナにコンタクトをとって、挨拶し、パンソリ「沈清歌」を含む作品の構想について、簡単な英語でSNSのメッセージで送ると、こんな答えがすぐに返ってきた。

 

「私は、パンソリをもちろん知って、少し歌うこともできますが、専門ではありません。もう一人の歌手(インターネット動画でみた現代音楽作品で彼女の隣で歌っていたパンソリ歌手)とお間違いではないですか?」

 

 英語は苦手とのことで、翻訳ソフトの日本語での返事だった。実際にはこうだ。

 

「私の英語や日本語を行うことができているのがないので、翻訳に答えを送信します。アリラン映像を見たとましたがもしかしたらパンソリ方と混乱リジンではないかたい連絡致します。まず申し上げ、私の専攻はパンソリはありません。もちろん逆に基づいて行うことができる部分もあるだろうが、本物の音が好きならパンソリ専攻をお探しのもの迎えるよう慎重に申し 上げます。」

 

 丁寧で謙虚な人柄が察せられる。こちらも同じく英語と日本語から翻訳ソフトを使って、間違いなく不自然なハングルで返した。

 

「いいえ。私のオペラでは、あなたのような歌い方で、パンソリの作品にチャレンジしてみたいのです」

 

 彼女はそれならと引き受けてくれた。

 

 二ヶ月後の2019年10月韓国公演は、国際芸術見本市(PAMS)にて、このように行う予定。パンフレットではこのように紹介された。

 

 ~ユーラシア版、現代の「青い鳥」~

 

 

 「演出家、作曲家の河崎純は韓国や中央アジアの神話や伝説、コリアンディアスポラの歴史へと繋げ、舞台を近代、現代へと移し、ひじょうに新しい解釈で日本の伝統的な口承芸能を、現代に甦らせました。これは日本、韓国、ロシア、カザフスタンのアーチストが結集したインターナショナルプロジェクトです。河崎純音楽詩劇研究所のユーラシアンプロジェクトの2作目になります。音楽は河崎純作曲による室内楽、歌、ロシアの伝説的な前衛音楽家セルゲイ・レートフのサックスによる即興演奏、韓国の伝統楽器を用いた韓国ニュージェネレーションを代表する ,音楽家 、中央アジアシャーマニズムや伝統音楽を現代に甦らせるカザフスタンのグループ 「Turan」からコブス奏者、シベリアの歌姫マリーヤ・コールニヴァを招き、チェ・ジェチョルによる韓国打楽器、日本の舞踏、能楽の要素が現代の舞台芸術、音楽劇として再現されます。」