ユーラシアンオペラを彩る海外アーチストたち②

 

サーデット・チュルコズ(歌手/トルコ/スイス)

 

  1961年にイスタンブールで生まれ、現在はスイスのチューリッヒを拠点にトルコとも往復しながら暮らしている。

 

(ウイグルからの大移動)

 

 東トルキスタン(ウイグル自治区)のイスラム教徒であるテュルク系民族に対する中国政府の政治的圧力や文化的習慣の喪失のために、カザフ人はイスタンブールに逃げてカザフ難民として定住した。満州族の清によって征服され、以後、1911年、中国国民党の同地のウイグル人たちはその支配下で暮らすことを余儀なくされる。1933年と1944年に東トルキスタン共和国を建国するも、ソ連と中国共産党により消滅。1955年に中華人民共和国はこの地を新疆ウイグル自治区とした。

 

 1950年代にイスタンブールへやってきたカザフ人は、20年余りの歳月をかけて中国の新疆地域からイスタンブールへ到着した。彼女の両親もそのなかにいた。現在新疆ウイグル自治区アルタイなど季節に応じて遊牧生活を送ってきた1930年の寒波を直接的な契機とし、一万人ほどの大移動が始まった。

 

 ソ連時代の中央アジアを通過して越えることはできず、まず南方チベット方面を目指し移動する。家畜の死、高山病、チベット人との戦いなどにより結局チベットへ入国はできなかった。イギリス領のインドを目的地を変える。約3000人1000世帯が、武装蜂起を条件にインドに入国した。カシミール地方などへ移動し、収容所生活の中の厳しい環境の中で、人口は半数以下になったという。1947年インド独立後は、ヒンドゥー教とイスラム教の対立により、さらにパキスタンへと移動。しかし中国との関係を重んじたパキスタンは国籍の取得を許可しなかった。次の移動地として、トルコ系諸民族が暮らす唯一の独立国であるトルコ共和国への移住を目指すことになった。当時のトルコは、労働力の必要性とテュルク族の盟主としてその懐の深さを内外に示すため移民の受け入れ、テュルク族の受け入れに対しては寛容であった。

 

(移民の子として)

 

 チュルコズによると同じテュルク語族だが、カザフ語はトルコ語とは、ずいぶん異なるようだ。カザフ語は子音、母音が多く、喉の奥を用いて発音する音も多いという。収容所でトルコ語や手芸を学び、男たちは農夫として働いた。トルコ政府は彼らを積極的に保護したが、生活は貧しさをきわめた。イスタンブールでは、空き地にバラックを建て、カザフ人コミュティを形成し、皮製品などを生業とした。中東戦争や、キプロス戦争で、この産業を担っていたユダヤ人やギリシア人がこれらを放棄したため、カザフ人がこの職に就いた。チュルコズの家族もそこに暮らし、そのような環境で彼女は生まれた。不法建築「ゲジェコンドゥ」という木造のバラックはやがて、粗末な鉄筋のアパートに建て替えられてゆく。

若かりし頃のお父様
若かりし頃のお父様
若かりし頃のサーデット。ジャーナリストだった。
若かりし頃のサーデット。ジャーナリストだった。

 「移民たちは、中央アジアの高地の豊かな口承物語と音楽、ムガーム(12の旋律)の伝統を伝えました。故郷から遠く離れたトルコへの旅の中で、カザフの民族意識やイスラムへの信仰を再確認した人々が、トルコの音楽家の想像力に今日まで影響を与えています。高齢となった彼らの歌や昔話をききながらマルマラ海の近くのイスタンブールで育った私は、コーランを教える先生である「ホジャ」になりたいと思いました。

 

トルコではホジャは農作物などの祈祷や、治癒行為等のシャーマニックな存在でもあったという。

 

 (境界を越える声)

 

「私はアラビア語とコーランのメロディアスなテキストに魅了され、感覚的にそれらを模倣し、意図的に即興演奏する最初の機会をえました。20歳でイスタンブールを出発してスイスで暮らし始めました。そこでは、私のルーツの伝統に関する偏見のないアプローチから歌うこと並行して、ジャズや自由な即興など刺激的な新しい音楽の世界を体験しました。さまざまな実験的な試みに対する爽やかな開放感を得たのです。

イスタンブールに暮らしていたお母様。2019年3月91歳の生涯の幕をおろした。
イスタンブールに暮らしていたお母様。2019年3月91歳の生涯の幕をおろした。

 

 以来彼女は、母が一人で暮らすイスタンブールとチューリッヒを往復しながら、ヨーロッパを中心に活動し、ウイグル自治区、ウルムチや、カザフスタン、中国でもコンサートを行っている。

 

 「即興演奏やカザフとトルコの歌の演奏中では、記憶の変容をこころみます。文化的な境界を越えた声や音楽を用いて、あらたなイメージや空気を呼び起こそうとしています。記憶じたいは変わらぬものでも、表現のレベルでは変容します。こうした個人の認識が、文化的生活において新たな普遍的イメージを作り出します。