ユーラシアンオペラを彩る海外アーチストたち④

 

 ドミトリー・ダツコフ(ダンサー・音楽家・プロデューサー ウクライナ)

 

 

<父母のルーツ>

 

母の両親はジョージア出身のユダヤ人です。母の両親は、ナチスの影響のために1930年にリトアニアから追放された家族のひとりでした。多くの親族は第三帝国の強制収容所で殺されました。母親はトビリシ(ジョージア州)で学校を終え、薬局を学ぶためにゴーリキー(ニジニノブゴロド)市に移り、医者になった。そこで彼女はウラルの冶金学者の多く暮らす町マグニトゴルスクから来た父と会って、日本語を含む言語を学びました。」

 

 「父の両親はともにロシア人です。彼らの先祖はコサックでした。 1917年の革命の前に、彼らはドン川の近くの村に住んでいました。彼らは馬、畑、果樹のある強力な地主でした。彼らはボルシェビキによって土地を回収される前は富農だったのです。1950年代にはすべての労働者は「塵から地面まで」建設していました。両親はそのような時代に育ち、暮らしてきました。すべての新聞、テレビと映画は «自由 平等 連帯» を合い言葉に共産主義の実現を呼びかけます。誰もが平和に住みたいと考えながら、鉱業、製造鋼、麦や綿、ニンジンなどを生産した。(党=共産主義への)「恥と忠誠」が合い言葉となっていた。党への忠誠の要求が高まり、コムソモール(共産党青年団)の会議で糾弾される恐れも高まった。父母は一緒に大学を卒業した後ニジニノブゴロドから極東に引っ越すことにしました。それは1979年に実現し、ナホトカで暮らし始めます。」

 

<野球少年の極東暮らし>

 

 極東のウラジオストックはソ連時代は軍港の閉鎖都市であり、外国人はもとより市民以外のソ連人も市内には入れなかったため、商業港としては福井県の舞鶴の対岸ナホトカが栄えていた。

 


「父は若さと情熱で血がたぎり極東に移住を選択しました。ソヴィエトの新たな領域を調査する強い意欲を持って、日本を調査したいと思っていました。バム鉄道(バイカル アムール鉄道)を極東地域へ延長し、終着点に向かいながら、この地域を息づかせてゆくことが、若い男性にとっての愛国的行動を意味しました。70年代後半にはソ連では非常に強い共産主義のプロパガンダがあり、最優先事項とりました。」

 

 日露戦争後から構想されたが滞っていたバム鉄道の中枢部分の建設はソ連時代の1974年に始まり1984年レール敷設を完了した。イルクーツク州からバイカル湖の北岸を通り、シベリア鉄道の北を並走しながら極東に至る。全長約4300キロ。「世紀の大建設」には約200万人が参加した。ロマンを求めたり、高給に引かれたりしてやって来た彼らの多くは、そのままバム鉄道沿線の都市や集落に残ったが、ソ連崩壊を迎える90年代初めから街はさびれ始めた。

 

 多くのひとびとが囚人や労働力として極東の終着駅に居住、労働するようになった。世界大戦後と、スターリンの全体主義の状況がつくりだした恐怖と収容所生活におけるトラウマは、いまなお凍結したようにロシアの人々の遺伝子にも深く刻まれていると聞いたことがある。

 

ナホトカ(ロシア)
ナホトカ(ロシア)

 ナホトカの対岸は京都の舞鶴だ。シベリア、カザフスタン、ウズベキスタン、極東、シベリア抑留者の帰還船はナホトカの港を出て、「岸壁の母」にも歌われたように舞鶴の港に着いた。

 

 「私はこの太平洋沿岸のナホトカ近くの小さな町で生まれました。いつも風が強く、地面には、シダ、野生のブドウ、きのこで岩や山がいっぱいでした。水中ではムール貝、ホタテ、ヒラメとたくさんのカニ、そしてもちろんキャビアがありました。朝鮮人も暮らしており、非常に限られた条件のなかで、食生活、言語生活を保とうとしていました。11歳の時初めて日本を訪れました。日本に近いナホトカでは少年野球が盛んで、国際ロシア野球リーグに参加し、新潟を訪れる機会を得ました。見たものすべてにショックを受け、周りのすべてにたいし自我のアンテナを鋭くはりめぐらせました。なかでも本当に好きになったのは、そこで手にした雑誌の数々です。高品質の印刷と奇妙な漫画。私は野球仲間と一緒に、ホテル内のロビーにあるマンガ雑誌を貪り読みました。おもちゃ屋や本屋から無料の雑誌を集めました。私はその紙の匂いと光沢紙の肌触りが大好きでした。たくさんの高品質でカラフルで動きのある写真がありました。ソヴィエトの子供にとってそれは大きな衝撃でした。」

 


「家に持ち帰ってその雑誌のなかの一冊を眺めているとき、非常に奇妙な1ページを発見しました。塑像のようなカラダの男が超高層ビルの上からロープに吊られて垂れ下がっていました。彼がやっていたことにはなんの意味があるのかわからないけれど、非常に強く感情にはたらきかけました。それは純粋で自由で、軽みがあった。あとになってこれが日本の「舞踏」なのだということを知りましたた。

 ドミトリー・ダツコフは3年半イスラエル国防軍「ツァハル」に志願兵として従軍していた。イスラエルでは女性も含め兵役があるが、キリスト、イスラム(宗派による)等ユダヤ教徒以外には兵役義務はない。

 

 「アメリカ製のF-16 (戦闘機)に乗っていました。休暇中、日本のインターネットサイトをサーフィンしているとき、この写真と再会しました。それは日本の舞踏カンパニー「山海塾」の1981年のパリ公演におけるスナップだとわかりました。いつかこの写真から受けた感覚を深く掘り下げようと決意しました。」

 

<オデッサへの移住>

 

 彼は2008年にここで生まれた親友の結婚式のためにオデッサ来た。

 

「初めてこの街を訪れ、緩やかな包容力に敏感に反応し、この街の虜になりました。重要なのは、オデッサが港であることです。まず第一に、あらゆる商品が流通する海運都市でした。穀物の輸出はウクライナ最大であり、ここに着いた全ての人種を受け入れてきました。トルコ人、ギリシャ人、ユダヤ人、アラブ人、ロシア人、ウクライナ人、ガガウズ人(主にモルダビア地域のテュルク系民族だが、容貌はヨーロッパ人に近く、正教会のキリスト教徒。ソ連からの独立後モルドヴァ領内で自治権が与えられている)、ロマ人など、そこにヨーロッパ人(フランス、イタリア、ドイツ人のポーランド人...)が混在していました。この地でユーモアは他民族社会で潤滑剤の役割を演じていました。」

 

「この風土から醸成された自由とユーモア精神は、全ての哀しみと幸福を貫くプリズムであり、ギリギリのところで表された皮肉です。現在のオデッサでは、4月1日が「ユーモアの日」として定められているが、それは商業主義でひじょうに低俗であり、愚かさしか与えることのない無用なことです。」

 

 彼は私たちを招いた国際舞踏フェスティバルにおいて高度な「ジョーク」の精神がいまこの街に必要なのだと語った。現在は、オデッサで舞踏と街の再生に連関させたプロジェクトを主導している。

 

 職業としては、マンドリンを弾き語る女性とのデュオ「 Ekipaj Kalipso (カリプソの乗組員)」という名で活動している。生計はダンスではなく音楽のほうで立てているそうだ。

 

ナホトカ
ナホトカ
新潟 国際少年野球大会
新潟 国際少年野球大会


新潟から持ち帰った漫画雑誌でみたという山海塾の写真
新潟から持ち帰った漫画雑誌でみたという山海塾の写真

「家に持ち帰ってその雑誌のなかの一冊雑を眺めているとき、非常に奇妙な1ページを発見しました。塑像のようなカラダの男が超高層ビルの上からロープに垂れ下がっていた。彼がやっていたことにはなんの意味があるのかわからないが、非常に強く彼の感情にはたらきかけた。「それは純粋で自由で、軽みがあった。」あとになってこれが「舞踏」なのだということをしった。その後、軍隊奉仕から休暇中に帰宅したとき、日本のインターネットサイトをサーフィンしているとき、インターネットでこの写真との再会を果たし、いつかこの現象をより深く掘り下げようと決意した。それは日本の舞踏「山海塾」の1981年のパリ公演におけるスナップ写真だと分った。  

 

 ドミトリーは3年半イスラエル国防軍「ツァハル」に志願兵として従軍していた。イスラエルでは女性にも含め兵役があるが、キリスと、イスラム等ユダヤ教以外には兵役義務はない。

 

 

 「アメリカ製のF-16 (戦闘機)に乗っていました。」

 

彼は2008年に、結婚式でこのここで生まれの親友の結婚式のためにオデッサ来た。

 

「初めてこの街を訪れ、緩やかな包容力に敏感に反応し、この街の虜になった。事は、オデッサが港であることです。まず第一に、この海運都市では、あらゆる商品が流通され取引された。オデッサは穀物の輸出は国家で最大であり、ここに着いた全ての人種を受け入れてきました。トルコ人、ギリシャ人、ユダヤ人、アラブ人、ロシア人、ウクライナ人、ガガウズ人(主にモルダビア地域のチュルク系民族ですが、容貌はヨーロッパ人に近く、正教会のキリスト教徒。ソ連からの独立後モルドヴァ領内で自治権が与えられている)、ロマ人など、そこにヨーロッパ人(フランス、イタリア、ドイツ人のポーランド人...)が混在していました。そこで、「ユーモア」は他民族社会で潤滑剤の役割を演じていました。」

 

「この風土から醸成された自由とユーモアも精神は、全ての哀しみと幸福を貫く、プリズム、きわめてギリギリのところで表された諧謔である」

 

と彼は言います。

 

 「しかしこの「ユーモア」に関して、現在のオデッサでは、4月1日が「ユーモアの日」として定められているが、それは商業主義でひじょうに低俗であり、愚かさしか与えることのない無用なことだ」

 

 彼は私たちを招いた国際舞踏フェスティバルにおいて高度な「ジョーク」の精神がいまこの街に必要なのだと語った。現在は、オデッサで舞踏と街の再生に連関させたプロジェクトを主導し、まだ若い国際舞踏フェスティバルもその中心をなすものであるそうだ。

 

 職業としては音楽家でもあり、彼自身もギターを弾語と女性(歌、マンドリン)とのDUOで、「 Ekipaj Kalipso (カリプソの乗組員)」という名で活動している。生計は音楽のほうで支えているようである。

 

 

黒海(イスタンブール~オデッサ)篇/バイカル・黒海プロジェクト日記 /2017

 

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