ユーラシアンオペラを彩る海外アーチストたち⑤

 

アリーナ・ミハイロヴァ(ダンサー/ ロシア)

 

<母方のルーツ 釜山からの道>

 

 母方の曾祖父母は韓国の釜山出身だった。曾祖父は鍼灸や民間治癒法による「医療」活動をおこなう仏教徒(李朝時代は公式には認められていない)だった。孫であるミハイロヴァの母は祖父がマントラを唱えていたことを覚えている。祖父の代には中国の国境辺に暮らし日本語と中国語も話すことができた。家族は貧しく、仕事を探して転々と渡り歩いていた。祖父は12~13歳の時に12歳の娘(祖母)と結婚した。その娘であるミハイロヴァの母は、家族がその後どのようにして、ロシア領内の極東地域に移り住んだかについては覚えがない。

 

 1937年、スターリンによる強制移住政策が発動された。祖父母は、まだ幼かった母たち子供らを抱きかかえて真夜中、他の家族と共に河をこえようとした。

 

「祖母は新生児はであった母を頭の上に固定しました。しかし見つかってしまい捕らえられ、翌日、彼らはカザフスタンに行く列車の中にいました。到着したのは有刺鉄線の中にある荒野の収容所でした。そこでほかの幼子は命を落としてしまいました。彼らは1年後にそこから逃亡し、ウズベキスタンのタシケントの近くの非合法の「韓国村」に住み始めました。」

 

 集団農場の労働に従事した高麗人は稲作技術に長け、この地に強制移住された他民族に比べて勤勉だったといわれ、ソ連政府によって「優良外国人」とされた時期がある。そのため移動許可を得て、家族はロシア地域に移住し、生物学を学んだ母はロシア人の父と出会いました。」

 

<民族と表現のはざまで>

 

 ミハイロヴァは1970年に生まれ、ラトビア近くの小さな町プスコフで育つ。彼女と母親のような東洋風の面立ちの人はほとんどいなかった。ティーンエイジャーだった彼女には、そのことが受け入れがたく、失望した。周りのこどもたちに風貌をからかわれ、自らの「吊り目」を恥じた。自分自身は間違いなくロシア人だと感じていたが、ひとからは違ってみえるようだった。母、祖母ともにダンサーであった。体育大学に進学しダンスを学んだが、踊りでも、東洋的な側面を目立たせるような身ぶりを避けようとしていた。

プスコフ(ロシア)
プスコフ(ロシア)

  自身の少女時代の二つのエピソードをよく思い出すという。

 

母の韓国の民俗舞踊にみとれ、周囲の人が自らが踊るのをやめて、彼女のためのスペースをつくったこと。

 

人に整体を施していたとき、民間療法の施術をしていたという曾祖父の手が自分の手にのりうつったかのようだったこと。ヨガ、整体法を研究し、みずからのダンスを即興表現にゆだねるようになった。

 

「この訓練は、内部からわき上がるエネルギーについての深い理解を与えてくれました。」

 

 1990年代後半には文化政策「Soros」にノミネートされ、科学と実践の学会に参加し、心理療法の方法としての即興ツールの可能性を研究した。2000年にノルウェーでヨガを教え始め、サンクトペテルブルクのヨガセンターの共同設立者となった。また世界で最も古いバレエアカデミーでヨガのクラスを開催。ダンステクニックにヨガの練習を取り入れ、 「体内空間の拡張」をテーマに教えた。

 

 彼女はふだん、いわゆる「衣装」を着ないという。彼女にとって身体の内部から外部に放出されるエネルギー、その現れがダンスであるから、何かを表すための「衣装」は着ない。彼女はダンスするときにはじめて衣装を使用した。それは彼女にとって特別な友人による「作りかけ」の朝鮮の伝統服だった。

 

 数年後、ユダヤ人、ポーランド人ダンサーと3人で「血」というタイトルの作品をつくる。彼女たちはお互いのルーツを話したうえで、ダンスを即興で踊り始めた。

 

「それは感謝の儀式のようでした。それぞれに先祖に対する敬意であり、その一部が自分にあることの確認であり、結局のところそれは自分自身でした。不思議なことにこの作品を演じるときは、いつもそのように感じます。」

 

 自分の「朝鮮」の部分を、自身の即興的な踊りの中に意識するようになった。しかし、いまなお民族的ルーツと葛藤しながら、それを超えるような「ニュートラル」な表現を求めている。

 

「(2017年)9月のおわりに私はソウルに移住し、そこに母も来ます。それは家族にとって大きなことです。私はずっと前からそれを計画していました。母は自分の父母の土地を初めて訪れることになります。」

 

信仰に関する質問にはこう答えた。

 

「曾祖父は仏教、祖父は無宗教、 母はキリスト教の再臨派でした。』

 

 自身の信仰については、17歳(1987年 ゴルバチョフ書記長時代)で洗礼を受けロシア正教、あるときから仏教徒、最終的には「無宗教」だと教えてくれた。

 

 この話しをきいた約半年後、ソウルからペテルブルグヘ戻るという知らせがあった。

 

「3ヶ月韓国で暮らし、それは休息と再生の時間だった。でも私にとって創造的な生活と友人はみなロシアにあるのです。」

 

 母は病気がちでけっきょく韓国を訪れることはできなかった。

 

 40代だがもう孫もいる。娘は人気女優だそうだ。2016年のモスクワでの公演のあとの宴席で会ったことがある。残念ながら席が遠くて私は覚えていないのだが、メンバーによれば直視できぬほどの美少女だったそうだ。現在、病気がちな母と二人でサンクトペテルブルクのアパートに暮らしている。

 

 

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