ロシア篇② モスクワの天使、または老婆たち 2010


 

1 「砂の舞台」 ロシアのアーチストとの出会い

2 モスクワの天使、または老婆た

3  石橋幸とスターリンに屠られた3人の歌手

 

                                      

 

 

 

 

 


1 「砂の舞台」ロシアのアーチストとの出会い

 

  2010年3月下旬から4月上旬にかけ、「砂の舞台」という自作の音楽劇公演と、ロシアアウトカーストの歌を歌う石橋幸がクレムリン宮殿でのイヴェント出演でモスクワに来るので、それにあわせて開催されたユーゴザパト劇場での公演にも参加するためにモスクワに延長して滞在。私にとっては2004年のはじめてのロシア公演から三度目の訪露だった。音楽のツアー公演は街から街への旅公演が主なので、一つの都市に三週間滞在するということは珍しいことだった。それまでいくつかのプロジェクトメンバーとしては何回かモスクワに来ていたが、自分のプロジェクトの上演が初めて叶った。

 

 さまざまな人たちの言葉をちりばめたシアターミュージックとして作曲した。テキストはロシア連邦自治共和国のチュヴァシ共和国出身の詩人ゲンナジイ・アイギ、韓国出身のテレサ・ファッキョン・チャ、シベリア抑留者であった石原吉郎、鳴海英吉の詩などの言葉だ。言葉の部分を主に日本で事前に録音し、一部をモスクワで日本語を学ぶ大学生に、日本語のネイティブからすれば、あえてたどたどしいままに朗読していただきそれを録音し、舞台で用いた。

 

 事前の準備はまずは共演者選び。ロシアのパフォーマーについてあまり知らなかったので、現地スタッフにはいろいろと資料を送ってもらい、さらにパソコンで調べていたが、なかなか決まらない。結局直前になって本番会場「дом」のプロデューサーのリュドミーラ・ドミトリエヴァが推薦してくてた方たちを選んだ。同じコントラバス奏者の大ベテランでわたしもその名は知っていたウラジミール・ヴォルコフ、映画音楽など新進作曲家でトランペット奏者のアントン・シラエフ、女性のダンサー、アリーナ・ミハイロヴァ。三週間のモスクワ滞在だったが、到着してさっそく二日目にこのコンサートがある。ということは、ほぼ当日しかリハーサルができない。その後数年を経て、私のプロジェクトで共演を続けるミハイロヴァとの出会いの時だった。

 

 モスクワに着いて、早速お借りする楽器をチェックし、公演の主催である国際交流基金のモスクワセンター勤務の旧友B君と、舞台小道具の買い物にショッピングセンターに行く。舞台で使おうと思った砂の代わりとしてペットのトイレ用小石を吟味し、良い音のする金だらいなども買い込む。基金の事務所で、ロシア人の書道教室の作品を見て思いつき、半紙と書道セットを用意してもらった。ダンサーに踊りながら砂絵を描いてもらおうと思い、そのキャンバスとなるボードも用意 してもらう。現地に来てからいろいろとアイデアが浮かぶ。夜は会場を下見して、プロデユーサーのドミトリエヴァと演奏者のシラエフと楽譜の打ち合わせ。その後ドミトリエヴァがコンサートに連れて行ってくれ。、遊牧民族トゥバの出身のヴォーカリストで世界的にも著名なホーメーの歌唱で知られるトゥバ共和国のサインホ・ナムチラクのショーだった。自身の美靴作品が会場の壁中に設置され、そこでエレクトロニクスも用いながら、トゥヴァの叙事詩らしきものを歌ったり呟いたりしていた。明日の自分の本番で頭がいっぱいだったこともあり、現実感がない外異世界の儀式のように感じた。8年後に2017年イルクーツクで再会し、現在に至るまで共演が続くサインホとの出会いだったが、このときは後の共演者になろうとは想像もしなかった。

 

 公演当日、ペテルブルクからやってきたコントラバスのウラジーミル・ヴォルコフ、ダンスのアリーナ・ミハイロヴァとの初対面。彼らデュオにわたしが参加する作品のためのリハーサル。その後通訳を介して、わたしの作品「砂の舞台」のリハーサル。主旨や楽譜を説明していたが、時間に余裕もないので、なにかの作業を通じて打ちとけた方が良いと判断し、早速舞台で用いる書道をみなで行う。舞台美術としてのほか、ダンサーが舞台中にまき散らされた半紙を使って踊る場面も想定し、その素材にもなる。私が墨と半紙で手本をみせ、シベリア抑留の詩人鳴海英吉さんの漢字一文字の詩のタイトルの字をを3人に筆で書いてもらった。

 

虹、風、河、列、夏、飯、鳩、北、飢、葦、棺、雪、贋、土、夜、湾、海、杭、鬼、砂、友、雫、蛙、酒、花、髭、樽、歌、墓、鶴、春、駅、神、砂、さよなら

 

 同じコントラバスのヴォルコフとは、私の作品の前に行うセッションだけの共演で、「砂の舞台」への参加は想定しいなかった。しかし、一緒に書道をし、内容をきき、「ぜひ(作品にも)参加したい」と言い残し、本番まで散策にい出てしまった。それ用に楽譜も書いていないのでどうしようかと迷う。そうこうしているうちに私のトークコーナーの原稿チェックも終わっていないまま本番の時間。演奏家に楽器以外のことだけをお願いするのは心苦しいが、ヴォルコフには当初私自身がやる予定でいた、冒頭で半紙を床に敷き詰めるパフ ーマンスのみをお願いした。

 

左から アリーナ・ミハイロヴァ、ウラジーミル・ヴォルコフ、アントン・シラエフ
左から アリーナ・ミハイロヴァ、ウラジーミル・ヴォルコフ、アントン・シラエフ

 

 開演し、まずヴォルコフ、ミハイロヴァ、私の即興セッション。ロシア1といわれるヴォルコフのコントラバスはわたしとちがってとっても流麗で、 よく喋る。その後の私のソロ演奏コーナーでは、韓国のビートを使った以前17絃の箏のために書いた自作曲を演奏した。

 

 休憩を挟み、私のトークと作品の上演。ほとんど舞台監督であったB君が舞台裏で背広のまま、砂絵のための糊をボードに塗ってくれている。不安でいっぱいだがあとは演奏家に任せるのみ。ミハイロヴァにも状況設定を説明しただけで、結局、具体的な演出を施す時間がなかった。

 

 冒頭は、ヴォルコフが舞台に現れ半紙をまき散らす。そのなかでミハイロヴァが砂をつかってダンスする。すると舞台袖のスロープの上 からファンファーレのようにシラエフがトランペットを奏でる。ここで退場予定のヴォルコフは 金属のたらいをリズミカルに叩いたり して即興的なパフォーマンスを続けている。結局最後まで的を得た存在感たっぷりの「演技」だった。途中舞台〜退場したが、舞台裏からワンシーンだけ、コントラバスを弾いてくれた。楽譜にはもちろん書いていないが、その場で、ここでコントラバスが倍音たっぷりの音で空間をみたしてくれたら、と思っていたら、まさにそこで弾いてくれたのだ。素晴らしい判断だ。しかも再び登場するときはなんと衣装替えもしてコントラバスではなく箒をもって登場し、舞台上に散らばっている半紙を掃きはじめて、それはアリーナのいわゆる「踊り」ではない、ミハイロヴァの日常の所作を用いたパフォーマンス内容とも見事にリンクした。ロシアナンバー1コントラバス奏者といわれるウラジーミル・ヴォルコフをなんとも贅沢につかったものである。30分ほどのわたしの作品はラストシーンを迎える。

 

 ミハイロヴァには、自室のベッドで寛いでいる、という設定を伝えていた。本番前に彼女自ら小道具として買いに行ったファッション雑誌「コスモポリタン」を読みながらラストダンスを即興的に展開する。 そこで、踊りながらチュヴァシ共和国出身の詩人アイギの詩の一節をローマ字表記しておいた日本語で朗読することになっていた。

 

「これでおしまい”は“地上の道”のように残響するばかり」

(そして:そよぎ-と-そよめき。さやさやとそよめいている――ひどく遠いところで―――もう――はじまりが。《わたしのもの》、《わたし自身》が。)

 

 彼女は立上がって片足を地に着けず、片手に「コスモポリタン」を持ち、よろよろしながらこの詩を朗読した

 

 終演後のパーティーで彼女は、実は、と自分の出自を語ってくれた。彼女によると母方の祖父母は韓国人だが日本植民地時代に移民として満州に戦後はシベリアで過ごしたという。そのような出自を持つ人をロシアや中央アジアで「高麗人(コリョサラム)」というのだと知ったのは、数年後のことだった。

 

 彼女は自らの民族的出自と、外国語を朗読するという行為を直感的に重ね、あのようなパフォーマンスを行ったたのだろう。彼女とはいつかまた共演するであろうという予感が強く残った。そしてそれはこの6年後の2016年から実現することになり、2019年ユーラシアンオペラ「さんしょうだゆう」では彼女の家族の出自「高麗人」が大きなテーマとなる作品をつくり、彼女自身がそれを演じた。 

(ユーラシアンオペラを彩る海外アーチストたち 参照)

 

ユーラシアンオペラを彩る海外アーチストたち② アリーナ・ミハイロヴァ(ロシア)

 


2 モスクワの天使、または老婆たち

 

  滞在中はよく一人で、地下鉄に乗っては、あてもない駅で降り、そこを拠点によく散歩した。タガンカ劇場の隣にある、ソ連時代のカウンターカルチャーのシンボルであった役者、歌手のウラジーミル・ヴィソツキーの記念館にも出くわした。そこには1980年のモスクワオリンピックを中心にしたコーナーもあった。日本の不参加が決まるまで、キャンペーンで日本でもキャラクターアニメ「こぐまのミーシャ」が流行っていた。私は5才だった。山梨の母の実家、田舎の洗面所にあったそのミーシャの絵のついた、子供用の歯磨きに使うコッ プを思い出した。

 

 仕事に出ているBくんの帰りを待ち、1リットルのペットボトルに入って売られる安いビールを毎晩呑み、出勤に合わせて起きるという日々だった。 この夜は、行く予定だった伝説のロックバンド、アウクツィオンのコンサートのチケットがすでに満席でとれず、すでに部屋でさんざん酔いどれていた。私たちはもう夜遅くになってから、夜を往く青いトロリーバスに乗るためだけに部屋を出て、冷気に包まれた街へ出た。

オクジャワが歌ったアルバート街。観光化していて、青いトロリーバスがライブカフェになっていた。ほんとうの青いトロリーバスを降りたBくんと私はタクシーに乗り「危ない場所に連れて行ってほしい」と頼み、着いたらそこはワイン工場の跡地にあったポールダンスのショークラブだった。慣れないクラブでとりあえず朝まで揺れるているしかない。
オクジャワが歌ったアルバート街。観光化していて、青いトロリーバスがライブカフェになっていた。ほんとうの青いトロリーバスを降りたBくんと私はタクシーに乗り「危ない場所に連れて行ってほしい」と頼み、着いたらそこはワイン工場の跡地にあったポールダンスのショークラブだった。慣れないクラブでとりあえず朝まで揺れるているしかない。

 

 「最後のトロリーバス」(ブラート・オクジャワ/沼野充義 訳)

 

不幸に打ち克つことができないとき

絶望が忍び寄ってくるとき

ぼくは青いトロリーバスに飛び乗る

最終の、たまたま通りかかったトロリーバスに

 

最終のトロリーバス、町を突っ走れ

並木道をぐるっと回って

 

夜中に難破してしまった人たちをみな

拾い上げるんだ

 

最終のトロリーバス、ドアを開けてくれ!

寒さが身にしみる真夜中には

お前の乗客、お前の水夫たちが

救助にかけつけてくれるのをぼくは知っている

 

一度ならずぼくは彼らとともに不幸を逃れ

彼らに肩で触れたもの・・・

どれほどの、そう、ぬくもりが

沈黙の中にあることだろう

 

 最終のトロリーバスはモスクワを漂い

モスクワは川のように静まっていく

そしてムクドリのひなのようにこめかみを打っていた痛みも

おさまっていく おさまっていく

 

 ブラート・オクジャワは詩人、小説家で歌手だ。グルジア系の父とアルメニア系の母の間に生まれたソ連時代の吟遊詩人だ。1989年に日本公演も行っている。ヴィソーツキーとともにソ連後期を代表するソングライターだが、本業は詩人、小説家であり、歌はなるべくなら人前で歌いたくなかったと話した。

 

 部屋を出てトロリーバスに飛び乗ると、他に乗客は誰もいなかった。いくばくもなく終着駅に着いてしまい、バスから降りたわれわれは、行くあてもなかった。酒も手伝って気が大きくなっており タクシーを拾って、ロシア後ができるB君に頼んで、運転手にこう伝えた。

 

「危険なところに連れて行ってください」

 

 連れて行かれたのは、元ワイン工場だったという場所で、中に入ると、若者が熱狂するクラブであり、さして危ない場所でもなかった。テクノ風なクラブミュージックが大音量で掛かり、何人かの裸体の女性がポールダンスしていた。階段を上がると、、たくさんの小部屋があったが、さすがにその中まで入ることには危険を感じてしまい控えた。人波のなかでB君とはぐれてしまい、しかたなく、夜明けまでそこで過ごす他なかった。入り口で、入場証明となるブレスレッドを手首にはめられたが、それがなかなか頑丈で、ひきちぎることができない。そのまま一人で、夜明けのトロリーバスに乗って、B君のアパートに辿り着く。「コペンハーゲン」と書かれたブレスレッドをつけたまま、ベッドで眠りについた。 

 

ショスタコビッチ演じたもう一人の天使(劇場ホームページより)
ショスタコビッチ演じたもう一人の天使(劇場ホームページより)

 目を覚ますと、もうB君は仕事に出ていてなで、彼の書棚にあった清志郎のDVDでもみようかと、部屋のテレビをつけた。地下鉄駅のテロがあったようだ。ロシア語はほとんどわからず、いったいなにがおこったのだろうか,,,と思っていると、日本から心配するメールが携帯電話にいくつかはいってきた。やっと事情がわかりかけてくると、テロの現場はルビャンカ駅。半日前、借りてきた慣れない機械をもってサウンドスケープを録音などしていた場所だった。以前訪れたときに偶然見つけた、私の好きな本屋と前衛革命詩人ウラジーミル・マヤコフスキーの記念館がこの駅の出口近くにあった。 

 

 比較的こわいもの知らずの私も、さすがに外出は控えようとしたが、夕方にはけっきょく街へ出て地下鉄に乗った。気になって、その駅のホームに降りると、テレビでみたようにすでに死者への献花は確かにそこにあり、立ち止まって祈りを捧げる人々も目にした。いつもより多めなポリスや兵士。それでも街や地下鉄駅構内は一見ほとんど変わった様子がない。ここで、ついさっき20人程死んだのに。いつものように混み合う長い長いエスカレーターを急ぐ人々の行く先には変わらぬ日々の営みもある。

 

 この自爆テロは、チェチェン分離独立から世俗から、北カフカースにイスラム原理主義国家の建立を目指す流れの中にあった1999年の第二次チェチェン紛争に起因する。イスラーム過激派に実行犯は特定されないが、17歳の少女を含む二人の若い女性たちだとされ、捜査されているようだ。

 

 3週間と比較的長い滞在だったので積極的に観劇もした。著名な劇団のチェーホフ作品も見たが、モスクワドラマ芸術学院が印象に残った。大きな劇場ではないが施設も充実していていた。ダンサーの田中泯が講師を勤めてていた時期もあるそうだ。

 

 モスクワの前衛演劇は、ミハール・ブルガーゴフの「巨匠とマルガリータ」の上演をしたユーリー・リュビーモフを芸術監督としたタガンカ劇場が日本でも知られている。ウクライナ出身のこの作家の死後に刊行された、奇想天外で体制批判とも解釈された発禁書となった原作は、ローリングストーンズのミック・ジャガーも触発されている。1968年の名盤「ベガーズ・バンケット」の一曲目「悪魔を憐れむ歌」は当時の恋人であった歌手のマリアンヌ・フェイスフルにこの本薦められ、インスパイアされて創ったそうだ。リュビーモフは、革命芸術の方法として確立しながら、ソ連時代に禁じられた、メイエルホリドの身体技法ビオメハニハや構成主義などを援用し、チェーホフ、モスクワ芸術劇場等の正統派とは異なる演劇を模索した。

 

 タガンカの次世代の劇場としては、私が観劇したモスクワドラマ芸術学院が注目されている。芸術監督のドミトリー・クリモフ自身もタガンカ劇場の出身である。ニューヨークのオフブロードウェイのように小さな劇団のインディペンデントな実験劇も多いようだ。私が観たのはウクライナのユダヤ人の対するポグロムについてと、作曲家ドミトリー・ショスタコビッチの生涯をさまざまなアングルから描いた組曲的作品だった。二作品がセットで上演された。

 

 ショスタコビッチはユダヤ人ではないようだが、抑制されたみずからの状況をユダヤ人の冷遇と重ねたともいわれる。「ユダヤ組曲」という歌曲で民謡を編曲している。ソ連時代の検閲の中で、 無数のメタファーを隠語のように作品のなか引用したことが知られている。

 

 舞台はまずウクライナで迫害され たユダヤ人についての作品が上演された。突然舞台上でサッカーをはじめたり、ポグロムを示唆するさまざまなパフォーマンスのなかに、ユダヤの宗教歌の合唱がが挿入される、メタファーにみちた音楽劇だ 。その後、会場を移して、ショスタコヴィッチを題材にした作品が上演された。ピアノのオブジェと、巨大なショスタコビッチの操り人形だけが舞台装置だ。暗喩的な技法を駆使することでソ連社会をくぐりぬけてきた作曲家のの内面を、そのようには生きられなかった芸術家たちとを対比させながら描く。被害者意識的な妄念をじょじょに肥大化させてゆく高名な芸術家像をカリカチュアライズさせて描いた作品だった。

 

 ショスタコビッチは、小柄な若い女性が演じていた。日本のメディアの中で、若い女性はチャイルディシュに描かれ、演出され、消費され、いつかは自身でそれを演じるようになる。それに比してこの舞台に出ていた若く魅力的な女性は大人びてみえた。メタファーの意味するところまで理解することは難かしかったが、とても興味深い上演だった。

 

公演の写真。天使の一人。(劇場ホームページより)
公演の写真。天使の一人。(劇場ホームページより)

 

  嫉妬をを覚えるほどの良い舞台をみた翌日、本当に偶然のことなのだが、地下鉄の車両のなかで舞台に出ていた二人の女性に遭遇した。昨日の舞台とは違って、二人はじゃれあって少女のようだった。旅と偶然のひいき目で美化していえば、まるで天使たちと再会したようだった。行くあてもなく地下鉄に乗っていた私は、おもわず天使たちが降車するのを追ってプラットフォームに降りた。しかしすぐに見失ってしまい、とっさに我に帰って車両に戻り空いた座席に腰を降ろした。

 

 目の前には無表情に座る顔の老婆たち。なぜか不思議と、若い女性たちがどんな顔の老婆になるのかがなんとなく想像できる気がする。そう思うと、若い女性達をみては歳を重ねた容貌を想像し、くすっ、老婆を見ると娘姿を想像して、くすっ、という感じでなにかテロで危険な時期にメトロのなかで「あぶないひと」になりそうなので、必死に我慢した。

 

 赤の広場では、こんな風景に出くわした。先頭はレーニンの肖像を掲げた7、80代にみえる女性。十人程の小さなデモ行進だ。社会主義が崩壊し20年ほどたったが、まだ暮らしや様式の変化においつかないのだろうか、転換期の混乱しながらも自由を謳歌している人ばかりかといえば、そうではない。そのような人の姿を記憶に留めたいと思い、とっさに不謹慎にも携帯電話のカメラで撮影。以来しばらく携帯電話の待受画面はこの写真だった。この街を歩いていると、なぜか老婆が愛らしく目がそこに行ってしまう。スカーフを巻き、首の短い老婆。目が合うとなぜか視線をはずさない老婆。日本ではあまり見かけない女性の物乞い。酔った男をしかりつける老婆。孫(ひ孫?)をあやす老婆。そして今度は反対に、若かりし姿や少女時代の姿を勝手に想像する。あの老婆はいまどうしているだろう。

 

 あの天使たちと同じ舞台の上で出会えることはあるだろうか。その後、あの劇場で作品を発表できないかと画策し、モスクワの前衛音楽を牽引する音楽家セルゲイ・レートフをつうじ、コンタクトをとったものの、2020年現在まだそれは実現していない。

 

 滞在中のある一日は、日本語のできる女性が街案内のガイドをしてくれることになっていた。観光地ではなく、彼女が生まれ育ったそのモスクワ都市部の南東の小さな街を訪れ、遊んだいた公園、学校、幼友達が住んでいたアパートを案内してほしいとお願いした。そんなところに行っても何もないから、と別のプランを提案されたが、ただ変哲のない日常の風景を見るほうが貴重だと思い、あらためて頼んだ。少し暖かくなりはじめた3月の、よく晴れた一日だった。

  

 年齢からいえば彼女はペレストロイカの頃1980年代に生まれたことになる。その街にも60年代前半にたくさんできたフルシチョフ時代の様式というエレベーターがない5階建てアパートがまだ多く、高齢者は苦労するとのこと。また、鮮やかな三色の大きなボックスが並んでいるのを街のあちこちで見たので尋ねると、近年行政がゴミ仕分けのために設置したが、だれも守らないので機能していそうだ。幼少からテニスを習っていたそうで、屋内と屋外にコートを有する施設もみにいった。ちょうど、あのマリア・シャラポワ選手が大人気だった頃だ。女性や子供がテニスする姿をしばらくぼぉっと見た。風景はいまも子供の頃とあまり変 わらないとのことだった。はじめはそんな観光らしくない観光ガイドをすることを訝しがっていた彼女が、やがて懐かしがって写真を何枚も撮る姿をみているとこちらも楽しくなった。

 

劇場ホームページ https://sdart.ru/project/opus-7/


6 石橋幸とスターリンに屠られた3人の歌手

ピョートル・レーシェンコ(1898―1954)
ピョートル・レーシェンコ(1898―1954)
アレクサンドル・ベルチンスキー(1889~1957)
アレクサンドル・ベルチンスキー(1889~1957)
ヴァヂ ム・コージン(1903―1994)
ヴァヂ ム・コージン(1903―1994)

  

 件のテロで実行犯とされる若い女性がここで地下鉄に乗ったとの記録がある、ユーゴ・ザパドナーヤ駅(「南西」を意味する)はモスクワ中心街からやや遠い。そこから数分歩いたユーゴザパト劇場での石橋幸のコンサートにも参加した。2016年にお亡くなりになった劇場の芸術監督ワレリー・ベリャコーヴィッチは石橋幸の親友でもあり、日本でも劇団東演の招聘により精力的に公演を行っていた。ロシアの俗謡をロシア語で歌う石橋幸をはじめて見たのは、中学生か高校生の頃だ。好きだった友川カズキを初めて渋谷の伝説的小劇場いまはなきジャンジャンへみにいった。そのタンコさんとひょんなことからご一緒させてもらうようになり現在に至っている。私の公演の機会と重なり、偶然だがモロシアでもご一緒できるなんてほんとうに感慨深かった。私の作品「砂の舞台」はモスクワについた翌々日に終わってしまったので、このコンサートに出演するために、その先二週間ほどの滞在をしたことになる。

 

 コンサートのためにベリャコービッチが用意したバンドは「クレヅマスターズ」というユダヤ音楽を演奏するバンドだった。彼らはみな縞模様の囚人服を着て演奏した。曲が始まるとテンポがどんどん速くなってゆく。ユダヤ音楽のクレヅマーの特徴だ。たくさんの囚人の歌を演奏した。現在でも高齢者を中心に愛好されることのあるロシアの囚人の歌は、港町、ウクライナのオデッサでユダヤ音楽の影響を受けて楽曲として広まったと言われている。囚人の唄、街唄、ジプシーの唄さまざまな唄を演奏した。石橋は、日本ではきわめて例外的な場合をのぞいて、コンサートで日本語では歌わない。この日は、出身地である九州の「五木の子守唄」をロシアの俗謡の中に織り交ぜた。詠み人知らずの俗謡も多いが、作者や歌手が特定出来る場合もあり、石橋が取り組んで取り上げるのは以下の3人だ。ロシアの20世紀の音楽と言えば、革命を推進したリアリズム芸術や国民的な民謡、あるいは革命に寄与しながら粛正された前衛芸術や地下活動を行った歌手が多いが、石橋がとりあげてげているのは、むしろ革命に翻弄された亡命ロシア人や、民衆の心を代弁する歌手だ。日本において、若かりし自身も心酔し、またのちに失望した体験が、そうさせているのだろうか。

 

 東京でも「スターリンに屠られた3人」と題したコンサートを行い、私も演奏に加わった。アレクサンドル・ベルチンスキー、ウクライナのオデッサ近郊の農村出身のピョートル・レーシェンコ、サンクトペテルブルグ出身のヴァヂム・コージンの歌を特集した。ベルチンスキーとレーシェンコは革命前からスターであり、反革命の立場である白軍側についた。 末期とはいえ現体制のもとでの人気者で、既得権益を得ていたであろうから当然の流れかもしれない。ベルチンスキーはそのまま亡命し、ソ連時代なかなか帰国が許されず、黒衣のピエロの衣装で世界各地を巡演しながら望郷の歌もたくさん作った。ロシアンタンゴの大スターであるレーシェンコも主に東欧で活動し、スターリンにより不遇の扱いを受けた。帰還が許されたのちルーマニアで逮捕されその後ルーマニアの刑務所で死去。ジプシーの歌手を母にもつヴァジム・コージンも同じくスターリンに賞賛も受けるスタ ーだった。しかし1945年突如さまざまな嫌疑(同性愛もそ一つの)にかけられ、遠くシベリア極東マガダンに流され労役をおこない、その後も生涯をそこで過ごし、その地で歌い続けた。コージンはジプシー歌謡やロシアロマンスも多く歌った。石橋は毎年このマガダンの地を訪れ歌っている。

 

 ロシアにはロマンスといわれる独特の歌曲のジャンルがある。民謡とは違い、詩作品が作曲家によって声楽曲化されたものだ。西洋の声楽曲と比べると、歌謡性があるが洗錬に乏しいともいえるが、現在も愛されている。ロシアはひじょうに詩を大切ににしてきた文化をもつとされるが、ロマンスにもタイトルがついてないことが多く、詩の始まりが一節がタイトルの代わりになっていることが多い。ロシアでは、詩のような作品もすぐに歌謡化してしまうところがある。

 

 民謡や、俗謡は「作品」ではないから、正式なタイトルがついていないことがふつうだ。音楽や絵画にタイトルがつくことをあたりまえと思う感覚からすると不思議に思えるが、そもそも民謡や俗謡の多くはタイトルがなかったのだろう。便宜上の愛称はあったであろうが、タイトルがつけられるようになったのは、多くは楽譜が出版されたり、レコード作品として録音されたり、つまり音楽が作品となり、商品、モノとして流通するようになって以後のことだ。また、南米音楽では、古いものはタイトル名と同時にリズムの形式がレコードの曲目とともに併記されていることが多い。スペインのフラメンコもそうだ。

 

 石橋幸と活動をともにさせていただいてから、もう15年近くになる。250曲近くのレパートリーから選びながら、 毎週のように演奏してきた。それらは、短調がほとんどという点では共通もあるが、赤軍合唱などによりよく知られたいわゆる「ロシア民謡」とも、とくに短調的なくらい響きを持たない古来のスラブ系のフォークロアとも異なる歌だ。近世から近代の間に生まれた曲が多い。次章では、さらに古いロシアの歌にも遡って想像しながら、ロシアの歌、あるいは人間にとって歌とはいかなるものか、すこし考察してみたい。

 


毎年秋から冬に行う石橋幸紀伊国屋ホール公演。
毎年秋から冬に行う石橋幸紀伊国屋ホール公演。