ウクライナ篇「旧社会主義圏のサウンドスケープ」


 

 ②ウクライナ篇(キエフ・2008)

 

1 スラブ女神の見える部屋で

2 キエフの地下道の哭き女

 

 

 

 


1 スラブ女神の見える部屋で

 

 2008年にモスクワ、ペテルブルグ、ウクライナのキエフ、リトアニアのカウナス、ヴィリニュスを公演した。現地アーチストとのコラボレーションはなく、薩摩琵琶と笙の邦楽器を含む現代曲のツアーだった。即興演奏も含めた国広和毅の作曲は旋律線とその集合(塊)を意識したクールで斬新な組曲に仕上がり、演奏も充実していたが、演奏以外でさまざまなトラブルが重なり、ツアー半ばのキーウに到着した時には、すでにスタッフ一同が精神的に極限ともいえる事態に陥っていた。ここに来る前のモスクワ、ペテルブルグですでにその異変はあったのだが、私はなんとかなるだろうと楽観視していた。事の次第があらわになったここキエフでは、一同それぞれにホテルに自主監禁状態。外出するために部屋の扉を開ける音すら、互いの精神に影響を与え合い、ぎりぎりに保った緊張を崩壊させる原因となりうるような状態だった。荒治療に賭け、いっそメンバーを連れて気晴らしの外出を試み、あてもなく地下鉄に乗ったりしたが、かえって事態を悪化させることになった。街の中心の独立広場に面し、公人、要人も利用するという古い巨大なホテルだったが、一階にはみるからに娼婦とわかる女性たちが半ば公然とロビーの椅子を我が物にスタンバイし、夜になってフロア奥の部屋を重たいビロードのカーテンをめくって覗いてみると、下半身に響く四つ打ちビートが鳴り響き、スモークがたかれるその中でポールダンスヌードショーが行われていた。

 

 高層階の部屋の窓の外。左に音楽学校、右に音楽堂、そして中央には、先端にキリスト教以前からのスラブ神話の水と森の女神ベレヒニア(Berehynia)を冠する高さ60メートルほどの独立記念塔。公演、美術学校?でのワークショップ、久々に日本酒をあおった大使公邸での食事会などのミッションを淡々とこなすのみ。かの革命的舞踊家のヴァーツラフ・ニジンスキーもキエフ出身だが、せっかくの世に名高きキエフバレー観劇のお誘いもお断りし、外出を控えざるを得なかった。疲れ知らずな私も、つづくトラブルの問題解決の糸口もみつけられず、寒くなりはじめた秋空にそびえ立つ、おそらくこの国の人々にとって大切な象徴的なモニュメントであるこの塔を、なんの感慨もなく虚ろにみつめていた時間が長かった。 

 

 そういえば2004年の争乱、「オレンジ革命」の舞台となった広場でありテレビでこの塔をみたことがあった。大統領選のさなか立候補中も現職大統領に毒物がもられ、顔面がただれてしまった(のちに偽装だったとされる)というスキャンダルもあり、日本でもよく報じられていた。

 


2 キエフの地下道の哭き女

 

 互いに顔を合わせることを引き続き避けるため、ホテルの朝食もとれぬメンバーもいた。だから彼らのためのパンを買いにいくという口実をつくり、一人の時間をみつけて、ようやく街を歩いた。建物は、ソビエト様式の無機質な灰色も多いのだが、かえって樹々の緑がひきたつ美しい街だった。良く晴れた午前、結局、帰り方をわすれるほどに歩き続けてしまい、そろそろ宿に戻らなくてはと思い、塔が見える方角に向かって、大通りを渡るために古い地下道に入った。

 

 その半ばで、なにか歌っているのか慟哭しているのかわからないような異様な声が外の方から漏れ聴こえてきた。いそいで地下通路を渡り階段を上がりかけると歌で通行人の耳目をあつめる物乞いの老婆が地上の入り口に立っていた。足下にはお金を受けるお椀が置かれていた。歌うというよりは泣き続ける老婆を目の前で直視しつづけることは難しかった。お金を求められるような気もしたので、階段を下りて地下道の入り口へと戻り、トンネルに響き渡る声がやむまで20分くらいそこに立ちすくんだ。

 

 もしかしたらいまのようにスマートフォンでも持っていたら無粋にも録音していたかもしれないとも思う。しかしそうすることをも許さないような切迫した声がつづき憚られた。なにかとんでもない風景に立ち会ってしまったような気持ちだった。しかし時折そこを通り過ぎる人々は何事もないように足を止めることもない。声がやみ、再び階段を上がってゆくと、秋の空の下をとぼとぼと歩く、紙袋を手にしたこの老婆の後ろ姿があった。その人の声を聴いていた、というより浴びていた私は自分の身体に、憑き物が落ちたような得体の知れない軽さを覚えた。そしてアスファルトの地面を踏んで歩いているのかさえわからないような足どりで、独立広場のあの女神の塔を目印に、老婆とは反対方向に道を戻った。

 

「そこへは風も吹き抜けず

獰猛な野獣も走り通らず

小鳥も飛び行かぬ

そこへは歩いて通る者も馬で通る者もいない

遠い国ではないが---名も知れぬ国

底へ通る道は丸太の舗装もなく 還ることのない道」(「ロシア異界幻想」栗原成郎 岩波新書より )

 

 あのとき老婆はなにを激しく、泣き、嗚咽しながら吐き出すように歌っていたのかは知りようもないのだが、だいぶ後になって、そのような歌のことをインターネットか図書館で知り、「ロシア異界幻想」(栗原成郎 岩波新書)という本を読み、どうやらあれはスラブ地域の慣習として存在した「泣き歌」というものだったのだとわかった。あのときのキエフの嗚咽とは異なるだろうが、これは死んだ従兄弟に向けた泣き歌の歌詞で「あの世」について歌われているそうだ。

 

 民間伝承の長い詞として歌い継がれてきたようだ。人が亡くなったとき死者が、もうこちらがわへと戻ってこないように、歌われたという。婚礼においても嫁を送り出すときに歌われた。イリーナ・フェドソーヴァという天才的「泣き女」もいた。しかしキリスト教以前の原始宗教的な感覚が残り、精霊の訪れと、壮大な宇宙感がその根底にある。同書によるとロシアのこのような口承文芸のなかには、中世以来ドゥホーヴヌィエ・スチヒー (duxovnye stixi)、霊歌(キリスト教ロシア正教)である民間宗教歌もあり、これらはカリーキ・ペレホージェと呼ばれる巡礼者によって歌われていたそうだ。カーリキの単数系カーリカはこのように説明されている。

 

「Kalikiという名称は、中世の巡礼がはいた特別の履物の名である中世ギリシャ語のKalikaに由来する。(中略)時代がくだってKalikaは「障害者」を意味するKalekaという語と混同されるようになった。実際に民衆宗教詩の伝承者である農民階級出身の詩人たちには、目の不自由な人が多かった。彼らは世間が見えない代わりに常人には見えない霊的世界を見る眼が与えられており、キリストの霊性にあずかることのできる「神の人々」として民衆の尊敬を集め、殉教の聖者たちの生涯や神的世界のさまざまな現象について分りやすい言葉で語り、魂をとらえる啓示を歌い上げることによって、「キリストのために」人々から喜捨を受けて生計をたてることができた」(「ロシア異界幻想」栗原成郎 岩波新書 )

 

 泣き歌の習俗は、東アジアにも多い。儒教に哭礼(こくれい)の儀式の伝統があり、葬礼で流される涙の量が死者の生前の徳を表すという。そのために、それを増幅させるため「泣き屋」が存在する。儒教以前にもあったこの慣習は朝鮮半島ではさらに盛んに行われ、現在の葬礼でもこのような場面をみることができる。日本においても古事記の女神「ナキサワメ」や、日本書紀などにその存在は明らかだ。南東を中心とした島々では比較的最近までこの風習、職業は残っていたそうで、特に琉球諸島、青ヶ島などの伊豆諸島、長崎壱岐島などに見られた慣習のようだ。アイヌの葬儀でも歌われていた。哭女の習俗は宗教を越えて世界各地に存在する。

 

 以前、朗読公演でアルゼンチンの作家フリオ・コルタサルの短編小説「夜仰向けにされて」のためにメキシコの曲「ジョローナ」を編曲したことがあった。かつて画家フリーダ・カーロとレズビアンの関係にあったといわれる、90歳を超えたメキシコの歌手チャベラ・バルガスがやはり慟哭するように歌う。

 この曲についてアメリカ文学者の越川芳明の著書「ギターを抱いた渡り鳥―チカーノ詩礼賛」(思潮社 2007)のなかにこんな説明をみつけた。「ラ・ジョローナ」にはいろいろなヴァリエーションがあるようだが、だいたいこのようなものだ。

 

 ある女性が結婚後、子供を産むが、夫がどこかへ行ってしまい(たぶんよそに別の女をつくり)、そのため女は狂気に陥り、子供を川に投げ捨てて死なせる。その後自らも川に身投げして死ぬが、その魂が夕方になると子供を求めて泣き叫びながら、川べりをうろつく子供を捕まえようとする。

 

 このような悲惨なストーリーも含め、中南米の植民地化、カトリックの布教の中で生まれた芸能というのがたくさんあるのだろう。先住者の習俗、多神教的世界との間に生まれるいびつなフォークロアは、たとえば南米現代文学のガルシア・マルケスらのマジックリアリズムのなかにも甦る。それらを意識して、私も2018年のユーラシアンオペラ作品で泣き歌を創作モチーフの一つとした。

イリーナ・フェドソーヴァ Ирина Андреевна Федосова
イリーナ・フェドソーヴァ Ирина Андреевна Федосова
CHAVELA VARGAS
CHAVELA VARGAS