ハンガリー篇「旧社会主義圏のサウンドスケープ」


ドナウ川 水辺に行ってよくビールのんだ。
ドナウ川 水辺に行ってよくビールのんだ。

 

 

③ ハンガリー(ブダペスト)2010

 

 

1 ハンガリーと日本 口琴について

2「マジャロック」とロマ自身のための音楽

3 バルトーク・ベラから想像の民俗音楽へ 

 

 

 

 

 

 

 


1 ハンガリーと日本 口琴について

 

 夜の灯りに照らされたドナウ川の寡黙なさざ波を見つめていると、黒い水飴のようなこの水が、やがて黒海にまで流れ、イスタンブールの海峡を通ってエーゲ海や地中海にまで至るとは想像しがたい。朝になり、陽射しの暖かい通りを歩いていると、ブダとペストにわかれたこの街から、東欧のポーランドで感じたスラブの若草の香りともすこし違う。ドナウが運んできた土や雑草と枯れ草と樹々の香りがして、初秋の爽やかさに身がつつまれる。2010年の10月にブダペストでトルコの音楽家との公演「Sound MIgration」、およびリスト音楽院でワークショップを行った。ほんの3日ほどの短い滞在だった。

 

 中央アジアやモンゴルの口琴を弾く友達から比較的安価なハンガリーの口琴のはなしを聞いたことがある。意外なことに日本に輸入されている安価なものはハンガリー製だというのだ。世界各地に口琴文化があって東南アジアのものも聴いたことがあったが、口琴と言えば、アルタイ系、モンゴル系、北方諸民族、アイヌのイメージが強かったから驚いた。中欧とはいえ、ヨーロッパに口琴文化があることを想像しなかったからだ。しかし民族の出自からするとしかるべきなのだろう。多くのハンガリー人をさすマジャール人の大部分が1000年ほどハンガリーの地で暮らしている。ウラル・アルタイ語族のフィン・ウゴル系を祖とする民族だ。ウラル系はハンガリー、エストニア、フィンランド、アルタイ系語はテュルク、モンゴル、トゥングース、朝鮮、日本語も含む。アイヌでは竹製の「ムックリ」やシベリア、極東の鉄製が用いられているが、ヨーロッパ、東南アジア、メラネシアでも、それぞれの形で広域で親しまれてきた。ハンガリー語では「ドロンブ」というそうだ。シベリア、極東と同型の鉄製だ。鉄製の口琴は歯や頭蓋骨などへの震動が強いので、トランス状態を引き出しやすいと思われ、シャーマニズムとの結びつきも感じる。鉄といえば鍛冶屋は歌舞音曲とともにロムを代表する職業だから、ロムの人びととの関係もあったのだろうか。

 

 「びやぼん」という名前で日本でも江戸時代に江戸で一時的に大流行したという。口琴は口の動きを巧みに使うので、同時に言葉が発されても聴こえるか聴こえないかくらいだろう。そのことを利用して世相を批判したり皮肉ったりしたそうだ。それゆえに半年くらいで禁止されてしまったようだ。口琴は森の動物の声を模倣したり、地に根差す神や霊的存在と交信するために用いられてきた。だから、自然の変幻に恵みを移動しながら求める非定住的な生活に残ったのだろうか。唯一絶対の価値を求める一神教的な宗教や、教えはそのような遊牧、狩猟的な暮らしにはそぐわないのが一般的だ。一方で日本や朝鮮半島で口琴文化があまりないのは、定住農耕を中心とし、仏教的な死生観や倫理観を背景に持つ暮らしともあまり馴染まなかったからかもしれない。

 

 そんなことを思いながらリスト音楽院のワークショップでは、クラシック音楽の技術技巧の習得にいそしむ大学生音楽大学の学生にコントラバスの実演を交えながら、一本の弦の開放弦のみを用いて、口琴とともにあったシベリアや中央アジア、モンゴルの唄法を意識し、倍音の響きを調整しながら演奏するアンサンブルを試みてみた。

 


2 「マジャロック」とロマの自身のための音楽

ブダペストを散歩するトルコの二人(サーデット・チュルコズとシェヴケット・アクンジュ)2010 sound migrstion  トルコ・エジプト・ハンガリー公演にて。
ブダペストを散歩するトルコの二人(サーデット・チュルコズとシェヴケット・アクンジュ)2010 sound migrstion トルコ・エジプト・ハンガリー公演にて。

 

 

 小さな地下鉄駅から通りに出て、ツアーメンバーとブダペストの夕暮れをぶらぶらとあてもなく安いレストランを探しながら散歩していた。そのとき小さなレコード店をみつけたので、ふらっと入ってみた。目に入ったのが、「マジャロック」というコーナーだった。「魔邪」という字も連想され、響きもなんとなく禍々しくも可愛らしいようでもありみんなで笑った。つまり「マジャール」人のロックということだ。

 

 このとき、二枚組のロムの歌のフィールド・レコーディングのCDを買った。帰国してから聴いてみると、これは衝撃的だった。ほとんど楽器を伴わず声のみによるものだ。ヴァイオリンの哀愁溢れる旋律の早弾きや、速度を増してゆくエクスタシーをイメージすることができるような、いわゆるロム(ツィガニー、ジプシーの音楽)の音楽とはまったく違い、どこでも聴いたことのないような歌があふれていた。

 

 

ジャケからしてヤバい
ジャケからしてヤバい

 この地のロムの音楽というと、ヴァイオリンやギターや感情の震えを表すようなトレモロで奏される多弦打弦楽器のツィンバロンが不可欠なように思われる。それはもちろん歴史の過程で、各地の音楽要素を取り入れながら生業としてきた音楽だ。一方、そのCDで聴いたのは、それらとは異なる、彼らの生活の中にある、彼ら自身のための歌だった。

 

 ヴァラエティに富むが、早口な歌と、リズム、合いの手の入れ方などが器楽的ともいえる二人で歌う歌も多く、いわゆる「ロム(ジプシー音楽)」でも聴いたことのないさらなる性急さを感じさせる音楽だった。エスキモーなどの于北方民族の歌遊びを思い出させるものもあった。あまりにアクが強くて、それらの断片が無造作に連なっていて、BGMとして流すのにはまったく不向きな歌声だった。

 

 

 もしかしたら日本のフォークロアにも、形として残った「民謡」以前にはこんな歌声があったかもしれない、と想像し、わくわくした。もちろん定住の民、刹那的ともいえる移動の民のそれとはだいぶ異なるのだろう。 

 


3 バルトーク・ベラから想像の民俗音楽へ

 ブダペストは音楽の盛んな街なので、楽譜屋が充実しているかもしれないと思い、探して行ってみるとやはり、コダーイ・ゾルタン、バルトーク・ベラ、リゲティ・ジョルジュまさにこの地を代表する音楽家の曲、コダーイが編集した民俗音楽集やバルトークが採譜した民謡の楽譜なども容易に見つけることができた。ハンガリー語はウラル・アルタイ語族で、は日本、東アジアと同じく名字・姓名の順で記される。

 

 バルトークはなぜか魅力を感じ続けていた作曲家だった。ハンガリーやその周辺にまで目を向け、直接、農村に赴いて歌を集め続けた。バルトークの音楽は、抽象的、難解であるといわることもあるが、それはその通りだと思う。

 

 それは、歌の持ち主である、歌ってくれた人びとやその生活文化に対しての慈愛、それを汚すことのないように細心の注意をはらって慈しんだ結果だ。わかりやすく換骨奪胎し引用するのではなく、個別性にこだわり、際に注目しながら等しい構造を探ってゆく丁寧な作業だ。はっきりと旋律となって聴こえてこない代わりに、その歌の背景にある生活の機微にこそ触れるような断片がちりばめられて、一見抽象的な音響をなす。

 

 音楽学者のレンドヴァイ ・エルネの研究所によると、造形美術や建築に用いられる黄金比率や「前の2つの数を加えると次の数になる」フィボナッチ数列( 1,1,2,3,5,8,13,,,,)が旋律や和声に応用されていることはよく知られている。それらの数理の中にフォークロアの「断片が」息づいている。代表的な管弦楽ばかりでなく、たとえば153曲の小品によって構成されるピアノ練習曲集「ミクロコスモス」、「二台のヴァイオリンのための44のヴァイオリン曲集」、抽象的な「弦楽四重奏曲」などの小編成の器楽曲にもよくあらわれている。平易なポリフォニーニよって書かれる「ミクロコスモス」のような子供のための練習曲では、そこに書かれた音符(ピッチ)の連なりや旋法よりも、その重なり合う「響き」、演奏上の「ゆらぎ」にこそ民俗音楽を感じさせる。

 

 従来の「国民楽派」風な扱い方は、民謡の旋律をわかりやすく五線譜に馴染ませ、本来は伴わないはずの和声によるオーケストレーションのなかに表される。19世紀末のヨーロッパの社会ではそれぞれ、国民国家の強固な形成をめざして、統一民族の優生意識を醸成して行くために不可欠なことであり、それは芸術に担わされた役目でもあった。固有の民族性を確立するため、キリスト教社会以前の各民族の神話や民俗芸能の再解釈が求められる、実際にバルトークも、ハンガリーという不安定な国家からそのような要請を受けた。しかしバルトークが「国民」を形成する民族の領域を越えて、さまざまな周辺民族同士の連関に視野を広げ探求しようとすると、非愛国的だという非難を受けた。バルトークは「民族」ではなく「民俗」にこそ着目していたといえよう。

 

 バルトークより一つ年上の、同じく民俗音楽を収集、研究した作曲家コダーイはこれを、「コダーイシステム」として現在に至るまで日本でも用いられるような教育システムにまでつくりあげた偉業である(私自身はなんといっても、弦楽器のソロ曲でNo.1の「無伴奏チェロソナタ」だが)。しかしバルトークと比較してコダーイの合唱など教育的な作品を聴くと、民謡が平板になってしまったような印象がつよい。あるていど普遍性のあるシステムをもたなければ平等に教育をできないから、その際に、再現性の高い合理的な「西洋音楽」の歌唱法や記譜に頼ってそれらを収めなければならなかった。

 

 バルトークは1940年にナチズムの影響を恐れ、アメリカに亡命し、ニューヨークで経済的困窮のうちに死を迎えた。その業績はリゲティ・ジェルジュにも引き継がれている。リゲティ・ジョルジュは、ユダヤの家系に生まれ家族の命を強制収容所で亡くしている。バルトークとコダーイに師事し、とりわけバルトークの強い影響化のもと電子音楽や創作楽器など多様式に先端の音楽を模索した。スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」にも楽曲が用いられ、西側でも知られた。イタリアのルチアーノ・ベリオなどとともに二十世紀のヨーロッパを代表する前衛音楽家だが、両者に共通するのは、バルトークの影響を強く受け、とりわけ声に対する作品や他言語性を扱い、音楽作品のなかでアンサンブルや多彩な声や楽器奏法の表現を用いて社会の構造を演劇的に扱ったことだ。スロべニア出身のフランスの作曲家=トロンボーン奏者、ヴィンコ・グロボカールはJAZZや即興の要素を用い、この方向をさらにシアトリカルに表し、移民、亡命をテーマにした多言語によるコミュニケーションをさまざな形態で描く作品「Les Immigrés」などを発表した。

 

 20世紀の現代音楽において、アメリカの現代音楽はより東洋やアフリカの汎民族音楽的な無国籍音楽が志向され、イギリスは社会的、共産主義的とも言える実験性、ドイツ、フランスは方法的、哲学的に音楽を深める傾向が特徴的だった。対して民謡の混在や多言語を演劇的な表現の中で具体的に扱ってきたのが、ヨーロッパの近代史のなかでもローカルともいえるイタリアや中東欧の作曲家だ。このような中東欧の「現代音楽」とよばれる音楽も、わたしのユーラシアンオペラの創作にとっての先駆的存在だと思っている。  

 

 イタリアのルチアーノ・ベリオは。超絶技巧や特殊奏法を駆使しながら、それらを「音楽」的な実験に留めずに、複雑な響きをその政治的態度としてあらわしてゆく。それらの響きも不協和音に満ちた、とっつきやすい音楽とはいえない。そんなベリオの作品にしては珍しく、メロディアスで人気もある、世界各地の民謡を編曲した「フォークソングス」(1964)という作品がある。

 

 ベリオの当時の妻でもあり、現代音楽を代表した歌手キャシー・バーベリアンが歌っている。楽譜どおりに、しかしベルカントなどの西洋古典音楽の歌唱方とも異なる歌い方だ。各民族音楽に固有性をあらわすビブラートは少なめで、それを強調しない。アンサンブルも民族楽器ではなく西洋楽器を用いる。クラシック歌曲では一般的なピアノ伴奏ではなく、つつましげに打楽器を加えた室内楽の伴奏が歌に溶け合う。演奏も歌と同様に、民族性を強調するようなそれぞれのクセ、リズムや音色を用いない。

 

 箱庭的な芸術ではある。風雨やお日様に晒された民俗音楽でもなく、それぞれの民族性をシンボライズしたものではない。民族音楽でも民俗音楽でもなく、西洋古典の伝統や前衛、それらのいずれとも異なる響きと歌。おそらく精緻に分析されたであろう各地の音楽をあえて楽譜のなかに留め、西洋楽器で演奏し、各民族の歌を同列に並べ、かえって何処の土地でもない音楽に変換してゆく。ベリオは逆説的にそれを「フォークソングス」と名付けた。この民族不在の民族音楽は、インターナショナリズムとしての「現代芸術」は、ローカリティをこのようにしか表しえないない、という、反ナショナリストの立場からの誠実な回答だったように思える。クラシックでも、民族音楽でもない、それらの歌や演奏は、民族音楽をベースにしながら、「架空の民族音楽」のようだ。

 

 様々なトラディショナルな音楽が一つの作品に包括的に取りれた音楽が、1970年代あたりから1990代くらいにかけて生まれていた。日本では細野晴臣のエキゾチズム、意図的な南洋「風」なB級エキゾチカ音楽なにもみられた。アフリカの音楽のリズム構造を抽出し、サンプリング的な発想で再構築するように民族音楽を扱ったミニマルミュージック。ハロルド・バッドのような「第四世界」の音楽や西ドイツのCANなどもその代表的な存在だ。そこでは特有の民族性や身体から生まれるノリを搾取するのではないという意思を表すために、さまざまな仕掛けや工夫がなされていた。さらに、伝統的な属性を排除すること自体を目的にしたテクノや、二度と同じメンバーによるアンサンブルを「組織」するこことをしなかったり、演奏では民族やジャンルに直接現れる特性の再現を排したデレク・ベイリーの「カンパニー」など、ヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションのアナキズム的な集団もあった。それぞれに対極の音楽にも思われるが、当時の言葉で言えばまさにポストモダニズムを模索する音楽という意味では、根本を一にする。米ソの二大国のイデオロギーによる冷戦構造の終焉から、終息する政治的インターナショナリズムのオルタナティブを模索し、未来を先取るような音楽が試みられた。

 

 かつてアメリカの前衛音楽家、プロデューサーでありベーシスト、ビル・ラズウェルに「(民族音楽の)表層ではなく、構造を模倣せよ」のような言葉があった。今さらながら、バルトークの創作はそのようなイズムのまさに嚆矢であったのだろう。ラズウェル自身の音楽は、あまりに多様であるため、かえって思い出せないでいるが、どこかで我が意を得てていた。構造の抽出する行為こそ創造であり、伝統的な権威に束縛されずそれをシステム化すれば、そこに新たなコミュニティの早出も可能かもしれない、と考えた。しかしそのような、考え方=イズムもやがて硬直化する。方法やシステムへの拘泥は、ときに他に対して排他を生んでしまう。あらゆるイズムやシステム(構造)から、音楽を自然や生命体に還してゆくような音楽を求めたくなった。私自身の作品としては、無伴奏コントラバスの「Biologia」というCDがそれにあたる。そこで、その音楽が、いまはまだない歌を生み出す、場所であるかのようなイメージがあった。そのとき、私はまったく意識していないが、バルトークやチェコのヤナーチェクなどの響きに近いのでは、指摘されることもあった。ヤナーチェクもまた、モラヴィアの民俗音楽研究を創作の出発点とした作曲家だ。スラブ語系の諸地域や、バルカン半島の作曲家の音楽にはたとえば草原から、今香漂わせながらたちのぼってきたかのような、土に根ざした響きを感じることができる。それは、洗練された観念性や宗教性が優位に立つ、たとえば独仏などの古典音楽とは異なる。

 

 ところで、歌に伴われる楽器の伴奏はぴったりと歌によりそって、併せることが大事だとよくいわれる。しかし私は、歌と伴奏はあまり癒着すべきではないと考えている。人は、歌わずとも、声を出さずとも歌っている。とくに人が一人でいるときはそうなる。それをつつむ状況、環境自体が、いわばその伴奏だ。たとえば一人の人間と自然との関係に、歌と伴奏の関係を捉えてみよう。歌とは一人の人間におこった原初の衝動と、共感や再現したいという感情、欲求とのせめぎあいの間にある「揺らぎ」そのものではないだろうか。伴奏はむしろ積極的にその揺らぎを促す磁場とならなければならない。そのようにして歌が生まれる、と私は考えている。それはなるべく即興で、既存の文化体系に対しても揺さぶりをかけながら奏でられるべきだと思う。初めから歌があるのではなく、歌になれなかった、ならなかった「言葉」や「旋律」があり、それを表象化させるのが即興音楽の場だからだ。楽譜に書かれたり、聞き覚えたりしたような旋律を歌ったとしても、いまここで初めて声となって現れた、旋律のように歌われなければならない。それは、たとえば完成された歌曲の世界とは真逆なものだ。

 

 世界と人間との関係を野生へと還してゆくような音がある。

 

 1997年にチェコのヴァイオリン奏者、ヴォーカリストのイヴァ・ビトヴァがバルトークの「二台のヴァイオリンのための44のヴァイオリン曲集」を素材に一人で、西洋音楽の理論から大きく逸脱した即興で演奏した作品。それはバルトークが構成したそれらの民謡が、ふたたび空や野にざわめいて自在に飛翔する。

 

子供の感性も複雑な繊細さと暴力的な野性味があるものだが、民謡も同じように無意識の複雑さとそれを表現する技巧、端直さを同居させている。バルトークの音楽の複雑さはそれを素直に表そうとした結果のように思える。

 

「私は、一つの旋律が単純であればあるだけ、いっそう独特な和声で伴奏することが可能である、と断言します。」(「農民音楽の新しい芸術音楽に及ぼす影響」)

 

 バルトークの言葉だ。旋律は「音楽」に収めてしまうものではない。バルトークが農村のおばあさんの歌に出会ったのと、イヴァやインプロヴァイザーがバルトークの曲に出会いそれを演奏するのは創造行為の触発という意味において同じことではないだろうか。そうしてさらに音楽は完結することなく、再生しつづける。