ポーランド篇「旧社会主義圏のサウンドスケープ」


暗い通りを抜けたら中央広場だけが煌煌と琥珀色に明るかった。(クラコフ)
暗い通りを抜けたら中央広場だけが煌煌と琥珀色に明るかった。(クラコフ)

 

東欧篇(ウクライナ・バルト・東欧) 

 

①ポーランド  2001 2002

 

1 旅芸人一座クラコフで 

2 ポーランドの20世紀前衛芸術

3 ロマとユダヤの悲歌

4 タンゴ ゴンブロヴィッチとイリーガルな夜

 

 

 

 

 

 

1 旅芸人一座、古都クラコフで

 

   2000年、私にとってのはじめての海外公演で、最初に訪れたのはポーランドの古都クラコフだった。故西川千麗の日本舞踊の公演だった。ワルシャワに次ぐ都市だが、日本でいえば京都のようなところと聞いていた。舞台衣装や一部の楽器が空港に到着しないトラブルもあり、郊外の空港から外に出られたのがたしか前夜22時過ぎ。迎えの車に分乗して中心地へ向かう。スピードをあげる車の運転に少し不安になりながらも外を眺め、目をこらし外の様子をうかがおうとしたが、街灯もなくしばらくは暗闇。異国独特の匂いと、東欧の秋の夜の冷たい空気、運転手さんがかけるラジオからきこえる硬質な響きの、早口にしか聞えない言葉。初めての海外公演で興奮し、外の景色はみえないが、視覚以外の感覚を目一杯使い、この地を感じようとしていた。

 

 まだ20代、疲れ知らずの私は宿についてすぐ荷物を部屋に入れると「今日はゆっくりおやすみください」 という忠告を無視し、通訳として公演に関わっていたマグダレーナという名の女性に誘われたのか、誘ったのか、とにもかくにも中心街 へとくりだした。その産地として有名な琥珀の色にライトアップされて賑わう、中心地の広場にでると、「映画みたい」、おもわず恥ずかしくなるような小声を出してしまった。1、2時間ほど眠りについた後、私は翌朝5時前には目を醒ました。昨夜のあの辺りはいまどんな感じなのか、今度は一人で歩いてみたいと思った。静まり返るホテルのエントランスを抜け、古くて重い木製の扉を開けた。

 

 まだ仄暗く、霧もたちこめた夜と朝の間、10月のポーランドの古都の街並は、張りつめた緊張があるようにも感じた。建物と建物の間に捨てられたゴミの山や、安っぽい香りのトイレの香水の匂いすら私はを惹き付けたられた。ひたすら歩き続け、秋の朝日が銀杏の葉を輝かせるころ、やっと人現れ始める。その黄色い街並をいそぐ、通勤や通学する人々をみながらこんなことを感じた。「その十年の未来、過去、なにか例えば政変や恐慌などがあっても、だいじょうぶいつものことさ、」というよくわからないタフさだ。戒厳令も敷かれた民主化運動から10年ほど時を経ていたが、妙に慣れた落ち着を感じた。しかし浮き足立ってはいない。年を重ねた人たちの顔にはそれらしく皺が刻まれ、スラブ系若い男子は、ヨーロッパのラテンやゲルマン、日本の若者と違い、長髪やパーマはあまりみられずほとんどスポーツ刈りのような短髪でまるで兵士のよう。よく煙草を吸う女性たち。街並は、むき出しとまではいわぬが、東京とくらべるとずいぶん装飾の少ないリアルな肌触りの実体感(記号的でないというか)があった。あきらかに「高度」資本主義社会ではないという感じだろうか。

 

 けっきょく飛行機の預け荷物が公演日までクラコフに届かなかった。「仮の衣装(浴衣)でも」という現地の劇場サイドからの提案があったが、公演中止も視野にいれ、劇場にどのような返答をするか、朝食後ホテルの会議室に召集され、座長である西川千麗が出演者、スタッフ全員に意見を訊いた。荷物が着かなかったら公演は中止しようと言う意見でまとまった。西川は、今後このような国際交流公演で、完全な上演を条件とし、それが困難なら公演はしないという態度を招聘先に示す必要がある。それでも公演を行った、という前例を作ってしまう。すると後にどのたかが公演を行う際に、同じようなこのようなトラブルが起きたとき、同じように対処されてしまうかもしれない、とのことだった。多くが同意し、私が意見を聞かれる以前に公演中止の意見が勝り、もし、荷物が届かなかったら中止し、不完全な上演はしないことになった。私は心の中ではそれでも公演は行うべきだと思っていた 。それにもまして、全体のことよりも自分自身の希望が勝っていた。それまで日本でしか演奏したことのないコントラバスを別の土地で弾いてみたい。ここまで来てそれをせずに帰ることが残念でならなかった。

花子
花子

 1898年パリ万博で女性舞踊家でありプロモーターとなっていたロイ・フラーに見いだされ、アメリカ、ヨーロッパを巡演した川上音二郎一座は妻の貞奴を花型に、各地で評判や議論を巻き起こしていた。貞奴は日本初の「女優」である。フラーは貞奴の二番煎じのように次なるスター花子を見いだした。芸者であった当時34歳の花子は1902年、旅芸人一座とともにデンマークのコペンハーゲンの博覧会で「ハラキリ」や「武士道」を見せ物とするショーに出演するために渡航し、そのまま、ヨーロッパの日本人旅芸人一座にもぐりこみ端役脇役を演じていたところフラーに出会った。彫刻家オーギュスト・ロダンと植民地博覧会で出会い、モデルをつとめ、以後も親交は続いた(森鴎外の短編小説「花子」のモデル)。身長138センチと小柄な花子が桜の木の下で斬られて悶える表情にロダンは惹かれたという。花子一座もまたヨーロッパで好評を博し、この評価は一面としてヨーロッパにおけるエキゾチズム、ジャポニズムの熱狂と流行にすぎないという見方もあった。ここポーランドでも花子は舞踊家イサドラ・ダンカンとともに並び称されたほどだった。

 

 ロシアのモスクワ芸術座では花子によるワークショップも行われた。リアリズム演劇理論を確立したコンスタンチン・スタニスラフスキーやそれに対する身体演劇理論(ビオメハニカ)を構築したフセヴォロド・メイエルホリドをも魅了した。しかし新劇運動の旗手築地小劇場を創始し、スタニスラフスキーシステムを導入した小山内薫はこれに憤怒した。信奉し崇めている彼らが、自身は「お座敷芸」としてしか認めていないものを大絶賛されたのだ。日本の新劇界においては、歌舞伎が男性だけが演じるの対して、女性も演じ、時代物や女性の日常も描けるという潮流をつくった「新派」にも連なった音二郎、貞奴や花子の欧米での活躍もまた、下品な見せ物にすぎぬと非難、黙殺されていたという。

  

 時代も状況も異なるが、私たちも、あのとき旅芸人の一座だった。荷物が届かず稽古もできず数日間、劇場に行って現地で用意されたコントラバス(コントラバスを空輸できることは稀である)を一人で練習し、街を散策し日々を過ごしていた。

 

 クラコフ公演の会場は、映画のアンジェイ・ワイダの1987年の京都賞を記念し、賞金の4500万円を全て投入してつくられたクラクフ日本美術・技術センター(設計・磯崎新)だった。19世紀後半に、日本文化にあこがれていた大富豪のヤシンスキーが国立博物館に寄贈した葛飾北斎や喜多川歌麿の浮世絵等が展示されていた。1944年、ナチス・ドイツの占領下に博物館で開催された日本美術展に、レジスタンス運動に参加していた18歳のアンジェイ・ワイダの姿もあった。ワイダの映画は、「灰とダイヤモンド」くらいしか、観たことがなかったが、帰国したらぜひ観たいと思った。

 

 結局、本番当日に荷物は届き、何時間か遅れての公演になった。他人の楽器を演奏して本番をするのは初めてのことだった。本番を行うことになったので、気になっていた箇所のメンテナンスを試みた。楽器の内部でカラコロと小さな異音がしたので、なんとか取り出そうとした。すると中からカラカラに乾いたキャラメルが出てきた。嘆かわしくも思ったが、愛着が湧いた。

 

 その後、ワルシャワで翌年に予定された本公演のために小さなプレ公演を行い、数日の滞在ののちに帰国した。楽器が届かなかったりと、落ち着かぬまま興奮していたが、初めての海外公演に訪れた地に2年連続で訪れる機会を得ることが決まると、何かとても縁の深い運命のような結びつきを感じてしまった。帰国してからは、この時に買ったCDを狂ったように聴きまくり、わずかにもっていた知識をより深めたいという想いに駆られていた。

 

 ロマン・ポランスキー等の映画音楽で数々の名作を残したピアニスト、作曲家クシシュトフ・コメダは特によく聴いた。1960年代前半の東欧最大のジャズフェスティバルワルシャワJAZZジャンボリーでの名演は、コメダのオリジナル曲を、中後期のジョン・コルトレーンのような長尺のインプロヴィゼーションが展開される。激しく、しかし蝋燭の灯りを消さないように慎重な演奏をしているような緊張感があり、クラコフの夜明けの街並のイメージに重なってくる。途中ドラムソロがそろそろ終わるタイミングを見極め、主題(テーマ旋律)に戻るその直前に早口のMCが入る。おそらく通例のメンバー紹介とjazzフェスティバルについての簡素な内容なのだが、芸術と政治の間に置かれた切迫感を感じさせるポーランド語の響き。淡々としているがそれがかえってドラマチックに聞こえ、演奏よりその部分ばかりを何度も繰り返して聴いた。翌年の、ワルシャワ、小都市プウォツクでの公演が待ち遠しくて仕方がなかった。

 


2 ポーランドの前衛芸術

 

 踊りや演劇のの海外公演は、舞台の仕込みに時間がかかるので、演奏家はフリーな時間が比較的多く、数日間は半分オフでぶらぶらしていることが多い。しかし翌年のワルシャワでの再演時は、ここに来て新たな曲を作らなければならなかった。ホテルから文化科学宮殿という大仰な名の、たしかに巨大な建物(劇場)に通い、ソビエト様式の、入り組んだ奥の日の当たらない部屋をあてがわれ、そこで借り物の慣れない楽器を弾きながら作曲した。汚れた水色の壁にナゾの数字が書かれ、船の舵のようなハンドルや、梯子、の ある黴臭い部屋。スターリンの贈り物、社会主義時代の遺産としてワルシャワ市民に疎まれていると聞いた。

 

 この時の上演作品「よだかの星」は、日本での初演は亡くなった岸田今日子の語り、クラクフ公演と、日本での能舞台公演ではポーランド人の男性の俳優さんがポーランド語で語っていた。2001年の再演のワルシャワではさらに説明的要素を削り「語りはなし」となり、その場面は舞踊だけということになった。日本舞踊だが手を垂直に挙げたり、メカニカルな動きで、照明は十字だけ。現地に来てから、やはりそこに音楽(コントラバス独奏)をつけたいとなり、作曲のため、その黴臭い部屋に籠もった。楽器を弾きながら、そのような抽象的なシーンにつける音楽を模索していると、ポーランドの前衛的な芸術家たちのかつての創作営為と重なるものを感じ、テンションが上がった。

 

 ポーランドといえば、なんといっても、あの舞台演出家タデウシュ・カントールとたった一枚CDを持っていた歌手のエヴァ・デマルチク、というより前年、彼らのの拠点だったクラクフを訪れる前は、ショパンといってもとくにピンと来ず、いくつかの前衛的な音楽や文学作品のほかイメージするものもとくになかった。

 

 カントールとの出会いは大学生の時だ。ということは、このポーランド公演のたった3、4年くらい前のことだ。演劇をやっていた同級生の女性に連れられ、。池袋にっあったセゾン美術館で開催された回顧展観に行ったのがその名を知るきっかけだった。1982年初来日したが、その頃は小学生に上がったばかりで知る由もない。その頃、尊敬していた楽器の師が、かつてアンサンブル作品を作った時、カントールの演出方法を援用したと教えてくれた。音楽で、演劇の演出方法???まったくどういうことかわからないが、それゆえに余計に関心が高まり、ただただ伝説的な存在だった。前年はクラコフやワルシャワでも本屋に行っては、資料を探し求めた。

 

 回顧展が美術館で行われたように、カントールは美術家でもある。打ち捨てられた古道具や作られるオブジェが散乱する舞台のなかで俳優が演じるのは、死だ。ずっと後になってカントールが演劇作品と残した五、六の作品は全て映像で観ることができた。主役や脇役がいるような舞台ではない 執拗に繰り返されるミニマルな身ぶりを伴って、そこでは死者の記憶がうわごとのよう同時多発的に、ときに突発的に発し続けられる。そんな喧騒状態の中で、古いポーランドのワルツが流れ始めると、カルーセルのように舞台を廻り続ける一団の歪んだ行進がまた繰り返される。幻視者として黒い背広を着た演出家のカントール自身が、指揮をしたりしながら舞台をみつめ、観客からもそれが見える。

 

 モチーフは主に、戦争とユダヤ人であった。カントール自身が書き残しているように、そのイメージの源泉は、ポーランドの三大前衛作家の不条理劇の先駆者スタニスワフ・ヴィトケヴィッチ、現ウクライナのガリツィアの小都市でユダヤ人家系に生まれ、ゲシュタポの一人に路上で射殺されたブルーノ・シュルツ、やはりユダヤ系でアルゼンチンに亡命したヴィトルド・ゴンブロビッチに直接的に求めることができる。

 

 ポーランドを訪れてから、約15年後の2015年、東京で行われたタデウシュ・カントール生誕100年で、舞台作品を発表することになり、そのときはシュルツの「マネキン人形論」に着想を得て一曲の歌を作曲した。

 

「旅芸人の帰還 マネキン人形論より」(作詞 河崎純)

 

音たてぬ渦を

夜の深みへ消えて行く

人形の群れが獄室の壁をこぶしで叩く

ゆるやかに舞う雪のつむじ風

人形のかなしみ

 

声無き受難者たち

十字架

マネキン(コケシ)

不具にされ

バラバラの木の生命

いっさいの記憶

削られ

 


3 ロマとユダヤの悲歌

エヴァ・デマルチク(1941~)
エヴァ・デマルチク(1941~)

 

  ゴンブロビッチとの奇妙な縁は、のちの節で述べたいが、ポーランドは社会主義時代、他の中東欧諸国に比べると、前衛的な芸術に対する許容があったといわれている。そんなイメージを持ってポーランドの街を歩いていると、胸と喉のあいだの奥の方にいつもクラコフ出身の歌手エヴァ・デマルチクの歌があった。その頃は録音でしか聴いたことしかなかったし、写真でしか見たことがなかった。後に映像を見ると、黒を纏ったデマルチクが呟くように、そして突如激情的に、しかしほとんどまばたきもしないで、身じろぎせずに歌っていた。

 

 最近、デマルチクの歌う「トマショフ」という曲の歌詞を翻訳してみた。私はポーランド語を知らないので、同じスラブ語であり文法、単語が似ているロシア語訳と、英語訳を参考に翻訳した。精確な訳とはとても言えないだろうが、作曲家の視点で、「歌われる日本語」として、できるだけ原詩の単語とメロディの関係、語順や音韻を重視したつもりだ。文学や意味優先の訳詞は、読み物の日本語としては美しいかもしれないが、メロディとの関係をまるで台無しになってしまうのだ。

 

いつかの一日 あいませんか トマショフで

黄金の夕暮れ 沈黙があるはず あのときと同じ九月の

 

この白い家の この部屋に

だれがの家具が置かれている、わたしたちは終わりにしなければならない 

悲しいことだが 終わらないむかしの会話を

 

いつかの一日 あいませんか トマショフで

黄金の夕暮れ 沈黙があるはず あのときと同じ九月の

 

わたしのいまだ濡れ輝いている眼から 唇に流れ落ちる 塩からい涙の雫

そして あなたは まるで黙ったまま 緑色のぶどうの雫を 食べている

 

この白い家 この死んだ部屋

なんのことかわからないまま

人々が古い家具をおきさって そこから黙ったまま出ていった 

 

まだそこにすべてがあった 沈黙も あの九月の

だから いつかの一日 あいませんか トマショフで

 

(だってあそこには 何もかも残っているのよ!

あの九月の静寂さえも…

だから あなた

日帰りでトマショフまで行ってみないこと?)

 

歌いつづけているわ あなたに 「Du holde Kunst!デュ ホルデ クンスト(ああ 芸術よ)

 

心がはりさけ 

行かなくては

君が別れを告げ  

けれど わたしの手は 震えている 手の中で

 

そして 私は去った 去った 夢から醒め 断ち切れた会話

あなたを幸福を祈り そして呪った「Du holde Kunst!デュ ホルデ クンスト(ああ 芸術よ)

 

こうして?こうして? 一言ももなく?

 

いつかの一日 あいませんか トマショフで

黄金の夕暮れ 沈黙があるはず あのときと同じ九月の

 

わたしのいまだ濡れ輝いている眼から 唇に流れ落ちる 塩からい涙の雫

そして あなたは まるで黙ったまま 緑色のぶどうの雫を 食べている

 

 ユダヤ系のユリアン・トゥヴィムの詩によるこの曲の中で、途中ドイツ語で「Du holde Kunst!デュ ホルデ クンスト(ああ 芸術よ)」と歌われている。なぜドイツ語なのかと思い調べると、この言葉はフランツ・シューベルト作曲の有名な歌曲「音楽に寄せて」の一節であることが分った。トマショフというのはワルシャワからそう遠くない小さな街で「トマショフマゾビエツキ」というが、「マゾビエツキ」はヘブライ語だそうだ。ユダヤ人が大半を占めたこの街で、1939年9月6日にナチによる虐殺、収容所移送が行われ、1942年にはユダヤ人は全滅。「九月」とはこの時を指しているといってよいだろう。なぜドイツ語かということから調べ始めて、歌の背景を想像することができた。別れた男へ幸福を祈って歌ったのが、呪いの言葉としてのドイツ語による芸術の優美と霊性を歌う歌詞であり同時に悲歌なのだ。

 

 ユリアン・トゥヴィムは、ジプシーの女性詩人ブロニスワヴァ・ヴァイスを主人公にした全編モノクローム映画、日本でも公開された「パプーシャの黒い瞳」に登場する。文字を用いない流浪のジプシー部落に生きる少女パプーシャ(ブロニスワヴァ・ヴァイス)は部落の盗品のなかから、文字の書かれた紙片をみつける。文字は悪魔による呪文であるとされていたが、興味を押さえるとができない。部落の楽器修理を請け負うポーランド人とともに現れたのが、秘密警察に追われジプシー部落に匿われようとした詩人イェジ・フィツォフスキだ。詩人はパプーシャの詩才に惚れ込み、少女は詩人の持つ「本」に魅かれ、惹かれ合う。その後二人は離別する運命にあったが、パプーシャからフィツォフスキに送られたジプシー語の詩を、詩人ユリアン・トゥヴィムに託し、翻訳された。彼女は詩人として喝采を受けるが、ジプシー部落からは拒絶されてしまう。

 

 自伝によると、少女時代、ヴァイスは学校に通っていた子供らに字を習ったようだ。第二次大戦が終わり、生き残った彼女はジプシー暮らしの「詩=歌」を書きはじめた。演奏を生業とする旦那や部落の人々がドイツ人やウクライナのファシストに殺害されそうになったとき、彼らは馬や荷車を手放しても楽器を手放さなかったという。しかし戦後、定住生活を強制された部落からは、裏切り者だと拒絶される。ジプシーの生活の中でも詩を作ること、すなわち歌をつくることは日常の中でも愛されていることだ。しかし、その内部の生活を文字にして記録し、出版をするということは、虐げられながらイリーガルに暮らしてきた彼らの生活自体の悲哀やルール、生態を公に暴露することでもある。拒絶され精神障害となり、じょじょに詩を書くことができなくなって孤独に人生の幕を閉じたようだ。

 

 


4 タンゴ ゴンブロヴィッチとイリーガルな夜

2004年東京で行った演劇公演「溺れる市民東京のフェルディドルケ」島田雅彦さんが、ポーランドの作家ゴンブロヴィッチよりさらに過激なポルノを書き下ろし、私は音楽監督を担当したが、、
2004年東京で行った演劇公演「溺れる市民東京のフェルディドルケ」島田雅彦さんが、ポーランドの作家ゴンブロヴィッチよりさらに過激なポルノを書き下ろし、私は音楽監督を担当したが、、

 

 

 ソ連式だといわれたワルシャワの古い巨大なホテルの朝食のとき、半地下のレストランでのBGMで古めかしいタンゴが流れていた。当時、アルゼンチン生まれのイタリア人移民の3世の子であるアストル・ピアソラの死後、そのブームの火付け役になったヴァイオリンのギドン・クレメールのCDで、学生時代に知った曲だった。CDのタイトルにはスペイン語で「El sol sueno」とあり、この曲が好きだった私は、共演していたピアノの青木菜穂子に頼んで楽譜をつくってもらった。タンゴを学ぶためにスペイン語を学び始めていた彼女が、曲名を訳してくれた。「太陽の睡眠」。クレメール版は、タンゴの官能の「男泣き」とはまた別の、透明なモダンなアレンジで「太陽の睡眠」というアンニュイな白日夢のようなイメージが曲名に重なった。「エルソルスエーニョ」というスペイン語の可愛らしい響きも気に入り、われわれのあいだではそういうことにして東京の小さなライブハウスでも演奏した。

 

 

 「レトロ」というには中途半端だが、ワルシャワの 古びたホテルののBGMで、、訥々とした野暮ったい行進のようなリズムに乗ってこのメロディが男の声で歌われていた。当時の私は、ロシア語もまったく知らなかったので、その歌がロシア語なのか、初めて訪れたポーランドの言葉なのかも見当がつかなかったが、スペイン語やフランス語やドイツ語でもないのはわかった。埃をかぶった色とりどりの風船が放置され、古びた白いグランドピアノが置かれたレストランは、色褪せたカラーフィルムのなかの風景のようだった。

 

    ピアソラのオリジナル曲かアルゼンチンの曲の現代的なアレンジの器楽曲だと思っていた。その曲がロシアの「疲れた太陽」(Утомлённое солнце)という名の有名曲で、元はポーランドの曲「最後の日曜日」であったと知ったのは、10年以上たったあとだった。若者が心変わりした恋人に「最後にもう一度会いたい」と懇願する内容の歌詞で、自殺の決意を示唆しているようにも取れたことから、「「自殺のタンゴ」(Tango samobójców)とも通称された。」(ウィキペディア)という。この曲はロシアのニキータ・ミハルコフ監督による映画「太陽に灼かれて」でも通奏低音のように流れていた。

 

 アルゼンチンのタンゴのようなシンコペーションは少なく、たしかに、ワルシャワのホテルで聴いた印象と同じく、リズムもメリハリがない。良いメロディが多いが、情熱的に見つめ合いながら同時に絡まり合う脚のような躍動的なポリリズムの官能性に乏しい。ドイツなどのコンチネンタルタンゴのような弦楽オーケストラの奏でるゴージャスさもない。そのようなタンゴが1920年代からポーランド、ロシアでたくさん作られた。

 

最後の日曜日です

私はこんなに夢にみた

幸せをのぞみ

これが最期だ!

(「最後の日曜日」より イェジィ・ペテルスブルスキ作曲 ゼノン・フリードヴァルト作詞)

 

 さて、ワルシャワ公演を終え、借り上げワゴンバスに乗って数時間北へ、日本舞踊「よだかの星」一座は次の公演地プウォツクに向かった。海外を街中での移動以外で、陸路を旅するのも初めてで、ヨーロッパの農村の風景をみたのも当然初めてのことだ。バスが劇場の駐車場に停まろうとすると、ポーランド系ではない、ロマの老婆と子供たちがバスに群がってきた。公演はその日ではなかったが、お金がありそうな日本人の一団が到着するのを知っていたのか、それともどんな観光バスが到着してもそうなのか。女たちや子供たちは手に持っていた花束を売りつけようとするでもなくただ金を無心した。

 

 賑わいのある大きな街ではなく、人通りもあまりない場所にある古い市民会館のような劇場だった。下見を終えて、部屋に荷を降ろし、数人で散歩に出た。舗装されていない道が続く商店街をみつけた。われわれは和服を着た邦楽奏者数名、黒眼鏡をつけたマフィア風な者数名(私はここに含まれる)、チベット僧侶風一名、などなどいろいろ取り揃えており、こちらが「歩く商店街」のような感じで、目立ちまくる。観光客、外国人、ましてあからさまなアジア人はめったに来ない土地なのだろう、視線をあびなから小集団出で歩く。商店街といっても店が軒を連ね続けているわけではなかった。ちょうどその頃はやった「羊たちの沈黙」という映画のエンドロールで映しつづけられたアメリカの殺伐とした田舎街の延々と続く長い道を思い出し、ちょっと大げさだが、犯罪者が通り過ぎた後のような不吉さも感じた。

 

 公演で、本編と古典の前に暗転して真っ暗な中に、照明の光りを扇子だけに当てる黒子の舞いがあった。私は急遽、竹楽器で参加することに。客席500人ほどの劇場だった。われわれが舞台に板付いて正座すると暗転。その後30秒くらいして、わたしが拍子木のように竹をゆっくり大きな音を叩き始める。すると真っ暗闇の中で、なぜかかなりの笑いがあちこちで起こり、すこしたって「シー」というざわめきを静止しようとする声もまた大きい。正直なところ、私自身笑いを堪えていた。雅楽の海外公演で、はじめの「平調の音取(ひらじょうのねとり)」、チューニングの目的で奏する曲をはじめると、おしゃべりがやまなかったと読んだことがある。指揮者が現れ、沈黙してから演奏が始まる、ということがないままに始まるので気がつかなかったのだ。はたしてあの笑い、あれはなんだったのだろうか。いかにも厳粛すぎる状況に笑ってしまうということは、葬式の最中でも意味不明な笑いがとまらなくなって苦しい思いをしたことが私自身何度もあるのでよくわかる。しかしそれは、「いかにも」がわかっているからこそだ。それとも暗闇で音がなること自体が可笑しかったのだろうか。古典作品、わたしが参加した「よだかの星」と進むと、お客さんは熱中し始め、その後は謎の笑いに包まれることなく無事終わった。

 

 終演後、ステージに若い女性が男性演奏家陣のもとに群がってきた。男性陣とはいえ、私は二十代半ばだったが、他はみな現在の私より年上の50歳くらいのおじさんが主である。その後いろいろな場所でこういう状況は経験したが、みな持参したマンガ本へのサインを求めてきた(そういえば日本アニメの隆盛は海外ではああいかわらずだが、最近は漫画本にサイン求められることはじょじょに少なくなったな気がする。みなネットで閲覧しているのだろうか)。片付けて会場外に出てもまだ待っていた。いわゆる「出待ち」だ。こちらはロックバンドで経験したことがあるが、ふだん日本では考えられない状況に、おじさんたちが有頂天になる。飲みにいこうと誘われ、「淫行条例になっちゃうよ(いちおう国から援助を受けた公演だったので)まずいよ」とか、当時ブラジルからきた有名サッカー選手の「かつら」のTVCMの口調を真似て浮ついている。しかしこのあとすぐ、市長が来るフェアウェル・パーティーに出席しなくてはならない。おじさんたちと私は英語も話せないので、後ろ髪引かれる思いで会場に向かう。一人英語が得意なチョイ悪系(素晴らしいミュージシャン)の一人は、彼女たちとそこに残った。おじさんたちは(私も)気になってしょうがない。パーティー会が終わるころ、彼が帰って来た。飲みに行っただけというが、「淫行条例がね」とかいって含み笑いをするので、みな気がおさまらない。その後「淫行条例」がツアー中の流行語になったのはいうまでもない。

 

 帰国後、二年経って2004年、ポーランドの前衛作家ヴィトルド・ゴンブロビッチの「フェルディドゥルケ」を元に作家の島田雅彦があらたに「溺れる市民 東京のフェルディドルケ」を書いたので、上演することになった。わたしは音楽監督として参加して作曲・演奏をした。1939年アルゼンチンに亡命したゴンブロヴィッチだが、その7日後にナチスによるポーランド侵攻が開始された。アルゼンチンにはユダヤ、ポーランド系の移民が多く、彼らがブエノスアイレスにマズルカをもたらし、タンゴの完成に一役を買ったという話しがある。戯曲は「淫行条例」どころではなく過激なオナニズム・フェティシズムに貫かれたユーモラスで毒のある言葉に満ち満ちていた。音楽作りは難しかった。アルゼンチンやタンゴの響きも加味しながら苦肉の作曲。知恵を駆使した。男性が自慰行為の方法を「探求」する場面では、わたしも弦に紙をを挟んだり、特殊奏法で激しく演奏。後に私がよくコントラバスをお琴のように倒してさまざまな小物を弦に挟んでプリペアドで演奏するようになるが、それはこの時の「探求」が始まりだった。

 

 終演後原作者の島田氏が「音楽凄く良かったです」といってくれて、嬉しかった。なんとか 私なりのこの小説の音楽化は成功したようにおもった。上演後、王子のように男前な島田が酒宴を用意した。しかし、座席数に限りがあると伝えられ、氏の意向でこちらがわの出席者は若手女優限定となり、その中からさらに数人がご指名を受け連れ去られた。プウォツクの夜を思い出した。千秋楽まで「淫行条例」が流行語になったのはいうまでもない。

 

 千秋楽後のロビーでは、永遠の「不良少年」といわれた、ポーランド文学者、エッセイスト、翻訳者で、ブルーノ・シュルツやゴンブロビッチも訳された工藤幸雄氏に挨拶できた。当時出きたての自分のCDを差し上げることもできた。あのワルシャワの巨大な文化化学宮殿の一室で作曲した、あの曲も、「よだか」が昇天する時の曲も収録したのだった。今は亡き氏の、ポーランドがつまっていたであろう遺室には、封も開けられなかったかもしれないが、私のCD「左岸/右岸」も遺品としてあったのかもしれない、と思うと感慨深い。そして、CDはいまどこにあるのだろう。遺物はゴミとなり、燃えて消えてしまったのだろうか。

 

 2015年同じ劇場で、ユダヤ人の詩人パウル・ツェランの詩などから作られ音楽詩劇研究所の舞台「捨て子たち星たち」(タデウシュ・カントール生誕100年祭にて初演)で、数年ぶりに青木菜穂子氏にピアノ演奏をお願いした。「太陽の睡眠(疲れた太陽、最後の日曜日)」を弾いてもらった。ダンサーの三浦宏予はその最中、グランドの下に潜り込み、ぶらさがったりして踊った。これもまたピアノの「特殊奏法」の探求。その後、私が劇場に叱られたのはいうまでもない。

 

 

◎東欧篇