1 ミュージック・フロム・モリオカ
2 五体投地から始まったサインホの旅
3 民謡酒場と化した小料理屋
4 シャーマンからのメッセージ
5「アーチスト」の素顔 I am a shaman of my life
東京でのユーラシアンオペラ公演やイベントを終え、他の海外アーチストたち3人はそれぞれ帰国した。一人日本に残ったトゥバ共和国出身のサインホ・ナムチラク 、撮影の三行英登、故郷を岩手の遠野に持つダンスの三浦宏予、今回は出演予定はなかったがサポートをつとめてくれる歌手の三木聖香、観光で来日しているサインホの孫ティムール(19歳 男子、ロシア語は話さず、ドイツ語、英語)とともに、サインホをメインにした公演を行うために盛岡に向かった。今回サインホの地方公演を考えたとき、まずはじめに考えた地が盛岡だった。東北のフォークロアをトゥバのシャーマニズムの中に響かせてみたかった。
多くの友がいる盛岡は、私にとって地方都市の中でもっとも大事に思ってきた街だ。コンサートやワークショップも何度も行ってきた。しかし2011年の大震災の後、それが理由ではないのだが行く機会がなかった。この地での仕事のほとんどが、音楽家であり文筆家でもり、プロデューサーで歯科医でもある、盛岡市在住の金野吉晃氏によるオーガナイズだった。
いろいろ思い出があるが、一番の思い出は2010年、すでに多くの音楽仲間ができていたこの地で12人くらいの参加者を得て、作曲ワークショップをしたときだった。当時私がいちばん関心をもっていたコーネリアス・カーデュー、クリスチャン・ウォルフなどイギリスやアメリカの実験音楽を参考にした。
20世紀の半ば、ヨーロッパの現代音楽では、音列システム(半音に分割されたオクターブの12音を均等に配置し、その順序を決める)を拡張させ、音価(音の長さ)や強弱表現にもシステムを適用し、作曲者の情感に偏らない、科学的、唯物論的な作曲が開拓された。それをトータル・セリエリズムと呼んだ。オリヴィエ・メシアンのように、宗教的なエクスタシーをそこに同化させて官能的な音楽へと昇華した場合もあるが、じょじょにアカデミズムに閉塞し、五線譜は演奏不可能なほど極度に複雑化し、音楽そのものとしては行き詰った。
それに対して、イギリスやアメリカの実験音楽は、図形楽譜や、言葉による指示書としての楽譜を積極的に用いた。トータル・セリエリズムを科学とたとえるなら、実験音楽は社会とたとえることも可能だ。そこでは、恣意的な楽譜解釈から生じる音響現象とともに、演奏者の自主的な創造性や、アンサンブルで生じる関係性に焦点が置かれることが多かった。霊性や個人の才気、伝統の秘儀によって支えられてきた芸術の特権性を剥奪することは、アマチュアリズムへの回帰を意味した。
盛岡の仲間たちと数日間使って、そのような図形楽譜や指示書をそれぞれが作成(作曲)し、それをみなで再現し、成果として小さなコンサートも開催した。即興や五線譜では作りえない音楽が生まれたと思う。そのとき参加者が作曲した12枚の楽譜は私の宝物であり、金野からプレゼントされたコーネリアス・カーデューの図形楽譜「論文」は、いまも私のアパートのリビングに飾ってある。濃密な創作を共有した参加者は共演者であり、大事な友人となった。
それを行った2010年当時、このような創作は東京や大都市圏で実現することは不可能だと思った。すでに多種多様な創作方法が溢れ、そのコミュニティは細分化してそれぞれが孤立していた。東京でも試行錯誤したが、共同性を持続しつつ社会を刺激するような音楽は、まだ大らかな地方都市からしか生まれえなないと考えていた。
金野を中心に、さまざまな情報や経験を伝えながらすでにコミュニティ的なものができあがっていた盛岡では、さらにそれを発展させて行く土壌としても適していた。しかし住居から遠いこの地で私がさらにそれを継続させることは難しかった。しかしそれでも、即興演奏やソロコンサートは行い、交遊は続いた。その矢先には東日本大震災もあった。ワークショップから十年ほどたった現在は、東京や大都市と状況は近似し、盛岡でも難しいかもしれない。私自身も、このユーラシアンオペラのようなフォークロアを基盤にした海外アーチストとのコラボレーションによる創作に活動の主軸が転じている。
本当に久しぶりになってしまった。かつての盛岡の仲間たちは、あの頃とはだいぶコンセプトが変わってしまっているような現在の私の試みをどのように受け止めてくれるだろうか。サインホの緊張は北の地でさらに溶けるだろうか。しかし出発の直前に前述したサーデット・チュルコズとの金を巡る「SM事変」もあり、私の心は久しぶりの盛岡だというのに晴れたものではなかった。大宮から新幹線に乗りあっというまに盛岡到着。
こんなに近かっただろうか。ホームに降り立ってすぐに懐かしい山の空気を感じる。いつの間に体がゆるんで深く呼吸をしている。サインホの表情も予想以上に一変した。山がある。鮭の昇る川がある。サインホにとって東京での日々はとても苦しく、緊張の連続だったのだとあらためて思う。彼女の滞在した新宿のホテルの駅まで迎えに行ってくれた三行英登によると、東京では混乱してしまい、感情からとも違う涙が自然に流れてとまらないのだ、といっていたそうだ。
駅で出迎えてくれた金野がそのまま、盛岡城趾の公園や、神社、飲食店が集合する桜山地区を案内してくれる。サインホは火山である岩手山をみつめ、祈る。樹々のこぶに駆け寄り、頭をつけて祈る。神社の巨石に祈る。神社では仏教の最高礼拝五体投地にも似た身ぶりで頭を地につけて参拝した。
盛岡でも用いることを想定してユーラシアンオペラ公演の舞台美術としてサインホが東京で描いた三枚の布作品のほか、公演の幕前にライブペインティングで描いたいわくつきの布も含め全て持っていった。東京でわれわれのなかで物議をかもした「件の布」がほんとうに邪悪からくるものだったのかどうかまだ不明であった。祟りでもあるのではないかと不安もよぎった。それらの布をこの盛岡公演でどうするかサインホに案を託すことは現時点ではためらっていた。
酒造を改造した浜藤ホールの素晴らしい劇場空間をみてやる気に満ちているような彼女の姿をみて、古代のシャーマンが描いた岩絵をイメージしてサインホ自身が描いた二枚の布は使うことにした。ホールのスタッフにお願いして天井から吊ってもらう。しかし「件の布」も持参したことは、まだ内緒にし、最終的にも使わなかった。
東京での公演やそのプロデュースで精一杯であり、内容はなにひとつ詳細には決めていなかった。また、この土地に行ってその空気を吸ってから、考えたいとも思っていた。サインホはすでにすっかり蘇生したように見える。土地から受けたインスピレーションが働いたのか、次々に構成や空間の配置、振り付け、ムーブメントのアイデアを出しながら創作を主導する。
コンサートの第一部は、シャーマニズムの象徴として布を使って移動しながらパフォーマンスをするサインホ、三浦宏予のダンス、私によるシアトリカルで儀式のような作品ができそうだ。休憩を挟んで第2部は、この来日では、ユーラシアンオペラの演出上の都合もあり、東京ではあまり歌われる機会がなかったトゥバ民謡を中心としサインホと私のコントラバスによる純粋なコンサートだ。
リハーサルが一段落して外に出ると日が暮れていたので、会場を出て明日の公演の盛会を 祈念して、小料理屋で乾杯。すかさずサインホはいったん店の外に出て岩手山に酒を捧げる儀式。興がのってトゥバ民謡を歌いだすと、ダンサーの三浦宏予はハワイアンチャントの「オリ」を、歌手の三木聖香は茨城民謡の「磯原節」を歌った。私は金野のリクエストで15年ほど前に彼のCD発売記念ツアーの移動中に大阪のカラオケボックスで歌ったムード歌謡の「君恋し」。酒がすすみ、サインホはいつしか自然哲学を語り、19歳の孫のティムールはインターネット社会の可能性を展開し祖母に対抗していた。
翌日は公演前のお昼時に、プロデューサーの金野がサインホやわれわれに、コンサートの前にぜひ見せたいものがあると言い、岩手県立博物館へ。岩手の古代からのフォークロア、祭、庶民の暮らし、仏教の受容と伝搬、キリシタンの踏み絵、オシラサマ、座敷童、さまざまな動物に現された日本のアニミズムに関する展示をみた。
サインホは次々と写真に収め、私や金野に熱心に質問する。彼女は東京でのパフォーマンスでも盛岡公演でも布をかぶって登場したが、顔を覆おうことが多い。覆面や仮面にこだわるところがある。この地にみられる、屋内、家内信仰である「おしら信仰」では「オセンダク」という布を、30センチほどの人形や馬をあらわす木の棒にかぶせてゆく。頭の上からそれを覆いかぶせることもある。その布には願い事等が書かれる。博物館の質問用シートを手にとって展示をみながらドローイングをしたり、江戸時代の風俗画に描かれたアイヌのような風貌の金野の肖像をスケッチしたり。サインホと三木聖香、60代と20代の二人の歌手は音源のながれるミュージックBOXのそばで、この地の民謡の最古の録音に長い間耳を傾けていた。
本番前、ひと休みに劇場の外に喫煙にいくと、夕空をカラスが鍵型に一方向に飛んで行く。八幡宮のほうにかえってゆくのかな、と金野が言う。カラスが啼きながら森の樹木のねぐらに群れなして還ってゆく、そんな夕空を久しぶりに見た。
サインホは衣装とメイクのために一旦車で市街のホテルに戻ることになっていた。その直前に私にこんな提言をした。自身が歌い終わり、私と三浦宏予とサインホ・ナムチラクが東京で描いた狩猟遊牧民族の家が描かれた布の背後に一列に並ぶ最後のシーンで、手伝いで同行した三木聖香が舞台の後方にあらわれてなにか歌うとよいのではないか、と。それでは「そこで聖香は何を歌えば良いか」とサインホに尋ねてみると、なんでも好きな歌を歌えば良い、たとえばきのう小料理屋で歌った日本の民謡でもよいかも、と言い残して一旦ホテルに戻った。
三木にサインホの案を相談するとチャレンジしてみたいと受け入れてくれたので、金野に相談した。私が「岩手の民謡が良いと思うのですが.なにかありますか?」と問うと金野は、「いや、あえてどこの民謡でも良いのではないか」と。三木にいくつか独唱で歌える民謡を歌ってもらうと、金野は、人があまり知らない民謡か、良く知られている民謡でも実はバージョン違いの歌詞があるものを歌うのが面白いのでは、と。結局おとなりの秋田民謡を歌うことになった。こうやってみんなで共作できることがほんとうに嬉しい。
ユーラシアンオペラ「Continental Isolation」では、三木が演じた、一族に拾われた捨て子は、「マイカン」と名付けられ、異民族でありながらこの一族の歌や踊りを受け継ぐ後継者となり、「国立」民族歌謡団の歌姫となった。そのコンサートの途中、楽譜に再編された民謡を端正に歌っていたマイカンはで突如マイクを捨て置き失踪した。オペラのラストシーンは、その30年後に甦った彼女の「復活コンサート」だ。三木に代わって30年後の歌姫を演じたサインホは、数字を書いた覆面をかぶって英語の自作曲を、DJによるテクノ音楽が鳴り響く中で歌った。
サインホに、なぜ盛岡でのラストシーンを三木に託そうと思ったのか、あえて理由を聞かなかった。彼女はソ連時代末期のペレスロイカ期、モスクワにわたり、音楽大学で声楽を学びながらトゥバや北方遊牧民族のアーカイブで伝統的な歌唱法を研究したという。その後一度トゥバに戻り国立トゥバ民族歌謡団(サヤン)の歌姫となった。ユーラシアンオペラでの「設定」をふまえて、きのうの小料理屋で日本の民謡を三木が歌う姿にも、若かりし自身の姿を重ねたのかもしれない。孫のティムールや三木ら新しい世代に対するメッセージであり、エールでもあったような気もする。
本番の第一部は、三木聖香の予定外の秋田民謡で幕を閉じ、ユーラシアンオペラを反転させたような構成になった。サインホの民謡コンサートである第二部の前に、私は思いたっていそいでホールの外に出た。ホールのそばにあったスーパーに日本酒の小瓶を急いで買いに行った。楽屋に戻ってサインホに渡すと、また例のトゥバの儀式を行って、この場所に感謝を示しながら場を清めた。
後半は、サインホがたくさんのトゥバ民謡を、ソロや私とのDUOで歌った。今回の日本滞在中、この日のホーメー(トゥバの倍音唱法)が、いちばん伸びやかだった。19歳になる生意気であまのじゃくな孫のティムールは、舞台袖に座って、スマホ片手に斜に構えた表情で舞台をみつめていた。「おばあちゃん、どうだった?」と声をかけると、「彼女はアーチストだ」と呟いた。
ところであとから三木にきいたのだが、サインホは、盛岡に到着した日、樹々や岩にお祈りしながら散歩しているとき、このようなことを彼女に呟いたそうである。
「私は、シャーマンとは違う。それに近いものではあるかもしれないが...」と。
シャーマニズムを支えてきた共同体はもはや彼女の傍にない。
I am a shaman of my life.
I am a healer of myself.
Don't forget
Your life is in your hands.
You are the shaman of, the shaman of your lives
You are the healers of yourselves.
東京での「Continental Isolation」の幕間で、小沢あきのノイジーなエレキギターが鳴り響く中でサインホに歌ってもらった彼女自身の歌詞。その意味が少しわかった。
「私は私のなかにおいてのみシャーマンであり、あなたはあなたのなかにおいてのみシャーマンなのだ」と。
盛岡のプロデューサーであった金野吉晃が、webマガジンの「JAZZ TOKYO」 に今回の盛岡公演寄稿した記事より引用する。
「公演翌日の午前中、古刹の法恩寺に、私は同行せずサインホと3人が出かけた。フビライとマルコポーロの像が混じっていると言われる「五百羅漢」の見学に行ったのだ。私は河崎と撮影の三行氏と一緒に帰路のチケットを取りに行ったのである。我々が法恩寺に着くと、サインホはぽつんと本堂前の階段に座っている。一緒に行った面子に依ると「私は入らない、ここが良い」といって座り込んだという。一時間程彼女は座ったままだった。傍らから声をかけると正面を向いたまま、独り言のようにつぶやく。
「風が吹いている、鳥が鳴いている。光が美しい。ここはいい場所だ」
「彼女は瞑想の時間と場所が欲しかったのだ。」
「その後、一段落した河崎からメールが来て思わず吹き出した。盛岡で、新幹線乗車直前、サインホは河崎に「酒を買いたい」といった。どういうことか。彼女は盛岡の地と岩手山に別れを告げる儀式をしてなかったというのだ。あと十分しか無い。河崎とサインホはカップ酒を買い、駅の正面に出て、また例の酒を振りまく儀式を済ますと、慌てて乗車したのだという。」(「メドウ無きステップの、トライブ無きシャーマン~野惑(ノマド)としてのサインホ・ナムチラク」金野吉晃 JAZZ TOKYO)
祖母と孫が暮らしているオーストリアのウィーンへの帰国の日、二人から感謝のメッセージがあった。
孫のティムールには岩手の思い出ということもあり宮沢賢治の詩がインターネット上で英語訳されているものがあれば、それを返信に送りたいと思った。「雨ニモマケズ」しかなかった。あまのじゃくな若き青年にこの詩を送るのが良いのか?と躊躇したが、それを送った。サインホにはこの「春と修羅」の序文の英語翻訳をおくってみたかったが、インターネットではみつからなかった。
すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから
それは次の機会に叶えてみよう。詩人でもあるサインホのシャーマニズムに基づく世界観と、宮沢賢治の宇宙観がどのように響き合うのか。サインホ・ナムチラクとの創作は次章のロシア篇へと続く。
◎サインホ・ナムチラクとの新たなコラボレーション
金野吉晃氏によるレポート
「メドウ無きステップの、トライブ無きシャーマン〜野惑(ノマド)としてのサインホ・ナムチラク」
http://jazztokyo.org/reviews/live-report/post-32987/
2018年10月4日岩手県盛岡市 もりおか町家物語館 浜藤ホール
サインホ・ナムチラク(ヴォーカル)
河崎純(コントラバス)
三浦宏予(ダンス)
三木聖香(民謡)
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