1 ペテルブルクの「モスクワ」駅 2004
2 暗い音楽
3 放浪楽師(スコモローヒ)の伝統楽器 グースリ
4 西洋楽器としてのバラライカ
5 長調を奏でる/短調を聴く
6 美しい未来(プリクラスナエ・ダリョーカ)
モスクワから列車で7時間ほどで到着したペテルブルクの駅で列車の発着を知らせる音楽を聞いた。ペテルブルグの「モスクワ」駅(電車の発着地が駅名になるので、モスクワ発着のプラットフォームがある駅は「モスクワ」駅になる)。なにか気になる二小節程の哀調を帯びた旋律だった。2004年の秋、EXIAS-Jの演奏ツアーのときだ。西欧への玄関であり、落ち着いた古都のイメージあったが、わたしが降りた駅周辺はそうではなかった。巨大な建造物が歩く者に圧をあたえてくるかのようなモスクワとは異なり、小振りな建物が多いが、色調のバランスのとれない看板やら広告が無造作に乱立し、雑然とした混沌にむしろ東アジアの都市を感じた。社会主義時代に抑制された感性が、無秩序に放出しているのだろうか。中心街からしばらく歩くとエルミタージュ美術館、ネヴァ川に沿ったヨーロッパ的な落ち着いた町並みを見ることもできた。しかし欧州風と言われるこの街にも、想像以上にアジアが同居している。
そのなかで、このメロディが頭の中に残ってなり続けていた。われわれが滞在するアパートメントホテルは、ドストエフスキーが住んでいた家が近くにあると聞いた。古い調度品がそのまま置いてある。暖房の効いた部屋のベッドで、薄着になって寝転がってテレビをつけると、3~40代の女性がふつうの部屋の中みたいなところでギターを弾き語りしていた。知っていたロシアの歌といえば民謡のいくつか、テレビのCMで流れたウラジミール・ヴィソツキーの自作の歌、小学校で日教組色の濃かった先生たちが教え、歌わされたソビエト建立を目指す勇壮で悲壮感も漂う労働歌くらいだった。それらの曲調と同じくいわゆる短調で、いま パソコンで「たんちょう」と打ち込んだら変換されて先にでてきた、まさに「単調」な曲ばかりだった。メンバーに散歩に誘われるまで、ベッドに横になって、30分程は観続けていたのだが、10曲以上すべて、ギターのハーモニーにのったそれらは、すべて短調だった。
駅のチャイムの旋律を記憶して、東京に帰ってから、ピアノで再現してみた。しかしペテルブルグでは、たしかにそう聴こえたずなのに、短調に聴こえなかった。
音楽の授業で、長調(メジャースケール)、と短調(マイナースケール)というのを習う。西洋古典音楽では古代ギリシャの7種の音階のなかから、はっきりとした特性をもつ二つの音階が選ばれ、調性の分類(長調、短調)基準となった。それがイオニア旋法 (長調 ドレミファソラシド)とエオリア旋法(短調 ラシドレミファソラ)だ。長短は伴うハーモニーによってより明確に差異があらわれる。一般に長調は明るく、短調は暗いと認識されることが多い。西洋古典音楽では、このような二分法では表しきれない感情や感覚を、理論的技法も洗錬させながら、響きを多様化させることで表現してきた。2小節ほどの単旋律からは、長短調をみきわめることは難しい。。旋律はロシアの街の景色が表すハーモニーのなかに溶け込むことで、哀調を帯びた短調に聴こえてしまったのかだろう
たとえばカラオケで、森進一の「おふくろさん」(作詞 川内康範 作曲 猪俣公章)の旋律を声を合わせて歌うことがあるだろうか。内容への共感があったとしても、ふつう声を合わせては歌わない。技巧的なメリスマや深いビブラートを持つのでそもそも歌唱が難しく、拍節がはっきりしないので真似るのも難しく、それをみんなで合わせるということ自体が不可能だ。つまりこれは独唱歌だ。
逆に歌をみんなで歌う機会について考えてみると、軍歌、労働歌、旧制高等学校の寮歌や校歌、かつての歌声運動で歌われたロシア民謡もそうだ。それらは、たとえば「おふくろさん」とは異なり、手拍子や行進がしやすいような明確な拍節をもつものだ。そのようなことは、長短調に限らずいえることだが、日本の演歌や、ロシアの歌謡には短調が多い。短調のもつ哀感や暗さとは、それがみんなで歌うものであれ、個人的な感情を歌うものであれ、シリアスさが基調になっている。それを共感に導くのは、近代という時代、国民国家の成立ではないだろうか。
戦後になって隆盛した歌声運動で、社会奉仕の労働歌や抵抗(レジスタンス)歌や多くの「ロシア民謡」が歌われた。日本で知られるロシア民謡の多く、のちに「テトリス」などのゲーム音楽としても知られる「行商人(コロベイニキ)」、「カチューシャ」、「トロイカに乗って(悲しき天使)」、「百万本のバラ」、「一週間」...多くは短調を基調にした音楽だし、ソ連時代にヒットした日本の歌謡曲、ザ・ピーナツの「恋のバカンス」も短調だ。「哀愁」などの言葉を用いながら、日本の歌や日本人の心性との共通を指摘する言説も多かった。たしかに日本の歌謡曲にも以前は短調が多かった。失恋や人生の囚われ、運命、センチメンタルな短調があらわす哀感のなかに、つかのま同化、同調し気持ちを浄化してきたのだろう。しかし日本では、私が学生だった1990年代中頃には、長調のヒット曲も増えた。もうそういう心情の同化によるシンプルな浄化作用は、人々にとって現実味がなくなったのだろう。それは暗い時代を元気づけるための無理矢理明るさによる、長調とは異なる、自然に生まれた明るさで、それはさらに時を経ると、もう少し複雑で繊細な響きをもつようになった。
だから私は、シリアスな心性を大衆に求めてきた社会主義が崩壊し、資本主義化が進行すれば、いずれは日本のようにロシアも大衆音楽も、長調化されるだろうと予測してきた。しかし、崩壊後30年ほど経た現在でもロシアの街角で流れる音楽に耳をかたむけると、日本や欧米に比べればはっきり長短の調性がわかれ、短調の歌謡曲は圧倒的に多いのがすこし不思議に思った。
一方で、近代会以前から存在していたであろう古いロシア各地やポーランドや中東欧の伝統音楽やスラブ系の民謡を聴くと、これまで列挙してきたいわゆるロシアの音楽とはだいぶイメージがちがう。明るく伸びやかな長調系の歌が多いのだ。ポーランド出身のショパンの曲には、マズルカなどのポーランド民謡、舞踊曲を参考にした曲も多くある。ショパンには透明感のある明るい曲も多くあるが、短調の暗く静かな響きや、短調の激情的でシリアスなパッションも印象が強く残る。では、その元になったであろうスラブの伝統音楽を聴き、それらが明るく朗らかなものであったと知ると、肩すかしを食らう。伴奏楽器や楽しい群舞を伴うことも多いので、明るく、リズミカルであることが多く、よりはっきりと「長調」感が際立つ。次項ではもう少し古くロシアの民謡の基層へと立ち戻ってみよう。
ロシアの伝統楽器にグースリ(gusty)という楽器がある。チター、琴のような復弦の撥弦楽器だ。ギターのように抱えられて演奏されることもあるし、台に置かれて演奏されることもある。5世紀には既に文献の中に登場し、プスコフ、ノブゴロドなど、ロシア北部地方で古代から用いられていたといわれる。中世ロシアにおいては、ロシア正教会が器楽演奏を禁じていたが、グースリは唯一の例外だった。フィンランドや現フィンランドとロシアの国境間のカレリアで用いるカンテレ、バルト地方にも類似する楽器が多く、スラブ系のロシア人の源流が北にあることが示されている。ロシア西方の少数民族のチュヴァシとマリ(チェレミス)にも広まって奏でられた。
11世紀くらいから文献に登場するロシアの旅芸人、放浪芸人であるスコモローフ(複数形スコモローヒ)たちの人形劇、歌、舞踊、叙事詩の伴奏にもこの楽器は使われた。グースリの他にも、さまざまな管楽器、打楽器、手回しオルガン(手風琴)が用いられた。中東起源の管楽器ズルナも吹き鳴らされた。放浪芸人たちは語り、漫談や歌以外にも熊使いや性器を露出してまで人々を楽しませたといわれる。 やがてロシア正教は原始信仰の魔術的要素を含むそれらをそれを禁じるようになる。
スコモローフは、フィンランド、カレリア方面のロシアの北方から生じて、9−13世紀に栄え14世紀くらいに形成された口承の英雄叙事詩「ブィリーナ」の作者および語り手でもあったとされている。のちにロシア五人組の一人であるリムスキー・コルサコフは、ロシアの民族文化の基層文化ともいえるブィリーナを研究し、ブィリーナに登場しグースリ演奏をする豪商サトコ(サドコ)の伝承をオペラ化している。1380年のクリコヴォの戦いでモスクワ大公国がタタール・ハン(モンゴル)国に勝利し、「タタールのくびき」からの解放される。そこで活躍するイリヤー・ムーロメツなど勇者たちの英雄譚も、史実と神話的伝説が入り交ぜになり、グースリを奏でながらスコモローヒによって語り歌われた。
つづく帝政ロシアではさまざまな時期において、世俗音楽が禁止されている。その反動がロシアの民衆音楽のダイナミズムをうんだのだと。モスクワのサックス奏者のセルゲイ・レートフから聞いた。スコモローフの音楽と。スラブ系の原始信仰、アジア的要素やペイガニズム(異教徒性)が、ロシア地域のフォークロアの源泉だ。
このように「まれびと」たる芸人集団のスコモローヒによってもたらされたグースリという楽器や歌唱は、古いロシアの民俗文化において象徴的だ。それらの歌や音楽は、どちらかといえば、北欧の伝統音楽についてわたしたちがイメージするそれに近い。グースリは多弦なので響きは複雑であるが、ピアノやギターのように複数の音を用いた和音を同時につくりにくい。そのため。長調や短調というはっきりとした調子の性格は、さほど明確とはいえない。
音楽プロデューサー、フォークロアの研究の第一人者であるセルゲイ・スタロースチンやアンドレイ・コトフもグースリを弾き語る。スタロースチンは伝説的なバンドのアウクツィオンのレオニード・フェードロフや前衛JAZZとコラボレーションを長年重ねている。アンドレイ・コトフも合唱アンサンブル「スィリン」(Sirin)を組織し、スラブ文化フォークロアが痕跡を残すキリスト教の聖性を求める。このプロジェクトにはロシアの戦後世代を代表する現代音楽の作曲家であるウラジーミル・マルティノフが参加し、それらの歌を現代のものとして再編している。それらは、たとえば前衛JAZZ、現代音楽、民俗音楽のプラットフォームであるモスクワの「ドム・カルチャーセンター」を拠点に行われている。
ペレストロイカ期より興ったロシアの前衛JAZZも、パフォーマンス性に異教の響きも包括しながら、不安定な社会をさらに撹乱するスコモローヒの存在に、親和性を求めた。ソ連時代に画一化された「ロシア民謡」の古層を、各地のさらなるローカルな文化や慣習に遡る。新世代のフォークロックバンド「アトヴァ・ヨ」は、セルゲイ・スタロースチンやアンドレイ・コトフとも共演し、来日公演も果たすなど、ロシアを越えて人気が高まっている。ロシアの農村世界のフォークロアの、自然との共生や労働、そこに生きる人々の悲哀、ときに野卑な感覚や諧謔も交え、斬新な映像技術を用いて表している。随所に現代の風景や都市の風景も重ねながら展開する映像に見られるのは、民衆が原像が、実は近代社会によって分断されていない、ということを意味している。
グースリに代わって大衆の楽器となったのは、ロシアといえばこの楽器、三角の胴を持つバラライカだ。放浪楽師がもたらしたグースリとは異なり、バラライカはもっと後の時代になって軍人がもたらし、広まったものだ。
シベリアの大地にバラライカが姿をみせたのは、オスマン帝国方面への南下政策、バルト海、東方へと進出し、ロシアを大国化させたピョートル大帝の頃だ。シベリア極東開拓のために最初の「シベリア流刑者」が送られた18世紀以降だ。19世紀の終わり頃「アンドリーヴズ」といわれるバラライカが大量生産された。製造者のワシーリー・アンドレーエフは、軍隊の余暇活動でバラライカを用いることに同意した。兵役期間に覚え、それを村に持ち帰る。 バラライカは、古い伝統楽器と思われるが、短期間でもっとも大衆的な楽器となった。
バラライカの広まりは、伝統的なチャストゥーシカ(частушка)を生み出した。「速い歌」を意味する。帝政ロシア末期の苦しい生活のなかで。人々はきびしい労働の後の午後の余暇の開放的なひととき、バラライカとともに、歌い踊った。それらは明るく、簡素なメロディーが多かった。簡素な伴奏にのせて即興で歌を作ることも可能だった。ダンスは村の男女の出会いや人々の新しい人々の接触の機会にもなった。典型的なダンスは、ポーランドスタイル(マズルカ)、クラコヴィアク(ポーランドのクラクフ地方の二拍子の舞踊)、クァドリール(フランスなどで流行した男女二組が対の舞踊)、パドエスパーニュ(スペイン風の宮廷ワルツ)だったという。
アンドリーブスのバラライカは元来、3本の弦の開放弦に短7度を含みつつも長3度も含み、長調の響きを生み出しやすく調弦された。楽器の調律で音楽の性格はだいぶ限られる。たとえば日本でも馴染み深いハワイの音楽でつかう、ウクレレは4本の開放弦に長3度を含む調弦により、無理の少ない演奏法で独特の明るい響きが自然に生まれる。19世紀に主にドイツから複雑な表現を伴う和声という概念が輸入され、バラライカは徐々にそれにあわせて改良され、さらにポピュラーな楽器となった。年長者から年少者まで耳によって伝えられ、演奏は難しくなかった。長調も短調も演奏できるようになり、歌や音楽は多様化していった。夜の宴では、バラライカのほかにヴァイオリンや打楽器も用い、音楽にさらに彩りを加えた。
ロシア革命後、1920年代から30年代にかけて、この農村の文化は、党主導の「文化政策」のもとに、自主活動(アマチュア文化活動)における「民族音楽」として採用された。定着化のために五線譜の利用が推奨された。調弦も公式に改変して定め(長3度ではなく、4度になったことにより、響きは長調的なものに限定されない。)、学校でも教えられるようになった。一方、レコード、ラジオなどで録音音楽文化が広まり、共同体のなかでこのような音楽を奏でて踊りを楽しむ文化は薄れた。第二次大戦後にはチャストゥーシカの習慣は消滅していったといわれる。
バラライカをかかえ、チャストゥーシカで歌い踊る時代と入れ替わりに、レコードたラジオを通じて人々に「聴かれる」ようになったのは、個人の感覚や感情を歌う歌だ。悲しい感情や出来事が多く歌われた。さらに革命や新しい時代、労働を歌う勇壮な短調のメロディが国家が主導する共同体の歌も広まる。前者の場合、一人の人物が歌い、一人、ラジオやレコードで一人で聴く内省的なものだ。西洋の文学や哲学や音楽の作曲や絵画などの芸術は、そもそも一人によって産み出されてきた。そこにみられる深刻なテーマは、労働の疲れを癒す共同の娯楽文化より高い文化的価値をもつとされていた。一般の民衆もまた、文字を学び、書かれた言葉にふれ、音楽も、歌ったり、踊ったりしてカタルシスを得ることから、「聴く」ことで内省するようになった。失恋や、喪失感、郷愁など個人的な感覚がそれに共振れした。それは、目の前に実際に起こっている出来事を刹那的に喜び悲しみといより、目の前から失われた、あるいはすでにないものや人についての共感だ。
ロシアに限らずこれが近代以降の人と音楽との関係の貴重となるだろう。近代化の初期において、大衆音楽は世界的にのきなみ短調化したといえる。
それらは、生活形態や社会制度の変化により、本来は再現不能な多様なフォークロア文化を想像しながら現在との接続を問う。このような創作に触れていると、私たちはいかに、画一的な「民族性」の文化を前提とし、いつのまにアイディンティの形成に影響を与えているかに気づく。
たとえばわびさび、武士道,,,四季に応じた生活の中たしかに花鳥風月を慈しむ心情もあっただろう。しかし、それを歌に詠んだり、吟じ琴を弾いたり、茶道や柔道や剣道をたしなんだり、近世以前、いったいいどれほどの民衆がそれをおこなったというのだろうか。それがいかなるかたちで存在したにせよ、しないにせよ、作られた画一的な伝統にたいして、一旦はそれを前提とせずに疑いをいだく必要がある。
近代以前の民謡でも労働歌では、つらい労働や人生に対する厭世観があらわれることもある。しかしそれらの多くは、肉体的、身体的な過酷さ、つらさを克服し癒すために、労働のリズムを利用して鼓舞し、それが歌や踊りや祭のリズムに転化される。共同体の歌謡文化において、シリアスな感情をシリアスなままにあらわすのは稀なことだ。近代以前、のちに「民謡」といわれる歌の多くは一般的にみんなで歌う共同体の歌だ。
「子守唄」は哀感を伴う旋律もたしかに多い民謡だ。しかしそれは少し特殊だ。そもそもみんなで一緒に歌う機会の少ない民謡だからだ。宴や集団労働の場において歌うことを通し、「共有されるの体験」となって「民謡」になる。そのような場で、短調、つまりわざわざ「暗さ」をともなったフィーリングを用いて歌うことは考えにくい。弔、葬送、怨念くらいしか想像がつかない。
日本では民謡として残っている歌に、戦や死が歌われているものはあまり残されていない。しかし世界の民謡では比較的多く残っている。たとえば英雄叙事詩などをもつ民族や国ではそこで戦や死が謳われるものも多かったであろう。しかし、島国で外的との戦が少ない日本では「平家物語」などはあるが、そのような挽歌は庶民の日常には根付きにくい。それらは民謡ではなく遊行者によって語られる口承芸能だ。
明治維新以降の日本文化は、先行する文化として、仏教や儒教や武士道のシリアスさとは異なる西洋の文学や哲学、芸術、キリスト教文化から新しい「シリアス」を学んだ。
単純すぎる図式だが、大衆芸能=明。芸術=暗。「明」によって苦しみや疲労を忘れさせ、開放させる。「暗」によって間や哲学をシリアスに考え晦渋する。「明」は身体的な癒しであり、苦痛を忘却させる。「暗」は精神的な癒しとった。時代はじょじょに「暗」に進んだ。日本でも対外戦争の時代を迎え、国家という大きな共同体が、短調のシリアスさを用いて大衆の国威高揚や社会主義建設への奉仕の使命感を導く。世界的にも近代化以降、富国強兵や、国威発揚、国民意識の形成、戦意高揚、あるいは革命に向かって、それらにたいする使命感やシリアスさを、さらに人々に根付けてゆくことが必要だったのだろう。民族と民族の戦争は国と国との戦争になり兵士以外の人々も戦に巻き込まれ直接的な犠牲者になる。一国史観に基づいて英雄や国つくりの伝説を必要とする時代になる。「軍歌」は基本的に短調だ。
「革命は短調で訪れる」などというフレーズを以前どこかで聞いたこことを思い出した。サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」の翻訳者でもあり、出版後になにものかによって殺害されてしまったイスラム学者五十嵐一が1974年のイラン革命をその前後の歌の響きを交えて論じた論じた「音楽の風土」(中公新書1984)の副題だ。
「美しい未来」(Прекрасное далёко)という曲がある。1985年、やがて社会主義時代が終わりを迎えようとしていたソビエトで大ヒットした少女を主役にした「未来からの訪問者」という子供向けのSF映画の主題歌だ。この未来からきた少女やモスクワの小学生が歌っているその歌は、その時代を生きた時代の人なら誰でも知っている。
ペレストロイカ、社会主義崩壊間近であるが、歌詞にはまだ、科学、未来へを開拓、邁進する国家の指針が示されている。しかし反対に、時代の疲弊や諦めを予見し、もうじき社会主義は機能しなくなるということを表しているような曲調にも思える。短調ではあるが、使命感にみちた勇壮さはなく、淡く透明な叙情だ。「美しい」旋律だと思う。
1991年のソ連崩壊から約30年たった現在も、タクシーのカーラジオやテレビをつけると、聴こえてくるのは、主に短調の旋律で、その響きは、たとえば欧米や日本のような資本の市場のなかで洗錬され汎た音楽と比べると、情感が剝き出しで「商品」として洗錬されていない感じだ。国家の転換期からの年数をを日本にあてはめれば、敗戦の1945年から30年というとちょうど私が生まれた1975(昭和50)年だ。調べると、その年のレコード売り上げ1位は「昭和枯れすゝき」(さくらと一郎)、2位「シクラメンのかほり」(布施明)、3位「想い出まくら」(小坂恭子)、見事に全て短調だ。そう考えると、そんなものかとも思う。しかしこのグローバル化のスピード感では、もっと変化がみえても良さそうなものだ。崩壊後30年ほどの時を経ても、やはり約70年に及ぶ心性における蓄積は大きいのだろうか。シリアスに表象される感情は、ときにナショナリズムの排他性や英雄賛美に接続することもある。ロシアに限らぬことだが、近代以前の民謡は短調で奏でられていた訳ではなかった。昨今のウクライナへ侵攻などをみても、「短調の蓄積」はロシア人の心性に大きく影響しているのかもしれないと感じる。
ロシアにはその大地の中に一人佇む人間による「タスカー」という哀愁、郷愁の他言語へと翻訳しえない情感もある。ロシアの春の初めの風景をよく思い出す。
歩いていたら、雑木林に行き当たった。おそらくはずつと昔の放浪芸人(スコモローヒ)が居たような時代から、社会主義時代から現在まで手つかずのような雑木林のなかにはいると、雪に埋もれた沼から氷があらわになり、その氷の下で湧き水が泡立っていた。また春の小雪がだんだんとつよくなりながら舞いはじめ、また冬の沈黙に戻るように風と、雪を踏む音だけがきこえる。それでも身体に残ったえもいわれぬ情感めいたものが、歌なのだ。
頭の中で単旋律のメロディがなっている。15年ほど前にペテルブルグの駅で聴いた、長調とも短調とも言えないチャイムの旋律だった。衣服や体についた雪を払いながら宿に入り暖をとって一息しながら、これも「タスカー」というのかもしれないと思った。タスカーは、近代国家や社会主義時代の産物であるところの短調と、相性が良すぎたのかもしれない。変わらない風土が生む精神的、身体的記憶が深く根深く残る。
たしかに短調による哀愁感は、たとえば「もののあはれ」など日本の心性と共通する。しかし文学で歌われてきた「花鳥風月」は、ゆっくりと風に弄されながら舞い落ちる花び、空に浮かび日々姿をかえてみせる月、みな宙を舞い漂うように存在する、まさに無常観を伴う「あはれ」だ。地に根ざすほかない、人生観や死生観とは異なる。タイガや大地が広がるロシアの風景とは対照的に、狭い日本ではあるが南北に長く、多彩な風土が陰影を生み、風景が心情に変化を与え続ける。そのような意味において、たとえばロシアと日本の心性は根本が異なる。
ロシアの歌を歌い続ける石橋幸がよく話してくださる、エピソードがあり、私にもその経験がいくつかあり得心する。いくばくかの時をともに過ごし、情がわけば別れはつらく淋しいものだ。それはロシアでも日本でも同じことだ。いや、ロシア人の方がそのような情感は豊かに現れる。私の共演者のロシア人、とりわけ女性は別れ際に涙ぐむことも多かった。しかし「さよなら」といったあと、彼女の姿をふりかえると、立ちすくんでこちらを見送るのでもなく、スキップをふむように、まるで何事もなかったかのように、振り返ることもなく姿を消すのだ。正直、唖然とした。そんな別れの場面が私にも多々あった。地に根ざした草木から花が落ちたその瞬間が、もう別れということなのか。それにたいし、たしかに、その風に吹かれた花びらが地に落ちた時、それがほんとうの別れだ、と感じる私がいる。それもまた風土が与える情感の違いだろうか。
いずれそういう風土的情感は分析的に理解できることでもなく、また他文化のそれは理解することは難しいと感じ続けなければならないと思う。まただからこそ理解しようとし続けることができる。
小学生の頃、幼なじみの母親が車でご実家の農家に連れて行ってくれたことがあった。わたしの母の故郷の山梨の山村の風景とも異なる、陰影のない武蔵野の秋の田園風景が広がっていた。埼玉の岩槻市だっただろうか 。山村、田園とはわたしにとって4、5時間かけて電車を乗り継いで行くところだったので、東京近郊のわたしが暮らしていた街から一時間もかからぬところにこんな風景があることに驚き、喜んでひとり田んぼに出かけた。稲刈りの後の季節だった 。だんだんと陽が落ちてゆき、どこで引き返したら良いのか目標となるような場所もない。田の長い道はずっと先までまっすぐなのでそのまま戻れば良いのだが、帰れなくなるという不安と、この先にはきっと何もないと予測しながら、無性にこのまま歩き続けていたいという思いが同居する。あちこちで鳥の小群が、声をあげながら舞い上がったり舞い降りたりするのをみながら、歩きつづける。なにかの歌のようなものを頭の中で口ずさみながら、いつの間に足元だけをみて、歩みを速めながら畦道を進む。ふいに遠くからから、幼なじみの母親の弟さんの呼ぶ声が聴こえた。若いおじさんが私を迎えようとこちらに近づく。私も彼に近づきながら道をひき返す。農家の庭に戻り、枯れ草の匂いのする農具を置いた小屋で幼なじみと、夕食の仕度ができたという声に呼ばれるまでまた遊んだ。
振り返ってみると幸福なことに、最終的には安堵につつまれた子供時代を過ごしていたように思う。そしていまなお、心のどこかでそれと同質な安堵を頼りに生きているように思う。 不安を自力で克服することは生きる力をもたらすだろう。しかし、子供たちはどこかで安堵が勝って育ってゆくべきだと思う。そのような環境は子供自身で創造することはできない。彼らにとって原郷となる「懐かしい未来」を残すことは、大人にできるせいぜいな仕事だ。法や制度を整えることもたしかに重要だ。しかし心が先立たなくては結局その制度は機能しない。不安や安堵から生じる、誰でももつ幼年時代の現像として残る風景の一つだ。10歳の頃だ。
「美しい未来」
美しい未来から声が聞こえる、
銀色の朝露の中で聞く声
私を誘うこの道で、目を回してしまう
子供の頃のメリーゴーランドのように
美しい未来よ、どうか私に冷たくしないで
どうか私に冷たくしないで
無垢な子供時代から未来へ向かって
私は今この道を歩き始める
美しい未来から声が聞こえる
奇跡のような場所へ誘う声
声は私に厳しく問いかける、
明日のために今日何をしたのか、と
私は清い善い人になろう
どんな時も友達を見捨てたりしないと誓う
声が聞こえる、その声に向かって急いで行く
誰も通ったことのないこの道を
ちょうどそんな頃、ソ連末期にが流行したのがこの「美しい未来」だ。1975年生まれの私と同世代のソ連人には、とても懐かしい子供時代の曲だ。創作をともにし続けている同年代のロシアのアーチストたちの顔を思い浮かべた。彼ら、彼女らの「懐かしい未来」と私の「懐かしい未来」。彼らの原郷を想像し、私のそれと重ね合わせる。それはわたしにとって、さらなる異郷を探し求めることに等しい。コラボレーションとはそんな作業なのかもしれない。童歌の断片、短調にも長調にもならないそれらが木霊して混ざり合い、どんな異郷が生まれるのだろう。「美しい未来」などなく、その声も前方からは聞えず、未来とはただ懐かしいもののようにも感じる。
◎ロシア篇
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