はじめに「囁きはじめるユーラシアの風と歌」

0 道の始まり  

1 イスタンブールの喧騒 

2 continental isolation / 東京の沈黙

3 音の記憶・声の記憶4

4 民謡から神無き時代の「神謡集」へ

5 旅と音楽

6 つたない語学力、未知なる音との遭遇 

7 外「国」人 

8 異邦人の耳 明治の音

9 ワールドミュージックブームの体験の体験

10 ロシア、東欧、社会主義 

11  ユーラシアに訊ねる


0  道の始まり ~1 イスタンブールの喧騒

イスタンブール ボスポラス海峡
イスタンブール ボスポラス海峡

〈2011年 アタテュルク空港 イスタンブール〉

 

 リハーサルのためにくり返し往復していたトルコのイスタンブールから帰国するときのこと。アタテュルク国際空港のモスクワ経由便チェックインカウンターはモンゴル、アルタイ方面からとおぼしき人々で溢れかえっていた。日本で身近な存在に喩えると、彼らはモンゴル出身の屈強な力士のような体型と顔立ちで、観光旅行者の顔でもなく、大量に買い物をしたのかむきだしの荷物をたくさん持っている。闇商売の物品でも持ち帰ろうとしているかのようだ。

 

 人々は移動し、物が流れる。

 

 なんとなく親近感を覚え、この地では聞き慣れない言葉の響きに身を委ねていると、そこにはときどきロシア語も混じる。手に持ったパスポートを覗き込むとキリル文字が見えた。ギリシャ文字起源のロシアの文字だ。アジアの人々がロシア語やキリル文字を使う様子から、ソビエト連邦が制圧を重ねながら、単一国家の枠組みを超え、「社会主義」によるインターナショナリズムを確立しようとしていた歴史をあらためて感じた。

 

 アメリカ、ヨーロッパの価値観と様式に囲まれた日本で育ち、当たり前のようにローマ字や英語のある生活をしている私たちだが、欧米の人々より本来よほど親近感を覚える顔をしたアジアの人々が、ロシアの文字を使い、その言葉を喋っていることは想像しにくい。東西に横たわるユーラシア大陸では、ソ連、中国という社会主義の大国が、面積でも影響力でも大半を占めていたことを、今さらながらに思う。同時に、冷戦のパワーバランスによって日本がそこに組み込まれなかったことが、地理的に考えれば奇跡とも思える。あるいは、さらに第二次世界大戦以前に遡り、日本は侵略、統治しながら東アジアの共同体を目論んでいたが、仮にそういう時代が続いていたら、空港でみたロシア語を話すアジアの人々の多くが、ともすれば日本語を喋り、漢字か平仮名のパスポートをもっていたかもしれなかったなどと、日本名をもつ在日コリアンの友人を思い出しながら、考えていた。

 

 世界大戦もその後の冷戦も、グローバリズムの新たなパラダイムのなかで、20世紀の過去の出来事として遠ざかってゆく。しかし、アジアとヨーロッパが同居する国際的な観光都市イスタンブールの空港で、そのような歴史は過去のものではないことを感じていた。

 

 日本人観光客もいた。ツアーバッジをつけた旅慣れない感じの初老の夫婦が2組ほど。人生のご褒美に旅をしているのであろうか、その様子は愛おしい。そこにひとり、旅行者でも、ビジネスといえるほどの気概もなく、まして政治的なディアスポラでも亡命者でもなく、この人の群れの中に佇んでいる一音楽家の自分がいる。私は中央アジア、シベリア、極東ロシア、中国、韓国、日本と、みえていなかったユーラシアという空間を、アジアの西端で実感した。

 

 かつて西と東を結んだシルクロードなどの古の道は、いまはみえない。道なき道に潜んで眠っている音たちを、私は聴きたい。そして、その道を歩む人たちとともに作品をつくってみたい。私はのちにそれを「ユーラシアンオペラ」と名付けた。

 

一盲女がうたったこのありふれた歌が、異邦人であるわたしの心に、これほど深い感情をよびおこしたというのは、どういう理由であろうか。これはきっと、あの歌い手の声のなかに、一つの民族の経験の総和よりも大きな或るもの――人間生活ほども大きく、善悪の知識ほども古い或るものに訴えることのできる素質があったからであろう。(ラフカディオ・ハーン)

 

 これから本編の中で展開するのは、ユーラシアンオペラの創作を通して音楽を想像し創造していくドキュメントである。それは伝統音楽、伝統文化、民族、国家の枠を越えたフォークロアと未来を繋ぐ旅=音楽だ。ユーラシア大陸や日本のさまざまな音楽文化やアーチストを紹介しながら、その大地の底で渦巻き、生命を駆り立てて律動するものについて考察していく。

 

 記録されてスピーカーから流れる音源となった音楽を否定するのではない。私自身それらを存分に享受もしているが、そこにはない音楽の有り様や、現在を生きる各地のアーチストたちとの交流から生まれる新たな音楽を伝えたくて、この本を書こうと思い立った。

 

 かつて洋の東西を繋ぎ、文化の交流や交通の要であったユーラシア大陸、とりわけ私が旅を続けたロシアや中央アジアには、そのような音楽の有り様がまだまだ息づいていた。私たちはコラボレーションを通じ、ときにはインターネットのやりとりを利用したり、実際に語り合ったりしながら、まだ立ち現れない「夢の歌」を探し求めた。

  

 本書では、さまざまなコラボレーションにおける想像や創造の生々しいプロセスを伝えるべく、なるべく客観的な事実やデータに基づいた記述を心がけている。しかし、私の想像の飛躍による事実誤認も存在するかもしれない。また、多くの音楽や音楽家を紹介したいため、固有名詞や音楽用語を詳細に書きすぎているきらいがある。それらのことを先にお断りしなくてはならない。これらのキーワードについては巻末の索引も参考にしていただければありがたい。私自身あらためて索引を眺めながら、いくつかをランダムにピックアップし繋げてみると、それだけで聴いたことがない新しい音楽が聴こえてくるようである。読者の皆様の想像によって新たな未知の音楽、「夢の歌」が生まれる一助になれば幸いである。

 

 まずはじめに、この本で第一部から述べるユーラシアンオペラの創作に先立ち、その創作の原風景になったような景色をふりかえりながら記してみたい。

 

〈2011年7月 夜明け イスタンブール〉

 

 早朝、安ホテルの部屋のバルコニーで一服する。陽が昇りはじめ、ボスポラスの黒い海が青や橙になってゆくが、朝霧のなかに霞む対岸のアジアはうずくまったまま、まだ目覚めていない。やがてモスクのスピーカーから、礼拝の時を告げる朗唱師(ムアッジン)の暁のアザーンが一斉に響き、驚いた鳥たちがいろんな声をあげながら空に舞いはじめる。猫の街イスタンブールで身を潜めていた犬たちの声。人影はまだない。やがて清掃の車が騒々しくなりはじめる頃、水や紅茶を売る物売りのぶっきらぼうな野太い声が聴こえてくる。トルコの男たちの声は低いように思う。

 

 遅い朝、支度を終えて新市街の目抜き通り、イスティクラル通りを通って稽古に向かう。旧市街と新市街とを結ぶガラタ橋の方へと降りると、あちらこちらから車のクラクションが上がり、そのなかで街の人々の声がさらに大きくなってゆく。多人種のなかで人酔いしながら思い出したのは、ニューヨークやパリで感じた「人種のるつぼ」感。海や空を渡って目的地にたどり着き、移動を終えた人々が、あたかも自己の存在理由を表明するかのように、民族、人種を各々その顔にはっきりと刻みながら混在していた。しかしここイスタンブールにあるのは、陸の移動の歴史を細部に刻印し、統合したかのような「顔」たち。さまざまな民族、人種がハイブリッドされている。モンゴル、中央アジア方面の砂漠や草原を知るテュルク系民族の、「顔」たちだ。

 

〈ロシアの詩人〉

 

 ボスポラスのことはきいてくれるな。でも、僕は海をみたんだ、君の目に。碧の火の燃える海なのだ。

 

 ボスポラスといえばこの詩の一節が浮かぶ。ロシアの詩人セルゲイ・エセーニンはイスタンブールに行くことなく、その人生を終えた。1917年の十月革命の後、物質的な西洋文明と自らの放蕩生活に望みを失っていた彼は、サンクトペテルブルク(レニングラード)で「さよなら友よ」という詩を書いて自ら命を絶つ。これはその前年、1924年の暮れに書いた詩だ。モスクワ近郊リャザン出身の農民詩人、革命詩人であり、国葬まで行われた国民的詩人だが、死後数十年の間、彼の本は発禁とされた。 陽に染まったボスポラス(ロシア語でいえば「ボスフォル」)の青。ロシアの大地で生まれた青年は革命、恋愛、イサドラ・ダンカンとの結婚に幻滅し、30歳を目前に海を想った。

 

ホテルの部屋のエセーニンの死体
ホテルの部屋のエセーニンの死体

2 continental isolation / 東京 都会の沈黙

 〈イスタンブール/東京〉

 

 2010年、トルコ日本現代音楽制作「Sound Migration」の仕事で、はじめてイスタンブールを訪れた。その後2011年から2年間、トルコの振付家アイディン・テキャルとのプロジェクト「db-ll-bass」の稽古や公演のため、何度か東京とイスタンブール、アジアの両端の大都市を往復した。

 

 長く自分自身が暮らした街と初めて訪れた街とを比較することは単純ではないが、イスタンブールは陽光と街を貫く海峡があり、人々の声や皮膚は潤されたり乾かされたりしながら存在している。大都市にもかかわらず、室内か屋外かでいえば圧倒的に屋外の声であり、皮膚である。人だけではない。大通りでやたらと車線変更をし、その都度鳴らされる車のクラクション、猫や犬、それらの糞、酒場や市場の声。「生」が賑わっている「やかましい」街だ。トルコ語がわからないせいもあるが、そのやかましさを嫌だと感じることは少なかった。

 

 東京のような大都市で生活していると、混み合った電車のなかで乗り合わせた人々が、これからどのように街を歩いて家に帰り、灯りをともし、また暗くして眠り、朝を迎えるのだろうかと想像してしまうことがある。移動中の電車内で、社会や家庭から解放された安堵と孤独とに宙づりとなっている時間、そこには都会の喧騒と裏腹の沈黙がある。ここでは私も表情を消して、口をつぐむ。現実の虚無感を表象しているかのようなこの箱の中で、私もまた都会を生きる現代人の一人である。

 

 歴史的に見れば、電車やバスなど乗り物を使い、時間をかけて通勤や通学をすることはかなり新しい都市生活の習慣だ。定住者は雨風をしのぐ家からそう遠くない場所で働き、暮らしてきた。現在、日本で人々は国家という枠組み、経済活動を支える会社組織、核家族化が進む家族という共同体のなかで生を営んでいる。その生において、少なくとも法的には個人が尊重されているが、その「個」をもてあまし、どのように自らを扱ったらよいかわからず困惑している。困惑から生じた内省的な沈黙。都市生活は人を孤独にする。

 

 閉じられた箱の扉が開閉し、泣き叫ぶ赤ん坊や理性による制御の困難な人など、予期せぬ「アウトサイダー」、あるいは「まれびと」が出現するとき、その沈黙の意味を問い直すことになる。言葉を用いず、なにかを強く訴えかける(泣き)声、同じような節を呪詛のように繰り返す声や身ぶり。沈黙の箱に唐突に生が入り込むと、人々はとまどわずにはいられない。人間とは沈黙しているときのほうがやっかいであると、あらためて気づく。

 

 人々は言葉の両義性の矛盾を生きる。言語はある事象を他の事象と分けて名付け、区別する。個とさまざまな共同体との間に存在する逆説や矛盾を生き、困惑しながら死に向かう。肯定も否定もない虚無と沈黙のなかで、人々は生への讃歌を歌うよりも、死とともにある生、生と死のあわいの領域を潜在的に求めているのかもしれない。

 

 私は作曲をすることが好きだ。身体を動かして楽器で音を奏でることが好きだ。その瞬間はたしかにそのような虚無とは無縁だ。音/沈黙、生/死、善/悪、美/醜、あなた/わたし。言語によって与えられた境界を曖昧にしてゆくことが「音楽」であるとも思う。そこではノイズと沈黙も同義だ。

 

 言葉なんておぼえるんじゃなかった

 

 詩人田村隆一の「言葉」に震わされる。この震えは私にとっての歌だ。歌の起源は震えにあり、それが共振れて音楽になる。

 


3 音の記憶・声の記憶

母の実家(現在空き家)の裏山の六地蔵。山梨。いちど地像の首が切られて事件になっていた。ここはお堂のない寺でお墓だけがある。富士山が見える。50年前まではここで盆踊り等もやっていたと母から聞いた。
母の実家(現在空き家)の裏山の六地蔵。山梨。いちど地像の首が切られて事件になっていた。ここはお堂のない寺でお墓だけがある。富士山が見える。50年前まではここで盆踊り等もやっていたと母から聞いた。

 

 〈昭和50年代 山梨の農村 深夜〉

 

 東京近郊の小さなマンションで私は育った。そこには先祖を祀る壇もなかったが、部屋や仏壇に死者の肖像画や写真を飾る習慣は、山梨にある母方の祖父母の家には残っていた。玄関の土間を上がると居間があり、その左方に襖で仕切ることのできる23の部屋が並ぶ。一番奥が仏壇のある仏間だ。典型的な農村の平屋だった。

 

 幼少の頃、長期休暇で同じように都心から集ってきた親戚の子らと、その仏間で枕を並べた。彼らの寝息を聞きながら眠ろうとしていると、天井から睨みつけるようにこちらに視線を向けている老人や軍服を着た若い男、ついこの間まで生きていた祖父、血のつながりのある人々の写真や絵の下で、いったいその人たちの前にはどんな人たちがこの世にいたのだろうかと思った。

 

 それにしてもなぜ、振り子の音をカチカチと響かせ、30分ごとにギーという準備音をたててから大きな音で鐘を打つこの時計を、他の部屋と境目のないこの寝室に置いたのだろう。眠りの妨げにはならないのだろうか。この農村の小さな家に住む人々は、いつからこの時計が刻む音のなかで生きてきたのだろう。いつまでもやまぬ夏の虫の声のざわめきにつつまれながら、午前0時を過ぎ、眠りにつくまでのこの自問の時刻がときどき恐ろしかった。それでも時計の音に刻まれながら、いつの間にかまどろみ、眠り、夢を見ている。早起きの祖母がいそいそと大きな仏壇のなかに白飯を置いてから、無造作に叩くチーンというりんの音で夢から覚める。もうすでに木々、山々の無数の蝉があらゆるものにまとわりつくような音を体から発している。 

 

〈昭和60年代 東京のマンション〉

 

 最近、10年以上前に亡くなった祖母の「なんまんだぶ」が、ふとすると耳の奥で鳴り止まない。

 

 東京の上野近辺に暮らしていた父方の祖母は生前、忌まわしいことや祖父との間で諍いがあると、突如としてそれを中断し、マンションの部屋の小さな仏壇に向かって、何を言っているのかわからないくらいの小さな声とスピードで「なんまんだぶ なんまんだぶ…」としばらく呟き続け、それが終わると憑き物が落ちたように平生に戻った。幼少の私は不可解な、見てはいけないようなものを見てしまった気持ちになった。あの「おまじない」はなんだろう。

 

 明治生まれで、大正時代には故郷を離れ、東京に職を求めた父方の祖父母は、共に富山県魚津の漁村の出である。富山と言えば親鸞の浄土真宗「南無阿弥陀仏」の信仰が盛んな地であるが、祖母の代まで暮らしの中でこうして唱えられてきたものなのだろう。かつてそれを日常の中で唱えるのはいったいどんな時だったのだろうか。

 

 母方の祖父母は「南無妙法蓮華経」、日蓮宗の多い山梨県だが、たしか禅宗の檀家だった。彼らが日々の暮らしでお経を唱えているのは見たことがなかった。漁村と大差のない貧しい農村の暮らしだったろうが、彼らにはそのような「おまじない」はなかったのだろうか。

 

 ところで、私自身を支えてきた死生観は、親の世代や現代芸術やら思想やらの影響もあるのか、きわめて科学的で近代的だ。そしてそれに基づいた行動をしている。たとえば、「祈る」という行為や気持ち自体は私にとっても自然なことかもしれないが、お正月に神社等で祈願することには子供の頃より違和感を持ちつづけていた。

 

 子供の頃の父と母の会話をいまになってよく思い出す。お彼岸やお盆など墓参りの時期になると、母は家族で行くことを当然のように提案するが、父は「日頃心の中で死者と対話しているのだから(実際のところ本当にそんなことをしていたのかはわからないが)、わざわざ慣習的に決められたその日に、墓に足を運ぶことになんの意味があろうか」と、母の言う常識や慣習に対していつも批判的だった。くわえて「だいたい死んだ後のことなんて自分でもわからない。だから火葬や風葬にでもしてこの世に痕跡を残さないでほしい。墓なんか要らない」などと話を飛躍させて母を呆れさせた。しかし傍で聞いていた子供の私には、父が言っていることのほうがなんとなく納得できたのであった。いまでも老いた父母の間ではきっとそんな類いの会話が続いているかもしれないが、都市生活の中では、この父の唯物論的な「理屈」を反転させるような「理屈」を、その後も私は見つけることはできなかった。

 

〈2017年秋 シベリアの森 トゥバのシャーマン〉

 

 ロシアはシベリアの街イルクーツクで、ロシア連邦のトゥバ共和国のシャーマンの家系に育ったという歌手サインホ・ナムチラクと出会った。翌日、森の中にあるという日本人抑留者の墓地で、彼女がカリグラフの制作を行うとのことで同行した。冷たい雨のなか、誰ひとり傘も指さずに無言で枯葉を踏みならし、墓地を探しながら先を行く。雑木林に無造作に生い茂る雑草を打つ雨音がときおり強くなる。日本人墓地はかつて遺骨の帰還事業があったとのことで、掘り返された痕跡のみがあった。その一帯の入り口には、漢字で書かれた古くない慰霊塔があり、行き帰り、彼女はそこで煙草に火をつけて置き、何かを低く小さな声で唱えていた。

 

 その森の入り口の道を隔ててロシア人墓地があった。墓石に生前の写真が転写されていた。あとで聞いたところによると、ソ連時代は人が死ぬと共産党の役人がやってきて、宗教的な葬儀の代わりに

 

「亡骸は土に還り、新たな生命を生む糧となる」

 

というようなことを語ったりしたそうだ。死はそこではあくまで科学的な実存として捉えられている。なるほど社会主義の無神論社会ではこのように死との折り合いをつけようとしていたのか。

 

イルクーツク、雑木林の中の写真が刻まれた墓地。ここからほど遠くない林の奥に日本人墓地があったが、掘り返した墓石の跡のくぼみと慰霊塔だけがあった。
イルクーツク、雑木林の中の写真が刻まれた墓地。ここからほど遠くない林の奥に日本人墓地があったが、掘り返した墓石の跡のくぼみと慰霊塔だけがあった。

4 民謡から神無き時代の「神謡集」へ

 

〈2015年 日本〉

 

 数年前、大学生と舞台公演の稽古をしていたときに、日本の民謡風な歌い回しで歌って例を示したことがあった。私は音楽家であるが歌はうまく歌えないので、あまり人前では歌わないのだが、意外とそれらしく歌えたことに自分でも驚いた。そして平成ひと桁の生まれの学生はほとんどそれっぽくも歌うことができなかったのにも驚いた。おそらく私の年代では、まだ民謡というものが少しは身近だったのだと思う。たしかに明治生まれの祖父や祖母がローカルなものとおぼしき歌の一節を口ずさむのをよく聴いたし、民謡の名残りを留めた演歌というジャンルが、まだ歌謡曲シーンで大きな位置を占めていたから、それらを通じて民謡のエッセンスを知り、無意識にそれらしさを習得していたのだとも思う。 

 

 近代化、グローバル化によって平らになってゆく世界で、民謡が失われてゆくことは間違いないだろう。すくなくとも日本にいるとそう思える。「民謡」はドイツ語「volkslied(フォルクスリート)」の森鴎外による訳語であるそうだ。言葉というものは、その事象の本質を捉えようとしながら、そう名付けられたと同時にその本性を消滅させてしまうようなやっかいな代物でもある。民謡という言葉の誕生とともに、本来のそれはすでに失われつつあった。歴史の中ではさまざまな事情でとっくに消えてしまった無数の言葉や歌がある。

 

〈夢の歌 架空の民謡〉

 

 共同体の歌である民謡は、江戸後期に洗錬され、芸能化していった。明治期には新民謡が生まれ、観光資源としてご当地ソング化し、昭和に入ると戦争の気配とともに、それらが短調化しながらシリアスになり、歌の内容は悲恋など個人的なものに変わっていく。戦後は演歌に姿を変え、故郷への郷愁、男女の離別など、何らかの喪失感がさかんに歌われた。かつて存在したはずのものが失われることによって催される感情や感覚だ。しかしやがて具体的に存在しなかった物事にまで喪失を覚えるようになる。

 

 人々は行ったことのない土地にさえ郷愁や孤独を感じ、情事や悲恋の空想に浸る。時にそれは酒とともにある。民謡と演歌には同質性はあるが、それが明確な作者が存在しない詠み人知らずなものなのか、芸術や芸能作品として明確な意図を持った個人の作者によって「作品」や「商品」として作られ、流通したものかという点で大きく異なる。

 

 私もまた、古典音楽も含めさまざまな「作品」や「商品」としての音楽に囲まれ、それを享受してきた一人である。しかし私は、まったくもって様式化された古典を尊重する伝統主義者とはいえない。むしろ伝統にも、まして古典にも民謡にもならず現存しない歌や音楽への想像から生まれる新しい歌が、この世を生きてゆく力を与えてくれるように思っている。

 

 実際のところ、日本の外の世界では歌の伝承や人々の死生観、信仰がどのように現代の音楽とかかわっているのかを知りたい。それが海外のアーチストとコラボレーションする大きな理由だ。そして私が赴いた日本以外の多くの土地では、いまもそれらが芸術など表現行為のなかに影響を与えているというのが実感だ。

 

 私はこの日本で「神なき時代」を生きているという実感もある。無宗教「教」、無神論「教」の洗礼を受け、順調に?育ち、これまで幸運にも大病もせず生きてきて、40歳を越え、いま立ち止まるようにして自然と死を現実的に意識するようになった。

 


5 旅と音楽

シベリアの友人、歌手マリーヤ・コールニヴァ
シベリアの友人、歌手マリーヤ・コールニヴァ

 〈変わらないこと〉

 

 少数民族などの言語や方言は消滅してゆく。国があれば定められた公用語、国語を教科書を使って学ばなければならないし、多くはそれが母語になる。たとえEUという連合共同体により、同じ貨幣を使って、国境の存在も薄くなろうともフランスという国では多くフランス語が喋られ、ドイツという国ではドイツ語で語り、書く。そしてたとえば中国語、韓国語、日本語、これほど近い3国であっても、用いる言語の音声、文法はかなり異なり互いのそれを理解することは困難だ。まさにバベルの塔が示唆する世界そのものだ。たしかに侵略や戦争、同化政策により他者の言語を奪い、政情により言語を巡る状況が変化することもあるだろう。しかしおそらく、たとえば今後たった100年レベルで、言語生活が大きく変化することはない気がする。自然との関係はどうだろうか。

 

 あるときロシアの極寒シベリアに暮らす友人、歌手のマリーヤ・コールニヴァに、それでも真冬の季節はとっくに過ぎた頃だが、SNSでメッセージをしたついでに気候を尋ねると、「この寒さは憂鬱としかいいようがないのよ、もういやんなっちゃうわ」という。

 

 その地の人々は、零下30~40度にもなるという厳寒を毎年過ごし、暮らし続けてきたきた。「いやだ、いやだ」といいながら受け入れるしかないのだ。そう言ってその地を捨てる訳にもなかなかゆかずにきたのだ。夏は暑いし冬は寒い。むろん地球温暖化などの意図せぬ現象はおきるが、人間は自然の条件を自らの都合で大きく変えることはできない。たとえば土地を変形させることもそう簡単なことではない。人間の歴史はたしかに自然の条件をいかに克服してきたかに尽きるが、飛行機が空を往来しようとも、インターネットで通信できようとも、自然の根本のところまでを変化させることはできない。結局のところ地理的条件による地政学も存在し、その利権に束縛されて生きている。

 

 科学の発展が医学に適用されれば、たしかに格段に世界の平均寿命は長くなる。長くなった10年や20年が人間の死生観に及ぼす影響は大きなことだが、それでもこの歴史の中で、不老不死の薬を発明できないどころか、たった2030年ほどの生きる時の長さを変化させたに過ぎないともいえる。

 

 グローバル化の一途をたどることは間違いないが、人間の生活は、自然環境に影響され続け、国家という枠組みや言語、宗教などにも規制されながら、それぞれの地での差異も保たれ続ける。他文化圏のアーチストとその土地で創作しながら私が感じ続けてきたのはむしろその差異だ。ユーラシア各地で舞台を創作をしながら体感するのは、音楽自体もそれを享受する人々の受け入れ方も、時代や社会の表層から想像しうるほどには画一化していないということだ。自然環境や利用言語に影響された、各地の歌唱法や旋律、それに伴う楽器の音色、リズムの機微からは、知らなかった死生観も窺い知れる。温度や湿度によってその感受の仕方も異なる。このようにして、逆に自明のものとして気づかなかった自文化の特異性を知ることもできる。面倒くさがりやで、旅嫌いだった私が、旅をしながら音楽をつくる理由はそこにある。

 

〈地理型/歴史型〉

 

 音楽家である私は、サラリーマンが急な短期出張を命じられるように海外や日本を旅してきた。事前にその土地や言語について深く学び、それをより深く知るためにその土地に長く滞在する「研究者」の旅ではない。そこを訪ねてみたいという積極的な動機もなく、ほとんどの場合「たまたま」な旅だった。いわば受動的に旅を続けてきたといえるだろう。きわめて限られた時間のなかで慌ただしく演奏をして、次の場所に移動して、帰る。知らない土地で五感が活性化されるのか、私はいつもより心身が活発になっている自身に気づいた。私を活性化させる土地やそこに暮らす人々やについて、創作を通じてさらに深く知りたいと思うようになり、仕事相手だった音楽家やダンサーと再び共演する機会を、今度は自ら求めるようになった。

 

 私は外国語があまりできないので、海外でのコラボレーションでは言葉によるコミュニケーションも円滑ではない。通じ合えないから通じ合おうとする。恋をするように言葉や身体に接近したり遠ざかったりしつつ、相手について知る。あとから気付いたり、知ることも多いが、そうして知ることは、身の回りの風景や音、習慣となっている自身の行動や思考をあらためて見聞することに等しい。

 

 寺山修司の文章に、〈人には「歴史型」と「地理型」がある。歴史型は一ヶ所に定住して、反復と積みかさねの中で生を検証し、地理型は拠点をかえながら出会いの度数をふやしてゆくことによって生を検証してゆくのであった〉とあった。

 

 歴史の勉強にあまり興味がなかった中学生の頃、この言葉に我が意を得て、自分は「地理型人間」だと思った記憶がある。この本では、とくに海外での旅で見聞きしたことや。想像、創造したことについてふりかえりながら、そこにあった音楽の現在(いま)を紹介してゆきたい。

 

 それらの旅は遺跡、歴史を辿る旅でもないし、研究でもない。どちらかといえば無計画な即興的な散策のようなものだ。遠い異国でなく近所でも、いつもとは違う通りを歩いてみたり、ふらりと知らない小路に吸い込まれてみたり、いつも通る道をいつもとは違う時間に歩いてみたりするだけでも、自身の感受性が豊かになりカラダや五感のよろこびを自覚することも多い。思えば子供の頃はいつも最良の旅をしていた。都心に近い郊外で育った私は、泥棒だの警察だのといって鬼ごっこのような遊びをして、知らない路地に隠れたり、マンションや小さな原っぱの葦の中に身を隠した。見知らぬ風景に思いがけず迷い込んでしまったスリルと不安。知らない虫や草花を見つけたり、匂いを嗅いだり、捨てられた大人の男性雑誌にとまどったり。私は大人になった今でもそんな感覚を求めて、それを音楽にする。

 


6 つたない語学力、未知なる音との遭遇

 

〈濁点のついた「あ」〉

 

 日本語を母語とする場合、だいたいは日本語の50音に収められた発音に近い音でコミュニケーションし、書くときは仮名と漢字を用いる。漢字で書かれる文字も、中国語の発音ではなく、日本語の五十音(正確には46文字)に当てはめるように発音、発話される。擬音語や擬態語でさえも、仮名46文字+濁点、半濁点、促音、撥音、拗音に当てはめて発音される。特別な感覚や感情をいだくときは、たとえば漫画のふきだしでも「あ」に濁点をつけたりしてあらわすこともあるように、この50音にあてはまらないような音声を発することもある。しかしたいていの場合、ほとんどの感情も、この50音にあてはまるように表される。それが、とくに文字社会を前提にする言語生活、文化の特性だ。

 

 日本語を母語とする者にとって、50音の発音の中にない音は異国(語)、異文化の響きだ。それぞれの言葉がもつ音の性質や文法、語順が旋律やリズムに大きく影響し、音楽を特徴づける。たとえば節末に、文でいえば文末にどのような品詞、役割の語がくるかで旋律の性質や音楽特徴に大きな違いが出るはずだ。異文化の音や音楽を聴く喜びや発見はそこにある。母語の世界に閉じ込められていた感性や感覚が本来の棲家をみつけて、安堵を覚えることもあろう。言葉はつねに音楽に先立つものではないが、言語が音楽に及ぼす影響は計り知れない。

 

〈拙い語学力〉

 

 私の外国語の能力を書いておくことは、これから書くコラボレーションの旅を読みながら想像していただく際に参考になるかと思う。私自身がユーラシア大陸を中心としたさまざまな世界の歌や音楽にふれ、そのことについて書いてゆくことになるが、まずそれらの地の歌の言語について私は深く理解する者ではない。旅には通訳が存在しないことも多かった。人によってはそれでも立派なほうだと思う方もいるかもしれないし、よくこれで海外の人と仕事ができるなぁ、と思われるかもしれない。実際スムーズに物事が進むことは稀だ。私が多少知っている外国語は英語、フランス語、ロシア語になる。韓国語は文字が読める程度。ドイツ語は発音の法則をうろ覚え、いくつかの単語がわかる程度。ひとことでいえば、ひじょうに中途半端な語学力ということになるかと思う。

 

〈英語〉 世間では難関といわれる私立大学にすべりこんだので、平均的な高校生よりは英語が「できる」部類であったと思う。しかしそれは受験英語であり、とくに私が勉強した頃は、ほとんど実用性が問われるようなことがなかった。大学に入るとそれすらほとんど忘れた。中高生の頃はリスニングや会話表現の授業もなかった。以前大学受験生に勉強を教えていたことがあったが、平均的な学力を持つの彼ら方が、私よりよほどリスニングやスピーキングもできるように感じた。自主的に海外の人々と仕事をするようになったの30代半ば過ぎからは、必要に迫られなんとかコミュニケーションに用いている。英語圏ではなくてもほぼ英語を用いる。相手の英語力にも左右され、込み入った交渉は不可能だ。メールなどで仕事上の最終確認を行う場合には通訳を介するよりないが、最近は精度が高くなってきた翻訳ソフトを使うこともある。

 

(フランス語) 大学のフランス文学科に通ったから、英語とちがい自主的に学び始めた。好きだったが、その頃は演奏活動も忙しく、腰を据えて学ぶことはできず、できるようにならなかった。そして忘れた。いま使えるのは日本の英語の教科書の難易度を参考にすると、中学2年生程度であろうか。まったく実用的ではない。ただ、ちょっとでも知っているのと、全く知らないのとでは大きな差があるとは思う。

 

(ロシア語) 30代半ば、ロシアとの縁が増え、関心が強くなってから学び始めた。学びたい欲求が強かったが、日々の生活の中で優先されず、レヴェルで言えばやはり中2の英語くらいだろう。挨拶程度。ただ、ひと月に何度かロシア語の歌の伴奏を15年くらい続けているので、フランス語に比べればかなり身近だ。理解しているとはいえないが、友人も多いので、たとえばFACEBOOKなどのSNSでは、常にロシア語の投稿を目にしていることになる。時間を作って学びたいと思うがなかなか…。ロシア語で用いるキリル文字の読み方はわかるので、インターネット時代にはそれをたよりにさまざまな情報を得ることができる。

 

 それぞれ会話より、読むことの方がまだできるのかもしれない。私の拙く中途半端な語学能力での交流を念頭に入れて読み進めていただければ幸いだ。それもほとんどが英語によるコミュニケーションだ。しかし、お互いの第二言語を駆使しながら苦労して伝え合うのも悪いものではない。

 


7 外「国」人

近所の芝園団地。5000人が暮らすがその半数以上が中国人。酒を買ってこの円形広場(「たまご広場」)でよく飲む。盆踊りのやぐらを建てているところ。
近所の芝園団地。5000人が暮らすがその半数以上が中国人。酒を買ってこの円形広場(「たまご広場」)でよく飲む。盆踊りのやぐらを建てているところ。

 〈2019年 埼玉〉

 

 先日、日本語をほとんど話せない女性が店番をしている近所の中華屋に行った。スマホの音声認識翻訳アプリケーションを使って注文をきいてくる。こちらからは、中国のどちらからいらしたのですか?とスマホに音声を入れ訊いてみると、嬉しそうに中国の地図のページを開きここだと指して教えてくれた。彼女の故郷にはどんな古い歌があるのかなぁ、などと興味が湧いてくる。一方で私が10年以上暮らすアパートの隣の部屋に住み、よく挨拶も交わす感じの良いSさん母娘や、そのまた隣のほとんど口を聞いたことのない一人暮らしのサラリーマン、その他大勢の同じアパートに住む日本人の方々のことは、故郷はどこなのかも知らないままだということにあらためて気づく。

 

 都会の生活とはそういうものだろうが、私が幼少時代を過ごした、1980年代、同じ街の別のマンションでは、ご近所付き合いのようなものはもっと盛んだった。それぞれの家庭の故郷から送られてきた野菜などを年中分け合っていたと思う。よそ者同士の連帯意識もあったのかもしれない。誰がどこの土地からこの街にやってきたのか、大方わかっていた。私が知る標準語と母の言葉に残る山梨や静岡のイントネーションにはない、日本の津津浦浦の言葉の響きをきいた。主に、家庭や地域のなかにいる母親と子供のつきあいを中心にしたコミュニティだった。会社勤めの父親たち、「おじさん」たちからそれらの方言を聞くことは稀だった。

 

 私が長年暮らしているこの東京近郊の埼玉県南部の小さな街ではいま、中国や韓国はもとよりネパール、パキスタン、ベトナム、トルコから逃れてきたクルドの人々も多く暮らしている。ここ数年で近所にできた中華食材店やイスラムのハラルフードの店、中国東北部の料理店は30軒以上は超えている。考えてみれば日々数百人くらいの海外からの来訪者を街中で見かけ、その言葉をきいている。

 

 国際色がかなり豊かな東京近郊のこの土地も、50年ほど前には典型的な関東平野の田園風景であったことが、街を歩きながら想像できる。道の整備のされ方や家の建ち方にかつての風景の痕跡を感じながら、そこに海外からの移住者や、私が共存していることの不思議さを感じつつ、そこに響き合う歌、音楽、踊りをを思い浮かべたりもする。

 

 彼らの多くは日本語を話す。しかし、私が彼らと直接会話をしたりする機会はほとんどない。せいぜいコンビニエンスストアやスーパー、飲食店での商品やサービスの受け渡しのシチュエーションくらいだろうか。私が行く近所の安居酒屋のようなところは、知らない者同士の出会いやコミュニケーションの場となっているが、そういう店で彼らが働いている場合はあっても、客としている姿はみたことがない。

 

 海外の街で驚くことはさまざまな民族の同居だったが、同時に思ったより民族間で居住地域を作り、多民族間での交流が少なそうなケースが多かったのも印象的だった。こうしてそれが「意外」だ、と感じたのは私がこの日本、東京近郊で、同族意識というものを自他ともに直接経験せずに生きてきたからだろう。異郷での同族意識は当然強いものだろう。

 

〈1995年 東京〉

 

 大学1年の時だったか、たしか東京の平和島あたりだっただろうか、音楽への関心から、在日コリアンの多く住む一画のお祭りへ友人の友人に連れて行ってもらったことがあった。歌や太鼓、踊りで商店街を賑やかに練り歩いた。打ち上げ会場だった古い木造建築の広めな民家の2階には、それぞれ持ち寄った赤味を帯びた各種の家庭料理が無造作に並べられていた。大勢の伝統的な民族衣装を着た大人たちが何者でもない学生の私を自然に受け入れてくださったことが嬉しかった。と同時に、自分が外からきた客人としてそこに居続けることに、なんとなく居住まいの悪さを感じていた。いくつかの単語を除き、彼らが喋るのは日本語だった。私は東京の一画で、初めて自身をマイノリティとして意識し、生まれ住んでいる国にいながら、外「国」人であることを少しだけ経験したと思う。

 


8 異邦人の耳 明治の音

  〈明治20年代 出雲〉

 

 今自分が見ているのは、遠い遠い太古のものだ(…)この踊りこそ、数えきれない歳月の間にその意味が忘れ去られてしまった動作の象徴であるに違いない/

 今宵のあの歌は、自然のもっとも古い歌とおのずからにして調和を保っている。さびしい野辺の歌、あの美しい大地の声を形成する夏虫の嫋々(じょうじょう)たる音楽と、知らず識えあずの中(うち)に血脈を通わせている/

 あの素朴な村娘たちの合唱によって私の胸に湧(わ)き起こった、あの感動は、いったい何だったのだろう──床につきながら、私はそんなことを考え始めていた。あの絶妙な間合と、断続的に歌われた盆踊りの唄の調べを思い出すことは難しい。それは、鳥の流れるようなさえずりを、記憶の中に留(とど)めておけないのと同じである。しかし、その何ともいえない魅力は、いつまでも私の心から消え去らないのである

 

 これらは明治20年代、夏の夜の農村の盆踊りを描写した文章だ。盆踊りが土地の死者を迎える村人のとって大切な「儀式」であるには違いない。文章を読むと、この筆者の目に映り耳に聴こえたそれは、神聖な儀式のように厳かささえ感じる。たしかに、スピーカーから音を流すわけでもなく現代の盆踊りと比べれば、おそらく地味なひそやかさもあろう。しかし歌い踊る人々にとっては、俗なるエネルギーにもみちた娯楽だったように思える。

 

 西洋のメロディなら、それが、私たちの胸に呼び起こす感情を言葉にすることもできるであろう。それは、自分たちの過去を遡る、すべての世代から受け継がれてきた母国語のように、われわれになじみのある感情でもあるからだ。ところが、西洋の歌とはまったく異なる、原始的な唄が呼び起こす感情は、いったいどう説明すればいいのであろう。あの音色は、われわれの音楽言語である音譜に移しかえることさえできないのではないだろうか。

 

 これらの引用はギリシャ人、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が出雲の松江でみた盆踊りについて書いた文章だ。百年以上前のこととはいえ日本人にとっては多少は想像しうる風景かもしれない。ハーンはつぎのように続けて文章をとじた。

 

 そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。

 

 ハーンは「俗」と言われる領域の中に「聖」を見いだしながら、目の前に現れた明治維新期の庶民の慣習から万物への共振れを聴いた。洗錬された伝統芸能や芸術からではなく、盆踊りや物売りの声、門付の放浪芸人の歌、虫の音、鐘の音等の環境音(サウンドスケープ)からそれを聴いたのだ。

 

 それにしても、わたしなどに決して判りもしないこの東洋の歌――庶民階級の一盲女がうたったこのありふれた歌が、異邦人であるわたしの心に、これほど深い感情をよびおこしたというのは、どういう理由であろうか。これはきっと、あの歌い手の声のなかに、一つの民族の経験の総和よりも大きな或るもの――人間生活ほども大きく、善悪の知識ほども古い或るものに訴えることのできる素質があったからであろう。

 

〈幕末から明治 西洋人の日本文化体験〉

 

 音楽を感受するためには、より直感的に、より注意深く耳を傾けなければならない。内藤高著の『明治の音』という本のなかでは、ラフカディオ・ハーンのほかにイザベラ・バード、エドワード・モース、ピエール・ロチ、ポール・クローデル、アンリ・ミショー、ジャン・コクトーなど西洋から日本を訪れた人々が、日本の生活の中の音風景や伝統音楽、西洋化する音楽について、いかに感受したか、それぞれの残した文章から考察されている。そこには、おそらく当の日本人が気にしないような音にまつわる慣習、言語の特性、サウンドスケープや音楽についての、生理的嫌悪や好意が示され、哲学的考察がなされる。江戸時代と近代の間で失われつつあったそれらの記録として発見が多い。彼らは彼らにとって当たり前ではない世界を、まず耳でとらえたのだ。

 

 しかし内藤は、聴覚は視覚にくらべて保守的であるという。たしかに読み進めてゆくと、彼らが滞在生活や言語に慣れるにつれて、少しずつ自らの聴覚体験に関する記述は少なくなってくる。

 

 目で見ることに比較すれば、音を聴くことは、はるかに解釈の不確かさが伴う。時間をかけて検証したり、修正したりできない。ダイレクトで、即時的、ある意味では正直な反応が出る。その意味では、保守的な性格を強く帯びている。耳慣れない音を理解するための知識は非常に限られている。それを何か意味のあるものとして捉えることは相当に難しい。拒否するか、あえて解釈しようとすれば彼ら自身の文化的背景に頼るしかない。(『明治の音』)

 


9 ワールドミュージックブームの体験

中学生の頃1990年くらいにCMで流れていたギニアのモリ・カンテ。好きになって三軒茶屋の昭和女子大人見記念講堂に「フェスティバルコンダロータ1990」みにいった。古風な講堂のなかで、バブルなお姉さんたちが踊りまくっていてびっくりした。
中学生の頃1990年くらいにCMで流れていたギニアのモリ・カンテ。好きになって三軒茶屋の昭和女子大人見記念講堂に「フェスティバルコンダロータ1990」みにいった。古風な講堂のなかで、バブルなお姉さんたちが踊りまくっていてびっくりした。

 

〈1990年前後 世界音楽の体験 東京〉

 1990年前後、東京の文京区の中学校に通っていた私は、帰りに池袋や新宿、渋谷の大きなCDショップに行く。すると洋楽売り場のほとんどが、アメリカやイギリスでつくられた音楽だということに気がつき、なぜだろうと考える。別の階に上がると、クラシック音楽のコーナーがあり、それはほとんどがヨーロッパの音楽で作曲家別と楽器別に分類されて売られていた。

 小規模ながら「民族音楽」のコーナーもあった。当時主にパリあたりから発信されていたワールドミュージックブームのようなものがあった。バブル期の日本、東京では、これまで知る機会がなかった世界の音楽、文化が身近になった。料理、食材でも、たとえば隣の朝鮮半島のキムチでさえ、ようやく1980年代の終わり頃から、一般的家庭で身近になったという。海外だけでなく日本のものも、たとえば各地の酒が地産を売りに市場に回り、じょじょに知られるようになった。

 ローカリティやエスニシティへの関心は1990年前後、時代の先端たるステータスになっていったようにみえた。日本のような高度資本主義社会で、ひととおりの新しい生産と消費を尽くして、このようなローカリティのなかに消費への関心を移してゆくしかなかったともいえる。

 知らなかった世界の音楽の豊かさに驚くと同時に、商品や情報として享受するだけでは一抹の虚しさを感じてしまっていた私が、のちに自ら音楽の創作を志すようになり、まずその拠り所としたのはノイズ・アヴァンギャルドだった。特定のローカリティや伝統主義とも市場主義とも対極にある、何をも拠り所としないような表現だ。「何もない」ということは「雑音」だけが存在する世界を意味した。「いまここ」に全てを託すような即興的表現だけが、そのようなノイズを生成する。そこからは、いまさらユートピアでもなく、しいていえば都市の廃墟や残骸を想像することができた。

 

 〈ラテンアメリカ〉

 しばらく経つと、戦後はエキゾチズムの形で受容されてきた中南米の音楽が、ブラジルやアルゼンチンの音楽を中心に新たに紹介されるようになった。そこには伝統音楽だけではなく、新たに作られている音楽もあった。ボサノヴァ以降のMPBや、アストル・ピアソラ以降の新世代のタンゴなどだ。南北アメリカ大陸の文化的基層になったのは、奴隷として連れてこられた主に西アフリカの人々の文化と、移民したヨーロッパの人々の文化だ。都市化される以前のフォークロアとモダニズムが衝突、混合、融合し、現代の生活にも根ざしているような音楽が多く生まれている。

 ラテンアメリカの音楽は、ヨーロッパの伝統や、経済力を背景に洗練を重ねてきた英米の音楽とも異なる。強奪や搾取による悲惨な歴史、伝統、不安定な経済状況を超えてなお、人間が力強く美しく存在しうるということを証明しているようだった。繊細なハーモニー、力強いリズム、私もそうした豊かさを求めて中南米音楽を聴くようになり、自分が暮らす日本でもそのような豊穣なオリジナルな音楽は可能なのだろうかと夢想した。しかしその音楽を生成する基盤は悲惨な歴史も含めた多民族性であり、日本はほとんど混血や移動のダイナミズムをもたない。形式や雰囲気を手本にしても、日本をはみだして視座を広げなくては、そのような強度をもつ音楽を生み出すことは難しいように思えた。


10 ロシア、東欧、社会主義

 〈2000年 クラコフ ポーランド〉

 

 私がはじめて海外での公演の機会を得たのは2000年、思えば20世紀最後の年だ。日本舞踊の公演で行った旧社会主義の面影がまだ残る東欧ポーランドのクラクフ。マーケットを歩くと南国の果実や野菜のような豊かな生命力に満ちあふれた色は少なく、まだ生の残り火をひそかに主張しているような壊れかけのカメラや器具、機械が無造作に転がっていた。街自体が、過去の記憶が放出された「蚤の市」のようだと思った。私が生きてきた日本、東京とは異なり、モノや人が記号やアイコンではなくそれ自体として存在し、リアルな肌触りを街の空気から感じた。社会主義国家によってコントロールされていたモノが市場に溢れ出し、しかしそのモノ自体は、高度資本主義における商品ほどには洗練されておらず混沌として剥き出しのまま、まだ生を主張しているようだった。

 東京ではほとんど印象がなかったインターネットカフェ(世界的にちょうど2000年ごろから現れたようだ)が、滞在していたホテル(シェンケビッチという古い小説家が暮らしていた旧家を改造したホテル)の横に、まるで闇営業の店のように外看板も出さずひっそり営業していた。どんな人が何のために利用していたのか。街中に公然とあるセックスショップを連想させるようないかがわしき佇まいのその場所で、インターネットを使う生活様式が先取りされていたのだろうか。インターネットは日陰で用いられるイリーガルなものだ、というイメージをもった。私自身がパソコンを所有したのはもう少し後のことだった。

〈2004年 アルハンゲリスク ロシア〉

 その数年後、ツアーで、リトアニアとロシアを回った。わたしにとっての初めてのロシアだった。モスクワから列車で一日かけて行った北緯56度、極北の港町アルハンゲリスクでは、文字どおり途方に暮れた。北極まで200キロ、この海の先に人の暮らす土地はほとんどない。ノスタルジックなジャズが緩慢に生演奏される古びた高級レストラン、すぐに壊れてしまいそうな品物ばかり売っているアジア系の人々が営む市場、最新家電が並ぶ静まりかえったショッピングモール、疲労感が蓄積したような街並を素通りしながら、ここに暮らす人たちは、何を生き甲斐に生きているのだろう、と素朴に思った。

 古い文化センターのホールに集った大勢の人々が、私たちの無国籍でノイジーなアヴァンギャルドミュージックに熱狂していたのがステージの上からわかった。嬉しいことだったが、なぜ仄暗い客席がこのような熱を帯びたのか理解に苦しんだ。同時に、私の中でエアポケットのように実体がなかった。ロシアや東欧などの旧社会主義国の小都市では、無意識にこういうものだと思ってきた世界とは別の世界があることをを感じた

 極北からモスクワへと向かって暗闇をひた走るシベリア鉄道のなかで、古い車両の車輪や連結のタップが軋み合うノイズを聴いていると、その響きは、いまだソ連時代のヴィソツキーの歌やギターのように思えた。中南米音楽を「豊か」というのならば、対照的に、メロディーもハーモニーも、リズムも「貧しい」音楽だ。ヨーロッパ音楽の伝統と豊かさ、さらに西アフリカに祖を持つブルースからの影響をも回避した、イギリス発祥のパンクの美学とも近いのかもしれない。しかしヴィソツキーの声やギターは、そのように意図的に生まれたのではないように思えた。ユーラシア大陸の北の大半を占める世界最大の多民族国家であり、それを社会主義のもと牽引してきたロシアで、その「貧しさ」はいかに形成されたのだろうか。

 ソ連崩壊前は、海に囲まれた日本の西の隣国は大半が社会主義国だった。ゆえに太平洋戦争の敗戦以降はとくに、それらの国からの直接的な影響は少なかった。東の隣国は太平洋を隔てたアメリカだ。人間の欲望や個の存在より、理想社会の制度が優先された社会主義が半世紀以上持続されたなかで、一人一人の生はどのように営まれてきたのか、知りたいと思った。その生活に歌や音楽はどのように存在したのか。たとえば中米の社会主義国家、キューバの官能的で豊かな音楽のことも頭の片隅に思いながら、あらためて思う。

 東西冷戦構造が崩壊して久しいが、たとえば、冷戦後に顕在化した中東問題や、現在のロシア・ウクライナ関係、それらをめぐる世界情勢のなかで、日本人はいまだ「西側」の一国家の眼差ししかもてないでいる。私自身もそうだと思う。


11 ユーラシアに訊ねる

 <2015年〜>

 

 これまでたまたま縁のあったロシアやトルコを皮切りに、中東や旧社会主義圏地域を中心に、ユーラシア大陸へと創作ビジョンを広げることは、私にとっては、個々に分断されて閉塞する日本に生きる自らの死生観を広く捉え直すことと同義だ。それは、各地のフォークロアや現代のアーチストの生き様に触れながら創作する音楽にあらわれる。

 

 第一部では2018年に上演したユーラシアンオペラ第一作目に到る道のりを述べたい。活動母体となる2015年の音楽詩劇研究所の成立、翌年から開始したアルメニア、ロシア、ブリヤート、トルコ、ウクライナでのコラボレーション、2018年の東京での集大成、その後の盛岡やタタールスタン、ロシアで行った関連する試みを、順を追って述べる。

 第二部では、第三部で述べるユーラシアンオペラ新作への過渡期的な創作、日本や韓国の口承芸能に関する考察を述べたい。

 第三部では2019年にユーラシアンオペラ第二作目としてカザフスタン、韓国で上演した「さんしょうだゆう」についてレポートしたい。極東ロシアへ移住し、その後中央アジアに強制移住させられた「高麗人」にルーツにもつロシア人ダンサーなど、海外アーチストのファミリーヒストリーを作品に反映させた。説経節「さんしょうだゆう」と、カザフスタン、韓国の両国の口承芸能との接続を試みながら創作した過程を述べてゆく。

 第四部では、私自身が暮らす、海外からの移民、難民の多い埼玉県南部の蕨市や川口市から構想する新たなユーラシアンオペラの将来のビジョンについて述べてみたい。ここには、中国東北部からの人々や、難民認定を受けることができないトルコから移住したクルド人が多い。2020年春から蔓延した新型感染症と時期が重なったが、この2022年ようやく創作の目処がたち、秋に上演予定である。

 

 次のコラムと最終章は、それまでに述べたユーラシアンオペラの創作とは直接的に関わりをもたない。しかし後から振り返って私自身の創作の根幹と関わる、トルコの振り付け家、亡き日本舞踊家との創作について述べる。

 付録的に各章の展開と関わる箇所に、「ユーラシアンオペラを彩る海外アーチスト」と題して、ユーラシアンオペラプロジェクトでともに作品をつくっているアーチストのファミリーヒストリーなどを挿入した。会話やメールでのインタビューに補足を加えたもので、だいたい三~四世代くらいまで遡ることができる。現在はトルコ(スイス)、ウクライナ、ロシア、韓国に暮らす彼、彼女たちの世代を跨いだ移動は予想以上にダイナミックで、多くは政治的、民族的な理由が伴うものだった。たとえばロシアのアーチストとその家族はそれぞれ、広大なロシアで東西の移住を繰り返していた。ウクライナで出会ったアーチストがサハリンやナホトカの出身だったことは、私にとって、驚きだった。

 この読書体験が、読者のみなさまにとっていまここで、生まれたての音楽を奏でるような、イマジネーションにみちた私とのコラボレーションの時間になることを願うばかりだ。創作者として私は音楽にこだらず、見たことのない「新しい場所と出来事」をつくりたいといつも考えてきた。子供、学生、人間国宝、行ったことのない土地のアーチスト、それぞれ共演に傾けるエネルギーに差はない。いつ、どこ、誰とでもコラボレーションする準備だけはできているつもりだ。 

 疑問を持ち、不思議に想い、もっと面白く、楽しくするために工夫して生きる。そのために知らないことを知り、想像し、創造するだけのことだ。芸術であれ、祭であれ、遊びであれ、それが人びとの古来変わらぬ生のありようではないだろうか。自分自身の体や他者の営みを想像しながら訊くこと。そのためには「音楽」という名詞、言葉さえも余計な物だ。便宜上「音楽」と呼んで書かざるをえないが、私はそうすることすらもどかしい。

 

〈1964年 岡本太郎の見た韓国〉 

 実際に活動を進めたり、この本を書いたりするなかで、ラフカディオ・ハーンの言葉とともに、美術家の岡本太郎がはじめて韓国を訪れたあとに書いたエッセイに励まされてきた。

 惨めさや、重っ苦しさは何にふれても感じられなかった。貧困や生活苦が必ずしも心性の暗さにはならないということを、つくづくと感じた。常に流転して行く運命。ユーラシア大陸のいわばどんづまりに位置するこの半島の人々は、意外にもこだわりのない気配で、平気で行きている。ふと私には北アジアの草原の方から透明な冷たい風が流れてきて、心の中を抜けとおるように思われた。(岡本太郎『李朝文化発見』)

 祭りの仮面、道ゆく人、民家の中、民謡、跳躍的な舞踊...。たとえば大正期の柳宗悦が紹介した、高度な芸術作品として賞賛されてきた李朝の文化、白磁などの陶磁器、仏教彫刻、やがて美術館に収まるような「もの」とは違い、気取らず、まだ生活感を失っていないそこにある風景への眼差しは屈託がない。学者や研究者とは異なる創造者の直感的洞察だ。岡本太郎の文章には、まるで彼自身が紹介する朝鮮の人々の踊りのような跳躍とよろこびがある。私はそこにこそ励まされてきた。

 かつてのローカルなコミュニティが生み出したフォークロアが息付く生活を営むことはいまや不可能だ。結局は、究極の個人主義的な生を営むことしかできないのでは、とも思う。しかし一個人の身体は、無数の他者、あるいは死者たちと私とを介するメディアにほかならない。この世界で、どのように生きたらよいのか。ユーラシアの人々、創作を共にする海外アーチストや、日本の創作仲間たち、あるいは私の住む街に暮らす海外からの移住者たちに訊ねながら、そこから生まれた作品の中にそれをききたい。 

 

 音楽は世界中の無数の死者たちのたった一人の眠りのなか夢の痕跡のようなもの。河崎純(2022年4月)