架空の民族音楽とは?「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」

初演2015年 フライヤー(デザイン三行英登)
初演2015年 フライヤー(デザイン三行英登)

第一部 ユーラシアンオペラ=神なき時代の神謡集

 

第一章  死者のオペラ 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」

 

1 ミュージック・ポエティック・ドラマ(音楽詩劇)とは

2 小説「アルグン川の右岸」

3 北方狩猟民族エヴェンキ

4 河原から死を告げる声 心中天網島

5 死者のアリア「歌と逆に、歌に」

6 初演「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」 

 ◆ 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」 (「Continental Isolation」)登場人物


第一章  死者のオペラ

 

 2018年9月、音楽詩劇研究所によるユーラシアンオペラ「Continental Isolation」が東京で上演された。サインホ・ナムチラク(トゥバ共和国)サーデット・テュルキョズ(トルコ) アーニャ・チャイコフスカヤ(ウクライナ)、マリーヤ・コールニヴァ(ロシア)、海外から4人の歌手を招いた、これまでのコラボレーションの集大成である。

 

 作品はこの団体を結成して間もなくの2015年、日本のメンバーだけで 東京で初演された、「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」の改訂版だ。しかしこの初演の時点では海外でのコラボレーションは想定しておらず、「ユーラシアンオペラ」というビジョンもなかった。いくつかの海外プロジェクトへの参加を通じ、おぼろげなイメージはあったが、具体的な構想はなかった。

 

 翌2016年に、同作品をアルメニアの首都エレヴァンで行われている国際演劇祭で上演した。上演後に行った演劇祭で行ったマスタークラスのワークショップと、その足で出演したロシアのモスクワの音楽祭がユーラシアンオペラをプロジェクトとしてスタートさせるきっかけとなった。ワークショップでは、私たちの作品に含まれる能や日本で生まれたダンスである舞踏の要素を紹介しつつ、演劇祭に参加するコーカサス、ロシア、イランの俳優やダンサーとコラボレーションした。反対に参加者の一人がアルメニア中世のフォークソングを教えてくれた。ロシア人の参加者が能の謡い方で歌うロシア民謡、バレェとは異なる下半身を重視した舞踏と融合した。モスクワの音楽祭では東京での初演やアルメニア公演のスクリプトを元に、主催者側から提案され、ウクライナの古謡を歌う歌手とコラボレーションを行った。それらがきっかけとなり、「ユーラシアンオペラ」の構想を開始した。2017年にはロシア、ブリヤート共和国、トルコ、ウクライナで現地のさまざまなアーチストたちと創作し、2018年、名前を変えて「Continental Isolation」として集大成した。

 

 第一章ではその前段階として、このプロジェクトの母体となる音楽詩劇研究所の結成と、「死者のオペラ」として創作した初演作品について述べてゆきたい。この作品が、第二章以降で日記風に追想する、海外を中心にしたユーラシアンオペラ創作を目指したコラボレーションすべての土台となっている。

 


1 ミュージック・ポエティック・ドラマ(音楽詩劇)とは

 

 2015年の初めに東京都墨田区の劇場シアターxが企画するいくつかの「研究所」の一つとして音楽詩劇研究所はスタートした。それまで私がおこなってきた大学の演習授業内での音楽劇の創作をベースに、各ジャンルの旧知のアーチストを加えた、新たな集団創作の場だった。その年に生まれたこの作品は、敬愛するポーランドの演出家タデウシュ・カントールの生誕100年を記念した同劇場主催の演劇祭において初演された(初演の上演後、海外での活動に主軸を置いたため、劇場内の研究所としては休止状態にある)。

 

 立教大学の文学部文芸思想学科で、旧知の文芸批評家の青木純一氏が担当した講義の中で、2012年よりゲスト講師として五年間、毎週の授業で学生たちと音楽劇を創作し、年に数回、学外での外部公演も行った。それ以前も教育的現場では、高校中退者が通う予備校の生徒や就職を間近に控えた東京北区の高校生たちなど、問題や困難にリアルに直面する学生たちと演劇を創作してきた。そこではドイツの劇作家、詩人のベルトルト・ブレヒトの「教育劇」の現代的な展開を模索した。コミュニケーションを重ねながら、彼らが社会のなかでかかえている問題や葛藤を、創作のテーマへと直結させた。

 

 優等生が通うような大学は、そのような刺激的な創作の現場にはなりえないと想像した。だから音楽を中心に舞台芸術を概説する座学メインの講義を想定し、「おまけ」ていどに実作もできたらと考えていた。蓋を開けてみると、学生たちはいっしょに酒が飲める年齢だったということや、大学の中ではアウトサイダー的な生徒が集まりやすかった学科だったことも手伝って、濃密に交流を深めることができた。それは「プロ」の現場では困難な実験的な創作へと繋がり、個人的なテーマを試す場にもなった。与えられていた講義名は「文学作品の批評と読解」。それを拡大解釈し、批評や読解を身体パフォーマンスとして行うということにしていたため、私が選んだ創作の素材は文学作品、特に詩的なテクストだった。

 

 パウル・ツェラン、ベルトルト・ブレヒト、アントン・チェーホフ、ブルーノ・シュルツ、W・G・ゼーバルト、20世紀のロシアの詩人、三島由紀夫、金子光晴、北村透谷、宮沢賢治、中島敦(こう書いてみると男性ばかりだが、授業を受ける学生はどちらかといえば女性が多く、履修者15人全員が女性の期もあった)など、日本や西洋の近現代の文学者の作品をコラージュすることが多かった。本書で述べてゆく、各地のフォークロアをベースに創作するユーラシアンオペラに結びつくような作品は少ない。

 

 西洋音楽には聖書の素材を音楽化した「オラトリオ」というジャンルがあり、それを「詩劇」と翻訳することがある。彼らとの創作では、セリフによるドラマと現実の身振りを拡張したリアリズム演劇、それを音楽化したオペラやミュージカルとは異なる、朗読や歌唱で構成される詩劇形式を意識した。 

 

 そもそも西洋古典音楽の歴史は、まず宗教的なテクスト、ロマン派以降は文学に追従することで音楽を洗練させてきた。近現代詩の言語は、個の内面の分裂から生じ、日常や言語的連辞からも孤立した語が錯乱する。各々の言語に固有な、韻の使用を避けることも多いので旋律的とは言えない。それらを忠実に音楽化すると、ふつうに人々が歌うことができない難解な歌が生まれる。身体の構造から発される自然な音程から逸脱し、耳慣れない響きが使われる。一人の歌手が高度な技術を用いてそれを再現しても、ほとんどの聴き手にとって歌とすら認識されない。そういうグロテスクな歌をふつうは、わざわざ歌うことも聴くこともしない。

 

 現代詩の言語はとくに、読み手に沈黙を要求する言語表現であるともいえる。そのような詩的言語に対して、背景や解釈を頼りに黙読して孤独に向き合うのではなく、まずは声をざわめかせてみたいと思った。たとえば、一篇の詩をいくつかの声部に分解して群読を試みた。彼らがそれに耳を傾けながら、自身の日常の身体や言語の活動に解きほぐして融合させた。こうして学生たちと共同で作曲するようなイメージでワークショップ的な創作をおこなった。 

 

 音楽や演劇の道を志していない、舞台に立つことも想像していなかった文学部の学生たちと、身体を動かしながら朗読したり、歌ったりと実験を繰り返した。彼らとの作業を継続しながら、あらためてこれまでの活動で共演者してきた各ジャンルの信頼を置くプロの表現者も融合させ、さらに実験を深めながら、舞台上に作品として成立させてみたいと思うようになった。それを実現する場が音楽詩劇研究所だった。

 

 音楽詩劇研究所としての最初の作品は、学生たちと取り組んできたきた20世紀のドイツの詩人、パウル・ツェランとベルトルト・ブレヒトの詩で構成した歌と朗読やパフォーマンスによる「捨て子たち星たち」という作品だった。

 

 いわばその時点でも、この本の中心になるユーラシアンオペラというプロジェクトへの視座をもっていなかった。むしろ学生との作業の延長として「音楽詩劇」なる方法を深めながら新しい歌を模索することが私の目的だった。

 

「まだ歌える歌がある 人間の 彼方に。」  (パウル・ツェラン「糸の太陽たち」より 飯吉光夫訳)

 


2 小説「アルグン川の右岸」

 

 その数ヶ月後、劇場が主催するポーランドの演出家タデウシュ・カントール生誕100年祭に参加することになり、新たな作品を発表することになった。大学の授業から継続してこの場に参加してくれた小説家を志す学生のメンバーが、上演台本のベースとなるテクストを探していた私に一冊の本を教えてくれた。中国の女性小説家、遅子建の小説「アルグン川の右岸」だった。この小説との出会いがなければ、ユーラシアンオペラの創作もなければ、本書の存在もなかったのである。

 

 私にはまるで遠い世界の神話のようにも思えた。小説の舞台は中露国境地域に流れるアムール川の支流アルグン川沿岸だ。遅子建自身のルーツでもある狩猟遊牧の北方少数民族エヴェンキ族のある一族の暮らしが、90歳の老婆の回想による問わず語りによって進行する。一族の20世紀における生活の変化は国家への編入の過程の歴史でもある。狩猟と遊牧のトナカイをともにある非定住生活から定住生活への移行における一族の葛藤が、フィクションともノンフィクションともつかぬタッチで物語の中に刻まれる。明確な旋律をもたぬ歌の断片が私の身体にざわめいた。アイヌの少女知里幸恵によって書かれた日本語による「アイヌ神謡集」も思い出させた。

 

エヴェンキ族の詩人Лоргоктоев Владимир (1934-1992) (バイカル民族博物館にて撮影)
エヴェンキ族の詩人Лоргоктоев Владимир (1934-1992) (バイカル民族博物館にて撮影)

  老婆に語られる一族の来歴は群像劇といえる内容だ。特に印象的だったのは、登場人物たちの死の場面と、残された人々の受け止め方だ。それらに動物や自然が身近である生活のなかで築かれた、シャーマニズムに基づく死生観があらわれる。年齢を問わず病因以外にも、過酷な自然環境に左右されて突然予期せぬ死を迎えることも多い。シャーマニズム信仰のサクリファイス=生贄や刹那的な自殺による死もある。

 

 死因自体も多様であるが、受け止め方も多様だった。大きな悲しみを伴って葬式的な儀式を行うこともあるが、意外なほど淡白に自然の摂理として受け流すこともある。それは人間に対してだけではなく、暮らしを供にする大切なトナカイに対しても同様だ。「アルグン川の右岸」には、エヴェンキ族の、現在の都市生活からは想像しがたい「死」のあり様がたくさん描かれていた。現代の都会に暮らす私にとって、わかりえぬ部分は多いが、なんだか幸せなようにも感じたし、なぜか救われるような気持ちもあった。

 

 交流のある他族との婚姻関係(それが同じ狩猟民族だけでなく交易のあるロシア人や中国人であることもあった)によって離散や融合をくりかえしながら一族は形成されていた。しかし国家の介入によって新たな価値観にさらされて、生き方の選択を迫られ、新しい社会に溶け込んだり溶け込めなかったりしながら、やがて本格的に離散してゆく。

 

 長年の慣習を基盤にした共同体の中で個の存在はどのように意識されているのであろうか。現代社会の中で自意義を常に社会に求めて訴えかけている私のような人間には、強固な小共同体社会における個の存在、自意識はどのようなものなのか想像がつきにくい。ただ、その内実は大きく異なるかも知れないが、孤独からも共同体の束縛からも自由でありたいという思いは、それほどの差はないようにも思えた。

 

 共同体の生から解放されて死を迎えるその時、あるいは死後の世界というものがあるのならば、昇天の時、自然物へと還るその時間のなかに、幸福があるのかもしれないとも想像してみた。その瞬間に響く音楽を想像し、創造する。それを「死者のオペラ」と呼んでみることにした。

 

 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」の設定では、舞台の上で演じる「共同体」をこの小説に描かれたエヴェンキの一族に特定しなかった。民族や家族というフレームからある程度解放されながら、社会からは解放されることのない現代人に姿を重ねながら架空の共同体を「演じる」さまに、これまでにない音楽が生まれる場を求めたかったからだ。

 

 まず小説の登場人物たちが死んだ場面を参考に、彼ら一人一人の昇天をイメージした。そこで一族の中に生きる生から解放されてひとりになった瞬間、自らの生と死のはざまを歌う歌を「アリア(独唱)」として設定し作詞、作曲した。死の世界で再編された新たな小さなコミューンを仮想し、それを「架空の民族」と呼んでみる。死者によって次々ともたらされる独唱歌が、共同体で歌われて合唱化し、新たな民謡を生む。死後の世界でも「共同体」なるものが存在するのかは知る由もない。しかし「新しい民謡」=「死者(たち)のオペラ」を創造する根拠を、このような空想に求めた。それらの歌は、死者の共同体の演じ手であるわれわれの母語、日本語で歌われることになる。のちのユーラシアンオペラでは多言語が響き合うことになるが、初演であるこの時点では、いくつかの例外を除き、すべて日本語で演じられた。

 


3 北方狩猟民族エヴェンキ

 

 野原にスクリーンが設営され映画が始まる。中国共産党による少数民族を近代社会へと誘う目的で制作された教育的映画だ。一族にとってはじめての映画体験であり、原作小説の象徴的な一場面だ。人々はこの「新しい祭」に興奮し、「映し絵」の中に描かれた世界と現実とを混同した。スクリーンのなかの登場人物を客人として迎えようと、そのなかに入ってゆこうとした。

 

  この場面を一人の登場人物が歌う歌詞として書き換えてみた。

 

「ワロジャの歌」(作詞 作曲 河崎純)

ここは桃源ではない 昨日の映し画でもない

森ではいつでも 詩をうたい

そして私も風になる そして私は水になる

 

 一族の族長であった男がその映画体験を書いたという設定で作った歌詞だ。一族の歴史の中で初めて文字で書かれた詩だ。原作小説に描かれるエヴェンキ族の生活の変化のなかで私がとくに着目したのが、無文字社会から文字を用いる世界への言語生活の変化だ。彼ら一族は移動や狩猟の目印になる記号は持っていたが、文字はもたない。しかしこの族長だけは外部との接触の中で文字を習得していた。漢詩も知っていた教養人である。彼はこうした新たな文化がこれまでの生活体系を破壊する可能性があることにも無自覚ではない。森と川を誰よりも愛し、この一族が生きてきた寒く厳しい自然とともにある暮らしを維持し、守りたいとも考えていた。それでも、周辺の少数民族が近代国家に編入されるなかで、新しい知識と伝統との調和と共存を試み、一族が生き延びるために文字の教育が必要だと考えた。

 

 先述したように「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」では、私たちが演じる一族をエヴェンキ族に特定したわけではない。しかし、私自身がこの小説に出会うまで名前すら聞き覚えがなかった、この民族の歴史と音楽文化についても少し紹介しておきたい。

 

 エヴェンキはシベリアから満洲にかけて居住するツングース系民族だ。シベリア原住民だといわれている。牧畜・狩猟・漁労・トナカイ放牧、暮らす土地によって、生活の主形態もさまざまだ。創作の参考にした小説「アルグン川の右岸」では、トナカイ放牧と狩猟を主に生業としていた。

 

 後金(後の清)の建国者の太祖ヌルハチは北方、満洲の安定をはかり、1639年から1643年にかけて征服戦争を行いエヴェンキを支配下に置いた。その後、大清国の支配下に入り、社会、軍事組織の「八旗」の一つ、ソロンに編入され、軍隊として機能した。一方ほぼ同時期に、帝政ロシアがシベリアに進出し、シベリアに住むエヴェンキ民族に毛皮を納める税を課すようになる。やがて民族は清と帝政ロシアに分割されて支配下に入った。「アルグン川の右岸」でも言及されたように日本人とも接触があった。1938年に満州国に近隣北方諸民族の調査が命じられ、日本人の指揮の下、対ソ連に備えて軍事訓練を行っている。エヴェンキ族も訓練に参加することになり、その間に男手がなくなり、長く続いたこれまでの生活形態を崩す要因になったという。中華人民共和国が誕生すると、その政策により、遊牧から定住生活へと移行し、狩猟も禁じられた。現在は、中国、モンゴル、ロシア国内の居住している。なお中国語の表記では「郭温克族」となる。 

 

 この民族出身の中国の作家ウロルトによって書かれた短編小説集「 琥珀色のかがり火」の解説にはこうある。

 

「古くから家族単位のウリロン(筆者註:「アルグン川の右岸」ではウリレン)という血縁共同体をつくり、シャーマンを信じ、夏は白樺の樹皮、冬はヘラジカの皮を張った円錐形の天幕「仙人柱」(筆者註:「アルグン川の右岸」ではシーレンジュ)で移動し、狩猟の他トナカイを飼育し、共同狩猟、平均分配をおこなう原始共同体を維持してきた。」(牧田英二)

 

 信仰はシャーマニズムだ。そもそも「シャーマン」という語も、エヴェンキ語の「サマン」が由来だとされている。トゥングース系の満族やエヴェンキ族の儀式では、シャーマンが身体につけた鈴と声、太鼓をつかって祈祷が行われた。鹿皮で作られた衣服や冠などは30キログラム位の重さになるという。

 

「シカあるいはヘラジカをシャーマンの主神である舎臥刻(祖先神)に奉げるには,仙人柱(郭温克族の家屋)の内側炉の北側に落葉松と白樺を神樹として建て,両者を皮縄で結んでシカあるいはヘラジカの心臓,食道,肺,肝臓などをこれにひっかける。両方の神樹の前に同様に小さな松と白樺をたてて,献奉したシカあるいはヘラジカの血をこの小神樹の上に注ぐ。これと同時に家屋の西辺に木でつくった月と太陽を掛ける。このほか木製の2羽のヒシクイと2羽のカッコウをつけ,また家屋の東西両辺にも1羽ずつ吊し祭場をつくる。」(『郭温克人的原始社会形態』秋浦)

 

「サーマンの音楽だが,サーマン(男も女もいる)が,その時の願いによって即興的に歌詞を作って歌うと,その歌詞ははっきりと聞きとれるので,後にいる人々(男も女もいるが,男が多い)が,同じ音高ですぐまねて歌う。サーマンはメロディもどんどん変えて歌うので,後の人々は一生けん命ついていく。うまく歌えない人ははずされる。この後につく人には,とくに何の決まりもなく,誰でもいい。人数は7、8人から10数人位が普通だが,多い方がいい。サーマンの太鼓はかなり大きく,一枚皮で皮は鹿の皮が1番いい。」(「満族を中心としたツングース系諸民族の音楽」小島美子 国立歴史民俗博物館研究報告第50集)

 

 B.Aトゥゴルコフ「トナカイに乗った狩人たち」(斎藤晨二訳、刀水書房、1981)に以下のような記述をみつけることができる。

 

「なお、エヴェンキの踊りは輪踊りである。1843年にミッデンドルフが見たオホーツク海沿岸のツゴール川のエヴェンキの踊りは、熱狂的なものだった。「最初小さな輪をつくる。その輪は、男女が交互にならび、それには非常に年とった老人も入っている。… 手をつなぎ側方へ足を移動するだけの単調な踊りがはじまった。ほどなく、しかし輪の踊りは活気をおびてきて、とんだりはねたりする動作になり、全身がゆれ、顔はほてり、叫び声は歓喜にみち、互いに相手の声を圧倒しようと大声をはり上げた。毛皮の半外套(毛皮上着)を脱ぎすて、腰当て(すねあて)も脱ぎすてた。最後は狂気が一同をとりこにした。何人かのものは、なおもそれにあらがおうとしたが、もうすでにその中の一人の首がかすかに拍子をあわせて、右へ左へと揺れはじめる。と突然、強固な堰が破れたかのごとく、見物人が踊りの輪の中に突入する。踊りの動作はまったくばらばらになり、騒然となって、歌は絶叫と化す。フルヤー・フルヤー-フーゴイ・フーゴイ-・ヒョーギー。ヒョーギー-フムゴイ・フムゴイ-ヘーカ・ヘーカ-アハンデー・アハンデー-ヘールガ・ヘールガ。ついに踊りの輪はつかれ切って乱れ、足はいうことをきかず、声もかれはてる」

 

 1990年に行われた音楽学者の小島美子の調査(「満族を中心としたツングース系諸民族の音楽」国立歴史民俗博物館研究報告)では、中国側のエヴェンキ族出身の作曲家の協力により、エヴェンキ族のシャーマニズムや民謡の特色を見いだすことがまず目的とされた。ツングース系のエヴェンキ族とモンゴル系民族の民謡やシャーマニズムを比較し、それぞれとモンゴルに近いと言われていた日本民謡との関係性を確認する試みだ。

 

 エヴェンキの民謡は、「江差追分」との類似も言及されるモンゴル民謡のオルティンドー(長い歌)に見られるような、明確なリズムの単位をもたない無拍節な歌唱は比較的少ない。調査によると、むしろ複合拍子を伴う複雑なリズムをもつものも多く、3拍子が多いという点では日本より朝鮮半島の民謡に近いということだ。

 

 実際にエヴェンキ族が現代の朝鮮人の祖先だという説もある。説の根拠となる一例として、歌に残る言語の痕跡があげられるようだ。朝鮮半島で最もよく知られる民謡「アリラン」の歌詞の「アリラン」や「スリラン」は元来、明確な意味が定義されない囃子詞的な言葉だ。それらは大陸のエヴェンキ語に由来するともいわれている。

 

 朝鮮系民族と大和民族の繋がりを嫌う嫌韓論者は、朝鮮族とエヴェンキの関係を根拠に、現代の韓国人も貶める。史実としてヤマトと古来の半島との繋がりは否定できないので、のちの北方諸民族の流入後の朝鮮半島の人々を現代の韓国人の祖と捉える。彼らにとって狩猟民族は、無条件に蛮族であり、それを祖とする韓国人もまた蛮族である、となる。実際に「エヴェンキ族」とインターネットで検索すると日本ではそのような言説があふれている。人を貶めたるための根拠を得意げに開陳するほどおぞましいことはない。

 

 韓国の農村には、古来より存在し李朝以後に村々に広がったというユーモラスな顔の男女一対の木製の人柱のチャンスン(장승)が道しるべのようにある。6世紀に高句麗から渡来し「渡来人」が移住した埼玉の日高市の高麗神社にも祀られている。たしかにそれは、北方シャーマニズムの多神教文化に特徴的な、男根崇拝、自然神を表すトーテンポールにも似ている。北方騎馬民族、狩猟民族が朝鮮半島へ流入し、高麗に帰化したのち賤民とされ楊水尺や白丁の名で差別を受けた。それらの階級の放浪芸や妓生の芸が広く民俗芸能のベースを築いていったことも指摘されており、朝鮮半島の跳躍的な豊かな伝統文化の一端を担ってきた。チャンスンには地上神「天下大将軍」で 地下世界の女神「地下女将軍」と書かれていることも多い。これはシベリア地域のテュルク系のシャーマニズムであるテングリ思想の地下、地上、天上の三層の世界観も想起させ、エヴェンキの死生観や信仰もそれに類似する。

 

 創作しながら情報を求めつつ、このような思わぬ関連に出会うと、各々のフォークロアの見えなかった地脈や水脈が繋がってくる。その繋がりを現在に顕在化させ、それを新たな生のビジョンを獲得することは、のちの「ユーラシアンオペラ」の視座へと直結する。しかしこの時点でもまだ、それらを掘り下げて創作に繋げるまでには至らない。それよりもまず、架空の民族の死者の一族が演じる「死者のオペラ」を形にすることがこの「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」初演の中で目指されたことだ。ホロコースト後のユダヤを描き、現代演じるべきものは死しかないといった、ポーランドの演出家、タデウシュ・カントールの「死の演劇」に対するオマージュとしての創作を目指した。

 


4 死者のアリア「歌と逆に、歌に」(小野十三郎)

2015年 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」初演、東京@bozzo
2015年 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」初演、東京@bozzo

 

 上演作品の「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」という題名は、大阪の平野川沿いの猪飼野などを拠に、日本語で詩を書き続ける詩人、金時鐘の詩の一節による。

 

どこに行きつく日日であろうとも

終わりはいつも終わらないうちに終わっていくのだ。

またそのさきのどこかのへりで。

わたしを彼岸へ乗せていきませ。

見果てぬ涯のはてない祈り

摩訶曼陀羅華曼珠沙華 (「彼岸花の色あいのなか」より)

 

 日本植民地時代、日本の唱歌や童謡に親しんみ、教えられた日本文化に心酔する皇国少年だったが、戦後は民族解放運動に転じ1948年、南北分断に抗する済州島4・3蜂起に参加した。政府軍、警察からの大虐殺を逃れ翌49年に渡日した。一人の大阪の詩人の詩作方法に共感した。大都市の風景の裂け目に存在する、路地や川、工場や建物、朝鮮半島からの移住者の食べ物など、「心」ではなく「物」を歌わせた詩人、小野十三郎だ。アナキスト詩人として戦中を貫いた。戦後、日本の5・7調の韻律と和歌の自然的叙情や詠嘆の歌謡的表現と精神から回避することで、新しい歌の創作を目指した。小野は、明治維新以降、日本的な美として祭り上げられた花鳥風月の儚さや響きを、批評の精神がない「奴隷の韻律」とした。そのような日本の歌の韻律は、 日本的なる精神の拠り所となり、戦意高揚に結びついたと考える。そのような韻律から逃れる詩作の方向を「歌と逆に、歌に」といった。

 

 私も「死者のアリア」の旋律を作曲するとき、この言葉を強く意識した。

 

「詩精神をめぐる操作としては、私の場合依然として「歌」の追放がすべてである。社会情勢の急激な転換によって、そのどさくさまぎれに容易に昔の地位を回復した「歌」などに未練はない。民衆の名によっていても、そういう歌はニセモノである。」(「詩論」)

 

 その歌謡性と叙情は、終戦までにハングルの書き取りができなかっという金時鐘の精神の土壌も形成した。金素雲により日本語訳された朝鮮現代詩集「乳色の雲」(1940年)に感銘を受けたのは、光州の師範学校時代の15歳の頃だ。高村光太郎が挿絵を描き、島崎藤村や佐藤春夫が帯文を書き、北原白秋らにも、日本的叙情による美文として絶賛された。金時鐘によりそれらの詩の再訳が出版されたのは、2007年だ。

 

 金尚鎔「南に窓を」という詩で二者の翻訳を比較するとこのようだ。

 

「南に窓を」

 

 南に窓を切りませう

 畑が少し

 鍬で掘り

 手鍬で草を取りませう。

 雲の誘ひには乗りますまい

 鳥のこゑは聴き法楽です。

 唐もろこしが熟れたら

 食べにお出でなさい。

 なぜ生きてるかって、

 さあね――。

 

 

「南に窓を」

 

南に窓をしつらえるとします

ひとりで耕せそうな畑を

で掘り

手鍬では雑草を取ります。

雲が賺したとてその術にのりましょうゃ

鳥の唄は只で聴きとうございます。

唐もろこしが熟れたら

共にいらして召し上がっても結構です。

なぜ生きているってですか?

そういわれても笑うしかありませんね。

 

 はじめのものが金素雲訳で、あとが金時鐘訳だ。私は韓国語の知識がほとんどないので、日本語訳でのみ比較することしかできない。たしかに前者には日本語の韻律による歌謡的で叙情的な詩情を感じる。後者はそのような日本語の歌謡性を避けながら、原語に忠実にむきあいっているように思われる。だから比較すると「ぎこちない」ように思える。声に出して読むとその差異はさらに明瞭だ。これが、金時鐘の叙情に流れない批評、生の根幹をなす母語と日本語による言語生活への葛藤が身体から絞り出される「歌と逆に」であろう。そして「歌に」。私はこの上演作品のいくつかの場面で、金時鐘に詩に実際にメロディをつけてみたかった。

 


5 河原から死を告げる声 心中天の網島

エヴェンキの子供たち。かわいい。寒いのか顔がこわばりだれも笑みを見せてない。
エヴェンキの子供たち。かわいい。寒いのか顔がこわばりだれも笑みを見せてない。

 

 海のない大地に暮らすエヴェンキ族の死生観においては、川の存在が重要だった。小説「アルグン川の右岸」のアルグンは中露の国境アムール川の支流であり、古来どこの世界でもみられるように、対岸を死の世界とし、川を結界としてとらえた。流動しない沼や湖もまた象徴的だ。創作の上でこの物語の重要な登場人として私がとらえているひとりの若い女性(イレーナ)がいる。

 

 この民族出身の現代美術家、柳芭がモデルだ。名前はリューバというロシア名に由来する。イレーナは中国によってもたらされた近代的な新しい価値観と、一族の伝統との狭間で葛藤、分裂し、故郷の沼で自死を遂げた。沼には古来のシャーマニズムの痕跡として実際にシベリア地域に散在する岩絵がある。女は沼の中にみずからの創作道具である絵具を水に溶かしたうえで、そのなかに自らの身体を浸し、入水する。淀み、流れ、寄せては返す波、人間や生物の生死と水との関係をイメージしていると、この響きを思い出した。

 

「さんじょうばつから ふんごろのっころ、ちょっころふんごろで。まてとっころ わっから ゆつくる/\/\たが。かさを わんがらんがらす。そらがくんぐる/\も、れんげれんげれ ばっからふんごろ」

 

 男と女が大阪の河原で心中した。妻子をもつ町人と遊女が死後の合一を求め、深夜、男が身を潜めて女と逢瀬した。紙屋治兵衛とその不倫相手である妓婦小春は大坂の蜆川の流れと逆に心中の「橋づくし」を決行する。

 

 「心中天の網島」の中で近松門左衛門はこのよく意味のわからないお経や呪文のような言葉を、二人の鼓動をさらにせき立てるような通奏低音として響かせた。これは太夫が語る川の流れを模す音だ。

 

 男は女を刺し殺し、自らの首をくくり、男女の心中は完遂した。朝早く河原に仕事にやってきた漁夫たちが、瓢のように吊られた男の首をみて、

 

「死んだヤレ死んだ 出合へであえ」

 

 とはやしたて、口々に伝わり広まった物語、と結ばれる。武満徹が音楽を担当した篠田正浩の映画版「心中天網島」(1969)では、そのシーンはトルコの管楽器ズルナがチャルメラのような音色でけたたましく吹き鳴らされる。

 

 それ以前の文学の題材とは異なり、近松の浄瑠璃台本は、町人、民衆の生きる姿を映す。三文事件の噂話が広まってゆく様子までいきいきと表されている。小春と治兵衛が「橋づくし」をした蜆川の上流方向には、大長寺という寺がある。二人の男女は死によって成仏し、「あの世」で救済された。これは仏教に救済を求める当時の市井の人々の死生観の現れでもある。

 

 人形浄瑠璃「心中天網島」の道行の舞台である曽根崎川(蜆川)は埋め立たれて現存しない。元禄元(1688)年、蜆川の南側にまず堂島新地ができ、その後宝永5(1708)年、蜆川の北側に曽根崎新地が誕生した。遊女を置く茶屋などがたくさんでき、天保13(1842)年には公認の遊所となった。遊女小春が居た場所もそうだったように、遊郭は川沿いの治水の悪い場にあった。死児も流す不浄な「悪所」で芸を売る者、歌舞伎役者など芸能者が非差別的に「河原乞食」といわれたことも念頭に、近松の「心中天の網島」の要素を加えて、北東アジア、大阪の、カントールの故郷ポーランドのヴィスワ川、そして、その行き着く先である海を想像しながら死者のオペラを創作することになった。

 

 「アルグン川よ、天の川まで流れておいき 乾ききったこの世界 乾ききったこの世界」

 

 舞台が幕を開ける前の開場中におこなわれる三木聖香とピアノ(神田晋一郎)による「コンサート」の最後に歌われる歌詞だ。それが作品の幕開けと接続する。

 

 舞台後方に堀を作り、そこにかがんだパフォーマーたちの顔だけを舞台の上に並んでいる。浄瑠璃の人形の「かしら」のようだ。やがて亡霊のように動き出して舞台上に現れ、

 

「さんじょうばつから ふんごろのっころ、ちょっころふんごろで。まてとっころ わっから ゆつくる/\/\たが。かさを わんがらんがらす。そらがくんぐる/\も、れんげれんげれ ばっからふんごろ」

 

と各々に呪詛のように呟きながら合唱になる。

 

 舞台に上がった彼らは、川の埋め立てに雇われた労働者になる。半島から大阪にわたった朝鮮人のようにも見える。百済川と呼ばれた旧平野川の川筋に段差があるのは、土手があったたからだ。平野川は蛇行していて、氾濫(はんらん)の元になった。1923(大正12)年、新平野川が開削された。この川が定規で引いたようにまっすぐになっているのは、そのためだ。朝鮮半島の済州島の人たちが労働力として使われた。 

 

 きつい言葉で工程の指示を浴びながら、かれらはいくつかの長いロープを持って測量のような作業をしている。その紐からうかびあがった形状は、日本列島と朝鮮半島から中露国境アムール川、バイカル湖あたりまで広がるユーラシア大陸の東側だ。工場の指揮者を演じていた江戸糸操り人形遣い(海老沢栄)が、唐突に金時鐘の詩の一節、「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」と宣言し、「死者のオペラ」の本編の開幕があらためて宣言され、架空の民族の歌舞と、死への道行が並行して演じられる。

 

 

 川の流れの音で幕が上がり、それを通奏低音に、現代人の精神の在処を、習慣や言語の喪失の過程にあった人々の死生観に重ねて演じた。

 


6 初演 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」

 

「アルグン川の右岸」に描かれたかつての狩猟民族の一族の暮らしや、浄瑠璃台本に描かれた近世の町人の世界を、文章や映像でその一端を知ることはできる。しかし現代の私たちがそれを再現することは、本質的に不可能なことだ。「日本語」を用いて「架空の民族」を演じ、架空の民謡を歌うことも、その前提からして矛盾がある。タデウシュ・カントールの「死の演劇」を意識して、創作のイメージを亡霊を演じる「夢幻能」を創作にあたり念頭においたが、存在もわからぬ死者や亡霊を演じることも想像に過ぎない。

 

 しかし不可能でなければならないとも思う。創作とは可能を前提になされるものとしてではなく、不可能性を演じるものとしてとらえている。そもそも演劇や音楽とはこの世の不可能を「演じる」メディアだったのではないか。

 

 2015年の秋に東京で、このように複雑な要素が入り交じる「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」は、「架空の民族」を演じるコロスによる合唱やパフォーマンス、死者のアリアの旋律の独唱と、「心中天網島」の男女の道行を演じる江戸糸操り人形と舞踏とにより、明確な物語の進行をもたない「詩劇」として、演奏家を含め20人ほどのパフォーマーによって演じられた。

 

地平にこもる ひとつの願いのための 多くの歌が鳴っている 求め合う 金属の化合のように 干潟を満ちる 潮がある。 一つの石の 渇きのうえに 千もの波が くずれているのだ

 

ぼくを抜け出た。すべてが去った。茫洋とひろがる海を 独りの男が 歩いている

 

 舞台の本編は、金時鐘の長編詩である「新潟」の一節を歌詞として用いた合唱で終わる。2006年以来「万景峰号」をはじめ北朝鮮の全船舶は現在も入港禁止となっている 。様々な民族衣装をちぐはぐに纏って架空の民族の一族の死者を亡霊のように演じてきたパフォーマーたちが、それを脱ぎ捨て、歌いながらいったん舞台上から姿を消す。

 

 ラフな普段着に着替えて後方から再び現れた演者は、蝉時雨つんざく日本海の真夏の海に遊びに来た現在の日本の若者だ。

 

 浜辺に向かって歩いていると、遠く客席のほうから、モノローグが聴こえてくる。「アルグン川の右岸」で一族の歴史を問わず語りしてきた90を越える老婆の言葉だ。一族は離散したが、老婆はアルグン川の右岸に暮らしつづけた。

 

「ムクレンが戻ってきたよ」

 

 村に残された幼子が老婆に告げる声。つねに一族とともにいたが、突然姿を消していたトナカイが戻ってきたのだ。トナカイの名前は「ムクレン」。一族が用いてきた金属の口琴の名前(アイヌの竹の口琴「ムックリ」にも名前が似ている)。 

 

 照明が暗くなり、舞台上にたったひとりの女がいる。死者を演じていたパフォーマーたちが脱ぎ捨てたさまざまな色の衣服と戯れながら静かに踊っている。たとえば上半身はカザフ族、下半身はハワイアンといったようにそれぞれがちぐはぐに纏っていたさまざまな民族衣裳だ。彼女にとってそれらは絵具だった。女は一族からいち早く離脱し、都会で美術家となったが、故郷の沼で絵具をを水に溶かしながら自らの身もそこに投じた。この一族の暮らしがかつてのままなら、古来の文化を踏襲して次のシャーマンとして選ばれるべき女だった。真っ暗闇の中女が呟く。

 

 「閉じる眼のない死者の死だ。 葬るな人よ、 冥福を祈るな。」(金時鐘)

 

 私自身にも手に余るプロットの複雑さを消化しきれず試作品的な発表だったといえる。しかし初演ゆえの、未消化だが雑多なエネルギーを舞台空間に表現できたと思う。この混沌からユーラシアンオペラは響きはじめた。

 

 次年である2016年秋にこの作品をもう少しシンプルな形にしてアルメニアで公演し、その直後に後訪れたロシアでウクライナの歌手と出会った。それを機に、この作品をユーラシアンオペラとして構想し直すことを考え始めた。翌2017年はさまざまな形態で海外公演を行いながらユーラシアのアーチストとコラボレーションし、アレンジしながら創作した。原作小説に描かれたエヴェンキ族の居住地域と近いロシア連邦ブリヤート共和国、そしてトルコ、ウクライナでの「バイカル・黒海プロジェクト」だ。

 

 次章から述べるその過程では、この初演で用いた近松の「心中天の網島」の要素は、川の響きだけを残して削ることになった。ユーラシアンオペラの成立のために焦点を絞った。小説「アルグン川の右岸」からプロットや構造のみを抽出し、あらたなスクリプトを作り、海外でのコラボレーションのなかでさらに構成し直した。「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」から題名を「Continental Isolation」と変えてユーラシアンオペラとして集大成した2018年の東京公演に至る3年の道程とその後を、翌2016年のアルメニア公演から次章より、順番に辿ってみたい。

 


◆ 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」 (「Continental Isolation」)登場人物

 

 

 章の最後に架空の狩猟遊牧民族の一族の人物設定をまとめて記しておきたい。群像劇的に描かれる「アルグン川の右岸」に描かれた登場人物をモデルにした。各コラボレーションを行いながら、少しずつその設定は変容するが、集大成としての「Continental Isolation」上演時までには以下のようにまとめられた。これらをなんとなく頭の片隅に置いて読みいただければ、以降の旅日記のようなレポートに より楽しみながら お付き合いいただけるかもしれない。以下は登場人物の紹介とそれぞれが辿る運命だ。

 

最後のシャーマン(老婆):(この老婆は舞踏家によって演じられた。)

 

この一族の女のシャーマン。一族代々のシャーマンがそうであったように、その生を自然神に捧げるように舞いを舞うことで、一族を救う存在。しかし、近代国家に編入されたこの共同体は離散しつつある。シャーマニズム文化の相続を支える基盤は崩壊し、儀式を終えて憔悴した女は、ひとり野に佇んでいるがいるが、やがて死を迎えようとしている。

 

シャーマンにならなかった画家:(言葉を用いずにダンスで演じられた。初演時にはなかったが、この女の場面の音楽として、死者のアリアの旋律や伴奏をさらに解体、細分化し、室内楽編成の器楽曲の組曲として作曲した。)

 

 この一族がかつてと同じ生活を維持していたら、次のシャーマンになっただろう若い女は、一族を捨て都会に出て現代美術の美術家になる。しかし故郷の暮らしを忘れることができず、故郷にたびたび戻り、その自然を美術作品の素材にもしている。しかし、この一族のシャーマンの古代岩絵がある沼に絵の具を溶かしながら入水自殺した。

 

族長(男性歌手によって演じられた)

 

 無文字社会に生きながら交易等を通じて多民族の言葉や文字も習得し、一方で一族の伝統や慣習、自然とともにある暮らしも重んじながら、外部民族の支配や知恵を柔軟に受け入れ、定住生活や文字の導入を提唱した。2018年の東京公演では異民族(ロシア娘)との恋愛も描いた。詩文に秀いで、一族を定住生活へ導きつつ、この一族の民族自治共和国の国立歌謡団の団長として、作詞、作曲、民族の音楽をアレンジシし、世界中を公演している。

 

一族の人々

 

族長に従って「民族歌舞団」の合唱隊になる。

文字を学ぶロシア(ソ連)側のエヴェンキの人々(バイカル民族博物館で撮影)
文字を学ぶロシア(ソ連)側のエヴェンキの人々(バイカル民族博物館で撮影)

 

 異民族の捨て子 (シャーマンとならなかった歌手):(女性歌手によって演じられた)

 

 この一族に拾われてれた大事に育てられた別の民族の捨て子。ふだん言葉はしゃべらなかったが、一族伝承の歌舞に長け、族長が団長となって組織する民族歌舞団の歌姫となった。古謡から編曲した「死者(たちの)のアリア」を室内楽伴奏を伴って歌う。 国家(中華人民共和国)からも注目され、民族文化保護の象徴となるが...

 

 なお 「終わりはいつも終わらないうちに終わっていく」は2018年、ひとまず第5章に述べる「Continental Isolation」として集大成されたが、今後もさまざまな新たなアーチストとのコラボレーションをとおして変容してゆく作品である(第七章ロシア篇)。

 

「レーナの歌」

バイカル ザバイカル バイカル  ザバイカル

8つの川の母なる湖(うみ)の東

私が暮らしたのはアムールへと流れる アルグンの右岸

わたしトナカイの上で 眠ってどろんでかるくなって飛んでいって そのまま天上の小鳥になったんだから

 

「ダシーの歌」

シラカバ林で神のタカは死んだ

俺を襲ったオオカミ死んだ 俺も死んだみんな死んだ

俺の骸とアオムリエの骨 カラスよ お前に捧げるよ

 

「タマラ(シャーマンの女性)の歌」

太陽沈み かがり火のなか 夜が白むまで

私は踊ったたったひとり残月に照らされて 

火の中にすいこまれて 火の中で燃え殻にになり

火の中にすいこまれて 火の中で 燃え殻にになり

血の川の橋を渡った

 

「リンクの歌」

タマラ タマラよ 愛しい妻よ  永遠に踊れ 

タマラ タマラよ 愛しい妻よ  永遠に踊れ きみの幼子のように

アグトアマ アグトアマ 我が兄 ニトサマン

アグトアマ アグトアマ 我が兄 ニトサマン 森のかむなぎ

雷が私を 連れ去った 雷が私を 連れ去った

 

「ジェフリナの歌」

私たちの仲間はみな生も死もおなじことだとしっていた

私たちの仲間はみな生も死もおなじことだとしっていた

雨よふれこの土から養分を吸い取って

ムクレン(口琴)よ音の花咲かせておくれ

いっぱいの小鳥になったムクレン 

風になる 星になる 海になれ

 

「エルニスネの歌」

ぼくはこの川の水の色になりながれていくよ

そしてまた色を失い 空気になるよ

 

「ゴーゴリの歌」

母さん 母さん ぼくは木の上がとても好き

だからカラスになるんだよ 

この世でいちばん大きなカラスです

家のなかで人たちが はたらいて

庭のすみでトナカイが元気ない 

きょうは川の東へ行くんだから 暗い夜 大きな翼をひろげて

 

「民族の歌」(詩 小説より引用)

魂遠くに去りし人よ 闇夜を恐れることはない

ここには火の光があり あなたの行く手を照らすだろう

魂の遠くに去りし人よ もう家族を気遣わなくともいい 

そこには星や天の川や雲や月がある

あなたの到来を歌い寿ぐだろう