日本舞踊家西川千麗の夢想、あるいは教え


日本舞踊家 西川千麗
日本舞踊家 西川千麗

 

1 ジュネーブの夜 

2 書簡(E-mail

3 孤独

4 アール・ブリュット デュビュッフェ 

5 ジュネーブの見張塔 2013年12月 

6 京都 2012年12月

7 「或る日のルソー 孤独の散歩者の夢想」

8 声 パリ 東京 

 

付 レマン湖の畔で JBな朝 2006 

 


1 ジュネーブの夜

スイス ジュネーブの夜
スイス ジュネーブの夜

  

 

 2013年12月、ベルリンでの創作稽古のあいまに立ち寄ったスイスのジュネーブはたった三日の滞在だった。夕暮れ時にパリから列車で到着してそのまま中心街に立ち寄ったが、教会も美術館も博物館も商店もすでに閉じていた。古い建築物にしても、近代的な高層住宅にしても開放的な印象がない。さっきまでいたパリの無国籍なマルシェの喧騒や、ふと中に入ってみた教会のアフロミサの高揚とは対照的な静けさだ。都市の雑踏や大自然にほうっておかれているのではなく、整然と並ぶ建物のハザード、門で、立ち入ることをいちいち禁じられ、追い払われているような疎外感を感じる。冷気漂う夜の小路を彷徨っている自分は、生気を失った野犬のようだった。それでもなぜか、坂を登ったり下りたりしながらこの淋しい中心街の一画を隅々まで歩こうとしている。 日本舞踊家の西川千麗が写真でみせてくれたジャン・ジャック・ルソーの生家の記念館があった。中学校の教科書で、意味もわからないまま暗記させられた大人物の記念館だが、路地にひっそりと佇む、商店かアパートに挟まれた小さな建物だった。4月にこのルソーをテーマに創作したばかりなのに、ざわざわと立ち昇ってくる孤独感が勝って、不思議と感慨もなく通り過ぎた。

 

 明日が千麗の命日、一周忌だったことに気づいたのはその翌々日のことだった。この時期、シアターミュージック「デデコルクト」の稽古のため往復していた。ベルリンではそれ以外の用事も少なく、決まった時間に稽古が終わると、一人で散歩したりホテルの部屋でゆっくり過ごすことが多かった。日々煩わされているスケジュールの管理からも解放されるので、日にちや曜日の感覚があまりなかった。去年の今頃、急に亡くなるまで、十五年間ほど断続的に、京都を拠点に活動する西川千麗の創作に携わらせていただいた。

 


2 書簡(E-mail)

 

 京都の西川千麗に最後に直接会ったのが2012年春、東京。遺作となった2013年4月公演の「或る日のルソー」の打ち合わせのために訪ねたお茶の水の「山の上ホテル」だった。部屋の中でコントラバスを弾いた。私の曲ではなく、西洋古楽器の弦楽器ヴィオラ・ダ・ガンバの古曲、サント-コロンブ作曲の「涙」を弾いた。まだ演奏者と作曲者がそれほど分別されていない時代に、奏者自身が自ら演奏するために書いた内省的な曲だ。二声で書かれた曲を工夫してなんとか独奏にアレンジしたうえで弾いたが、「もっとシンプルに」といつものようにシンプルに注文をつけられた。それでは、元々二声で書いた作曲家の意図は失われていしまうではないか、と反発心も目覚めるが、まずは飲み込んで受け入れる。ご一緒した前作「カミュ・クローデル」のアメリカでの公演の予定の算段がつかなかったため、三年ぶりくらいにお会いした。打ち合わせが終わり、当たり前のことのように外食も供にすることを楽しみにしていたが、体調管理のための食事療法で外食ができない、とのこと。ルームサービスのハヤシライスを食べ終わり、すぐに失礼することになった。それでは次はまた秋頃に...

 

 盆の頃になっても連絡がこないので、新作の題材となるルソーについてと、自身の近況として前のコラムに詳しく述べた トルコの振付家アイディン・テキャルとの仕事のことも添えて、代理の方にメールで尋ねた。千麗はメールやパソコンを使わない。ダンスと音楽の境界線上にあるようなテキャルとの創作における困難や葛藤が、この頃の私の心を大きく占めていた。同じく女性ダンサー、振付家だが、創作方や考え方もテキャルとはずいぶん違うと思われる千麗への遠慮がちな報告だった。これまで長くお付き合いをさせていただいたなかでは必ず毛筆による和紙に書かれた手紙だったが、メールで返信が来た。

 

「さて、貴方の近況を読んで 本当に嬉しく 嬉しく 涙がこぼれるほど嬉しく思いました

それは トルコの振付家の提案で 振付をつけ、その身体から 音楽をつくってゆく・・・これは 一番正しい方法です  

私は 音楽は人間の身体から生まれるものであるべきで、 特に呼吸 動きは、それを阻害する意図的なものがなければ 音楽は呼吸 そのものを具現したものと思っていました  

意図がはたらかなければ 呼吸は心そのものです それゆえ私は、一般的な音楽には無知ですが 自分の内のものを音楽化していくといふ作品創りの作業に確信がありました  

世の中の多くの事が 仕切りをつけることによって効率よく広く伝えられる反面 その仕切りの概念から本質を見失ってしまっている昨今ですゆえ こんなことは上手に話すことも出来ないし、 また話しても分る人はないだろうと思っていたのですが 貴方の今回の仕事の在り様を知って 将来そのことを 多くの人に伝えて下さると 嬉しいですね」

 

 私はこれまで、「音楽」や「ダンス」や「演じる」ということに「仕切り」をつけていたのだと思った。いや、仕切りを超えてゆくことについても考えていたつもりだった。しかしいま考えれば、音楽という仕切りをつけてこだわっていたことばかりだった。テキャルとのイスタンブールでの作業もそうだ。それが音楽、ダンス、結局そのどちらにもならないのではという不安から、自身が音楽家であることを言い訳に反発しつづけてきた作業にも確信はなかった。ときに、このような言葉をいただいて、救われた。そういえば、このメールの文章には句点がない。

 

 西川千麗は音楽、美術や衣装の翻案を自ら練り、そのうえで音楽家や照明家などそれぞれの専門家にたくして再構成しながら作品を練り上げてきた。音楽家ではないから、テキャルほどではないが私の音楽的感性、あるいは音楽の常識を超えるような注文も多々あった。少なからずその無理な相談になるべく応えてようと作曲し、演奏もしてきた。実際に作品づくりに入ってからも半年、一年とかかるが、舞踊とあわせるのは本番直前だ。公演前日に初めて合わせたということもあったと思う。目指すべき全体像はこのときまで彼女の中にしかない。私はもっと初期段階から舞踊と濃密にコラボレーションすること望んでいたので、そのもどかしさもあって、ささやかに若い反発もしてきた。そういえば、多くの方が「千麗先生」とお呼びするなか、初めてお会いした20代の半ばから「千麗さん」と呼ばせていただいてきた。それは、息子といっても十分以上なほど歳の離れた私の、そんな若気に由来する。さて、ストップしているこの新作の創作に、私のほうから積極的に関わることで先に進めておきたかった。こちらからの往信はこうだった。

 

「西川千麗様

 ルソー「孤独な散歩者の夢想」は、かなり特異な読書体験になりました。章が進むに連れて、読み手の書に対する意識や身体までもが変容されてゆくような。小説等の普通の読書体験の中でも、読み手の意識自体は変化してくのですが、なにかそういうこととは異なる「変容」を認識することになりました。世界との関係性を、執拗に自己の意識の中に探求してゆく章、一変して「第五の散歩」のような、植物の世界をとおして、文字通り夢の中を逍遥するような筆舌に尽くしがたい描写。この第五章のために、これまでの章があったのかと思いました。それらは、読み手の感情移入による単純な自己同一化や、反対に客観的な判断をも困難にするものでした。いわば、私自身とも、作者ルソーの内面とも異なる場所へと誘われてゆくようでありました。ところが、終章「第七の散歩」と、メモ書きである8、9、10章になると、若輩ながらもルソーの心情に共感して、少し涙してしまうようなこともありました。それでもやはり、完全に自己や主観に同化されてゆく感覚ではなく、しかし客観とも異なり、私の中に私がまだ知らない私の中の「内なる他者」のような存在が立ちのぼってくるような感覚です。この点において、この読書は、不思議で特異な経験でした。そして同時にこれは、千麗さんがきっかけの読書であるので、特に終章以降、その立ちのぼってくる「他者」とは千麗さんでもありました。わたしの身体のなかで、千麗さんがこの書に対峙して舞っていらっしゃるような。初読ゆえの散漫かつ率直な感想です。また落ち着いて読んでみたいと思います。活字にまみれながらも普段じっくりと一冊の書を読むこともなく、そのような時間を積極的につくることもしていないので、ありがたい時間になりました。ありがとうございました。取り組みはじめれば、困難な作業であることは想像されますが、この「新作、ルソー」に関わることが嬉しいです。」

 

 15年ほど創作をご一緒させていただいたが、筆無精な私が氏に手紙を書いたのは、このE-メールと、前年の東日本大震災のおり、京都からレトルトの自然食のお粥をなんの前触れもなく送っていただいたときのお礼だけだ。後に別離した妻との結婚も添えて報告した。わざわざ電話をくださり、とても祝福してくださったが、なぜ婚姻という形式に拘るのか、とも言われて困った。仕事についてや創作のお礼等、直筆のお手紙はこれまで何度もいただいていた。筆無精ということだけではなく、あらたまって手紙をしたためて「仕切り」をつけてしまうと、次にご一緒することがずっと先になってしまうように思い、返信をすることなく甘えていた。

 


3 孤独

 

  西川千麗は音楽家との作業では、合奏ではなく独奏を所望されることが多く、私も自身が演奏するコントラバスや、尺八やギターなどの独奏曲を作ってきた。私が参加していない作品で、今回の新作にも参加される上田益作曲によるアンサンブル作品を観たことはあったが、基本的に独奏、あるいは独奏と独奏のクロスフェード、あってもDUET。それが日本舞踊や古典芸能の習慣に由来するのか、志向性によるのかはわからないが、そこにも創作に「孤独」を要求する西川千麗の根幹が見受けられる。

 

 ある海外ツアーが始まる前、突然、作曲や演奏だけでなく音楽監督という立場を私に任せた。海外ツアーでは、新鮮な空気のなかで水を得て、いつも一人で気儘にしていた頃だ。連絡業務の他、ほぼ年上、ベテランばかりの演奏家の体調、心の動きまでも把握して管理するようにいわれた。そして、あなたはいつか、そのような形でしか活動できなくなる時期がやってくるから、そのときのために、あえてあなたにその役を任せるのだと。「そのような立場」は、自身で認識している自分の性格や将来像とは相容れず、それをを望みも想像もしていなかったので仰ることにピンと来なかった。その頃、30代に入ったあたり私は、こうした異ジャンルとのコラボレーションや、作曲、演奏家としてのバンドで活動も充実させたかったが、それらは二の次で、まずはコントラバスの独奏者としての自己の表現を確立することを、自分なりに生の根拠としていた。音楽詩劇研究所の団体運営など、自分の後の活動を今になってふりかえると、まるでできてはいないが、彼女の言う通りになってしまったという感もある。

 

 彫刻家カミュー・クローデルの生涯を舞った、その2007年のツアーで、千麗が私に言い聞かせたのは「孤独」についてだった。パリ公演直前の稽古に向かう前、ホテルから劇場に向かうタクシーへの同乗を求められ、その中で、創作するにふさわしい孤独の状態を全員につくりなさい、といわれた。メンバーとも打ち解けあって、最終公演地のパリにきて、それぞれが海外公演の緊張からほどよくほどけて来た頃だと認識していた。音楽監督としては苦労しながらも良い雰囲気が作れてきたとの自負していたのだが...

 

 その後、千麗が自身で踊らずにプロデュースのみ行う作品で、私にアンサンブルの作曲の機会を与えたことがあった。というより、ソロでもなんでもあなたが思うように先ずやってみてください、と予算のお金だけを渡された。独奏から、集団創作に関心がシフトしていた私には、作曲に打ち込むことができるありがたい話だった。ミヒャエル・エンデの小説「モモ」を原作に創作することが求められた。作品の中に言葉は使わず、美術と音楽、映像だけで創作する、というのが提示された条件だった。この機会を利用し、今後この作品を再演し、発展できるように、さらに自分で助成金や協賛をみつけることも試みて、先に繋げなさいとのことだった。そういうことへの躊躇もあったが、スポンサーについて私なりに時間をかけて調べ始めた。しかしまずは作曲して稽古を重ねて、本番。けっきょく創作することしかできなかった。

 

 公演「モモ」の本番の前前夜、京都京北の山麓の千麗舞山荘での稽古を終えて宿に帰る車のなかで千麗からの電話が鳴った。アンサンブルのメンバーが「楽譜」と照明などの「きっかけ」に頼りすぎていて、それぞれがたった一人で空間に立っているような覚悟がないように感じるとのこと。

 

「あなたはどう思いますか?たとえば本番は演奏家は楽譜もはずし、照明のきっかけもずらし、お互いの予定調和を避ける作りに、今から変えましょうか?」

 

 明日の本番を前にまた無理難題をおっしゃる。話としては理解したが、正直、返答に困った。暗譜ではなく、楽譜をみながら弾くことは、ブレヒトの理論を取り入れたわたしの作曲上のコンセプトでもあった 。メンバーは私の一風かわった楽譜の理解と再現によく努めてくれており、アンサンブルの雰囲気も向上していたのも事実だった。

 

 あなたの判断にまかせます、とのことだった。私は一晩考えさせてください、としか言えなかったが、考えようもない。結局、はずしたり、ずらしたりすることなく、まず私がたった一人で空間に立つ意識を強くもって演奏することで、全体の雰囲気もそのように作っていくことが現実的な解決策だった。この「円形劇場または広場にて」は、第四部でも述べたように作品としては失敗作だったようにも思う。しかしあとになって現在の活動につながったことも、そこで述べたとおりだ。

 

   それにしてもあれから15年近く経たいま、ほんとうに彼女が言うようにプランを変更していたらどうなったのだろうか、と考えてみる。やはり私には分からず、永遠の「お題」のようにも思える。プロセス重視の私とは反対に千麗は、ある意味作品至上主義というか結果重視の方だった。逆説が存在しない純正な作品を目指す。そのために必要なのは孤独を覚悟することだ。彼女にとって創作とは「孤独」へのプロセスそのものだったのかもしれない。

 


4 アール・ブリュット デュビュッフェ ローザンヌ

スイス ローザンヌのアールブリュット美術館
スイス ローザンヌのアールブリュット美術館

 

  2006年からの舞台「カミーユ・クローデル」は京都、パリ、ローザンヌの他、関連公演で、軽井沢の美術館でカミュの彫刻のなかでも上演もあった。このときは私の作曲ではなく「6つの古代碑銘(エピグラフ)」などクロード・ドビュッシーの室内楽曲のフルート、チェロ、コントラバス用アレンジだった。フルートは某交響楽団を退団したばかりの大ベテランのフルート奏者だった。氏が本番で吹いたドビュッシーの独奏曲「シランクス」は本当に素晴らしかった。チェロ奏者は私が推薦することを求められた。当時は若手だったが、作曲活動も行いながら端正な演奏をする徳澤青弦と、自自在な即興で独自の存在感を持つ坂本弘道だ。坂本はチェロから火花を出しながら演奏したり、ノコギリを弾いたりと、破天荒さと叙情性をを兼ね備えた唯一無二の演奏家だ。私が選択に迷っていると千麗は迷わず坂本を選んだ。

 

 そもそも西川千麗と私の出会いは、当時私が参加していた、日本で最も激しいパフォーマンスをおこなうロックバンド「マリア観音」のヴォーカリスト、ドラマーの木幡東介を介してだった。木幡は打楽器奏者として私とともに宮沢賢治原作の「よだかの星」の京都での初演に参加した。日本舞踊公園としては異例なことだ。しかし私たちのパフォーマンスが目立ちすぎると言うことで、それを指摘する人間国宝の横笛奏者とぶつかった。朗読者であった女優の岸田今日子が私たちのパフォーマンスを擁護し、千麗が仲介し調整した。その後のポーランド公演は私だけが参加した。私にとって初めての海外公演だった。

 

 やはり一悶着が起こった。私が編曲したのだが、最初のリハーサルでは私自身もうまく譜面どおりの演奏ができず、坂本も即興的感性で楽譜を逸脱した。クラシック音楽のオーソリティであるフルート奏者は現場ではおだやかに見過ごしたが、あとから我々の演奏に関して千麗に強く不満を訴えた。「まるで幼稚園児だ。とても一緒に演奏できません」とのことだった。その方のクラシック音楽への愛情も理解できるし、坂本氏の即興的感性も大事にしたい。両先輩の処遇とアレンジの方向性の選択に迫られ困り果て、千麗に尋ねると、私が手紙を書いてフルートの方を説得します、とのことだった。どのような手紙を書いたのかは知らないが、納得させた。結局私の編曲で、ぎこちない演奏を行い、彼女はそれを良しとした。フルート奏者はたしか、西川千麗の活動の理解者、後援者であった心理学者の故河合隼雄のフルートの先生だった。パリ、ローザンヌの公演はドビュッシーではなく私の曲で公演することになった。

 

  さて、ロダンとの愛憎、共同創作のなかで錯乱し、精神病院に入院するカミーユ・クローデルの存在と作品に向き合った私だが、今なぜ千麗が彼女を題材としたのかがわからなかった。ただそれを生き映すように舞う西川千麗の舞いを通じて向かい合い、曲を作り演奏するのみ。

 

レマン湖からほんの10分ほどトロッコで登ったところ。孤絶。数年後、この湖と雲の上で仰向けになって浮遊し、生きながら怪鳥についばまれそうになる夢を二度みた。
レマン湖からほんの10分ほどトロッコで登ったところ。孤絶。数年後、この湖と雲の上で仰向けになって浮遊し、生きながら怪鳥についばまれそうになる夢を二度みた。

 軽井沢でカミーユの彫刻のなかで演奏する貴重な機会に恵まれたその後、この作品をスイスのローザンヌとパリで上演した。孤独の状態を全員につくれといい、私を困らせた2007年のツアーだ。ローザンヌは振付家モーリス・ベジャールの劇場だった。この地には私が大学の卒業論文でテーマにした「アールブリュット美術館」があった。リハーサルの合間をぬって初めて訪れたが、数多行った美術館のなかでも、「私の美術館」はここだと思った。そしていつかはここで演奏したいと思った。軽井沢でカミュの彫刻の中で演奏したときも強く感じるものがあったが、それとは比較にならないほど、私は強くその磁場にひきよせられた。若き盲目の琴奏者澤村祐司たちと訪ねた。盲目の彼を美術館に誘うことに躊躇もあったが、彼らには内容も言わず近くの美術館に行こうとだけ伝えていた。入館し、展示室に入ったた瞬間、目では見えない澤村が狼狽するように、「いったいここはなんなのですか」とオブジェや絵が放つ「わけのわからない」オーラが発する圧力に慄いた。

 

 ジャン・デユビュッフェが提唱したアールブリュット=生の芸術。それは、美術的訓練や文化的影響を何ら受けない個人によるイメージを作り出そうという、内なる激しい欲求のみによって動機づけられた自発的な創造活動をさす。アウトサイダーアート、エイブルアートという呼び名もあるが、その営みを言語化することには難しさを感じる。精神を患った人たちの芸術的営み、作品ともいえるが、患うとか芸術とか作品とかそういう言葉をあてはめることも難しい。なにかと交信している「シャーマン」のようにも思える。子供の頃にチラシの裏紙いっぱいに書いていた迷路を思い出す。あとになってなぜあのようなものを一心不乱に書いていたのかと考えてもわからない。少しそれとも似ているように思うが、デュビュッフェは、文化的伝統がある未開美術や、見たものから影響を受けやすい子供の美術は 、創造へ向かう精神的な深みに欠け、〈生の芸術〉とは別のもの(ただし別のものとして子供の創作も評価している)であると定義している。一時期、そのような観点から、自身が収集した膨大ながらくたのような楽器や音具をつかって即興演奏してそれを録音作品として残している。音楽家が無秩序を意図的に表現するのとはちがって、むしろ理解不能の秩序が囚われのようにあり、かえってそれが興味深い。

 

 私には母方の従兄弟が三人おり、全員さまざまだが、養護学校に入り、現在もみな福祉施設で暮らしている。私が大学を卒業する頃までよく時間をともにした従兄はもともと、いわゆる自閉症、分裂症的な傾向があったが、養護学校の紹介で、印刷会社にはいった。しかし社内で受けたいろいろな心的外傷で、社会生活が全く営めなくなってしまった。身寄りが少ないので心療内科や施設にもよく付き添った。やがて伯母と二人の生活が維持できぬようになり、施設に入所する前の数年は、こちらの一瞬の目の動きひとつ、小さな所作、その速度、声の大きさ、すべてに過敏な反応があった。一ミリの動きが彼にダメージを与える。吃音がひどいために自重するのか、そもそも言葉を口にすることさえ少なかった。しかしときおり口を開かぬまま、ものすごいスピードでまじないのように言葉を呟いた。小声なので何を言っているのかわからず、こちらがそれに反応すると、声に出したことを気づかれたことを後悔し狼狽する。声を身体のうちにしまい込んではおれない何かがあったのだろう。

 

 彼もよく絵や文をかいた。読まれることのない手紙を書き、散乱する自身の内側をそこにあらわにした。そのようにしてかかれたものが「作品」としてコレクションされ美術館に収まるのかとを思うと、人間という生きものは、いきつくところまできているのかもしれない、とも一方で思う。

 


5 ジュネーブの見張塔 2013年12月

 

 「アールブリュット美術館」には数年後もう一度行訪れる機会があった。西川千麗亡きあとの2013年のことだった。離婚する方向で話しが進んでいた妻とあらためて話し合うためにスイスにきた。元妻は、舞台の仕事で、しばらくフランスとスイスを往復していた。私が滞在していたベルリンでのリハーサルの合間にパリで合流し、ヴヴェイ、ジュネーブと彼女の移動に合わせながら短い旅をした。

 

 チャールズ・チャップリンが晩年を過ごした街、ヴヴェイでは、トロッコ列車で800メートルほどあがったところから、レマン湖とアルプスをみた。透き通った青に白が山の稜線から溶け出し、濃い霧が水煙のように立ちのぼっていた。嘘のように美しい風景のなかで、自分がそこにいる実感がなかった。取り戻そうとする現実がするりと手を離れて水蒸気に吸い込まれてゆくようだった。湖畔まで降り、水を触ろうとして足をすべらせ腰まで浸かり、笑い合うようなこともあったが、虚しさがつきまとう時間だった。記憶する街のさまざまな風景も同様だ。彼女が公演をしている間に、早く一人でローザンヌのあの美術館に行きたかった。10年ぶりにそこに入ると、自分の足音しか聴こえないようなその空間で、言葉を超えた、無数の音のない声に抱きすくめられる。すると身体や脳みそのどこかに封じ込められていた何かがが元の住処へと喜んで戻ってしまい、抜け殻になった。その妙な身体感覚をいまも記憶している。

 

 夕方、ジュネーブの駅から宿に戻る道すがら、妻だった人が滞在していたアパートのそばの小さなバス停の裏手に、足元を枯草で覆われ、黒い蔦を少し纏った小さな石塔をみた。語りかけてくるようで少しだけ気になったが、もう暗くてよく見えなかった。建物と建物の間の狭い空き地のような原っぱに造作なく建っており、歴史的建造物でもなさそうだった。たんなる見張塔だろうか。

 

 翌朝早く、出発してベルリンに戻る。翌朝早く、出発してベルリンに戻る。冷気に包まれた靄のなかでバス停の脇に佇む塔は、亡霊のように陰気だった。動き出したバスの中から後ろを振り返り、笑顔で手を振りながら宿へ戻る彼女の姿を見ながら、この人とはもう終わりなのだと思った。なにかの気配を感じたのでまた振り返ると、もう見えないはずの塔が、ぼわっと大きくなって浮かび上がった。ふと、前日が西川千麗の一周忌だったことに気がついた。

 


6 京都 2012年12月

千麗さんに届ける深夜の録音作業。この日打楽器の橘政愛さんとも10年ぶりにお会いした。
千麗さんに届ける深夜の録音作業。この日打楽器の橘政愛さんとも10年ぶりにお会いした。

 

 ちょうどその一年前、2012年12月5日、新作「千麗舞の夕べ 或る日のルソー 孤独な散歩者の夢想」の音楽制作のため夜遅く京都徳屋町の西川千麗の自宅内の稽古場にいた。初秋から具体的な音楽制作を始めたいとのことだったが、なかなか連絡が来ずに気を揉んだ。しかしこの日の一週間前に、事情があって早急に音楽を作らなければならない必要があるので来週中に京都に来れないか、と代理の方からメールがあった。事情は語られなかったが創作が開始されるのが楽しみだった。「よだかの星」でご一緒させていただいた尊敬する打楽器奏者の橘政愛と10年ぶりくらいの再会も嬉しい。それぞれ別の作品で音楽を担当してきた作曲家の上田益とも初めてお会いできる。

 

 夜遅く、急遽招集がかかった演奏家たちが東京から、三々五々に京都の四条大宮に集結した。早春にお茶の水のホテルでお会いして以来、病状はお聞きしていなかったが、稽古場のあるご自宅に主は不在だった。「京づくり」の家の玄関を通ってすぐのリビングのテーブルの上に千麗からの自筆のメッセージカードが私たち一人一人の席にあり、自らの叔母の死を看取ったときの不思議な体験が書かれてあった。作品との関係だろうか、あるいは彼女は近い将来の自らの死を覚悟しているのだろうか、とも一瞬憶測したが、自宅内の稽古場に移動し、慌ただしく楽器と録音のセッティング。深夜、演奏して内容を固めながら、踊り稽古用のカセットテープの作成にとりかかった。

 

 録音し、お弟子さんがどこかにいらっしゃる千麗にそれを届け、音楽に対する具体的なメッセージが本人の声でカセットテープに録音されて戻ってくる。「何分何十秒のこの音もっとゆっくり」「M(音楽番号)いくつ(数字)の、はじまりの「現代(音楽)的な響きをカット」など、カセットから聞こえる声はいつものように具体的な提案と明確でシンプルな指示。それを聞いて作りなおす。直接の会話ではないことをのぞけば、これまでと同じような作業だった。どこか外にいるのならば、やけに返事が早い。奥の部屋で療養しているのだろうか。一段落し、煙草を吸いに玄関を出ると、もう空は白んでいた。あとは午前中次のメッセージを待って必要ならば録音し直そうと、用意された寝室でしばし眠りにつく。

 

 翌午前中、また本人の声が入ったカセットテープがリビングに届いた。深夜に聞いた明瞭な声とは違い、か細く震えていた。作曲はこれで完成、自身が踊ることは難しいので、今回は振り付けのみになる、代わりの舞踊家はすでに考えている、とのことだった。公演日程の調整についても語られた。私はその日を避けて欲しいと以前にに伝えていたのだが、それでも4月12日をなんとか調整してほしいと仰られた。そのときもまだ、このテープがどこから届けられたのかは知らなかった。その日、西川千麗は病院で逝かれた。最期の声だった。

 


7 「孤独の散歩者の夢想」

 

 翌年2月、主なき公演のひと月ほど前、私はたまたま京都にいた。タンゴの伴奏でコントラバスを弾く仕事だった。タレントの杉本彩や、岡本夏生と一緒。

 

 リハーサルの昼休憩の空き時間、楽屋でもハイテンションに全体を気遣いながら、機関銃のように矢継ぎ早に語り続ける岡本のテレビ番組収録の裏話を楽しんだ。慌ただしく賑やかな楽屋を出て、河原町から鴨川に向かってあてもなく散歩していると、千麗の「不在」が私を強く襲ってきた。私の京都滞在の多くは故人との仕事だった。海外からの観光客で混み合う通りを茫然と歩き続けていると、どこかの呉服屋だったか、和菓子屋だったかに貼られていた二ヶ月後の主なき公演のポスターを発見した。まだ私の元には届いていなかったので、はじめてそのポスターをみた。いつもと変わらぬモノクロでシンプルなデザイン、そして自身による題字。立ち止まってみると、そこには「千麗舞わない夕べ」とあり、ルソーの言葉が添えられていた。

 

「こうしてわたしは地上でたった一人になってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかに語る相手も ない」

 

つづいてこうあった。

 

「ルソー「原作「孤独の散歩者の夢想」を始めて読んだときのこと

 

一気に読み終え これは死の直前に自分の一生を走馬燈のように見るといふ その夢想を書き綴ったものだ なんといふ人だ この人は かつて「阿留辺幾夜宇和」創作の時、明恵上人が死の直前に自分の一生を見た夢を 舞台に繰り拡げればよいのだ との着想を得て するすると作品が出来上がりました 叔母の最期を看取ったとき その様子に 今叔母は と思った その時間 それは全く無秩序に 心に強く残っていたものが 流れるように立ちあらわれるのだろう なんといふ人だ この人 ルソーは 自分の最期のときに見る その走馬燈を死の二年前から 書き綴ったのだ」(西川千麗)

 

 このルソーの書物のなかで私の中を散歩する夢想者とは西川千麗その人であると確信した。その人のいない「舞わない夕べ」の音楽を作り、演奏する。4月、本番前日の稽古のために、何度も公演をした京都御所近くの府民ホールALTIに到着。ロビー、楽屋、舞台裏、千麗がいたるところに存在しその声が聴こえてくる。

 

 「千麗舞わない夕べ 或る日のルソー」公演。けっきょく千麗の振り付けも受けぬまま代わりに舞うことになった洋舞のダンサー小川珠絵が、本人が舞った最後の創作舞踊で用いた着物を纏った。悟りの過程を牛と牧夫にたとえて描いた12世紀中国北宋の禅僧による詩画「十牛図」から着想を得た作品だ。 日舞の所作も用いながらルソーの最期を演じた小川は、ラストシーンではそれを脱ぎ、ゆっくりと舞台下手にあたる照明にすいこまれるように、その中へと歩み進んだ。

 

 その場面の音楽は打楽器の橘政愛の独奏による、釘が触れ合って響き合うルソー「昇天」の曲だった。12月に千麗とテープの交換でそう打ち合わせていた。しかし昨晩の稽古のあと、われわれ音楽チームは居酒屋で、この日が誕生日だった故人に献杯し、誰からの提案というのでもなく、ピアノ、コントラバス二台も一緒に、全員で音を出すことに決めた。上田と橘は三十年近く、私は15年、千麗の音楽を作ってきた。服部はその死の前夜、直接会えずじまいだったが、たった1日だけ彼女と共作した。こうしてまた反抗した。創作においては我を通す千麗に、示し合わせてこっそりと抵抗を試みることが、過去の本番でもよくあった。「どうせいつも気づけへんから大丈夫や」上田が豪快に笑いながら言う。気づいていたのか、いないのかはわからないが、その相手はもうここにいない。

 

 暗転し、橘が奏でたチリチリチリというたくさんの小さな釘がふれあう残響は、まるで冥府の門で聴く音かのように思えた。私たちはそこに、それぞれがそっと音を添えた。これは鎮魂ではない、生前この作品を作る千麗の魂はすでに鎮かであったろう。今、その魂が肉体を離れ自由に舞いはじめ、それが永遠へと誘うひそやかな音楽を作った。

 


8 声 パリ 東京

 

 長らく作品作りをご一緒させていただいた。劇場、能舞台、京都四条大宮の稽古場、京北、細野の千麗舞山荘、海外公演で回ったヨーロッパの都市。しかし思い出深いそれらの地ではなく、なぜか私は東京での姿ばかりが思い浮かんでくる。まだ東京で定期的に稽古をつけにいらしていた頃は、そのタイミングに日を合わせてよく打ち合わせをした。場所は何度か変わったが、六本木近辺が多かったと思う。愛宕青松寺の森の庭園にあるガラス張りの和室や、マンションの一室など。作品の構想を聞き、作曲の経過をお聴かせし、近所の喫茶店やカフェなどで軽食をとり、それではまた来月よろしくと宿題を出される。私の喫煙や飲酒の習慣もよく諫めておられた。ご自身は酒は飲まないが、朝起きたとき、山々に囲まれた山荘の縁台に腰掛け一日一本だけ煙草を吸うのだそうだ。

 

 夜遅くなって入る店がなくチェーン店の居酒屋に行ったことも一度だけあったが、打ち合せのために会うのはたいていは、お弟子さんの稽古前の明るい昼時だった。いま故人の姿を想うと、私はまずその真昼の東京、赤坂アークヒルズ、サントリーホール裏手のカフェの外のテラスでのお姿が、なぜか特に目に浮かぶ。無機質なビル群や、マンションの部屋や、若い客も多い小洒落たカフェと、和装のお姿や京ことばや独特の存在感とがミスマッチで印象に残っているのか。いや、どこの店でも行きつけのように身軽で、むしろ自然と空間に馴染んでいた。いつもそばに付き添っていた京都のHさんやKちゃんがおらず、お一人だったからだろうか。そこでは、「京都の舞踊家西川千麗」からも解き放たれた身軽さがあったのだろうか、とあとになって思う。

 

 思い出した。2007年、パリの劇場での公演の前日、慌ただしく舞台設営の準備をしていたときだ。組合がしっかりとしているフランスでは、現地スタッフの労働時間はきっちりと守られる。舞台上ではなんとか間に合うよう両国のスタッフが奔走していたが、私たち演奏家に出番はなく、客席で談笑していた。そのとき突然舞台から、ぴんとはりのある強くて透明で射るような大きな声が劇場空間を刺した。衣装ではなく浴衣を着流した西川千麗が、小唄のような古い流行歌の一節を歌いだしたのだ。

 

 最期のカセットテープ、たわいもないカフェでの会話、パリの劇場の小唄,...やはり声だ。私の身体がある限り、そのなかを声の残像が木霊し続ける。それはあなたがまだこの世にいらしたとき、私がルソーの「孤独な散歩者の夢想」を読んだときの、あの特異な、内なる他者の立ちのぼる感覚そのものであり、以来、あなたの死を経ていまもなお、変わらず続いている。あなたとの創作は、孤独の本質を得るためのレッスンだったのだろうか。いや、そのレッスンは彼女亡き後にようやく始まり、今も続いている。それは集団の中や離別に感じる辛く淋しい孤独とは違うように思う。真昼の東京の無機質なビル群や、ヨーロッパの街並みを模しただけのなんとなく空虚な広場で、「孤独な散歩者」たるあなたと会っていたのかもしれない。あの軽やかな逍遥はいったい第何章の散歩だったのだろう。それを知るために、死への想念にとりつかれたようなルソーの晦渋な夢想を、いつか私は読みなおすのだろう。そんな頃、ようやく私はかつて思い描いた「独奏者」になれるのかもしれない。

 

 「この場面は街路に響く靴音のイメージでお願いします」

 

 直に会話した最後となった日、お茶の水のホテルで、ジュネーブやパリに下見に行った時の写真を見せながら言った。故郷ジュネーブを離れ、パリのパサージュを歩いたルソーの靴音だ。

 

「お昼にでもしましょか、なにがよろしいか」

 

 優柔不断な私の返答を待たず、楚々と階段を降りてゆく、故人の草履の音に、いまはじめて耳をかたむけてみる。

 

  都会の小洒落たカフェで、サンドウィッチをほうばりながら私に語りかける西川千麗の声が聴こえる。

 

「世の中の多くの事が 仕切りをつけることによって効率よく広く伝えられる反面 その仕切りの概念から本質を見失ってしまっている昨今ですゆえ こんなことは上手に話すことも出来ないし、 また話しても分る人はないだろうと思っていたのですが 貴方の今回の仕事の在り様を知って 将来そのことを 多くの人に伝えて下さると 嬉しいですね」

 

西川千麗

 

京都生まれ。京都在住。二代目家元西川鯉三郎、三代目家元西川右近に師事。1981年より創作舞踊公演 「千麗舞の夕」を始める。京都・東京で毎年開催。 2000年より自作品の海外公演を始め、2000~2001年ポーランド・クラコフ、ワルシャワ、プウォックで「雪女」(原作小泉八雲)・「よだかの星」(原作宮沢賢治)を上演。2003年は「阿留辺幾夜宇和(あるべきようは)」(原作河合隼雄「明恵 夢を 生きる」)でイタリア・ドイツ・スイス三カ国を巡演。作品の構成、振付、脚本、衣裳、舞台美術、音楽の全てを自己の原案 で創り上げるスタイルを貫き、高い精神性と現代的感性にあふれた作風は、日本舞踊の世界を超えた幅広い観客層の支持を 得た。2012年12月逝去

 

「死んだ者がぜんぜん滅びてしまうことはない。死んだ者は、疲れた心臓と多忙な頭脳の真暗な部屋に眠っているのだ。そして、ごくまれに彼らの過去を呼びおこす何かの声がこだまするときに、はじめて目をさますのである。」(ラフカディオ・ハーン 小泉八雲)

 

 残念なことに、わたしは西川千麗が舞う八雲の「雪女」を観ることはなかった。その2000年の「よだかの星」ポーランド公演がわたしの海外での創作の始まりだった。千麗の公演は前半は古典、後半は創作舞踊で構成されていたため、後者に参加する私はいつも楽屋に待機して、彼女の舞う古典を客席から観たことがないのだ。だから私は彼女の作品の半分しか知らずに創作してきた。2014年12月、三回忌、「千麗 舞の夕べ」で使われてきた扇子や着物など、たくさんの舞台衣装や舞台美術に囲まれ、そのなかで独りコントラバスを弾いた。西川千麗の孤独の半分にようやく触れることができた。

 

 死者とのコラボレーションを行った京都の会場で、東京からいらしたシアターXのプロデューサー上田美佐子氏と久しぶりにお会いした。これを機にはじまったのが、同劇場の「シアターX音楽詩劇研究所」だ。この本では、東京に戻ってそれを準備しはじめ、以降に展開した音楽詩劇研究所の創作、ユーラシアンオペラについて、第一部から述べてきたことになる。


付 「 ライブ イン パリ 2006」

レマン湖にあった謎のオブジェ(フォークのオブジェはチャップリンが終世まで過ごした、レマンの畔の街ヴェヴェイにある。わたしは数年後ここで初冬の季節、湖畔で足を滑らせ半身湖に浸かってしまった。)
レマン湖にあった謎のオブジェ(フォークのオブジェはチャップリンが終世まで過ごした、レマンの畔の街ヴェヴェイにある。わたしは数年後ここで初冬の季節、湖畔で足を滑らせ半身湖に浸かってしまった。)

 

 西川千麗の公演には邦楽の国宝級やクラシックのベテラン演奏家、そこにわたしのような出自も定かではないアウトサイダー系が参加することも多く、伝統芸能の舞台スタッフ、かつらや着物の衣装さんもいる。一座はいつもの仕事では出会うことが少ない人たちといっしょで楽しい。今回のツアーでは作曲演奏の他、「ツアコン」的な業務を含む音楽監督の役目を任されている。ホテルに到着すると全員の部屋番号をチェックし、もろもろの連絡。海外ツアーでは何事も人任せでぶらぶらしているが、邦楽のベテラン重鎮の中では私でも英語ができるほうであり、 レストランの予約や下見にまで奔走。

 

 おじさまたちのリクエストでチーズホンデュを食べにいったときは、間違ってひとり一鍋ずつ頼んでしまい、みなもそういうものだと思ってたらふく食べ続け、白ワインとあわせてみな胃もたれになって焦った。深夜ローザンヌのホテルに到着したとたん年配の邦楽家の「酒や」という独り言のような呻き声が聴こえると、チャイニーズレストランを探しに走り、まずい日本酒にありついた。そんな関西の邦楽の偉いおじさんたちの「おっさんぶり」はとっても和むが、海外ツアー公演からもどると、しばらく関西弁が耳についてはなれない。このフランス、スイス公演に参加したお琴の澤村裕司は視力に障害があるが、それゆえにさすがに強力に耳がよく声帯模写が上手。関西組と関東組み別便での帰途、ずっと飛行機の中で、関西組のメンバーそれぞれの声まねて楽しませた。

 

 ローザンヌでのある夜、外に出かけてばかりいるのもそろそろ疲れてきたので、ホテルの部屋で大学の後輩でもあるギター奏者の新美広充と、そんなツアーの途中経過を打ち合わせもかねて、買ってきた酒を飲みながら振り返っていた。異国の地にいながら古典舞踊の所作や邦楽器の響きとたおやかな京ことばに日々つつまれていたからか、公演とはまったく異なる音楽が聞きたくなったとき用に持ってきた「ジェームス・ブラウン /ライブ イン パリ」などというCDを流しながら談笑を続けた。

 

 ふと、どちらからともなく、「このツアーってなんか J・Bじゃねぇ?」「つーことは我々はJBズ、つーことになるなぁ。」「じゃぁブーツィー(・コリンズ)は誰だ?」「今回の立場的に俺か?」と私。 兄、キャットフィッシュ・コリンズの延々と続くファンキーなギターソロを聴きながら。JBズとはもちろんR&Bの帝王ジェームス・ブラウンのバックバンド、JBはもちろん西川千麗。誤解も招くのでその喩えの意味はあえて書かない。

 

 その翌朝、いつものように新美とロビーのレストランで朝食をとっていた。白とガラス張りを基調にしたちょっとエレガントで モダンな大きめなホテルだった。三々五々にエレベーターから降りてくるツアーメンバーに挨拶したりしながら、長調のバロック音楽のBGMが流れるなかエレガントを気取り、酔い覚ましに爽やかに食後のコーヒーだか生グレープジュースだかを飲んでいた。いつものように麗しく着物を召された「帝王」と付き人のKちゃんがガラス張りのエレベーターから降りて来るのがみえたので、朝のご挨拶にと立上がろうとすると、唐突にまさかのJBの「It's A Man's Man's Man's World」がBGMで流れ始めたのだった。思わず見なかった振りをしふたたび腰掛け、「今日は何かあるぞ」と。なぜここでJB'S in ローザンヌ、レマン湖の奇跡。

 

 帝王の乱心がないことを願いながら、その日私たちはチャーターバス に乗りパリへと向かった。私が一座に同行した初の海外ツアーのポーランドのクラクフで、経由地からの預け荷物が届かず、一週間稽古が出来ないままに、本番を迎えたことがあった、機材や荷物の紛失を恐れ、長時間かかるがあえてバスをチャーターしたとのことだった。牧場と長閑な田園風景のなか「It's A Man's Man's Man's World」が頭から離れない。

 

 不吉な予兆?は的中し、バスはエンジントラブルを起こして、急遽スイスの片田舎の人のいないサービスエリアみたいなところに停まった。私たち一座は車から、牛たちのいる長閑な田園風景に放り出された。いつ出発できるのかというみなの不安をよそに、視覚障がいをもつ箏奏者澤村祐司は、 その強力に良い耳で、のどかにさえずる鳥の声を聞き分け、錫杖を空に向け、その声の主の方をさしたりして教えてくれた。いくばくかの時間をそうして過ごしながら、車の修理を待ち、再び出発。スケジュールが変更したことにより、なにかバスの中で揉め事が起こっていたが、わたしは聞かぬ振りをした。

 

 数日間パリでの公演準備と公演、帝王からみなの孤独をつくれなどと突然命じられたり、いろいろあったとは思うが、ばたばたとパリ公演も終わり最後の朝、前日に開放感からか飲み過ぎて集合時間に遅刻。ドアを叩かれ、急いで荷物を詰め込む。そうして乗り込んだ シャルルドゴール空港に向かうチャーターバスのなかに自分の弓のケースを忘れてしまう。空港で気がついたが、わたしにはなす術がない。なんとか運転手に連絡がついたとのことで、折り返していただき事なきを得た。関西空港へ向かうJB一行とはここでお別れ。ツアコンとしては頑張ってきたと自認していたが、最後に詰 めの甘い失態を犯した「ブーツィー」は、つぎのツアーに再び呼ばれるだろうか、と。