ヨーロッパ /西欧篇「戦争の世紀から音楽は生まれたか」

ジュネーブ(スイス)
ジュネーブ(スイス)

ヨーロッパ(西欧)篇

 

ヨーロッパ・西欧篇

 

1 スペイン 半島の音楽 「ドゥエンデ」と「恨」

2  ドイツ/フランス① トニオとリサとフランスけんちゃん

3 ドイツ/フランス② ドイツ語のバルバラを聴く

4 ドイツ/フランス③ドイツ/フランス③ 天下茶屋の文房具屋で

5  ドイツ/フランス④ 昭和最後の日のこと

6 フランス マニュエル・ビアンブニュとロバート・ワイアット

7 ドイツ 西ドイツの戦後歌謡と69年のジャニス・ジョプリン

8 ドイツ ヨーロッパの歌工場(ブレヒトソングについて)

9 ドイツ 都会のハクビシン 

10 フランス 「神は豚だ」

11 ヨーロッパ最古の民族バスクの伝統音楽と小説家、詩人のキルメン・ウリベについて

 


1 スペイン 半島の音楽 「ドゥエンデ」と「恨」

フラメンコのコンパスの一例。慣れないとかなり難しい。
フラメンコのコンパスの一例。慣れないとかなり難しい。

 

 イベリア半島のさらに西のポルトガルにも闘牛を楽しむ文化があると聞いた。スペインではよく知られるように牛に最後の一撃を加えるまでをみせ、ときに闘牛士が牛に刺されることもある。対してポルトガルの闘牛は、牛を刺さないのだという。スペイン語のタンゴなどのアルゼンチン音楽と、ポルトガル語のサンバやショーロ、、ボサノヴァなどブラジル音楽のことを思い出したながらそんな話を聞いた。

 

 それぞれの民族や地域の文化に特有の感情や感覚を表す言葉は他の言語に翻訳しにくい。ポルトガルの「サウダージ」やロシアの「タスカー」も郷愁的なことを表すが、日本語に訳すことは難しい。「ノスタルジー」に関わり多くは 歌や音楽に結びつく。郷愁のほか、たとえば。韓国では「ハン(恨)」、スペインでは「ドゥエンデ」。「恨」も「ドゥエンデ」どちらも言葉の表層的、皮相的な意味としては、「負」の方向に向かう、感情や精神のエネルギー、である。「ドゥエンデ」とはゴースト、悪魔、精霊である。。韓国の「恨」は解き放たれる。ためて結んで、また解きほぐす。この円環運動のエネルギーに朝鮮半島の力強い明るさを見る。 ユーラシア大陸の両端の「半島」の民族の心性をあらわすような言葉に、一見、負の感情や現象をあらわす言葉が使われているのは偶然ではないだろう。半島にはさまざまなものがふきよせられ、ふきだまるのだ。

 

 ところで先日、フラメンコについてのあるドキュメント番組をみていて、ここはかんたんに近づいてはいけないような魔力のある地だとあらためて思った。カンテ・ホンド(深い歌)の叙情を超えた暗さ、「黒い音」を聴き、地の精霊たちを目覚めよとばかりに舞う、舞踏(バイレ)を見れば、その地には、死が跋扈しているのがすぐにわかる。悶るような唸る歌にはそれらと交信するシャーマニズムが漂う。

 

 その歌さえもかき消すようなかけ声や手拍子。拍を数えながらフラメンコの演奏を聴いたり、演奏をしてみると、12拍を基礎とする「コンパス」の、いったいどこがはじめの1拍なのかつかむのが難しい。それなのになんでそこでぴったりと演奏があうのか、とかマジックがたくさん、わからない。ユーラシア大陸東の涯、韓国のリズム(チャンダン)も12拍でとることが多かった。3と4の公倍数。どちらも2拍4拍の偶数拍と、3拍の奇数拍に分割できるポリリズムを複雑に奏でる。わたしの印象では、韓国はこの12拍に大きな円運動のエネルギーを感じる。スペインのフラメンコにはそれがない。描かれたコンパスで描かれた円というより、どこまでもつきすすむ直線の息継ぎが12拍ごとにあるイメージだ。そこに伴う踊り、フラメンコと韓国舞踊の違いを想像すればすこしわかりやすいかもしれない。しかし、それはやはり、わかり得ない「ドゥエンデ」や「恨」に起因するのだろう。

 

 打楽器的な身体を避けてきたヨーロッパのオーケストラでは、身体の垂直運動により音を奏でる楽器はない。ティンパニーくらいだろうか。強いて言えばピアノだろうか。それゆえに打弦楽器と分類されるピアノは、足で大地を踏むわけではないが、腕や手を鍵盤の方向に下ろして奏でる。その身体には、それでも垂直的に大地を踏むようなシャーマニックな舞踏的霊性の痕跡が残る。そう考えると、隣でカタカタと音を立てられるとなぜか腹立たしくもあるが、コンピューターのキーボード操作にもいくらかの霊性が存在しているようにも思う。

 

 垂直に手を上下させながら、弦を掻き鳴らしまるで打楽器のように演奏し、それがそのまま音になるのが西洋のオーケストラ楽器ではないギターだ。19世紀まで西洋社会のなかでマイノリティーであった。20世紀になってこのときにかきむしることができる魅力に満ちたこの楽器をさらに電気を通し拡声し、歪みを加えて、まさにデモン(悪魔)に取り憑かれたように世界中の若者が弾き始めた。コンピューターのキーボード操作にもいくらかの霊性が存在しているようにも思う。フラメンコといえば、なんといってもそのギターだ。フラメンコは悪魔的な存在に心と身体を奪われるように先を走る性急な音楽に人間が追いつかない。人間が音楽をつくるのではなく、音楽やリズムが先立って、それに人間が追いつこうとしているようだ。

 

三行英登さんデザインによるいかしたフライヤー。松本まで乗り込むもお客さん少なかった笑うまい蕎麦と酒を飲んで帰った。
三行英登さんデザインによるいかしたフライヤー。松本まで乗り込むもお客さん少なかった笑うまい蕎麦と酒を飲んで帰った。

 それにしてもイベリア半島から海を渡り、原住民を征服し、アフリカ大陸から連れて来た奴隷の民と混合した音楽文化はどれほど豊かなものとなっただろう。サンバ、ボサノバ、タンゴ、カリプソ...そういえば、ラテンアメリカ、スペインの音楽を聴いたり練習したりしようとすると、伝統的な音楽の場合曲のタイトルの横に、リズム名が書いてあることが多い。そもそも曲のタイトルなんて必要なかったのであろう。インド、イスラム圏では旋律に用いる音階ラーガやマカームなど旋法の名前がタイトルだった。それを合図に即興で歌い演奏し踊り、それを楽しむ。ラティーノの場合のそれはリズムの名前だったのだ。誰かがつくった音楽を演奏するのではなく、そのリズムからなる空間自体が「音楽」をさすのだ。 

 

 ヨーロッパの舞踊や歌は上へ上へと飛躍し、飛翔し天に近づき、教会の天井を高くして、そこに救済の声を聴こうとしてきたしてきた。それに対し、ユーラシア大陸の西の涯では、もうこの先は海しかないイベリア半島、アンダルシアのサクロモンテの頭がぶつかりそうなくらい低い天井の洞窟で、バイレは地を踏みならし、カンテは他の誰も合わせることができないような声で慟哭する。

 

「あそこのパン屋の娘の金色の髪の毛は美しい、そしてパンの焼き色のように焦げて」

 

 と、たとえばそれだけのような歌詞を1分くらいかけて歌い込む。百人一首の三十一文字をゆっくりと朗詠するより長いかもしれない。 あるとき、言語の音素数について調べてみるとカウントの仕方は諸説あるが、英語やドイツ語はかなり多くだたい40~45。それに対し、スペイン語は少なく20程度。豊かな、歌や メロディは言語の特性と言葉はきりはなせないものだ。そして日本語は、というと25くらいでやはり少ない。詩吟など詩や和歌を吟じるときにメリスマを用いて母音に変化をさせながら言葉を吟じる。スペイン語や日本語は母音を引き延ばして歌うのに適した言語であると言える。対照的なのはドイツ語や英語だ。語るような音楽。ラップやドイツの表現主義や無調音楽でよく用いられたシュプレヒゲザング(語るような歌い方)に聴くことができるように、母音を変化させなくても、すでに数多くの子音が、さまざまなニュアンスや響きを表現している。

  

 ヨーロッパの古典音楽にはハーモニーとその進行の典型がある。音楽は主和音(トニック)で始まり、属和音(ドミナント)まで飛んで、主和音に落ち着く。その過程で擬似的にそれを繰り返しながら時が流れて終止形(カデンツァ)を迎えるドラマである。属和音の「頂き」に至るまでのドラマの内容に緊張と充実があるほど、終わり(終止)の安息がみたされたものになる。しかし垂直に掻き鳴らし、踏みならされるスペインのフラメンコはそのような予定調和的に構築された和声展開のドラマがあらかじめ用意されない。牛を殺すか、殺されるのか、わからないのだ。室内の建築物の調和構造のなかにある音楽でもない。外の音楽、外を歩く民がぶちあたった先はイベリア半島の先端、アンダルシアの洞窟か。

 

 たとえば12拍子の周期が共通する韓国のシャーマンの祭儀「クッ」とサクロモンテのフラメンコを比較してみるとおもしろい。韓国の現世にも漂うような霊性は、まるで生も死も融合するように祝祭的な色彩が溢れる。しかし、スペインの音楽は、とりわけフラメンコのような音楽には、それとは別種の色彩の内奥に死んだ黒い霊がつねに佇みつづけているようだ。

 

「ドゥエンデは死の可能性を見なければ、現れる事は無い。天使とミューズはヴァイオリンとコンパスを伴って逃避するが、ドゥエンデは我々を傷つける。そして決して癒える事の無いその傷の治癒の中に、人間の創作物から生まれた奇妙なものが存在するのである」(「ドゥエンデの理論と役割」)

 

 その踊りや歌をこれ以上説明して、あらたな意味を与える言葉になんの意味があろうか。しかしそれをしたのがガルシア・ロルカの詩、演劇だった。

 

  どこの国でも 死はひとつの終わり

  死が来て幕はとざされる

  だがスペインではちがう

  スペインでは幕がひらかれるのだ (ガルシア・ロルカ)

 

 ロルカの若い言葉はむせぶような愛の苦しさは血の赤さだ。血の婚礼。ピアノを演奏して音楽家でもあったロルカは民謡を編曲した。サンチアゴの巡礼コンポステラ(星の原)、ムーア人の嘆き、農民の暮らし、古い貴族、 ユダヤ人、ヒターノ(ジプシー)の故郷北インドのラジャスタンの声がきこえてくるようだ。そこにはふきよせられた様々な生活が、お日様と土とオリーブの緑に包まれる。そしてそこにたまった地と血の因習的世界。ロルカはそれを苦しいほどに慈しむ。

 

 


2  ドイツ/フランス① トニオとリサとフランスけんちゃん

 

  のちに倒産してしまった家業を手伝っていた父が、出張先のヨーロッパから、お土産に文具を買ってきてくれた。私が小学生に上がるか上がらないかの頃だ。いずれも見たことのない色彩とデザインだった。西ドイツからは、かまぼこのように大きな消しゴムとオレンジ色のメモ帳。 フランスからは60色のクレヨン。大きな消しゴムは鮮やかなブルー地に白い文字がドイツ語で書いてあった。大きく実用的ではなかったので、なかなか小さくならず今も実家の私の机に転がったままのはずだ。フランスの六十色のクレヨン。名前も知らない色がたくさんあって興奮した。それに対して、巻き紙はくすんだグレーで、箱も同様に灰色な質素で地味なものだった。クレヨンというと子供ながらに子供の道具だと思っていたが、大人の道具のように思えた。日本の子供用のクレヨンの箱のように箱に絵がかかれていないのも、描く者の想像力を限定せぬような配慮だろうか。そのクレヨンでなにを描いたのか覚えてもいないが、いまと変わらずだらしのない人間であるわたしは、どこかにバラバラと散逸させ、大切にしていた割には、数年のうちにその箱の中には半分も入っていないという有様で、そのうち箱じたいも姿を消した。

 

 私の育ったアパートの同じ階に父親がよく西ドイツに単身赴任する家族が暮らしていた。いま思い出すとまだ若かったはずなのに、そのお父さんは立派な髭をはやしていたと思う。西洋の香りのする家庭で、お母さんがよく料理を作ってくれた。私の母が作る料理とは違う匂いがした。家の中も。パイ生地の焼き色、焦げたチーズ。ミュンヘンやボン、デュッセルドルフなどという街の名前もよく聞いた。小学校に上がる前、家族でドイツに引っ越してしまい、当時は珍しかった写真入りの年賀状がエアメイルで届いていたけれど、そのお父様は若くして亡くなった。   

 

 小学校に入る頃から、野球に熱中する中学入学あたりまで、近所の油絵の教室に通っていた。私は他の子と違って落ちつかず、持ち前のだらしなさで、服や机を汚し放題だった。そのうち「特別扱い」になってしまい、絵の方もまともな描き方を教わらなかった。醤油を絵の具で混ぜたり、台所スポンジを筆代わりにしたり、砂、石膏を混ぜたり、演奏技巧で言うところの「特殊奏法」を教わり、基礎デッサンもまるで教わらなかった。いつみんなのように描けるようになるのかと思っていたが、上手くならなかった。白いキャンバスの上よりも、描き終わって木のパレットの上でいろいろ色を混ぜたり水洗いでまた混ぜたりしながら片付けていて時間がかかり、ひとつしかない洗面所を占拠してしまうので、教室が終わる頃の時間に来るように言われた。小柄な先生はまだ50代だったとおもうが、小学生の私には老婆に見えた。やっと片付け終わると先生がわたしを酒場に連れて行き、少しだけ酒を飲ませてくれた。

 

 クラシック音楽のコンサートに連れて行ってもらったりもしたが、細野晴臣が選曲したセット売りの「ワールドミュージック」の、CDが先生の家にあり、それを聴かせてくれたこともあった。聴いてなにを感じたのかは覚えてもいないが、自分も、音楽を聴くと言えばカセットデッキで、LPレコードをかけるプレーヤーもない家だったが、CDデッキというものが欲しくなった。ちょうど、レコードからCDへと移行する頃だ。

 

 そんな具合に教室の小さな主みたいになって、中学生になる頃まで丸々6年は通った。ある時期そこにドイツ人とフランス人の子が通っていたことがあり、身近に見る西洋人の子供たちが、さすがに気になった。私が近くで目にしたはじめての「外国人」だと思う。リサとトニオと名前だったが「ハラダ」という姓をもち、父親は日本人だった。金髪のお人形みたいな姉弟は、お金持ちの家の子みたいだった。いつもドイツ人のお母さんが、手作りのお菓子などの手土産を持って車で迎えにきた。華やかな家庭が想像できた。ドイツとはお金持ちの裕福な国なのではないか、と思った。家の地球儀をみてみると、ドイツは東と西にわかれていて、わたしが知っている街の名前は全部西ドイツにあった。

 

 フランス人の子は名前は忘れてしまったが、先生はなぜか「フランスケンちゃん」とよんでいた。父母もフランス人で、日本語はほとんど話せず、ハウス食品のアニメにでてくる、例えば「母をたずねて三千里」のお話に出てくるような身なりの男の子だった。先生が誰かと話しているのをきいていると、彼のお父さんは自動車工かなにかの職についているが、生活は厳しいみたいだった。お母さんが、先生の描いたシャガール風の洋画たちが無造作に重なりあう玄関まで、彼を迎えにくることは少なかった。隣の彼の絵をのぞきこむと子供ながらに、淋しい絵だと思った。その子の眼も淋しそうにみえたが、眼光の鋭さと訴えかけるようなシリアスな表情が印象に残っている。月謝のトラブルがあったらしく、すぐにいなくなってしまった。裕福にはみえなかったケンちゃんに、なぜ父母はお金をかけて絵を習わせたかったのだろう。そしてフランスとは貧乏な国なのだろうと思った。フランスと言えば「フランスケンちゃん」と、グレーの紙に包まれたあの60色の夢のようなクレヨンを想い出す。そしてその貧しさと夢ような色彩が結びついて、わたしのフランスのイメージとなった。バルバラやベルギー出身のジャック・ブレルやジョルジュ・ブラッサンス、いずれの歌手の古い歌を聴いても、いまだにこのようなイメージと結びついてしまう。

 

 私が大学の仏文科を5年かかってフランス語の習得もせぬままに卒業し、その数年の後コントラバスのソロのCDを出す機会を得た。実存主義やそれを体現しているといわれたシャンソン歌手や詩人、哲学者の街、その頃まだ行ったことがなかったパリ、セーヌ左岸のカルチェラタンを思い浮かべていたではないが、「左岸/右岸」と名付けた。そしてそれはよく「右岸/左岸」と間違えて呼ばれた。なんとなく右側でなく左側に根拠を置いているという、当時の私のささやかな意思表明だったのか、若さから来る天の邪鬼か。

 


3 ドイツ/フランス② ドイツ語のバルバラを聴く

 

名曲「黒い鷲」がよく知られる フランスのシャンソン歌手バルバラの曲のひとつ「ゲッチンゲン」はドイツの都市の名前だ。このフランス語のシャンソンの名曲にバルバラ自身によってドイツ語で歌われたバージョンがあることを知った。ドイツ、フランスは隣国だが、言葉の響きはだいぶ違う。フランス語で知っていたその曲を、子音による響きが硬質なドイツ語で聴くと、想像通り大きな違和感を覚える。

 

 ドイツには、語の響きから作られた、リート(歌曲)や、子音を強調してシュプレヒ・ゲザングのように、まさしく歌と語りの間の歌唱法もあるが、子音の少ない日本語の耳の感性からすると、いわゆる「歌」というイメージとは離れたもののようにも思える。逆のケースとして、ドイツのベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」のフランス語バージョンをきいたとき、クルト・ヴァイルのメロディ、楽曲に体現された、ブレヒトのシニシズムやアジテーティブと偽装的な叙情をまぜわせたようなそれらの風合いが、ざらざらしながらも丸みを帯びたフランス語の歌唱から感じることができず、拍子抜けしたことがあった。

 

 調べると、ドイツ語の「ゲッチンゲン」にはこのような背景があった。

 

「バルバラの『ゲッチンゲン』歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々」(中祢勝美「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 シャンソン研究会 )によると、ユダヤ人であるバルバラの家族は、第二次世界大戦中、彼女が9歳から14歳までのあいだ逃亡生活を強いられた。

 

 第二次世界大戦後のドイツという国、ドイツ人に対する拭いきれない負の感情を消しがたいなか1964年、この地でのコンサートに向かい、劇場に到着したが、ステージには頼んでおいたグランドピアノがなかった(ピアノ業者のストライキによる)。用意されたアップライトピアノでは、観客に背を向けて演奏することになり、それを嫌ったバルバラはグランドピアノを再度要求する。すると彼女の歌を求めていた学生たちが、ピアノを所有する老婆に頼み込んで、苦心して探してきてくれた。コンサートは遅くなって始まったが、待っていたこの街の観客はあたたかくむかえる。バルバラは感謝して滞在を延長してもう一度コンサートをおこなうことにした。そのとき街のグリム兄弟の記念館を案内される。ユダヤ人、フランス人の子供たちも知るところであったろう、子供の頃に聞いたお伽噺、その間にこの町での出来事を曲にして、まだ未完成のまま最後のコンサートで、語るように歌った。パリに戻り完成させたのがもちろんフランス語で書かれた「ゲッティンゲン」という名曲だ。さまざまな翻訳も参考に、文学としての詩ではなく、語順を優先させ、旋律と意味の関係を重視して翻訳してみた。

 

 「ゲッティンゲン」より

 

もちろんそれはセーヌ川ではない それはヴァンセンスの森でもない

でもここもまた同じように美しい ゲッティンゲン ゲッティンゲン

出逢の埠頭もなく 嘆きのシャンソンもなく

それでもかわらず愛は花咲かす ゲッティンゲンで ゲッティンゲンで

彼らのほうが知っている、とわたしは思うフランスの王の歴史

ヘルマン、ペーテル、ヘルガ、ハンス(*ドイツ人のよくある名前)

ゲッティンゲン ゲッティンゲン

 

みなさんおこらないでください お伽噺(*グリム童話)が

「むかしあるところに」(*フランス語)とはじまっても  ゲッティンゲン 

もちろんわたしたちにセーヌがあり そしてヴァンセンスがあり

ああ バラは美しくさいている  ゲッティンゲン ゲッティンゲン

 

わたしたちの青白き朝  ヴェルレーヌの灰色の魂

それはここでもおなじ憂愁がある  ゲッティンゲンで ゲッティンゲンで

話すことのできない彼らは微笑を投げかける

わたしたちは彼らのことがわかる  ゲッティンゲンの金髪の子供たちよ

驚きあきれるのもあたりまえ  でもだれかが私を許すだろう

でもどこの子供たちでもおなじ子供  パリでも ゲッティンゲンでも

決して戻ってはならない 血と憎悪の時代に

愛する人たちがいるから  ゲッティンゲン ゲッティンゲン

 

警報が鳴りわたり また武器を手にしなければならぬなら

わたしの心は涙を流す ゲッティンゲンのために

でもここもまた同じように美しい  ゲッティンゲン ゲッティンゲン

警報が鳴りわたり また武器を手にしなければならぬなら

わたしの心が涙を流す  ゲッティンゲンのために

 

 バルバラは拭いきれないドイツへの憎悪と偏見から、街の人々への感謝と和解への願いへと転化させた。忘却ではなく心の底から和解を願う気持ちへと。バルバラのドイツ語の「ゲッティンゲン」を聴きなおし、フランス人があえてドイツ語で歌っているという先入観もあるとは思うが、言語自体のいびつさと、ネイティブにはない揺らぎに、訴えかける切実さのようなものも感じた。

 

 背景に囚われず音楽を聴くことは大事だと思う。しかし背景や事情を知ることによって、強く心が震わされて聴き方が変わることもある。

 


4 ドイツ/フランス③ 天下茶屋の文房具屋で(ドイツ弓 とフランス弓①)

 

  私はコントラバス弾きだが、それを弾く弓にはジャーマン(ドイツ弓)とフレンチ(フランス)弓の二種類がある。ヴァイオリンやチェロなどヴァイオリン属の楽器は一種類(フレンチ)しかない。

 

「でっかいヴァイオリン」とよくいわれるが、コントラバスは実はヴァイオリン属ではない。「ジャーマン」が存在する理由として、コントラバスという楽器の起源であるヴィオラダガンバの弓の用い方の名残であるとも言われている。最近は奏者の好みで選ぶことが多いが、わたしがこの楽器を弾き始めた1990年代は、日本ではまだほぼ全ての奏者がジャーマン弓で弾いていた。

 

ラテン/ゲルマンという分け方もできる。イタリアはフレンチ、イギリスも フレンチが多く、スラブ系の東欧ではジャーマン、ロシアもジャーマンが多いようだった。アメリカは両方。韓国はジャーマン。歴史や国際関係も反映される。だからわたしもはじめはあたりまえのようにジャーマン弓を使っていた(そもそもフランス弓は日本の市場に出回っていなかった)。フランス弓についての新しい情報が入りはじめ、わたしもそれに関心を持った。ちょうどインターネットが一般に普及しはじめた1990年代の半ばくらいの頃だった。私はパソコンももっていなかったし、弓を買うお金ももっていなかったが、そういうインターネットの情報を印刷してもらっりして、インターネットってすごいなぁ、などと感心しながらフランス弓に思いを馳せた。

 

 その頃、ロックバンド「マリア観音」に参加しツアーにでていたとき、暴れまくって演奏していたが、仙台で不注意でジャーマン弓を折ってしまった。次の移動地は大阪。一日空いていたので弓を売っているところを探した。心斎橋の裏通りの安ホテルのロビーから黄色い電話帳を片手にあらゆる弦楽器店に電話した。しかしゴールデンウイークだったこともあり取扱専門店がすべて休み。最後に電話したのは天下茶屋の文具店。文具店でだがなぜか弦楽器店の欄に記載されていた。「だめもと」で電話をかけると、 尋ねるとコントラバス弓もあるとのこと。文房具屋に楽器?おもちゃみたいなものかしら?

 

 不安を拭えぬまま、良く晴れたGW中日の日中、仕方なくのんびりと南海電車に乗って天下茶屋へ。NHKの連続テレビ小説で、天下茶屋を舞台にした双子の女の子を主人公にした人気ドラマ「ふたりっこ」の放映の直後。マナ・カナちゃん(三倉茉奈と三倉佳奈)の一人が将棋の棋士になる物語で、お父さんが、街の劇場の演歌歌手「オーロラ輝子」との不倫に走ったり、朝ドラのわりに濃厚な作りのドラマだった。アーケードのある古い商店街に入ると、元気のよい双子の子供時代を演じた「マナカナ」のイラストと「めっちゃすきやねん天下茶屋」と書いてある垂れ幕がたくさん天井から吊り下がっていた。晴天とは裏腹に通りは古く薄暗く、人が歩く姿を見るのも稀で元気がない。最近かけられたはずの垂れ幕さえ、すでに商店街に同化して古びてみえた。

 

 アーケードを抜け、がらんとした通りにでると、まもなく文房具屋はあった。よくある学校御用達の小さな文具屋。ここに弓があるのか? 店を覗くと楽器はどこにあるのか、目の前が校庭なので陽射しを遮るものはないが暗い、売り場に電気もつけていない文具屋だ。店の中を眺めると、たしかにたった一挺ヴァイオリンがガラス棚のなかで眠っているのが見えた。店主の老人が奥から出てきて、棚の上から駄菓子屋の売れ残ったおもちゃのように埃をかぶった箱から、一本のコントラバス用ジャーマン弓を取り出してくれた。 とにかくこれしかないのでこれを買うしかないのだが、12万円。私は現金ももちろんだが、キャッシュカードももっていない...事情を説明すると、弓を渡すので東京に帰ったら送金してくれとのこと。はじめてあった、若く、明らかに堅気ではなかった私の風体にもかかわらず、信用してジャーマン弓をわたしてくれた。

 

 弓音楽文化なるもとはほど遠いイメージの天下茶屋で、わが新しいジャーマン弓を手に入れたが、ほどなくしてやはり気になっていたフレンチへの転向を試みた。フレンチの利点としていわれることのほうが、自分の音楽として理想的だと思えたからだ。まだ学生であり、親に泣きつき、保証人になってもらいローンを組んで購入した。

 

 ジャーマンは弾き手が大きな楽器をコントロールするように、やや支配的に音をつくるのに対して、フレンチは楽器本来の音を弓が媒介となって引き出すという感じ。フレンチのほうが身体的に脱力している状態で柔らかい。ジャーマン弓は横から鉛筆を握るように弓をもち、そのまま手首を左右に動かして弦の上を往復する。フランス弓はチェロの弓と同じ形状で、手の甲を外側に向けて、振り子のように腕を脱力させて弓を弦にのせる。フランス弓は振り子の運動に身をまかせるように弾くのに対して、ジャーマン弓はやや弦に対して圧力をコントロールしながら弾くイメージだ。

 

 手から弓をはずして、腕だけで弾いている状態にしてみると、それぞれまるで異なる運動による「踊り」 にもみえるはずだ。フレンチ弓を弾く身体ははコントラバスと同化して戯れている感じだ。ジャーマン弓のほうはコントラバスを支配しながら格闘している感じか。フランス語ドイツ語の響きが想像できるかたは、まさにそれをイメージしていただけたら伝わるかもしれない。音楽性にも反映され、実際音を奏でても、たしかにベートーベンの曲など重厚なロマン派音楽はやはりドイツ弓のほうが迫力が出るし、反対にドビュッシーなどの近代音楽はフランス弓の音色、身体が合うと思う。アルゼンチンタンゴはほぼフレンチだった。タンゴでは、弓の動きが基本的に身体の側に力強く引きよせるダウン・ボウで演奏される。

 


5 ドイツ/フランス④ 昭和最後の日のこと(ドイツ弓 とフランス弓②)

 

 昭和最後の日。昭和64(1989)年1月7日。わたしは中学1年生の冬休みだった。テレビは黒一色になって終末感を重たく漂わせ、しばらくこの国は機能しないように思えた。 喪の雰囲気に鎮まりかえり人通りは少ないが、中学生のわたしは予定通り友達と近所の閑散としたボーリング場で遊んだ。テレビもラジオもクラシック音楽ばかり流れていた。あとで調べると、洋楽のポピュラーミュージック中心のJーWAVEもこの日は全てクラシックだったそうだ。この国では天皇陛下が亡くなると、ヨーロッパのクラシック音楽を流すのだ。そのほとんどがドイツ系の荘重な曲で、フランス、ラテン系のクラシックはほとんどなかったらしい。

 

 その後2月24日の大喪の礼で海上自衛隊東京音楽隊により演奏された「哀の極」は、ドイツ、プロイセンの軍隊の作曲家フランツ・エッケルトの作曲だ。これは明治天皇の母、英照皇太后(実母は中山慶子であり、孝明天皇と英照皇太后の間に男子が居ない)の葬儀のために作曲されたものだった。エッケルトは「君が代」の和声付けをしたことでも知られており、日本で音楽教師になることを命ぜられ1879年から20年間滞在した。また、日本統治以前の李朝末期の朝鮮で「大韓帝国愛国歌」の作曲もしている。

 

 遅れてきた近代であるドイツをモデルにした明治維新以降、日本の音楽教育もドイツ偏重主義だった。フランス音楽はむしろ、文学家、美術家もフランス文化の受容の中で、ドビュッシー、ラヴェル、フォーレなどが「現代」の音楽として紹介され、「古典的規範」とされたのはドイツ音楽だった。「東洋趣味」と「都会の洒脱」な音楽という二つの側面が、戦前の日本においてフランス音楽にたいしてもたれていたイメージだろうか。ドイツ偏重に対して、1924(大正13)年に創刊され、ドイツ以外の西洋音楽を積極的に紹介していた雑誌『音楽新潮』にこのような記述をみつけた。

 

 「今の楽壇で働いている演奏家達は永年学校で独逸流に仕込まれ、独逸音楽を専門に勉強させられ、独逸以外には研究にまた演奏に価する音楽が存在しないかの如き考えに慣らされている。だから独逸以外の音楽を本気になって勉強してみる気になれないのも無理がないかも知れない。けれども陳腐な言い草だが、芸術には国境はない。日本の楽壇をさながら独逸楽壇の延長視するほど国際的に寛大な楽壇人なら、よろしくもう一歩進んで独逸以外の音楽をも、どしどし受け容れるだけの雅量をもつべきだ。」(柿沼太郎「フォーレの器楽に就て(ピアノ曲と室内楽曲)『音楽新潮』第7巻第3号)

 

 私は一般の大学に在学中からロックバンドに参加し、少しは金を得ていた。しかし一人暮らしできるよう金でももなく、親に甘えることになるが、卒業したら音楽学校に通いたいと思い始めていた。先述した仙台で弓を折った半年後くらいの頃のことだ。演奏も学びたかったが、それより楽譜がすぐに手に入れられる環境が欲しかった。今ではすぐにネットで簡単に楽譜も手に入るが、当時はまったく手に入らず、輸入も難しく、専門の楽譜屋は東京にあったが値段が高すぎた。そこには音大生割引なるものが存在し、よけいに敷居が高かった。「アカデミズム ファック、クラシック ファック、 日本 ファック」と怒りを増幅させながら呟きつつ、でも音大に入れば楽譜や資料が手に入る。当時私が在籍した大学のJAZZ研究会に、音楽大学から来ていた、現在タンゴピアニストとなって活躍している青木菜穂子氏にお願いして、音大の図書館でたくさんコピーしてもらった。大量のメモをみながら、探しだして、あれだけの量をコピーするのはほんとうに大変だったことだろうし、またお願いするのはさすがに気がひけた。学費が安いはずの国立の東京芸術大学の別科という実技だけで入れるコースへの受験を考え、芸大の教授を紹介してもらった。自意識過剰な「ロッカー」はまだ入学もしていないのに、ポリシーを捨てて音大に入学しようとする自分を恥じつつ、気持ちよい陽射しと秋風を浴びながら教授のお宅で行われるレッスンに向かった。

 

 メモした住所にたどり着いた。洋風のお宅だが和風の部屋もしつらえられ、古いが立派な「芸術家」の家だった。御夫人も弦楽器の演奏家だった。バッハの無伴奏チェロ組曲を1分ほど弾いた。しかしそのあとすぐ、入学してそこで学ぶためには、まず弦を通常のスチール弦に戻し(私はガット弦を張っていた)、弓をジャーマン弓に変えなければ教えることができないと、いわれてしまった。ガット弦は当時の私の譲れぬポイントだったので、それでは受験は諦めますとなった。がっかりだったが、魂を売らなかった!!と自分を褒めた。天下茶屋であのジャーマン弓を買ったばかりだったが、「私の音楽はフレンチ弓でつくらなければならない」という思いに駆られ、我慢できずにフランス弓を使い始めていたのだ。

 

 程なくしてクラシック界でも、イタリアあたりに留学しフレンチに転向したクラシックの演奏家から、身体への自然や、音色など、フレンチの利点が紹介されるようになった。これは日本の狭いコントラバス界では革命的なことで、現在では日本でもフレンチを用いる人は多い。私も長い間フレンチで弾いた。しかし「完全には」身体に馴染まず、ストレスも強くなった。馴染まない自分に問題がある、という思考の負の連鎖。きっかけを忘れたのでなんともオチのない話しだが、フレンチで弾くということが自分のアイディンティティのような思いで、ずいぶん拘り、囚われてきたが、やがてどちらでもよいや、と思うようになっていた。現在は気分や用途に合せて両方使う。しかしこだわりが消えるまでは随分遠回りした。それと同じように、たくさんの拘りや囚われの中で生きているのだろう。天下茶屋の文房具屋で買ったドイツ弓、そのあとすぐ買ったフランス弓。こだわりがあって使い続けているのではなく、ただ新しく良い弓を買うお金がないからだ。しかしそれでも20年以上共にあったのだから 自分から手放すことはできないだろう。

 

 こんなことを思い出しながら書いていると、天下茶屋でドイツ弓を買ったとき、その文房具屋に一挺だけガラス戸に入っていた、あのヴァイオリンはどうなったのだろうと思い出した。あの後あのヴァイオリンから旋律が奏でられたことはあったのだろうか。

 

むだにクイズ。左右どちらがフレンチでしょうか?(正解は下の方)
むだにクイズ。左右どちらがフレンチでしょうか?(正解は下の方)

6 フランス/マニュエル・ビアンブニュとロバート・ワイアット

 

  私は大学のフランス文学科をいちおう卒業したが、フランス語もほとんどできないし、これまで音楽活動の中で直接フランス語圏の文化との関わりも多くない。むしろ関心がほとんどなかったドイツとの関わりが増えて行った。フランスでの公演は何度かあったが、それは日本で作った作品をそのまま発表するものか、セッション的なもので、現地のアーチストと時間をかけて「コラボレーション」して創作したわけではない。

 

 その一つパリの日本文化センターでの日本舞踊公演に参加したとき、友人の紹介で、音楽家のマニュエル・ビアンブニュという男を紹介され、待ち合わせた。初対面だが、ヨーロッパ人にしては背の低い彼と、バスティーユあたりのレコード店などを散歩した。彼のCD作品も貰って聞いた。幾重にも多重録音され丁寧にミキシングされた完成度の高い音楽だった。偽終止と転調により引き延ばされ、繰り返され、くぐもったフランス語の響きの特性を生かした語りとメロディによる、厭世感とロマンチシズムによる美学に貫かれた音楽だった。陳腐なたとえだが、澱のある古い赤ワインのようなイメージがまさにピンとくる。その後、ビアンブニュがバンドを率いて来日ツアーしたときは、私もベーシストとしてツアーの一部に参加することになった。反対に当時私が主宰していた「いまからここで」という小さなパフォーマンス企画で、彼をゲストに招いて東京でコラボレーションもした。フランス人アーチストのコラボレーション的な創作は、今なおこれが唯一だ。

 

 彼の繊細な美学に私の音が入り込んでゆくことが難しい。共通する根本を互いに感じていたように思うが、一緒になにができるのか、話しを重ね、彼が決定的に影響受けている。それまであまり聴いたことがなかったイギリスの音楽家ロバート・ワイアットの録音作品を聞き直してみた。ワイアットはイギリスのジャズロック、プログレッシブロックのバンド、ソフトマシーンの名ドラマーであり、ソングライターだが、転落事故により下半身不随となってドラムスが叩けなくなった。イギリス共産党に身を置いていたこともあり、世界の貧困や差別に対する声による抵抗(レジスタンス)を、苛烈な叫びとしてではなく、上空を漂うように飛翔するやわらかな高音で歌う。友人からドキュメントのビデオをいただいて、インタビューやホームスタジオでのレコーディングの模様をみることができた。親密な「コミュニティー」から音が編み込まれて作品になってゆく。直感的を大切にした風通しの良い実験が音楽に変換される。まるで新しいユートピアがレコードの中に体現されているようだった。

 

 ワイアットの声は、飛翔している自身の声を空間に漂わせたままにしているようにも感じる。ビアンブニュのフランス語の声はワイアットの英語と比べると少し深く沈み込んでいるようだった。鼻母音が強調され、口腔内でくぐもった落ち着きのあるフランス語より、子音が強調される英語の響きの方が飛躍的だからかもしれない。

 

  そんな話をすると、ビアンブニュは、スペインのガルシア・ロルカの詩と、ブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビンの「Insensatez」、「summer time」といういずれもワイアットのカヴァーしてきた作品の歌詞を、コラボレーションの素材にすることを提案した。私はその曲や詩を用いたコンサートの構成台本をつくった。

 

 本番直前にいっしょにラーメンを食べに行ったとき、母親がスペインのカタルーニャ出身だということを教えてくれた。カタルーニャは民謡の宝庫といわれている。私は唯一弾くことができるその地の民謡で最も知られた「鳥の歌」を即興に潜ませた。アメリカのフランコ政権容認に抗いアメリカでのコンサートを中止していたチェロ奏者パブロ・カザルスがホワイトハウスで弾いた曲として世界に知られた。

 

 本番は、私の構成台本が反映され、やはり彼の美学とは正反対な混沌としたカオスだった。しかも私たちのパフォーマンスは日本語でおこなうので、「まるで動物園の中に投げ込まれたみたいだった」とあとで苦笑していた。でも「こういうところからはじまるんだよね」と受け入れてくれた。今度は私は彼の流儀の中でコンサートに参加し、彼は私の試みの中で音楽をした。このパフォーマンスのあとは、彼のツアーの一部に参加し、今度は彼のアレンジの中で彼の曲を演奏した。しかし残念ながらその後の共演はいまのところない。

 


7ドイツ 西ドイツの戦後歌謡と69年のジャニス・ジョプリン

ジャニス・ジョプリンの1969年西ドイツフランクフルトのコンサート。「Piece of my heart」で、ジャニスが煽りまくって観客をステージに上げるが、恥ずかしがってノリノリにならないが、じょじょに。1969だから、ちょうど敗戦後すぐくらいに生まれた「戦争を知らない子供たち」だろう。ナチズムとの距離、戦後の傷跡、贖罪意識、屈折が生む空気のなかで育った若者と、戦勝国、自由の国アメリカのほぼ同じ世代のスター、当時23歳、翌年死を向かえるジャニス。なんかジーンときてしまう。youtubeあります。
ジャニス・ジョプリンの1969年西ドイツフランクフルトのコンサート。「Piece of my heart」で、ジャニスが煽りまくって観客をステージに上げるが、恥ずかしがってノリノリにならないが、じょじょに。1969だから、ちょうど敗戦後すぐくらいに生まれた「戦争を知らない子供たち」だろう。ナチズムとの距離、戦後の傷跡、贖罪意識、屈折が生む空気のなかで育った若者と、戦勝国、自由の国アメリカのほぼ同じ世代のスター、当時23歳、翌年死を向かえるジャニス。なんかジーンときてしまう。youtubeあります。

 

  ドイツ(西ドイツ)といえば、CAN、ポポルブーなど数多のジャーマンプログレ、カールハインツ・シュトックハウゼンなどの現代音楽、ペーター・ブロッツマンらのフリージャズ、クラフトワークのような、テクノミュージックなど、前衛の伝統を残した先鋭的な音楽を生み出した。しかし、文芸的、歌謡的に洗錬とされたフランスのシャンソンのような歌のイメージがない。

 

 第一次時世界大戦後のベルリンを中心とした、バウハウス建築やパウル・クレーらによる表現主義を生んだワイマール文化のなかで生まれた、クルト・トゥホルスキーなどの反体制カバレットソングもあり、ナチズムが到来する直前にこの時期は、ドイツでもそのような歌が賑わいをみせたはずだ。そのようなタイプの歌が、三国同盟の日本に伝わることは考えにくいが、戦後になっても、クラシック以外のドイツの歌謡曲文化はあまり伝わってこなかった。

 

 あるとき、ジャニス・ジョプリンの1969年西ドイツのフランクフルトでのコンサートをインターネット動画で見た。「Piece of my heart」という曲で、ジャニスが煽りまくって観客をステージに上げた。しかしみな恥ずかしがって、体を揺らし始めても踊りはぎごちない。当時の若者だから、ちょうど敗戦後すぐくらいに生まれた、ぎりぎり「戦争を知らない子供たち」だろうか。ナチズムとの距離、戦後の傷跡、贖罪意識、屈折が生む空気のなかで育った若者と、戦勝国、自由の国アメリカのほぼ同じ世代のスター。ジャニスは当時23歳だが、「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」、この翌年にまさに死を迎えることになる。ぎこちなく踊り始めた若い観客たちが、再び煽られると、一変して、とび跳ね上がって狂うように熱狂する。

 

 1963年に西ドイツではアウシュビッツ裁判が始まり、ようやく学生のなかから、戦時中のナチズムに加担するドイツ人の心性を告発するような反体制運動がでてくる。自らの親の世代が忘れたいアンタッチャブルな心情にに抵触する。なかったことにしてはならない、事実を認め、検証するべきだという問題意識だ。日本とドイツの戦争責任問題のあり方についてはよく言及されることである。しかし「内地」においての大規模な迫害、死の行進、ホロコーストに加担したり、当時者として目の当たりにした風土に漂う加害者としての心性は、終戦間近まで主な戦場が外地にあった日本とは異なるのかもしれない。

 

 2013〜2014年頃、ベルリン滞在時によく通った大きな書店「ドゥスマン・ダス・クルトゥアカウフハウスには、劇作家、詩人、演劇理論家の東ドイツのベルトルト・ブレヒトの人形が置いてあった。その地下のCD売り場や楽譜売り場を歩き、ドイツポピュラー音楽の西と東のドイツにわかれた懐メロ売り場で、廉価のそれを買い求めてみた。

 

 西ドイツでも粗雑に歌謡曲が多く作られ、愛好されていた、と聞いたことがある。西ドイツのバンドだとそのとき知らなかったが、小学生のとき集団舞踊で踊った「ジンギスカン」(1979)などの、チープなテクノ歌謡に共通する、チープさを感じた。韓国で「演歌」とよばれ若者が嫌うことの多いというトロットと印象が近い。わたしはけっこう好きだが、悪い言い方をすれば、かなり粗雑に作られている。西ドイツといえば対外的には精巧なプロダクツのイメージがあるが、国内の大衆文化にはまた違う面もあったのだろうか。それらのポップスはひじょうに好まれたた、と聞いたことがある。

 

 ジャニス・ジョプリンのコンアートの若者の姿を見て、戦後の大衆音楽をきくと、精巧さと勤勉さで復興した戦後のドイツ人の心性があらわれているような気がした。戦争体験者は自らの内面に封じ込めた人間の野蛮さを、恋愛を歌う粗雑に作られた歌謡曲で慰め、その空気の中で育った若者は、突然理性を解放して踊り出す。変わることを強要されても、戦争で全てが変わるわけではない。忘れてしまいたいことと、忘れられない記憶の中で生きたのだろうか。

 


8 ドイツ ヨーロッパの歌工場(ブレヒトソングについて)

ベルリンの大きな本屋にあったブレヒト人形。
ベルリンの大きな本屋にあったブレヒト人形。

 

「人生を想像力のなかで反復することがなければ、けっして十分に生きることはできない。「想像力の欠如」は 人々を「現存するもの」から妨げる。」(ハンナ・アレント)

 

 アレントが「暗い時代の人々」で、ベルトルト・ブレヒトやヴァルター・ベンヤミンについて述べている文が好きだ。

 

 ドイツの詩人、劇作家、演出家ブレヒトの言葉は世の中や人間や自然に対するニヒリズムと裏腹の愛憎がある。生半な感情にメスをいれ、理性による判断を人々に厳しく問うて来た。そしてこの理性の実現がいかに困難であり、複雑な構造をもっているのかを演劇の中で表した。それができるブレヒトはしたたかな「強者」だ。強者は現代の日本では受け入 れられにくいのかもしれない。しかしブレヒトはいわゆる「強者」を讃える英雄叙事詩を描かずに、貧しい者、小さき者の「この世」も暮らしと現実を「叙事詩」として描いた。

 

「のちの時代のひとびとに」

そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。

無邪気なことばは間が抜ける。皺をよせぬひたいは

感受性欠乏のしるし。笑える者は

おそろしい事態を

まだ聞いていない者だけだ。

なんという時代――この時代にあっては、 庭がどうの、など言ってるのは、ほとんど犯罪に類する。 なぜなら、それは無数の非行について沈黙している! 平穏に道を歩みゆく者は

苦境にある友人たちと

すでに無縁の存在ではなかろうか?

たしかに、どうやらまだぼくは喰えている。

でも、嘘じゃない、それはただの偶然だ。

ぼくのしごとはどれひとつ、ぼくに飽食をゆるすようなものじゃない。

なんとかなってるなら偶然だ。(運がなくなれば おしまいだ。)

ひとはいう、飲んで喰え、喰えりゃあ結構だ、と。

だがどうして飲み喰いできるか、もしぼくの喰うものは、飢えてるひとから掠めたもので

飲む水は、かわいたひとの手の届かぬものだとしたら?

そのくせぼくは喰い、ぼくは飲む。

賢明でありたい、と思わぬこともない。

むかしの本には書いてある、賢明な生きかたが。

たとえば、世俗の争いをはなれて短い生を

平穏に送ること

権力と縁を結ばぬこと

悪には善でむくいること

欲望はみたそうと思わず忘れること

が、賢明なのだとか。

どれひとつ、ぼくにはできぬ。

そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。

(1938) (野村修訳「ブレヒト詩集」飯塚書店1971年)

 

 1928年に作曲家クルト・ヴァイルと組んで「三文オペラ」を成功させていたドイツの詩人、劇作家ベルトルト・ブレヒトは、さらにマルクス主義的な演劇を試みる。

 

 「オペラ」といえば、物語性をもつ総合芸術歌の美しさに酔いしれ、音楽や物語に浸る。それは信仰のカタルシスに重なる。西洋芸術はキリスト教を基盤としてきた。ブレヒトとヴァイルは、そこで作られた「物語=社会」に依拠する劇の構造を解体する。物語に心情を同化することにより生まれるカタルシスに陶酔し、既存の社会構造への埋没を回避させるためだ。そのために、たとえば演じている歌い手が、劇の進行を中断する。歌う前に、わざわざ「これから~~の歌を歌います」みたいな感じでタイトルをコールする。既存のオペラや音楽劇での、そのようなことは行わないという了解事項に反して中断をつくることで、物語に集中し、登場人物の心情に没入する観客の意識を醒ます。たとえば現在は、民放のテレビドラマでは、CMにより物語が切断、中断されることを無意識に了解している。しかしブレヒトが促したのは、無意識の回避だといえる。

 

 そのようなブレヒト劇の音楽では、ジャズのような新しいリズムを使いながら美しい音楽を奏でていたかと思えば、突然曲調が変化したり、歌詞の内容と乖離した曲調にすることで、 観客を陶酔させないようにする工夫した。しかしそれらの同化や陶酔を避けるように、制作された「三文オペラ」は物語も音楽も面白くて美しかったので、作者の意図せぬかたちで、「人気作品」になってしまった。ヴァイルによる音楽はヒットチューンとなった。ブレヒトはその理念により共感を示す、 作曲家ハンス・アイスラーと新たにタッグを組む。彼らは「教育(教材)劇」と称し、プロレタリアート、すなわち都市労働者によるプロレタリアートのためのマルクス主義的演劇の創作を試みる。

 

 キリスト教以前の古代ギリシアの円形劇場でおこなわれた市民演劇の構造も参考にして、職業的な役者や歌手ではなく、一般市民、工場労働者や学生がコロス(コーラス隊)が対話するように歌いながら劇が進行することを想定した。歌詞は問答を誘発するようになっており、まるで考えるための教材にようなので、「教材」劇と呼んだ。その答えは書かれていないが、マルクス主義的方向性に導くような問答(脚本)はつくられている。

 

2013年、ベルリナーアンサンブルの小ホールで行われていた、ブレヒト「亡命者との対話」(戯曲ではない)。ブレヒトらしく、最小限の舞台セット。観客は高齢者中心で、数は寂しい。
2013年、ベルリナーアンサンブルの小ホールで行われていた、ブレヒト「亡命者との対話」(戯曲ではない)。ブレヒトらしく、最小限の舞台セット。観客は高齢者中心で、数は寂しい。

 わたしがアイスラーの方法を意識して、作曲したことのある教育劇の「例外と原則」はこのようなストーリーだ。

 

 商人が、石油発掘の利権を獲得をいちはやく得ることを目的に、苦力(クーリ=人足)と案内人を雇って旅に出る。そのために、警察の保護のない砂漠の道無き道を進むことにした。商人は、過酷な労働を強いられる苦力に同情的な案内人を解雇する。苦力の肉体的疲労は重なり、不満を口にすることもあるが、摩耗して我慢するだけで反抗的ではない。商人は、案内人を解雇することで、旅の危険は増して行くが 、苦力に入れ知恵を与えられるリスクの回避を優先した。豪雨で水かさの増した川を渡ることを命じられた苦力は腕を骨折する。商人は、苦力の反抗心がおきぬよう、なんとかだましだまし旅を続ける。

 

 あるとき苦力は、自分の水筒を隠しておきながら水がないと商人が嘆くのを聞き、案内人がひそかに渡してくれた水筒を善意でさしだす。しかし、猜疑心が強まっている商人は、水筒ではなく石で自分に殴り掛かろうとしていると勘違いして、射殺してしまう。苦力の妻は裁判を起こす。

 

 裁判官は、商人は苦力に非道な重労働を苦力に強い、ひどい目にあわせていることに対して自覚的であり、その相手から、恨まれて復讐される可能性を考えることのほうが、当たり前の「原則」として重んじた。「まさか」虐めている苦力から水をもらうという「例外」を善意として受ける判断をできる状況ではなかった、とした。よって「原則」に従い、銃殺は正当防衛とみなして、商人に「無罪」を言いわたした。

 

 通常のドラマツルギーでは観客の共感は、虐げられた、可哀想な苦力のほうにあるはずに向けられる。ゆえに「例外」を正義の結末として待ち望む。しかしブレヒトはそうしない。現実的な社会の構造を提示した上で、それを心情的な無意識的な共感がで終わらせては、社会の変革(プロレタリア革命)は達成しないと考えているためだ。

ハンス・アイスラー(1898~1962)
ハンス・アイスラー(1898~1962)

  実際の作曲はたとえばこうして試みた。

 

 苦力が川を渡る場面の歌詞に作曲するときは、従来の歌劇なら、危険な川を渡る苦力の恐怖心などの心理描写をなるべくリアルに再現する、しかし、心理描写は音楽に表さず。むしろその状況自体を描く。具体的には、じょじょに切迫する心理の流れを表す隣接する音によるフレーズを避けて、機械運動のような、5度とオクターブに跳躍する不自然なメロディを繰り返す。叙情的な歌謡性とは異なる、まるで祝詞のような不自然な旋律により、観客に安易な共感を促すような歌唱も避ける。

 

 あるいは、裁判官による判決文を冷酷に読む場面では反対に、本来は毅然とした口調で読まれるはずの判決文に、逆に叙情的なメロディをつけて違和感をつくる。これは非情ともいえる判決を納得させるためのまやかしでもある。女性の役者が演じた裁判官が切々と歌う。伴奏は、聖歌のような荘厳な和声を用いて演奏された。

 

 こういう歌の作り方は、、自然発生的とは言えず、素直さを意図的に排し 、おおくの意図や効果を予測した「人工的な歌」だと思う。人間の暮らしや社会の現実をよくとらえ、そこに生きる人々の心はどのようなものか、そして、現実に泣き寝入りしたり、諦めないでよりよく生きるための手段であるともいえる。 

現在のベルリナーアンサンブル
現在のベルリナーアンサンブル

 「叙情詩にむかない時代」(翻訳 野村修)

 

むろん知っている、幸福な者だけが

ひとに好かれる。かれの声は

耳ざわりがいい。かれの顔はきれいだ。

庭の畸形の木は

土壌のわるさを語る、しかし

通りすがりのひとは木をそしる、不具と。

しかたがない。

みどりの小船や海峡ののどかな帆を

ぼくは見ぬ。ぼくが見るのは

漁師たちのぼろぼろの漁網だけだ

なぜ、ぼくが語るのはただ

四十代で腰のまがる、土地をもたぬ農婦のことなのか?

少女たちの乳房は

むかしのようにあたたかいのに

ぼくの詩に韻が添えば、それは うわっ調子とさえぼくに思えてくる

ぼくの内部であらそうものは

花ざかりのリンゴの木への陶酔と

あの塗りたくり屋の演説への憤激と。

だが、第二のものだけが

すぐさまぼくにペンをとらせる。

 

ベルリンの朝焼け。しだれ柳。
ベルリンの朝焼け。しだれ柳。

 ブレヒトは「第二」のものだけがペンをとらせるといっている。「第一」とは叙情詩で歌われる心のことをさすだろう。「あの塗りたくり屋の演説」とはアドルフ・ヒトラーをさす。

 ホロコーストでユダヤ人は虐殺され、社会学者テオドール・アドルノは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」(「文化批判と社会」)と言った。

 

 この有名な言葉は多義的な解釈が可能だが、このようにも考えられる。詩(近代詩)という文化をヨーロッパが生んだ。その西洋近代がアウシュビッツという野蛮を生み出したのなら、もはや詩を書くという行為も野蛮に過ぎない。ブレヒトはアウシュビッツ以前に「花ざかりのリンゴの木への陶酔」=叙情と「塗りたくり屋の演説への憤激」との間で葛藤しつつ、すでに詩を歌うことはできない時代だと言ってる。近代化は、一人の人間の哀しみや美しさへの溜め息のような叙情も許さない。

 

 教育劇への試みがつづくなか、ナチが誕生し第二次大戦を迎え、ブレヒトとアイスラーはアメリカに亡命する。「赤狩り」の難を切り抜けて、帰国し、西ではなく東ドイツで活動。作曲家アイスラーも一貫してその理論で音楽をつくったといえる。非科学的な祈りでも、感情的な反抗でもない歌や音楽を作った。しかし、彼らの理想のプロセスである社会主義国家、東ドイツの硬直的な状況のなかで、彼らの方法は時代や社会に対するアクチュアリティを失った。演劇が劇的であることを嫌ったブレヒトの作品は、その理論を洗練させつつ劇的な「成熟」へと向かうほかなかった。むしろその演劇理論は、西側における反体制的な現代演劇に影響を与えた。

 

 音楽が、不自然なものであったり、手段や効果として音楽を利用することに異議があることは私も承知している。人智を超越したところ、たとえば神々や自然の恩寵として音楽があるのならば、その通りだろう。せいぜい私にいえるのは、彼らの「科学的」ともいえる言葉や音楽や方法はひじょうに人間的であり、またそのような人間的行為の一つに過ぎないということである。つまり、そのようなユーモア(人間性)や美しさにみちた音楽であるということだ。

 


9 ドイツ 都会のハクビシン

 

 ある夏の夜、新宿でコンサートが終わり、コントラバスをかかえて新大久保の駅ヘ向かう途中、人通りを避けるために職安通と大久保通りを結ぶ裏路地に入った。すると人だかりが眼に入り、近づくとみな上の方を見ていた。小動物が2頭、電柱の一番上で降りられなくなって右往左往していた。夜行性のハクビシンが、迷い込んだ明るい街からさらに暗さをもとめて、この路地に誘われたのだろうか。私もみなも、歩みも思考も停止して、電線に絡まって降りられなくなった、闖入者をみつめて立ちすくみ、時を止めた。小動物の挙動にを自らに重ね、外側から自らを、人間を眺めているようにもみえた。まるで小動物の眼になった私は、夏の夜闇に溶けてそうになったが、ふと、また時間が動き出して人間になった私は、極彩に輝く街の方へと吸い込まれる。路地をぬければコリアンタウン。瞬間の異邦人。ほんの10分ていどの不可思議な体感だったが、駅に到着し、いつものように巨大な甲虫のようなコントラバスを背負って混んだ電車に乗り込んだ。街の中でこんな感覚になったのは、ベルリンでの出来事と、その帰り一冊の本を読んで、そう間もなかったからだろう。

 

 そのときの私のベルリン滞在の始まりは、奇しくも到着翌朝の動物園訪問だった。到着した夜、振り付家のアイディン・テキャルに、その翌日から始まる創作稽古の参考にそこに行くように命じられた。ひたすら動物たちの動きを観察せよ、とのことだった。初めてのベルリンで、最初に訪れるのが動物園とは思いもよらなかったが、しかたなく一人で行くことなった。肌寒い平日の午前、雨足が強まってき て、冷たい雨をさけるように入った結局屋内の霊長目の館と、その地下にある照明を落とした夜行性動物のコーナーだった。

 

 「アントワープの夜行獣館でどんな動物を見たのか、はっきりと思い出せない。今くっきりと脳裡にやきついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。私はその洗い熊を長いあいだ見つめていた。真剣な面持ちで小さな川のほとりにうずくまり、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗い続けることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずり込まれた、このまやかしの間違った世界から逃げ出せるとでも思っているかのようだった。(中略)

 

「そのほか夜行獣館の動物については、何匹かがはっとするほど大きな眼をし、射るような眼差しを投げていたことだけが記憶にとどまっている。(中略)

 

「もうひとつ脳裡をよぎったのは、観客が去って園が閉まった後、本当の夜がはじまりをつげたときに、この夜行獣館の住民のために電燈は灯されるのだろうか、それならこのさかしまの小宇宙にも昼が来て、彼らもいくらかなれ心穏やかに眠りにつけるだろうに、ということだったと思う。」(「改訳 アウステルリッツ」W・G・ゼー バルト 鈴木仁子 翻訳 白水社 ) 

 

 帰国後の仕事のために帰りの飛行機のなかで読んだ、W・G・ゼーバルトの「アウステルリッツ」(2001)は偶然にも、このように動物園の夜行性動物を集めた館についての叙述から始まっていた。

 

 建築史家、アウステルリッツの「個人」と「歴史」を重ねた、過去の記憶への夢幻のような旅の彷徨は、環を閉じることのない螺旋階段を歩き続けるごとくだ。そこで語り手である「私」という現在はいつまでも語られることはない。ただ建築物に死者の記憶を求め、黄昏と薄明のなかで、まだ時の影を彷徨う死者たちに同化する。読んでいて、軀が鎮まってゆくような安堵を感じ始めた。読み進めると、モノクロ写真が随所に挟まれるこの小説は、ユダヤ人であるアウステルリッツが強制収容所で死をむかえたであろう実の父母の痕跡を探すというストーリーが背景にある、ということがようやくわかった。アウステルリッツはユダヤ人の思想家ヴァルター・ ベンヤミンがモデルであるともいわれている。ヨーロッパを彷徨いながら、あらゆる建築物のなかに、死者たちの幻影をみる。亡き父母の影を求める。

 

 随所にさまざまな「詩篇」が登場する。たとえば旧約聖書ユダヤ予言者エレミヤの「哀歌」。ヘブライ語で書かれたこの書は、キリスト以後、新約聖書以後のキリスト教の解釈として伝わってゆくエルサレム神殿の破壊に対する嘆きの歌だ。最後の歌は民の祈りになっている。エレミヤ哀歌はたくさんの音楽にもな っていて、フランスの作曲家フランソワ・クープランの「ルソン・ド・テネブル」はそのラテン語訳だ。訳すると「暗闇のレッスン」。未明に聖堂で蝋燭を消しながら暗闇のなかで祈祷するカトリックの儀式だ。ユダヤ人の詩人パウル・ツェランは「テネブレ」という詩の中で。「主よ、祈りなさい」といっている。主が、祈るのだ。

 

 書物も写真も、建築物も草木も楽譜も死者も、それ自体は音を発し、声をあげることはない。「アウステルリッツ」や沈黙の詩人ツェランの詩からあらためてそれを想い、沈黙のなかに「歌」を求めてみたくなった。ある時期、ダンサーヤ学生たちと、ずいぶんと「アウステルリッツ」をモチーフに作品を作った。

 

 そんな創作時期が2、3年続いたあと、いつのまにユーラシアンオペラの創作へと活動の主軸が変わり、ロシアやウクライナやトルコを往復していた。2019年には、「草原の道(トランス・ステップ・ロード)」プロジェクトを行い、カザフスタンで公演し、ロシアへと向かった。まずタタールスタン共和国の首都カザンだった。上演会場の下の階にある書店をぶらついていたとき、偶然に眼に入ったのが、「アウステルリッツ」のロシア語翻訳版だった。しばらくは、自らの身体が、小動物や死者になってしまったかのような不可思議な「あの感覚」を忘れていた。本を読めるほどにロシア語ができるわけではないが、思わず買ってしまった。共演を重ねてきたロシアやウクライナの友人たちと、いつかどこかの小さな劇場でこの「アウステルリッツ」を上演することがあるような、予感がしたからだ。

 


10 フランス 「神は豚だ」

 

 2013年3月、江戸糸操り人形座公演「マダム・エドワルダ」(大岡淳 演出)のために音楽をつくった。原作「マダム・エドワルダ」はフランスのジョルジュ・バタイユの短編ポルノ小説だ。操り人形師たちや演奏家を含むパフォーマーは、バタイユの思想のキーワードでもある「至高生」を求め、娼婦エドワルダとのセックスという「供犠」のイニシエーションを行う共同体を結社し、これを演じる。「至高生」は生産性のない消費(芸術や供犠や浪費)を徹底的に行うこと(消尽)でそこに達し、回復することができる。最後にこれらを「演じること」に挫折する、というのが大岡の演出だ。

 

 第一次世界大戦の渦中に書かれたバタイユの著述は、後に処刑されるジャンヌ・ダルグがシャルル6世を戴冠させたというこの大聖堂建築「ランスのノートルダム大聖堂」における見神体験から始まり、それはナショナリズムに結びついた。戦後、信仰と理性を崩壊させ、徹底的な無神論者に転ずる。

 私の作曲は、初期のキーワードである「低い唯物論」をとくに意識した。「低さ」とは、近代人が憎悪する、自然会の底辺に存在する俗で異形なもの。そこから創造される生の豊穣の美学を求めバタイユは放蕩した。キリスト教音楽や宗教音楽を解体、異化し脱構築化することでその再現を試みた。私自身とと服部将典のコントラバス二台でそれを演奏した。

 

 

 ・中世の短旋律の聖歌のメロディの分解。

 

 ・聖歌に付された和声進行の逆回転。

 

 ・低音部の通奏低音や執拗低音を高音に移調し、低音で即興で旋律を演奏。そのとき通常の楽器演奏で用いない部分(弓の木の部分や、コントラバスの木の部分)を用いて演奏し、ノイズや倍音を多く含ませる。

 

 ・楽器を弾きながら、足や手で他の楽器をならす。

 

 ・フランス領であったモロッコのグナワの弦楽器ゲンブリを用いた儀式音楽をイメージし、多神教世界の降霊的なオスティナート(執拗低音)の繰り返す演奏。

 

・秘密結社といわれる、薔薇十字団に属したことがある、エリック・サティ作曲の「薔薇十字団のファンファーレ」のコラール的和声を分解して演奏。

 

・12世紀の修道女であり、最古の女性作曲家ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの作曲した聖歌。

 

・カトリシズムと唯物論を融合させた同時代の作曲家である、メシアンが用いた恍惚、法悦のモード(音階) を用いて即興。

 

 音楽そのものを供儀の生け贄として捧げるように演奏し、舞台上では、終わりのない性の儀式が演じられた。

 

「存在がそこにあるのは、ただ・・・・『分らない』ため。だが、神は?これをどう説明するのか、雄弁家諸氏よ、信心家諸氏よ?__すくなくとも、神は分っているのか?『分っている』というのなら、神は豚だ」(中条省平 訳)

 

 かりそめの共同体としての「演劇」空間で、演者(と人形)は疲れ果てて、この「供犠」を中断し、眠る。

 

「続ける?」

 

との問いを残したまま、幕を閉じる(閉じない)。

 


11 ヨーロッパ最古の民族バスク

キルメン・ウリベさん(左上)、訳者の金子奈美さん(中央)たちと
キルメン・ウリベさん(左上)、訳者の金子奈美さん(中央)たちと

 

 2015年に来日した、バスク人の小説家キルメン・ウリベの「橋の中間で」という詩に曲をつけた。バスクの少女がスペイン内戦下の1937年。パブロ・ピカソに描かれたゲルニカ爆撃の直後、約二万人のバスクの子供たちがベルギーへ疎開したところから始まる、「ムシェ 小さな英雄の物語」(白水社)の出版記念で来日していた。

 

アルティバイ川に架かる橋 欄干に両腕をあずける

鷺がとまるのは、木造の 古い船の残骸

それは戦後放置された 見せしめとして、朽ち果てるままに

水面の落ち葉が

川を遡っていく

潮が満ちる徴(しるし) 僕のいちばん好きな瞬間だ

水はつねに同じ方向へ 流れるのではないと思うから

(翻訳 金子奈美)

 

 

 難産だったが、言葉から旋律がうまれ旋律から歌がうまれた。日本語翻訳に作曲し、ヴォーカルの三木聖香、コルネット金子雄生に演奏してもらった。会場で海外から来た作者本人に初めて会い、その日本語翻訳で歌い、それを本人に聴いてもらう。なかなかない状況でめずらしく緊張した。その後、歌手としても活動をしているウリベのバスク語とスペイン語に、、詩人の管啓次郎の朗読も加わり即興でセッションも行った。 

 

  バスクはスペイン、フランスにまたがっている。インドーヨーロッパ語系の民族がイベリア半島に登場する以前からこの地に住んでいたといわれる。スペイン側で凡そ58万人、フランス側で6万人。移民も多く、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアの独立を主導した革命家シモン・ボリバル、チェ・ゲバラ、宣教師フランシスコ・ザビエルなどがバスク人系として知られる。ヨーロッパではフィン系のハンガリー語、フィンランド語、エストニア語など以外はインドーヨーロッパ語系の言語を話している。バスク語はそれらヨーロッパのどの言語グループにも属さない、起源も謎で「孤立語」とよばれる。文法構造、単語もスペイン語をはじめと近隣のロマンス語であるフランス語、ポルトガル語とも大きく異なる。バスク人は二言語使用者だ。

 

 唯一バスクのことで知っていたのはベニャ・アチアリという男性歌手の存在だ。フランスの即興演奏家とのCDだった。民謡とインプロヴィゼーションを駆使する歌手として、トゥバ共和国の女性歌手サインホ・ナムチラクと並んで、最高峰の歌手だと思った。のちにアチアリが、チャラパルタという二本の空洞のある棒を下に向かって打ち付けながら歌っている映像をみつけた。

   チャラパルタというバスクの伝統楽器はこのように説明されていた。楽器と身体のとてもめずらしい関係だと思う。

 

「厚みのある1枚または複数枚の木板の上に木撥(きばち)を上から落として音を出す打楽器である。チャラパルタの音は半径5キロメートルの範囲に響くとされ、かつては遠隔地との通信手段に用いられたとされている。必ず二人一組となって演奏され、それぞれが長さ約10インチ、直径約1.5インチの木撥を持つ。一方の奏者が2本の木撥で基本的なリズムを奏で、もう一方の奏者が相方のリズムの合間に叩いて音を出す。それぞれの奏者が叩く部位が重なることはなく、2人の奏者が同時に叩くことはない。」(Wikipedia)

OCORAという民俗音楽を手がけるフランスそ素晴らしいレーベルより発売された、素晴らしい歌唱が聴ける作品。演奏も自由に絡み合いそこから唄が立上がる。
OCORAという民俗音楽を手がけるフランスそ素晴らしいレーベルより発売された、素晴らしい歌唱が聴ける作品。演奏も自由に絡み合いそこから唄が立上がる。

 

学生の頃、民族音楽とアヴァンギャルド音楽に別々に興味をもっていたが、そういう音楽が同居したり横断できるものだと知ったのは、サインホとアチアリをCDで聴いたときが初めてだった。トゥバ語、バスク語というマイノリティの言語をで民謡を歌う歌手が、即興演奏という表現手段をもつのには、単なる声の表現の拡張や、表現の現代性を求めることとは違うなにかがあるように思う。

 

 サインホとはその20年後に実際に出会い、幸運にも共演を重ねている。わたしのユーラシアンオペラのソリストはそのサインホはじめ、ほかのユーラシア出身の歌手、三木聖香、とすべて女性である。私の創作の重要なテーマじたいが、女性という存在や、即興性にあるため、そうなってしまう。必然的に多くの女性歌手の存在に恵まれてきた。しかし私は生涯でたった一人の男性歌手を探し求めているのかもしれない。そのときいつもイメージするのがバスクの歌手、ベニャ・アチアリだ。

 


左たぶんマナ右たぶんカナ
左たぶんマナ右たぶんカナ

クイズの答え

左がジャーマン(ドイツ弓)右がフレンチ(フランス弓)

なので答えは

右です。