「山椒大夫」夢の歌 カザフスタンへの旅

「さんしょうだゆうinカザフスタン」のポスター。安寿入水のシーン。
「さんしょうだゆうinカザフスタン」のポスター。安寿入水のシーン。

 

 

草原の道日記 カザフスタン 2019

  

 ①カザフスタン「さんしょうだゆう」篇

 

1 アルマティへ 

2 高麗人 コリョサラムの唄(タルディコルガン)

3 高麗人(コリョサラム)の丘で (ウシトベ)

4 二種類のコブス カザフ・シャマニズムの弦楽器

5 DUET 奇跡の詩

6  カザフスタンの若手女子弦楽四重奏団 

7 遊牧の国で馬と対話する

8 踊る遊牧民の末裔たち

9 オプティミズム 伝説のサイケロック歌手エゴール・レートフ  

10 ペシミズム 失語 詩人石原吉郎

11 吉郎と清志郎 

12 安寿の失語 ダウン症のアーチストとともに

13 ソビエト・ロックの英雄ヴィクトル・ツォイ 戦争

14「歌はあなたのために世界の扉を開きます」(アバイ・クナンバイウル

 

  

1 アルマティへ

3/3 

 

 寝坊して国際線の飛行機に乗り遅れるという人生初の失態があったが、夜遅く、カザフスタンの古都アルマティに到着。ここまで長い間やりとりを重ねてきたケイト・ズボニックと初対面。音楽詩劇研究所のユーラシアンオペラの二作目「さんしょうだゆう」初演の上演会場となる劇場の振付家、演出家だ。今回は彼女が、演出助手、舞台監督、そしてコラボレーションする予定のダウン症、自閉症の方々のパフォーマンスグループのディレクターを兼ねる。年齢は30代前半、カザフスタン人ではなく、ロシア人でユダヤ系だときいた。アメリカにコンテンポラリーダンスの習得のため留学していた時期もあり、英語も堪能である。

 

 この国がどのくらいロシア、ソビエト的なのか、あるいはアジア、イスラム的なのか、いろいろと想像していたが、暗い夜で街の様子がよくわからない。車の窓から見られる看板や案内板などの文字はロシアのキリル文字がほとんどだが、いくぶんそれとは違う読み方をさせるローマ字表記もある。暗い街並の中に唐突にこうこうと光を放つ一画があった。立ち並ぶ大型カジノ店のようだ。日本でいえば国道沿いの大型パチンコ店のようだが中が見えないので、よりいかがわしい。都会の賑わいを感じなかったのは、中心街的なところを通らずに宿泊地である郊外の丘の上の「乗馬クラブ」付近まで着いてしまったせいだろうか。市街の夜景を見渡せる見晴らしの良いこの丘の上では、カップルが夜な夜な訪れて車の中で愛し合い、それを囃し立てるように若者たちが騒がしくすることもあるそうだ。真っ暗闇の中、番犬の吠え声を合図に門が開かれ、宿舎であるホースクラブに到着し、ようやく荷を下ろした。先に到着していたロシア勢、モスクワから来たセルゲイ・レートフ、ペテルブルグから来たアリーナ・ミハイロヴァ、前年の2018年東京での「Continental Isolation」に引き続き参加してくれたイルクーツクから来たマリーヤ・コールニヴァとの再会。同じロシア出身とはいえ、出身地、年代も違い、それぞれの共演も初とのこと。厩舎のすぐそばにある二階建ての小さな宿舎での、一週間ほどの共同生活が始まる。

タルディコルガンへ向かう途中の人造湖。タルコフスキーの映画のような風景。
タルディコルガンへ向かう途中の人造湖。タルコフスキーの映画のような風景。

 

 ミハイロヴァのダンスは、コンテンポラリーダンス、舞踏、伝統舞踊、いずれも感じさせない名付けようもないニュートラルなものだ。即興的な表現と自らのルーツである古謡や民謡とをしなやかに往来する、これまでユーラシアンオペラで積極的に共演してきた歌手たちのスタイルとも違い、さらに抽象的である。

 

 そんな彼女の出自にまつわる繊細な部分に触れる作品に参加してもらうために、私なりに慎重にメッセージのやり取りを重ねてきたつもりだ。それは二日後に音楽詩劇研究所のメンバーとともに東京を発つ、長年の友であり、在日韓国人であるチェ・ジェチョルとも同じことだ。

 

 翌日は撮影の三行英登を中心にミハイロヴァとともに、1937年に極東ロシアから強制移住された高麗人の人々が降り立ったウシトベに向かう。彼女の祖父母や当時赤ん坊だった母も、鉄道に乗せられこの地の広野の丘に放り出された。二十歳そこそこの通訳者のイリアさん(彼も高麗人で、日本と韓国へ留学し、日本語と韓国語が堪能だ)も同行し、アルマティから車で4時間、そこにいまも暮らす人々にインタビューを行う。

 

 しかしひじょうに残念なことに私はその重要な撮影には不参加の予定だ。弦楽四重奏曲の練習に立ち会わなければならない。ミハイロヴァが演じる安寿と厨子王二人の子供とはなればなれになった孤独な盲目の「母」が子らを探し求める孤独な旅路での音体験(アイヌ、ニブフ、韓国、ロシア、カザフ、チェチェンの歌声、音楽)、それらが反響し合っておりなす母の心象風景をイメージして作曲した。演奏者は、急遽、まだ経験の少ないカザフスタンの若手のカルテットと決まったため、難曲をひきこなしてもらえるかは大きな不安要素であり未知数だ。だから確保されている貴重な練習日を逃すわけにはいかなかった。

 


2 高麗人 コリョサラムの唄(タルディコルガン)

このアパートの中にお宅があった。
このアパートの中にお宅があった。

 

3/4

 

 朝になって、「弦楽四重奏は今日は来ない、明日から稽古に参加します」とズボニックから連絡があり、不安は増した。しかしその代わりに、私も撮影に参加できることになった。三行英登が車中からカメラを回しながら、まずタルディコルガンという街へ向かう。

 

 剝き出しの自然を高速道路がぶち抜いてゆく。溶けはじめた雪と剥き出されつつある茶色い大地。車の中で今回の創作でいろいろと参考にさせてもらった、作家の姜信子の文章とウズベキスタンの高麗人の写真家ヴィクトル・アンによる「流離の高麗人」(2002年 石風社)の写真をミハイロヴァとみたり、途中湖に立ち寄ったりしながら、アルマティから3時間。まずタルディコルガンの街に着いた。階段を登る入り口のところで、カザフスタンの弦楽器のドンブラを背負った少年とすれ違った。

 

 玄関先で3人の老婆が迎えてくれた。お二人は日本のコリアンタウンで見かけるような韓国のおば(あ)ちゃんそのもの顔立ち。もう一方はお隣に住むカザフスタン人とのこと。ずっとみんな助け合って生きてきた、と家主は言った。高麗人が多く居を構えた極東ロシアの遠東(ウスリースク)の街から1937年に強制移送され、幼年時代からカザフスタンに暮らしている。会話は韓国語でもカザフスタン語でもなくロシア語だ。ソ連崩壊後のスタン系各国では、それぞれの地の主幹をなす民族の言語や文化が推奨された。他地域から移住したロシア語話者はじょじょに生活が難しくなり、ロシアや先祖の地、韓国へと移住するケースも多かったという。

 

 彼女たちが受けた教育は当然ロシア語であるから、なかなか古い記憶を辿って韓国の歌を思い出してもらうことが難しい。地元の韓国人協会のような集まりがあり、そこで伝統的な舞踊や歌を楽しんでいるという。歌詞カードを見ながら「アリラン」などを歌ってくださった。ハングルではなくキリル文字で書かれていた。歌詞の意味はわからないところも多いそうだ。

 

  移送された当初はカザフ人との諍いも絶えなかったらしい。そこに住む貧しいカザフ人にとっても予期せぬ移住者は歓迎すべき存在とはいえなかったのだろう。その後さらに、チェチェン、ウクライナ、ユダヤ、ヴォルガ・ドイツ人も移送されてきた。五カ年計画で課されている作物には向かない不毛の地では、容易に他民族を受け入れることが難しい。高麗人はいじめられ、カザフ人に小石を投げつけられたそうだ。石は白い乳製品だった。さらに貧しい高麗人の栄養を案じたカザフ人が、小石に偽装して投げ入れたのだという。カザフスタン人とは年寄りを尊重することや共同体での助け合いの意識が朝鮮人と共通しているから共に暮らせたのだ、と老婆たちはうなづき合った。暮らしは大変だったが、歳をとった現在が一番楽だとおっしゃった。

 

 翌日アルマティに合流するチェから借りた農楽やシャーマンの巫覡で使う銅鑼(チン)を持参し、おひとりずつに叩いたり鳴らしたりしてもらった。はじめて触るのか持ち方を知らないようで、私が介助した。同席したカザフスタン人の老婆も、カザフ族の子守唄を歌ってくださった。

 

 姜信子の「流離の高麗人」の通奏低音として響く「天然の美(美しき天然)」(田中穂積作曲、武島羽衣作詞 1902年)の旋律もおぼろげながら覚えているという。高麗人が故国の自然や友に思いを馳せて歌詞を変えて歌った「故国山川」だ。インタビューの終わりにお願いされ、私たちが日本語で歌った。この曲は日本ではじめてつくられた三拍子の曲といわれる。韓国の民俗音楽では三拍子系のリズムが多いので、馴染んだのだろうか。日本ではのちにサーカスジンタ、チンドン屋さんが好んで演奏するようになり、今でこそ懐かしい日本的な哀調として感じられるが、当時の人々ににとって、このリズムの上で歌われる旋律が、いかに「エキゾチック」だったであろう。

 

 この典型的なソ連式のアパートの一室には、さまざまな宗教的慣習や民族の春がいりまじっていた。部屋を見回すと、チョゴリを着た家族写真や、カザフスタン人の多くが信仰するイスラム教の春祭「ナウルズ」を祝う日を知らせるカレンダー。この時節はロシアでキリスト教の受容以前古くから伝わるスラブの春の大祭「マースレニッツァ」にあたる。その象徴である太陽をあらわす丸いクレープのようなブリヌィ、カザフスタンの肉料理や蜂蜜をが小さな食卓に並び、御馳走になった。

 


3 高麗人(コリョサラム)の丘で (ウシトベ)

インタビューを受け入れてくださったお宅
インタビューを受け入れてくださったお宅

 

 

 そこから車で一時間ほどで、次のインタビュー先のお宅があるウシトベに到着。アパートが立ち並んだタルディコルガンとはちがい、古びた平屋がぽつんぽつんと並ぶ集落だった。撮影をコーディネートした三行によると、取材を受諾いただくための下交渉の段階で、現在の平穏な生活があるので過去のことはあまりふりかえりたくない、と断られてしまうところが多かったそうだ。家の主の老年のご夫婦と、近所に住む同年の高麗人協会の会長さんという方が応じてくださる。

 

 インタビューを受けるのならこれを着なくてはと、80歳を超える老夫婦はソ連時代に受けた勲章がたくさんついた正装の上着に着替えた。挨拶を交わしたあと、タルディコルガンの気さくだった三老婆たちとは異なり、やや硬い雰囲気で撮影が始まった。夫はパーキンソン病を患っているのか、手や身体が常に震えており、横でご夫人が支えている。

 

 語られる歴史はタルディコルガンの老婆たちと共通し、それをご自身たちの道程も交え方ってくださる。苦労の絶えぬ暮らしのなかに、もし余暇があったのならばそういうお話や、酒の話し、恋の話し、子供時代など、ひととおりの歴史では語られない個人史のなかから、歌や音楽についてもお伺お聞きしたかった。警戒心もあるのだろうか、なかなかそうならない。

 

 話が進んで雰囲気が少しずつ和らいでゆくと、ようやく歌の話も出てきた。教師だったご夫人は、若い頃ペテルブルグの教育大学で学ぶことを夢見たが、高麗人という理由で叶わなかったそうだ。結局アルマティで学び、教師になってからは、子供たちとたくさんのソ連の歌を歌った。子供の頃に学校で習ったロシア語の歌も好んだ。会話の中でタイミングを見計らいながら尋ねても、なかなか韓国の歌はでてこなかった。大人たちが畑仕事をするときには韓国語で歌っていが、忘れてしまったそうだ。御夫人とは小学校の同級生だったという旦那さんは、結婚する前に彼女にために歌の贈り物をしたそうで、それを披露したいと言った。体の震えがとまらない老夫がかすれた声で一節歌いかけたが、あとは妻は歌が上手だからと言い、御夫人に後を託した。ロシア語の3拍子のワルツだった。

 

 勲章バッジをたくさんつけた上着を着てインタビューに応じてくれたご夫婦には愚問かもしれないと思いつつ、ソ連時代と現在のどちらが幸せなのかきいてみる。「ソ連時代です」と即答だった。ソ連の叙勲制度のことはよく知らないが、体制から存在を承認される喜びが、生の指針、生き甲斐にる。それを利用して体制は下部構造を支える民衆の心理を掌握してきたのだろう。タルディコルガンでの取材と同様、カザフスタンの人たちにほんとうに良くしてもらったという。それは実感のともなう言葉に思えたし、事実であると思う。しかしほんとうの機微を知ることはできない。タルディコルガンでもそうだったが、友好関係を強調するのには、カザフスタンの民族主義を目論む現政権による心理操作がはたらいているのかもしれない、と邪推することもできる。

 

 そんなふうに老夫婦とその友人である高麗人協会の会長さんと話しを進めていると、御夫人が席を立ちあがり隣室のダイニングへ移動しわれわれをもてなす食卓の準備をし始める。いつのまにかミハイロヴァが配膳のお手伝いしている。インタビューを続けていたわれわれも食卓へ招かれる。

 

 またマースレニッツァのブリヌィ、ピンクや緑の着色料の濃いケーキ、そして自家製キムチをいただく。水キムチに近いがはじめての味だった。途切れることなくウォッカが小さなグラスに注がれ、乾杯が繰り返される。午後の淡い陽射しの入る、質素なダイニングキッチンで食卓を囲み、なんども乾杯の挨拶を一人一人順番に繰り返すロシア式の宴。回ってきた挨拶のときミハイロヴァはこのように語り、私たちにも向けて英語で繰り返してくれた。

 

「民族的な出自と表現(アート)は別のものだと考えてきた。そうしなければ生きてゆけなかった。でもいまそれを分けて考える必要がなくなりました」

 

 言葉につまり涙をこぼし、そしてすぐに笑顔に戻った。ミハイロヴァには、このウシトベの地のどこか野外で自由に踊ってもらい、それを撮影することを事前にお願いしていた。撮影した映像を舞台で利用することも予定していた。メールでのやりとりで彼女は多くを語らずにそれを受け入れてくれていた。

 

 祖国での稲作経験を重宝された高麗人は、他の地からの移住者より優遇を受けることもあったそうだ。そんな背景もあって、メッセージをやりとりしているとき、ミハイロヴァから、ライスペーパーで創られた衣装を着て踊りたいという提案もあった。今回はペテルブルクからそれを運ぶことはできなかった。ナイーブな素材であり飛行機での移動に適さなかった。この日も、舞台でもできるだけ「衣裳らしい衣裳」を纏うことを避けているという彼女本来のスタイルとなった。

 

高麗人(コリョサラム)墓地。1937年、コリョサラム強制移住されこの場所に降り立った。サラムとは韓国語で「人」の意味。
高麗人(コリョサラム)墓地。1937年、コリョサラム強制移住されこの場所に降り立った。サラムとは韓国語で「人」の意味。

 

 そこは四方を遮るものがない荒野としかいいようのない場所だった。たくさんの牧牛がわれわれの乗った車に向かって歩み寄ってきた。雪にぬかるむ道を通り、お宅から車で10分ほどのところにそこはあった。彼女は自らが踊る場所として、、祖父母や幼子だった母を含む高麗人が強制移住されて降り立った、まさにその地を選んだ。「バストベの丘」という。入り口に記念碑があり、そこから先は墓石群を有する広大な丘が広がっている。ソ連に特有の、故人の写真が転写された墓だった。ファーストネームはロシア式、ファミリーネームは

 

Ким(キム)、Цой(ツォイ<チェ>)、Ли(リー<イ>)Пак(パク)....

 

 ミハイロヴァが荒野を歩きはじめ、自らが踊る場所を探した。撮影の三行と、舞踏の亞弥が後を追った。作品に用いるための映像だが、私はそれらを彼らにまかせた。インタビューから引き続き同行し、来歴を熱心に説明し続けけてくださる土地の高麗人協会の会長さんのお話を伺わないのは失礼にあたる。

 

 三人が丘の上の方に遠ざかって小さくなっていく。会長によるとミハイロヴァが踊ろうとしている丘は、途上多くの命を失いながら移送された高麗人が、少しでも荒野に吹きすさぶ冷たい風を防ぐためにあてがわれた場所だという。丘の側面の土を掘ってそこで暮らし始めた。墓の傍にはかつて食堂だったという窪地があり、当時の物かどうか分らないが、食器にもみえる廃物が泥と雪に無造作にまみれていた。

 

 どんな踊りを踊っているのか私のいる場所から眺めることはできないが、それで良いと思った。私は目前の墓石群の前で鎮かに韓国の銅鑼(チン)を叩いてみた。三人のところまでその音が届いたかどうかはわからない。第二次世界大戦の末期にはお寺の鐘が供出されたように、朝鮮半島からもチンや小さな銅鑼のケンガリも、金属供出のため没収されたという。同じ頃、スターリンに日本軍のスパイの容疑をかけられて、この地に強制的に移送された人々の墓前で、私が彼らの故国の銅鑼をならす。その行為を「鎮魂」といってしまうことは憚られる。私は「日本人」であることから免れることはできない。

 

 この荒野の入り口には質素な記念碑があった。カザフの遊牧民の象徴である移動式住居のユルタの形状の鉄骨でできている。両脇にはナウルズを告げる看板もあった。カザフスタン人もまたソ連、社会主義政権の文化や倫理によって従来の生活からの変革を強いられた。モニュメントは、それでもこれまで、われわれがいかに他民族に友好的だったか、ということ強調するものでもあるのだろう。

 

 撮影を終え、夕暮れの荒野を貫く高速道路をとばして帰路につく。途中サービスエリアのような場所に降りた。もうすでに空は真っ暗だったが、建物の裏手の一室にかすかな灯がともっていた。覗くと石焼釜のようなものがみえ、人の気配があった。その人影が中から手招きするので、応じて作業場のようなところに入った。

 

 そこにあったのは、タルディコルガンの高麗人の老婆たちが語ってくれた「白い小石」だ。促されるまま食べると、堅く塩辛い乳製品だった。食べ慣れぬ味だった。カザフスタンでそれはとてもポピュラーな食べ物で、ちょっと小腹がすいたときに栄養源にと口に含むそうだ。アルマティ滞在中にミハイロヴァはそれをマーケットで買い、劇場や宿でそれを食べ、みなに分け与えてくれた。

 

 彼女はパートナーの仕事の関係で昨年まで9ヶ月間、母親のルーツである韓国に暮らした。そこに母を招いて暮らす予定があることをとてもよろこんでいた。しかし自らの仕事環境と母の状況をかんがみてロシアに戻ることを選択した。母の病状も含め生活はシビアだそうだ。夜遅く、みなが二階の部屋に戻り、私が共有のリビングに一人残って余った酒を飲んでいると、ミハイロヴァが降りてきてこう言った。さっきペテルブルグに暮らす重病に苦しむ母親に電話してこの日の出来事を伝えた。ここで踊ることになった運命をなんと言い表したら良いのだろう、と涙目で言った。

 


4 二種類のコブス カザフ・シャーマニズムの弦楽器

 

 カザフスタンの音楽家たちとの初顔合わせ。シャーマンの楽器コブス奏者のグルジャン・アマンジョールも、旦那でカザフスタンを代表する作曲家の一人であるバフチャル・アマンジョールとその生徒で電子音楽の作曲家である男性を伴って劇場に現れた。

 

 私にとって、彼女が演奏するコブスが古来シャーマンが用いてきた二弦の「キル・コブス」であることは重要だった。しかし彼女が持参したのは四弦の「プリマ・コブス」という別のコブスだった。それはソ連時代に、オーケストラ(巨大組織音楽)での演奏や、西洋音楽に対応できるように改造されてポピュラーになった新しい楽器だ。小ぶりなので音も小さいが、ヴァイオリンに似て洗錬され、細く、倍音成分が少なく基音が明瞭な音色だ。

 

 多少英語でのコミュニケーションが可能だった夫のバフチャルと事前に連絡を取り合い、古楽器キル・コブスの参考音源を再三送っていた。しかしインターネットで彼女の演奏を調べているうちに、夫妻がライフワークのように、プリマ・コブスの可能性を探求しているという音源や記事もみつけ、翻訳ソフトを頼りに読んでいた。慌てて私が、今回はキル・コブスを用いることを再確認すると、そのタイミングでプリマの動画(バフチャルがカザフ族の民謡をプリマとピアノの編成で西洋音楽風に編曲したもの)が彼のSNSにあがったりして、相当な思い入れがあると事前にも感じてはいた。

 

 初顔合わせのこの日、やはり彼女たちは「プリマ」をもってきた。おそらく、再三キルを所望する私に、そのの素晴らしさと可能性をまず一度伝えたかったのだと思う。6、70歳くらいの巨体な旦那のバフチャルは作曲家であり、現代音楽、クラシック、伝統音楽の研究者でもある巨匠(それを改めて知ったのは翌年、氏の急逝を伝えるカザフスタンのメディアの扱いだった)だ。カザフスタンの伝統音楽をより普遍的なものにするためにヨーロッパの手法も用いて作曲、編曲を続けて、プリマの曲をだいぶ年下の妻、グルジャンが弾いた(秋の韓国での改作公演では、演出上男性キル・コブス奏者が必要だったために、その旨とまた機会をつくりますと伝えたとき、自分はプリマコブスの演奏家で、本来はキル・コブスは本当は演奏できないのだと謙遜し、公演の成功を祈ると丁寧な返事をいただいた)。

 

 数年前のベルリンでのプロジェクト「デデコルクト」ではじめて聴いた倍音が豊かでざらざらした音色をもつ シャーマンの古楽器キル・コブスであることを私は強く望んでいた。「さんしょうだゆう」に古来のシャーマニズムの痕跡を残したかった。シャーマンである「コルクト」がコブスをたずさえて物語を語ったように、自害した安寿をこの音色とともに山の守り神として顕現させたかったからだ。

 

 楽屋の中から、リハーサルの出番を待ちながらヴァイオリンのように複雑な旋律を練習している彼女のプリマ・コブスの流麗な音色が聴こえてくる。「外から来た者が、古いものだから良い、と安易にいわないでくれ」と言われているようにも思った。彼らの人生を踏みにじってしまうような選択をする勇気を持てず、新しい楽器であるプリマへの変更、あるいは併用の可能性を改めて検討したが、

 

「明日はキル・コブスを持ってきてください」

 

 やはりあらためてそうお願いして宿に戻る。

 

 弦楽四重奏団は少し遅れてあらわれた。予想よりもさらに若めのやや「ギャル」! さっそく演奏をお願いする。私もそうだが、作曲家にとって演奏家に楽譜を託した時と、初稽古、期待よりも緊張が勝る、なんともいえぬ心地の瞬間だ。さてしかし、演奏は数日後の本番に間に合うか、という完成度だった。今回私が書いた5曲の組曲は演奏が難しい。かなりポリフォニックにできていて、しいていえばバルトークやショスタコビッチの響きや書法にも近い20世紀初頭の「現代音楽」に近いものだ。しかし私の知る現代のクラシック音楽の演奏レヴェルとして、過度に高度な技術を要求するものではないと思う。

 

 あらかじめ楽譜は送ってあったので、練習をして準備してこなかったのかと、作曲者としては複雑な気持ちだ。その後の少ない稽古日数の中で、カルテットの稽古に多くの時間を費やさねばならぬことを想像すると、なかなか厳しい。

 

 曲は、ユーラシアンオペラ版「さんしょうだゆう」で、ミハイロヴァ演じる、我が子安寿と厨子王を求めて彷徨する母の心象風景だ。それは、途上の歌や音楽の断片が体内に乱反射するようなイメージだ。五楽章からなり、それぞれ日本、北海道(アイヌ)、サハリン(少数民族)、カザフスタン(チェチェン移民)、韓国の民謡や古謡を素材にした。

 

 素材となった歌や音楽を奏でた人々がもしそれを聴いたとしたら、あれっ、と気づくか気づかないかくらいの感じを目指して作曲した。記譜から逸脱する部分こそ、まさに民族や共同体の文化のエッセンスだ。それらを五線譜や平均率の12音の中に閉じ込めることに、ましてなんらその伝統を持たぬ他民族がそれを行うことに「葛藤」や「罪悪感」もある。さまざまな観点からそれぞれの音楽文化を断片に分解し、それらを4声のアンサンブルに振り分けながら、新たな音楽として再構築する。すると結果的にかなり複雑なポリフォニーが生じる。たしかにそれを再現することもそれほど簡単ではない。「簡単でない」ことも重要だ。人が生きるということは簡単でないからだ。わかりあい、分かち合うことも簡単ではない。しかしときに音楽はあたかも魔法にように葛藤やコミュニケーションの困難を簡単に解きほぐすこともある。とはいえ、それを期待するにもいたらぬ状況であり、前途多難が用意に予測される稽古初日となった。

 

 夜、日本から後発のメンバーが到着。チェ・ジェチョルに、ウシトベでいただいてきた高麗人の家庭のキムチを食べてもらう。さっそく味の成分を分析していた。このキムチには香菜が入っていた。コリアンディアスポラそれぞれのキムチがある。

 


5 DUET 奇跡の詩

盲目の母を演じたアリーナ・ミハイロヴァとチェ・ジェチョル
盲目の母を演じたアリーナ・ミハイロヴァとチェ・ジェチョル

 

3/6

 

 

 本日は初めて全員揃っての稽古。その前にケイト・ズボニックによる、20人ほどの自閉症とダウン症のパフォーマーの稽古を見学した。私たちも参加した。「Действие буквально」のみなさん。直訳すると「Literal Action(文字通りの行動)」、彼女が中心になって劇場で運営しているプロジェクトだ。いわゆるワークショップではなく、彼らの パフォーマンスに対して給料が支払われるようなシステムが構築されており、新聞でも画期的なこととして紹介されていた。

 

 ズボニックとは、双方の制作事情で変更につぐ変更を重ね、半年近く日々メッセージを交わしながら難所を乗り越え、今ようやくここにいる。声すら聞いたこともなかったのに、すでに親友のような気持ちだった。そんな彼女とのコラボレーションとして、現在彼女が最も力を入れ、この劇場で運営している彼らとの共演の実現を模索する。

 

 「さんしょうだゆう」のなかで、彼らに何を演じてもらうか。それぞれの個性からいかにアンサンブルが成立するか、演出や指示が入るとどのような変化が生まれるのか。その傾向をつかむために、まず彼らとズボニックの見学し、トレーニングにも加わった。

 

 午後は、集中力に限度のある彼らを除く全体の通し稽古。弦楽四重奏のリハーサルに苦心する私と演奏家たちのことをみてきたズボニックから、もっと上手く弾ける奏者をあらたに探して紹介するとの申し出があり、選択を迫られる。正直迷ったが、彼女たちに演奏してもらうことは、おおげさかもいれないが私の人生だと思った。「弾けない」というところから新しい音楽が生まれる可能性を待てばよいのだ。もともとさまざまな歌の断片が響き合っているような曲だ。それを再現しようともっとバラバラになってゆくのも自然な成り行きかもしれない。このまま彼女たちで行くと伝える。しかしやはり英語でのコミュニケーションもお互いスムーズではない。

 

 この日もだまって私とカルテットとの練習を見ていたバフチャール・アマンジョールが、一息入れている私に一言ことわってから、突如彼女たちの前に立った。大きな身ぶりで指揮をしながら、具体的で明確なアドヴァイスをロシア語で与えている。何を伝えているのかわからないが、嬉しい。彼にも参考のため楽譜を渡してはいたが、おそらくは初見である。圧巻!おかげで、サウンドがひきしまってぐっと前に進んだ。私は幸運にも、自ら楽譜に書いた音符が音楽になる瞬間をすこし外から見ることができた。前途多難とはいえだいぶ先が見えた。

 

 この短期間の稽古で、テーマやプロットが折り重なる作品を成立させることはなかなか難い。そのなかで、創作の鍵になるのが、ともに家族のルーツを朝鮮半島にもつ、ロシアのアリーナ・ミハイロヴァと、在日韓国人の韓国打楽器奏者、チェ・ジェチョルのカザフスタンでの邂逅だ。しかし日本から韓国、アジアへと視野を広げながら伝統芸能の現在と肌で触れ合うことをつねに意識して活動するチェと、ルーツや伝統には一定以上の距離を置くミハイロヴァは、創作における民族的出自への関わり方はずいぶん異なる。

 

 作品中、二人だけの場面をワンシーン作った。私は彼らの出会いのドキュメントのリアリティを重視して、本番での即興に賭けた。私は彼らそれぞれにそれほどに信頼を置いている。だから特にリハーサルは必要ありませんと伝えていた。事前に練習しても良いが、全体のリハーサルの中でもその場面はやらずに飛ばしても良いと、あらためてお願いし、二人とも承知した。しかしこの日に行った初の通し稽古でその場面を目撃することになった。

 

 音慣らし、体慣らしのように見えた二人のセッションはそれに留まることがなかった。ミハイロヴァがこれほど軽やかに跳躍したのをこれまで見たことがなかった。彼女は民族舞踊も、バレェの技巧的な跳躍も遠ざけて、自らのダンスを追い求めてきた。共演歴のある音楽家も、彼女のダンスと同様な傾向をもつ即興演奏家が多い。チェの躍動感のある踊りとともにある太鼓(チャング)によって奏でられる韓国のビートをつかまえ、徐々に熱をおびてゆく。しかしあらゆる民族舞踊とも異なっている。彼女の踊りはどこにもない踊りだった。

 

 音楽詩劇研究所の作品では架空の民謡を作ることがテーマだった。つまりどこにもない民謡である。どこにもない想像の民族舞踊、この踊りがまさにそれではないかと感じた。そう伝えると、彼女もほんとうにそのとおりだったと思う、と言った。

 

 この空間ので踊る二人の、そこに立ち会った人々の、心の、肉体の震えを言葉では書きえない。その振動が声になる時、それを歌というのだろうか。

 


6 カザフスタンの若手女子弦楽四重奏団と

日々続く弦楽四重奏との稽古
日々続く弦楽四重奏との稽古

 

3/7

 

 翌3月8日は「国際女性デー」であり金曜日だが休日だった。ロシアではその日は1917年の2月(旧暦)革命で女性労働者が蜂起した日である。政治性は薄れたが、ソ連時代から大きな祝日として祝われている。その慣習が残るカザフスタンでも花束が街中に溢れる。そこで明日の祝日は、私たちの上演のスポンサーの一つであるホースクラブでぜひイベントを、ということになった。そのために本日が最終稽古となる。

 

 少ない稽古時間の多くを、四重奏との練習に割く。苦しそうな顔で弾いている彼女たちをみると、こんな複雑な曲を弾いてもらうのも申し訳ない気持ちにさえなってくる 。ほかの演者や演奏家のみなさんを待たせることも気がかりだった。曲が成立しない事態を前提に代案もいくつか考えた。徹夜で簡易にアレンジしなおして、私も加わってコントラバスでチェロパートを弾くことも考えた。

 

 キャリアを積んだアンサンブルだったら、二、三回のディレクションで後は本番だったかもしれない。でも日々一緒に練習することで、作曲した私自身がそもそも大事にしたかった部分や意味があらためて見えてきた。弦楽四重奏もようやく少しずつ形になってきた。第一ヴァイオリンは若手のホープとして活躍しておりプライドも高そうだった。しかしわれわれのために用意されたケータリングの食事を、稽古中の暗闇のなかで「盗み食い」し、ピザをほうばっている姿を偶然に発見した時は心の中で大笑いだった。いいね!!

 

 第二ヴァイオリンはギャルの中では、真面目風で大人しそうで繊細な感じだった。練習していると、どんどん縮こまり、こわばった表情になって行く彼女たちだが、それが最も顕著なのが彼女だ。私は、ずれてもよいのでひとりひとりの旋律をもう少し楽しんで弾いてみてください、などと言ってみた。しかし彼女は「ほんとうに申し訳ありません、こんなに下手で、私たちは「恥じ」です」とおぼつかない英語でいい、さらにうなだれるのだった。アニメ動画の影響でほんの少し日本語の単語も知っていた。稽古が終わるとロビーに置かれた小さなアップライトピアノの前に座り、控えめにショパンやラフマニノフを練習していた。

 

 ヴィオラ奏者は高麗人だった。韓国語も少しできるのか、作品のなかでヴォーカルのマリーヤ・コールニヴァが声にする「済州島」の「Jeju (済州)」という発音にいつもつっこみをいれていた。たしかにロシア語にも日本語にもない発音の難しい音だ。彼女は身体全体で歌うようにビオラを弾いた。すこしずつ曲を捉え、作品自体を理解する余裕が生まれてくると、彼女がコンサートミストレスのような存在になっていった。重訳になるので時間はかかるが、ヴィオラ奏者と第二ヴァイオリン奏者の二人が私の英語によるサジェスチョンをロシア語に訳してくれて、ほかの二人に伝えている。

 

 最も苦労したのはチェロ奏者だ。実はチェロに転向して間もないとのことで、痛々しいほどだった。チラシでは別の方の名前があったので、何らかの事情で急に代役を任されたのかもしれない。私の曲は各パートがかなり独立した複雑なポリフォニーでできているが、それでも低音で全体を支えるのはチェロだ。アンサンブルの骨格をつかむために他の奏者は主にチェロを頼りにする。それが心もとないと他の奏者は目印を失い、曲は崩壊してゆく。言葉で伝えられないので彼女の脇に座って、コントラバスで例を示しながら練習した。苦しいのは彼女自身だろう。みんなや私のそういう空気を感じながら弾くのは、辛かったと思う。

 

 しかし少なくとも私の前では誰も彼女に文句をいわなかった。だって初めてだからしょうがないじゃんと開き直っているかもしれないし、何よあの曲、とあとでみんなで作曲者の私を罵り合っているかもしれない。もしそうならば、こちらも本気で向き合わなければ、その気持ちは変わらない。よくいわれるようにアンサンブルとはまさに社会の縮図でもある。そしてそれぞれの個性が愛おしくなっていく。

 

コブス奏者グルジャン・アマンジョールと弦楽四重奏と三浦宏予
コブス奏者グルジャン・アマンジョールと弦楽四重奏と三浦宏予
私の右にいる人物が、暗闇でピザを食べていたファーストヴァイオリン
私の右にいる人物が、暗闇でピザを食べていたファーストヴァイオリン

7 踊る遊牧民の末裔たち

わたしたちの公演を支えた振付家ケイト・ズドヴォニク(カーチャ)はDJの電源を無言で奪った。さすがである。
わたしたちの公演を支えた振付家ケイト・ズドヴォニク(カーチャ)はDJの電源を無言で奪った。さすがである。

 

 杏の木をくりぬいてつくられるコブスは垂直に構える弓奏の擦弦楽器だ。それを奏でる弓を持つ右手は水平の運動。弦を押さえ旋律を奏でる左手は垂直運動。地面に垂直に立てかけた楽器を弾く身体は、リズムや響きが生む躍動ではなく、時を止めて瞑想したり交信したりするような「祈り」の身体だ。

 

 歯切れ良くリズムを奏でる撥弦の伝統楽器ドンブラも用いたらどうか、と作曲家のバフチャル・アマンジョールが提案してくださった。しかし今回はシャーマニズムとの関連が深い擦弦楽器の(キル)コブスのみでこの作品を作ることを決めたのは先にも書いた通りだ。

 

 半年後の韓国公演ではドンブラも用いた。指で弦を爪弾く撥弦楽器のドンブラも2013、4年、ベルリンの「デデコルクト」公演で女性歌手の弾き語りを体験していた。張りのある歌声を伴い、高音成分が強調され、乾いた音色は複雑な拍子でありながら、疾走感があリ、瞑想的な弓弾きのコブスとは対照的だった。

 

 音楽のリズムの基礎は心臓の鼓動が基準となる。しかし馬など、躍動する動物たちと一心同体のようになった文化ではいっきにそれが加速する。20世紀の民衆音楽を席巻したのはギターという撥弦楽器だ。人間の身体能力には限度がある。やがて楽器も電化し、生物の鼓動の刻みを越え、さらに機械化する都市のリズムに追いつこうとする。エレキギターから、「打ち込み」のテクノ、ハウスのにはさらにソリッドな響きが加わる。オーガニックなビートをアフリカの大地に求めることは一般的だが、当初テクノビートに最もビビッドに反応したのは西アフリカの人々だったという話もどこかで聞いたことがある。

 

 私見だが、トルコ、ロシアや中央ユーラシアを貫く地域のポップスや歌謡曲は、強烈な打ち込みダンス系ビートが広く好まれているように思う。カーラジオや店のBGMを聴くとそれは顕著だ。さまざまな理由は考えられるが、もしかしたら、騎馬遊牧民族の民族性と関わることかもしれないとも思った。世界中のクラブカルチャーあるいは一昔前のディスコなど、実際に踊りを伴う場所でそれが親しまれており、日本でもそれは同様だ。しかし日本で耳にするポップスなどで、これほどどぎつい打ち込みと低音のビート感を全面に出したものは少ない。速度はあってもビート感が希薄だ。

 

 ある晩、翌日の食事の手配のため劇場に併設するレストランに行った。その中二階で、大学生たちの合コンのようなパーティーが行われていた。まさに扇情するマシーンのビートに欲望が剝き出しになる。ロシア語のラップ、ハウスミュージック、がなり響くなか、一緒にいたズボニックがスマホをもってやおら立ち上がるので、踊りにでも加わるのかと思った。づかづかと歩む彼女はノリノリでターンテーブルを操るDJのブースへと近づいて、ブースにあった電源タップのコンセントに自分のスマホのケーブルを無言で差し込んだ。プレイ中である、この「欲情の儀式」の司祭たるDJも唖然。スマホ充電のための電源をみつけたのだが、なにもあそこで充電しなくても...ケイト(カーチャ)・ズボニックはまだ30代だが、まさしくわれわれのたくましい「かあちゃん」だった。

 

 そこを出てズボニックとともにメンバーが待つレストランへタクシーで向かった。そこでまたロシア語ラップがカーラジオでかかっていた。彼女は眉をひそめ、「ほんと、ロシアのラップってやかましいのよね」といい、運転手にチャンネルを変えてもらう。すると、日本で言えば80年代のシティポップス風の軽いサウンドとビートを、さらに歌謡曲っぽくした音楽が流れはじめる。ロシアのポップスの野暮ったさに、ああ、またこの感じかぁ、とやや辟易した。しかしダンサーである彼女はタクシーのなかで軽快に踊りだし、それをみた隣に座る運転手がさらに音量をあげた。ズボニックいわく「ロシア90’Sは最高なのよね」。「かあちゃん」の青春時代の音楽ということか。なお彼女の旦那さんはロックミュージシャンであった。タクシーを降りて皆が待つレストランの入り口の階段を登っていると、「あの頃はいくつもの...」そこで私の頭の中に鳴り響いたのは、TRFだった。私の青春時代の音楽、なのだろうか...。

 

国立民族楽器博物館にたくさんあったシャーマンのコブス。男性器を模した形だそうだ。
国立民族楽器博物館にたくさんあったシャーマンのコブス。男性器を模した形だそうだ。

8 遊牧の国で馬と対話する

チェンバレンホースクラブのアリーナでパフォーマンスを終えて
チェンバレンホースクラブのアリーナでパフォーマンスを終えて

  3/8   

 

 ここカザフスタンでも、さまざまなコラボレーションを創作の中で行っているが、馬との共演まで行うことになるとは...。宿泊をしている丘の上のチェンバレンホースクラブを説明を受けながら見学後、アリーナ席をもつ広大な馬場で撮影を兼ねて馬と私たちの音楽、踊りのセッションによるショーイングを行う。建築家の今用雄二がこの広いクラブの全体を設計したとのことだった。1998年に、ここアルマティからアスタナ(現ヌルスルタン)に遷都されたときに、新首都をデザインした黒川紀章を弟子としてサポートし、現在もここでさまざまな建築に携わっている。引退した競馬馬などが世界各地から集まっている。馬と人間の共生をテーマにショーを行い、さまざまな映像プロジェクトもある。まず広大な牧場と施設を見学しながら、もの凄い情報量で馬とこの場所について説明を受けた。

 

 そこで知ったこのクラブの大きな特徴は、ここがいいわゆる「乗馬クラブ」ではないことだった。中央アジアといえば騎馬遊牧民族のイメージがある。中央アジアの民族音楽の象徴ともいえる、撥弦楽器ドンブラの右手の奏法は疾走する馬のごとく、指板の上を踊る左手は、巧みに馬を操る手綱を引く手のごとくだ。しかしこのクラブのコンセプトは、この民族が騎馬民族となり大陸を縦横無尽にする以前の、暮らしの中での動物との関係を見つめ直すことだった。

 

  さまざまな遊牧の民がここを往来する前は、定住やゆるやかな移動の生活があった。そこに馬は存在したが、またがって移動をしたり、重荷を運搬したりするためにではなかった。人間が乗馬して移動したりするようになると、馬の身体もそれに応じて変化してゆく。戦や交通に利用するとなるとさらに負荷が掛かる。それに耐えうるように蹄鉄をつけて足先を締める。今回、誰かが馬に跨がって私たちとパフォーマンスを行うことをあたりまえのように想定していたが、そういうことではなかった。

 

 ショーはかねてより馬の歩行とリズムの関係に着目していた韓国打楽器のチェ・ジェチョルを中心に、ダンスや歌、楽器の演奏が少しずつ加わり、馬一頭一頭との関係をつくってゆく。はじめチェ一人が馬場の中央で静かにチャングを叩きはじめた。馬がチェの周りをゆっくりとステップしだし、周回を続けた。有り余る熱意でまだ語り足りないというくらいにこの場所にについての説明をわれわれに続けたダリダも息をのんだ。そのあと深く溜め息をついてから興奮した。ふだん、このようにすぐに馬がリズムに乗って歩き出すことはないのだそうだ。鞭を打つのではなく音で馬が走った。メンバーたちがじょじょに音を出し、馬場に入って馬と一緒に踊る。

 

 このあとは、はじめてみなで街に出て、セルゲイ・レートフとスタジオでレコーディング・セッションを行い、ウズベキスタン料理を楽しむ。本番前日だが「さんしょうだゆう」から離れて、少しリフレッシュの一日だ。車で町へ降り、まずはスタジオへ向かう。日々送迎をしてくれたのは隣国のウズベキスタン人だ。ウズベキスタンからの出稼ぎは多く、ドライバーか清掃業につくことが多いという。ホースクラブや公演する劇場の入った大型商業ビルの清掃員もウズベキスタン人とのことだった。カザフスタンも貧富の差は激しいというが、自然資源の輸出によりウズベキスタンより経済的には良好であるようだ。ウズベキスタン人は、われわれはもともと定住の民だから遊牧の民であるカザフスタン人より優れている、という言い方をすることがあるそうだ。

 

 

 

 


9 オプティミズム 伝説のサイケロック歌手エゴール・レートフ

カリスマ的な人気をほこる、セルゲイの弟、故エゴール・レートフ(1964~2008)
カリスマ的な人気をほこる、セルゲイの弟、故エゴール・レートフ(1964~2008)

  

 ケイト・ズボニックが用意してくれたスタジオで セルゲイ・レートフとレコーディングセッションを行う。ホースクラブのイベントの後に稽古をすることも時間的には可能だったが、劇場が「貸し小屋」としてロックコンサートに会場を提供していたので使えなかった。本番前日に劇場が使えないのは痛手だが、これもズボニックがわれわれのプロジェクトの予算をつくるための苦渋の選択だったかもしれない。日々彼女が奔走してくれた。

 

 予定のスタジオが使えず、機材が半壊しているような廃墟のようなリハーサルルームでの録音になった。強烈なノイズを発する壊れかけの蛍光灯をはずしたりして録音環境を少しでも整えようとしたが、そもそも周りのハードコアなバスドラムやエレキベースが大音量で漏れてくる。あきらめて録音開始。巨匠レートフは「ソヴィエトユニオン、アンダーグラウンド」などと英語で言いながら余裕の笑み。三木聖香と吉松章が、それぞれ本分である歌唱や能や狂言の謡から逸脱し実験的な声の技法を試みる。さらにマリーヤ・コールニヴァのヴォーカル、チェ・ジェチョルの韓国打楽器と私のコントラバス。なんとも奇妙なフリーセッションを2時間ほど録音。

  

ズボニックによると、「あのエゴール・レートフの兄がここに来る」とスタジオ内でも噂だったそうだ。レートフの弟だ。このスタジオの受付に、エゴールの大きなポスターがあった。

 

 核爆弾の実験場であったカザフスタンのセメイ(セミパラチンスク)での被爆後遺症からレートフ一家がオムスクに逃れ、その地で誕生したのがエゴール・レートフだ。後遺症の影響はエゴールに顕著に現れ、先の命を望めぬ程の病弱であったため家族の庇護によって育ち、ソ連時代の伝説的なサイケ、パンクロックバンド「Grazhdanskaya Oborona(市民防衛)」のヴォーカリスト、詩人になった。モスクワやペテルブルグで活動することを拒み続けた。大都市ではペレストロイカの影響でニューウェーブ、パンクなど自由な表現がじょじょに解禁されるが、それらのシーンと一距離をおいた。シベリアの荒涼たる地を表象するような、輪郭のないサイケデリックな音像を描き、アナーキーで形而上的な詩を歌った。

 

 「シベリア・パンク」として西側にも紹介された。イギリスBBCがドキュメンタリー番組を制作し、その制作者であるアダム・カーティスは、「彼の曲は彼が身の回りで直面してきた空虚を最も攻撃的な形で、現代的なノイズとロシアという土地を混ぜあわせた。それは彼が影響を受けたいずれの西側のパンクロックよりも興味深いものだ」と語っている。20世紀を代表するロシア詩人という評価もあるそうだ。

 

 ソ連時代はアナーキズムを自認し活動を続けたが、1985年KGBにより精神病院に拘留された。宇宙工学士からミュージシャンに転じモスクワで活動する兄セルゲイとは、音楽観や人生観を巡る確執の時期もあったらしい。ソ連崩壊後は、反政府団体を組織し、独自のナショナリズムを標榜するも、2008年に43歳の若さでなくなっている。心不全であるが、KGBによって精神病院にも送られたこともあるエゴールの死は謎に包まれているという。

 

 死後もペレストロイカ時代の「ロックアイコン」だ。2018年、オムスクの空港に偉人の名を冠するための住民投票の得票数により「エゴール・レートフ空港」も提案されたが、議会の投票では落選した。しかし政治や科学の英雄や軍人などが推挙されるなか、アンダーグラウンドな音楽家にもかかわらず異例の得票率だったと、大きなニュースになった。規制の多かったソ連時代では、「地下文化」が求められ、そのような人々の心が現在にも残されているのかもしれない。

 

 エゴール・レートフの作詩による「オプティミズム」という曲があるが、とんでもなくペシミステイックな曲調、詩だ。私のロシア語力ではおよそ正確なものとはいえないが、参考程度に翻訳をしてみた。

 

おまえは泣くことをしっている

おまえはもうすぐ死ぬ

誰かが壁に書いた

彼はもうすぐ死ぬ

彼女は眼をもつ

彼女はもうすぐ死ぬ

われわれは簡単に

われわれはもうすぐ死ぬ

 

彼は玩具を持ってる

彼はもうすぐ死ぬ

夏の雨の匂いがする

いま誰かが死んだ

彼らには話しておかなければならないことがある

彼らはもうすぐ死ぬ

誰かが静に笑ってる

私はもうすぐ死ぬ

 

私は言葉を話すことにきめた

私はもうすぐ死ぬ

私は一歩踏み出すことにした

いま誰かが死んだ

誰かが太陽をみてる

たしかにほとんど死んでいる

誰かが私を見て、そして

あまりにも早く死ぬ

 


10 ペシミズム 失語 石原吉郎

チェさんがスタジオを整理整頓し、無事にリヴァーブも切ってレコーディング開始!
チェさんがスタジオを整理整頓し、無事にリヴァーブも切ってレコーディング開始!

 

 スタジオは味気なく重々しいソ連式の大きなアパートの中にあった。地下に降りるとフロア全体に小部屋のスタジオが並んでいたが、壊れたような古い音響機材が廊下にはみだし、廃墟寸前のように思えた。しかしこの建物は日本人が作った建物なので丈夫にできている、と聞かされた。

 

 日本人シベリア抑留者の手によるものだ。私がロシアに関連した作品を作るようになったのは、詩人石原吉郎のシベリア抑留体験の随筆「ペシミストの勇気について」が大きなきっかけだった。旧知の演出家の大岡淳と2008年に静岡の袋井で美術家やダンサーとつくった作品「シベリアの道化師」のテクストだった。

 

 詩人石原吉郎は戦後まずアルマティの収容所に送られた。極寒(酷暑)の地での重労働25年という、実質的には死刑に等しい判決を受け、1948年までアルマティ、その後極東地域、カザフスタンのカラガンダを経て1958年ナホトカから舞鶴港に帰国した。石原吉郎や同じく抑留体験者である思想家の内村剛介の著作で語られる体験記のなかにもカザフスタンの地名があった。

ビール。カラガンダ、ちょっと大きくて怖い鳥。美味ではなかったが、デザイン通りの味。
ビール。カラガンダ、ちょっと大きくて怖い鳥。美味ではなかったが、デザイン通りの味。

 

 変更になったが、当初今回の公演を行うはずだった「ドイツ劇場」の建築も日本人の抑留者によるものだと聞いた。独ソ戦でスパイの嫌疑でカザフスタン強制移送されたヴォルガ・ドイツ人らが使用した。その劇場が老朽化によって近頃移転した先が、長らく高麗人によって利用されていた元の「高麗人劇場」とのことだった。さらにそれも変更となり、今回の上演は最近できたショッピングモールのような大きなテナントビルの一画にできたばかりの私立劇場となった。

 

 あるとき、劇場のそばの小さなキオスクで缶ビールを買った。せっかくなら土地のものをと手にしたのが、強面な茶色に鷲のような鳥が描かれた、いかにもさっぱりした喉越しは残さなそうなデザインのビールだ。みるとキリル文字で「カラガンダ」と書いてある。久しぶりにその地名を思い出した。

この建物は日本人抑留者が建築した
この建物は日本人抑留者が建築した

 

「私の最初の抑留地はアルマ・アタであったが、ここで三年の〈未決期間〉を経たのち、昭和二十三年夏、選別された一部抑留者とともに北カザフスタンのカラガンダヘ移された。」(「ペシミストの勇気について」石原吉郎)

 

 ユーラシアンオペラとしての私たちの「さんしょうだゆう」の中では、中世の日本の山庄大夫が領主をつとめる荘園の奴隷農場と、この地に移住させられた高麗人、チェチェン人、ユダヤ、ウクライナ、ヴォルガ・ドイツ人らが労働した集団農場や、極東の強制収容所にもイメージを重ねて設定した。さらにそこに旧日本兵のシベリア抑留についても織り込むことも考えたが、プロットの複雑化を避けるためにに明示しなかった。

 

 亞弥が舞踏で演じた安寿は荘園で受けた拷問により聴力を失って聾になり、さらに「失語」し唖となるという設定を設けた。舞台上で一場面のほかは、声を発さない。ミハイロヴァが演じる母「たまき」は家族を失った哀しみにより涙を流し過ぎで盲目となる。このユーラシアンオペラ版「さんしょうだゆう」は、聾唖者と盲者を演じる「オペラ」でもあるのだ。

 

 盲目の母のダンスや聾唖の安寿の舞踏から歌が立ち上がる。失語状態の安寿から歌が生まれるとしたら...とその唯一の一場面を想像する。するとやはり、あの石原吉郎の「沈黙」の詩が脳裏を去来した。

 

「失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験があるということは、非常に重要なことだと思います。「ああ、自分はあのとき、ほんとうにことばをうしなったのだ」という認識は、ことばが取りもどされなければ、ついに起こらないからです。ですから、失語のほんとうの苦痛は、ことばが新しくはじまるときに、はじまるわけです。ことばを回復すること自体は、けっしてよろこばしい過程ではありません。」(「失語と沈黙のあいだ」石原吉郎)

 

 石原は強制労働のなかで「失語」に陥いり、日本に帰国後、その失語体験そのものを詩としてあらわした。抑留体験を振り返った「ペシミストの勇気について」のなかで、過酷の極限状態のなかで出会った一人の男についてこのように語る。

 

「その年の秋、すでにカラガンダヘ来ていた鹿野から一度、人を介して簡単な連絡があったが、その後消息不明のまま、翌年二月私は正式に起訴され、カラガンダ市外の中央アジヤ軍管区軍法会議カラガンダ臨時法廷へ身柄を移された。判決を受けるまでの二カ月を、私は法廷に附設された独房ですごしたが、ある夜おそく、真向いの独房へ誰かが収容されるらしい気配に気づいた。」(「ペシミストの勇気について」)

 

 石原と鹿野武一は戦中の日本のロシア諜報養成機関で出会っている。人工語であるエスペラント語への関心が、二人の男を結びつけた。ポーランドのユダヤ人眼科医によって創られた世界共通語を目指したこの人工言語は、日本では二葉亭四迷がロシアの極東、ウラジオストックで学んだのが最初といわれている。のちに宮沢賢治も学び、たとえば、「モリーオ(盛岡)」や「センダード(仙台)」「イーハトーブ(岩手)」といった地名をエスペラント風に名付けた。ポーランド語を援用しながら簡易な文法構造を目指したエスペラントのインターナショナリズム(反民族主義)は理念的に社会主義、共産主義やアナキズムにも共鳴する。各地で国際語を各民族語との共存させ、バイリンガルを試みる動きもあった。ソ連でも当初、キリル文字で正書化された少数民族諸語と、ロシア語との共存を目指す言語政策の中で容認された。しかしエスペラントも、ロシア語へ統一化へと転じる際に否定されている。また、ナチスをはじめとして、フランスでも、民族の伝統や言語を駆逐する存在として危険視された。

 

 カランガンダの地で石原が鹿野から受け取った連絡文は全てエスペラントで書かれていた。

 

「Mi preska[u] perdis esperon.(私はほとんど望みをうしなった)」このような鹿野武一の一文を石原は強く記憶していた。

 

「私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼(鹿野武一)はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。」(「ペシミストの勇気について」)

 

 作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされる。その外側の列で、氷や雪によろめく者が、「逃亡者」とみなされて銃殺される。その危機を逃れるために囚人たちは争って列の内側に入り、弱い者を死に近い位置へ押しやろうとする。

 

 「実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。翌年夏、私たちのあずかり知らぬ事情によって沿線の日本人受刑者はふたたびタイシェットに送還された。私たちのほとんどは、すぐと見分けのつかないほど衰弱しきっていたが、そのなかで鹿野だけは一年前とほとんど変らず、贖罪を終った人のようにおちついて、静かであった。」(「ペシミストの勇気について」石原吉郎)

 

 石原は次のような鹿野のペシミズムを形成したエピソードのなかでも最も象徴的なこととして次の出来事について語る。日本人受刑者たちが「文化と休息の公園」の清掃と補修作業をしているところへ、市長の娘が現れる。彼らを見た慈悲深い彼女は自宅に戻り食べ物を持って帰り手渡した。しかし、鹿野はそれを受け取り食べることができなかった。その後、絶食を貫こうとした。

 

「そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。(中略)人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった」(「ペシミストの勇気について」石原吉郎)

安寿の失語。安寿姫を演じる亞弥。飛行機の中で、いつまで少女役を続けるかについて真剣に話し合う。
安寿の失語。安寿姫を演じる亞弥。飛行機の中で、いつまで少女役を続けるかについて真剣に話し合う。

 

 鹿野に貫かれたペシミズムを沈黙という後に置き換え、石原は日本に帰国した後に詩作を続けた。

 

「詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考ることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。」(石原吉郎「詩の定義」)

 

 聴力を失い、厨子王を解放し安寿は、まるで真空の身体になって入水の舞いを舞う。私はこの身体による舞踊を、失語状態による試作重ねた。死んだ安寿は山の神になって再生し、核実験でできた生命の存在しないカザフスタンの人造湖でたったひと言、祈りのような声をあげる。沈黙を貫いた安寿の一声から歌が涌き起こり、湖に生命を甦らせる。しかし本番を目前に、まだその安寿の声=歌を見つけられずにいた。

 


11 吉郎と清志郎

水の精(三浦宏予)と吉松章(厨子王)
水の精(三浦宏予)と吉松章(厨子王)

 3/10

 

  本番当日、寝付けずに早朝5時くらい、煙草を吸いに宿の外にでると、まだ冷たい濃霧の夜気につつまれ物音一つしない。やがて厩舎から馬が脚で干し草を散らす音だけがわずかばかり聴こえてくる。今ここに至るまでのいろいろなことを思い返しながらやっと会場時間中のBGMの選曲を考えていた。

 

 バフチャル・アマンジョールから渡航前に、元生徒でエレクトロニクスで作曲を行う方がいるので、ぜひ上演の中で彼の作品を使ってほしいとのオファーがあった。今作では舞台の中で私自身のエレクトロニクス作品を用いていたこともあり、重複を避けるためお断りした。しかしうまく伝わらなかったのか、CDを持って毎日稽古場を訪れる。悩んだが申し訳ないという思いもある。私はふだん、コンサートや舞台の上演前に音楽を流すことをできれば避けたいと思っている。しかし開演前の開場中の音楽として使わせていただくことを約束した。だが無生物の湖をあらわすために、本編の冒頭シーンから私のエレクトロニクス作品を用いることになっており、その意図が曖昧になることも避けるたかった。だから彼の作品の後に、通常のBGMもさらに入れることにした。

 

 なぜかふと頭の中を忌野清志郎が日本語で歌うジョン・レノンの「イマジン」がよぎった。女性メンバーが多く、ロシア語と英語でのやり取りが重なる日々なので、ふと男性の日本語の声が聴きたくなったのだろうか。忌野清志郎もジョン・レノンの曲も好きだが、この曲に強く思い入れがあったわけではない。でも、きょうカザフスタンの観客の前で、このメンバーたちと初演を向かえる朝の自分の気持ちと、それを歌う忌野の声の真実さが重なりあった。

 

 絵空事のようにも聴こえるその歌詞の最後に、自身の最初期の曲からの引用が繰り返される。男女のぎこちない関係がいつのまにか愛へといたる歌だ。冬の真夜中、暖かい部屋の中でいつの間にか裸になってしまい、愛し合う。レノンの有名曲はカザフスタンの観客も知っているかもしれない。歌詞の意味も私の創作の根本に通ずるものはある。しかしなにより、劇場でこの日本語を響かせたいと思ったし、そのときまだ開演前の楽屋で準備をしているであろうメンバーにもそれを聴いてもらいたいと思った。

 

「イマジン」 (ジョン・レノン 訳詞:忌野清志郎)

 

天国はない ただ空があるだけ

国境もない ただ地球があるだけ

みんながそう思えば

簡単なこと

 

夢かもしれない

でもその夢を見てるのは

君ひとりじゃない

夢かもしれない

でも一人じゃない 

夢かもしれない

かもしれない

かもしれない 

夢じゃないかもしれない 

 

社会主義も 資本主義も

偉い人も 貧しい人も

みんなが同じならば

簡単なこと

 

誰かを憎んでも 派閥を作っても

頭の上には ただ空があるだけ

みんながそう思うさ

簡単なこと言う

 

夢かもしれない

でもその夢を見てるのは

君ひとりじゃない

夢かもしれない

でも一人じゃない 

夢かもしれない

かもしれない

かもしれない 

夢じゃないかもしれない 

 

 忌野清志郎は「イマジン」のような政治、思想的メッセージが強いこの曲の中で、この言葉を連呼する。そこのさらに古い自作のフレーズを何度もリフレインして重ねる。たわいもない日常が愛によって支えられていることを叩き付けるように強調する。

 

RCサクセション「窓の外は雪」

 

あーあ とうとう裸にされちゃった

なんて 言いながら

あの娘が起き上がる朝

窓の外は雪

ぼくの耳もとで好きだなんて

ささやいて

あの娘といっしょの朝

窓の外は雪

寒いから 寒いから

あの娘 抱きしめる

とても あったかいのさ

窓の外は雪

窓の外は雪

窓の外は雪……

(ぼくらは薄着で笑っちゃう……)

(ぼくらは薄着で笑っちゃう……)

 

 キルギスの山々を仰ぎながら借り上げバスで市街へとおり劇場に向かう。途中、国立民族楽器博物館と大きな食品市場に立ち寄る。博物館は思ったより大きな建物ではなかったが、この地のイスラム化以前のシャーマニズムや古い民間の楽器、音のである玩具の多様さに驚く。ガラスケースのなかに入った楽器たちのざわめきが聴こえる。市場にはトルコでもよくみた豆や乾物、それからキムチをはじめたくさんの種類の韓国の惣菜が溢れている。市場をぶらつきながら、清志郎の声が風景に混ざる。

 

夢かもしれない

かもしれない

かもしれない 

夢じゃないかもしれない

 

街に下りるとモスクも見えてきた。アルマティの乾いた空が広がる。

 

 

 「You may say a dreamer(あなたは私を夢想家というかもしれない)」

 

この打楽器は太鼓の面に人形がのっかっていて、ドラムセットのハイハットのように足で演奏することもあると、グルジャンさんがロシア語説明し、セルゲイ・レートフさんが英語で二重に翻訳してくれた。
この打楽器は太鼓の面に人形がのっかっていて、ドラムセットのハイハットのように足で演奏することもあると、グルジャンさんがロシア語説明し、セルゲイ・レートフさんが英語で二重に翻訳してくれた。

12 安寿の失語 ダウン症のアーチストとともに

自閉症とダウン症のアーチスト「Действие буквально」と。燃える。
自閉症とダウン症のアーチスト「Действие буквально」と。燃える。

 

  劇場に着くと、ダウン症のアーチストが既に待っている。一人一人が強い個性の持ち主であることは、一昨日に見学したワークショップでわかった。反面、集団になると誰かの初めの行動が船頭となり、それに導かれて模倣することが多いと思った。演出的にはその按配を作品に活かすことを考える。

 

 私は母方の従兄弟が全員、養護学校に通っていたこともあり、ダウン症や自閉症の人も子供の頃から身近な存在だった。彼らや、私も含むその家族間の喜怒哀楽にまみれてきた。だからこそ過度にセンチメンタルを介してはいけない現実を知っているつもりだ。吃音の末にようやく発される従兄の言葉、あるいは結局発されることのない彼の真意を「待つ」ことは、ときに苦痛でもあったが、待つほかないのだ。それらが私の人生、あるいは表現活動に与えた影響はとても大きい。

 

 今回のパフォーマンスは、「文字通りの行動」のパフォーマー一人一人それぞれと、溶け合ったり、向かい合ったり、格闘したり、遊んだりするだけ。そうすることでしかコミュニケーションできないから、それを徹底する。さまざまな生き物の声を模倣しながら身体を動かす彼らにまみれながらコントラバスを弾いた。生温かい呼吸と呻き声がまざりあい私たちは得体の知れぬ一体の動物になって蠢いた。彼らの渦の中でふと、聾唖となって死に、山の神になる安寿が生物のいない人造湖に生を甦らせる声について、ようやくアイデアがうかび、それを演じる亞弥に伝えた。いよいよ本番。

 

  上演は、ウシトベの高麗人墓地で踊るアリーナ・ミハイロヴァの映像のなかに、若い韓国人兄妹が生命のない湖に現れる場面から始まり、まどろむ兄の夢の中に「さんしょうだゆう」が展開し、このように幕を閉じる。

 

 海の精イノ(乳母うわたけ)を演じる三浦宏予が、湖に現れ祈りの舞いを行う。ダウン症、自閉症のパフォーマーと安寿の入水を演じた亞弥はスクリーンの裏に控えている。青い光を当てたスクリーンを湖面に見立て、彼らにそれを揺らして波をつくってもらい、生物が人造湖に蘇生することを予兆させる。この後、コブスの音色とともに麓の山の神となって再生する安寿が、その姿を表す前に彼らひとりひとりのファーストネームをコールする。

 

 カザフ語も、ロシア語もわからない私が、カザフスタンのダウン症や自閉症のパフォーマーとコミュニケーションに使える言葉は、彼らの名前しかない。固有の事象に名前を付けて区別し、それを慈しむ。感情や行為にも名をつけて、それらを他者と共有する。他の動物と異なり、人はそのように語彙を増やし、コミュニケーションを洗錬させてきた。安寿の唯一の詩=声=歌は、その名付けの原初である「固有名詞(ダウン症のアーチスト自身のファーストネーム)」だ。マントラを唱えるようにそこに息を吹き込む。

 

無生物湖に宿る生物となる彼らが舞台に現れ、海の精の舞に融合しながら自由に声を出し始める。「歌い」終えた安寿は、コブスとともに生物のいない湖に山の神となって顕現する。イノの声を演じたマリーヤ・コールニヴァが無言歌を歌い続け、それにあわせる彼らの声もなりやまなない。これが、今回カザフスタンの舞台の上に出現した「夢の歌」だ。湖に戻った妹が兄をおこす。兄妹は東京へ向かい、父の故郷福島へ、父の歌を探しに旅立つ決意をする。

 

 

 照明が落ち、舞台上のパフォーマーたちも全員が床に座り、映画の「観客」になる。東京で三行英登によって撮影された、韓国人兄妹が空港から知人のいる東京のコリアンタウン大久保へと向かうタクシーの車内の映像だ。

 

 車は渋滞する夜の歌舞伎町を抜けながら走る。車内で妹が舞台冒頭で兄が口ずさんだ、極東ロシアや中央アジアでコリョサラムが歌い継いだ旋律、「天然の美」を日本語で歌いはじめる。すると舞台袖から韓国の太鼓(チャング)が「トトントトン」と演奏される。それは二人の到着を確認する在日韓国人の友人からの電話の着信音を生の太鼓の音に替えて表した。れを合図に山庄太夫(セルゲイ・レートフ)がサーカスのジンタのような調べで「天然の美」をサックスで吹き始める。出演者全員が彼の後を追いながら、客席の中を練り歩き、ここにいる全ての人が混ざり合う。多国籍の「アリラン隊列」がカザフスタンに甦った。

 

 ユーラシアンオペラ第二弾の初演が終わった。

 

@ AlexanderDidenko
@ AlexanderDidenko

 カーテンコールで全員の名前を私がコールしようと思い、終演間際にこっそりとメモに書いた弦楽四重奏団のメンバーの名前をもう一度確認していた。馴染みのないイスラム風な名前と発音、覚えることができずに小声で呟いて復唱した。しかし、本番ではやはり上手く声にすることができなかった。難曲に苦しんで困ったり嫌な顔をしながらも、日々演奏してくれてありがとう。第二ヴァイオリンのカミーラが終演後、

 

「曲も、内容も私たちには難しかったけれど、でもなぜか、ここで起こっている世界がとても好きでした。いつもドキドキしながら舞台をみてました。」といった。

 

 終演後、それぞれ10分ずつの短いコンサート。

 

・チェ・ジェチョルによる韓国打楽器と踊りソロ。

・グルジャン・アマンジョールのカザフのコブス古典。

・三木聖香の日本民謡と吉松章のお囃子。

 

「「これでいいのか?」僕はこの声をはっきりと聞きたい。その声は、いつでも絶え間なくひびいているにちがいないのだ。ただ、しかし、僕が心から耳をすます時にだけ、それは聞える。いつでも耳をすましていなければならない。その声の聞えて来る方へ。」(石原吉郎)

 

 言葉を沈黙にもどしてゆく過程、それが音楽「かもしれない」と思う。石原吉郎の失語と沈黙から生まれた詩を、この地で朗読をしたいと思ったが、胸にしまった。この日、この舞台に響いた「その声」が「夢の歌」だった。だからもうこれ以上の言葉を添えることはやめた。

それにしても、グルジャン(コブス)のピンク派手すぎだなあぁ。同じピンクの着物の三木聖香(with 吉松章の謎のお囃子)は「おてもやん」を歌い喝采を受ける。
それにしても、グルジャン(コブス)のピンク派手すぎだなあぁ。同じピンクの着物の三木聖香(with 吉松章の謎のお囃子)は「おてもやん」を歌い喝采を受ける。

13 ソヴィエト・ロックの英雄ヴィクトル・ツォイ 戦争

ヴィクトル・ツォイの銅像(アルマティ)。セルゲイ・レートフ氏はペレストロイカ期に共演している。
ヴィクトル・ツォイの銅像(アルマティ)。セルゲイ・レートフ氏はペレストロイカ期に共演している。

 

3/11

 

 公演のささやかな打ち上げ会場に、タクシーに分乗して向かう。夜遅く、車の通りの少なく暗いアルマティの大通りを走っている。ペレストロイカ期の「ロックアイコン」、Tシャツに黒い革ジャンを羽織ったヴィクトル・ツォイ(バンド「KINO」のヴォーカリスト)の歌が頭の中でふたたびながれはじめる。

 

 「KIno(キノ)」とはロシア語で「映画」のことだ。ついさっき終わったばかりの舞台の最後、夜、日本に到着した韓国人の兄妹が空港から新宿にむかうタクシーを映す「映画」のシーンで、カーラジオから流れたのがこの「戦争」という曲だ。ペレストロイカ期のロックを回顧し、紹介するラジオ番組が偶然かかっていたという設定。乾いたドラムの音色の8ビートアップテンポが、欧米の1980年代のニューウェーブ・ミュージックの後を追うようなサウンドでもある。しかし、ロシア語によるヴォーカルやドラムスはやや重く、粘り気を感じる。

 

ヴィクトル・ツォイ「戦争」

 

明日を信じている人にあわせてくれ

その途上にある死者のポートレイトを私に描いてくれ

隊列から生き残ったただ一人の人間にあわせてくれ

しかし誰かがドアになり誰かがが鍵穴になり

誰かが鍵穴を開ける鍵になるしかない

大地 空

大地と空のあいだには 戦争

いつでも 望もうと望まなくとも

大地と空のあいだには 戦争

 

どこかに昼と夜とをもつ人間がいる

どこかに娘や息子をもつ人間がいる

どかかに定理が真実だと知る者がいる

でも誰かはかならず壁になり

誰かは肩

崩れ落ちる壁の下

 

大地 空

大地と空のあいだには 戦争

いつでも どこへ行こうとなにをしようと

 

大地と空のあいだには 戦争

 

 ヴィクトル・ツォイは1962 年、カザフスタン出身の高麗人の父と、のロシア人の母との間にレニングラードで生まれた。2つの美術学校に通ったが、成績不振で放校になっている。その後木工職人の技術を習得し卒業。日本の根付を彫刻で制作したり、ロバート・プラントなどの西側ミュージシャンの肖像画を描き闇市で販売したりするなどして収入を得る。ウクライナのキーウで不法就労し強制送還されたこともある。17歳から作詞を始めた。ミハイル・ボヤルスキーやヴラジーミル・ヴィソツキーといった歌手のほか、ブルース・リーのファンだった。1982年にKINOを結成しアンダーグラウンドで活動。ソ連唯一のレコード会社「メロディヤ」との契約が無かったため非公式、未検閲での活動であったがリリースする作品は大ヒットとなった。1985年、妻・マリアナとの間に息子のアレクサンドルが誕生。妻によると生活は苦しく、一家はボイラー室に住み、ウエディングドレスを買う余裕もなかったという。そのボイラー室は「カムチャツカ」と名付けられ、聖地化している。映画に本人役で出演、別の映画では初主演をはたしている。このころからキノの人気が過熱していったが、1990年8月15日、現在はラトビアの町、トゥクムスにて交通事故死した。

 

 ソ連・ロシアの音楽界に与えた影響は大きく、モスクワ市内には「ツォイ・ウォール」と呼ばれるツォイを称える落書きで埋め尽くされた壁が現存するほか、サンクトペテルブルク、ハバロフスク、ドニプロ、セヴァストポリにも同様の壁が存在する。キリル・セレブレニコフにより2018年その生涯とレニングラードのロックシーンを描いた映画「Лето(Summer)」も公開されている(日本では未公開だが、韓国では公開され話題となった)。

 

 劇場を出て、また古いロシア語の歌謡曲が流れるタクシーに乗せられ、アルマティの静かな夜を眺めながら到着したのはズボニックが予約してくれたソ連式、というか北朝鮮式の韓国料理屋だった。夕飯時をとっくに過ぎて閑散としている大型店の暗い蛍光灯の下で食べる。 公演を終え、疲れ果てた私たちは労をねぎらい合って日本語での会話が多くなったが、ロシア人アーチストとともに、キムチやビビンバを食べながらにささやかな宴の時を過ごす。

 

 以前、ロシアのサンクトペテルブルクでも、もっと小さなコリアンレストランに入ったことを思い出した。2008年の、モスクワ、ペテルブルク、ウクライナのキーウ、リトアニアのカウナス、ヴィリニュスと続いた日本人演奏家のみで行った現代音楽コンサートツアー公演のときのことだ。北朝鮮系の人々が営む焼肉店だときいた。小さな別室では、一族らしき朝鮮の人たちが、照度の低い蛍光灯の下で、焼き肉とロシア風の彩色のどぎついケーキを食べながら結婚式のパーティーを行っていた。他のお客はわれわれだけなので、少しの間だけ同席させていただくことになり、御馳走を分けてもらった。同行のプロデューサーから提案があり、作曲家、ヴォーカリストの国広和毅はホテルに戻ってギターをもってきて、日本語で歌い祝福した。われわれ闖入者は静かな歓迎を受けたが、あの一族の人たちのとまどいも含んだ遠慮がちな笑顔を思い出す。

 


15「歌はあなたのために世界の扉を開きます」

イルクーツクへの帰りの飛行機に乗り遅れたシベリアの歌姫はひじょうにリヴァーブへのこだわりがある
イルクーツクへの帰りの飛行機に乗り遅れたシベリアの歌姫はひじょうにリヴァーブへのこだわりがある

 

 慌ただしいスケジュールで観光的なこともなかった。アルマティ最後の日、ささやかに街中のケーブルカーに持って見晴らしの良い小さなテーマパークを小一時間ほど春の陽射しのなか、メンバー全員で散歩した。このあと続くプロジェクトに参加しない日本メンバーたちは慌ただしく空港に向かった。

 

 セルゲイ・レートフ、亞弥、映像の三行英登、私はこの後タタールスタンのカザンへと向かう。ヴィクトル・ツォイの詩のレリーフが敷き詰められた舗道を歩いたあと、カザンのあとに向かうペテルブルグですぐに再会する予定のアリーナ・ミハイロヴァも帰国した。ともに作品を作ったメンバーが少しずついなくなってしまうのは寂しいものだ。広場の中の、映画ファンが集るというカフェで一服し、残ったメンバーとケイト・ズボニックとでゆっくりと語らう。創作の慌ただしさのなかでそんな時間ももてなかった。

 

 イスラム教徒が大半をしめるカザフスタンだが、市街のアルマティで「モスク」を観る機会が思ったより少なかった。イスラム様式の建築の総合大学があったが、この30分ほどの通勤の車からみられるモスクも2つほどだった。いわゆる中東やトルコにイメージするイスラム文化が表だって見える機会は少なかった。おなじ中央アジアでもたとえば、ターキッシュブルーのモスクとイスラム装飾がたちならぶウズベキスタンのサマルカンドとは大きくイメージが異なる。

 

 大型書店をみつけたので立ち寄る。カザフ民族や歴史に関する本はたくさんあったが、ローマ字表記のカザフ語で書かれた本のコーナーは少ない。2018年にカザフスタンでは、カザフ語の表記がキリル文字ではなく、ローマ字表記にすることが決められた。郊外はカザフ語優勢であるときくが、都市のアルマティではほとんどがロシア語の会話と表記でことたりている印象だった。諸遊牧民族の複合であるカザフスタンの人々は元々文字を使わず、アラビア文字、20世紀に入りローマ字、キリル文字と変遷した。

 

 国家主導による文字の移行はすみやかには進まない。ソ連崩壊後多くはロシアに帰ったロシア系の人々も、まだ人口の3割を占めている。われらの「かあちゃん」、カーチャこと振付家、ダンサーのケイト・ズヴォニクもアルマティで育ったったユダヤ系ロシア人だが、カザフ語はまったくわからないとのことだった。ソ連崩壊後、言語をはじめとする民族主義優性となり、中央アジア諸国に移住させられたコリョサラムをはじめとする、「ロシア語」話者である他民族の人々がこの地で暮ら難しさがある。

 

 渡航前に、安寿の唯一の声として、「国民詩人」「国民音楽家」である、アバイ・クナンバイウルの言葉をカザフ語で言うことも考えていた。アバイは、カザフ語の口承芸能のカザフスタンの詩、民俗諸芸能や言語を「文学」としてあらわし、民族の自主国家創成運動、近代化運動を目指すアラシュ・オルダの祖となった。このカザフ自治運動を援助したロシア人の一人が山庄大夫を演じたセルゲーイ・レートフの曾祖父だ。

 

 アルマティの街の通りや、教育施設などの公的機関は、このアバイや、ドンブラやコブスのために多くの「キュイ(器楽独奏曲)」をつくりカザフスタン民族音楽の祖となった作曲家クルマンガズィ・ザギルバユリの名前があちこちで冠されていた。街を歩きながらズボニックは「なんでも、クルマンガズィ、アバイ」といって笑った。

 

「歌はあなたのために世界の扉を開きます

歌はその最後の安静に魂を伴います

悲しみのある場所、歌は永遠の味方です

地上の喜び それで、それを大事にしなさい、感謝しなさい、

大好きです!・・・・・」

 

 私がこのアバイの言葉をみつけたのは、フランスの民族音楽の老舗レーベルOCORAのカザフスタン民族音楽のレコードのライナーノートだった。その言葉をフランス語で知り、インターネットでそのロシア語訳を苦労して探し出した。カザフ語やテュルク系言語の知識がまったくない、という理由もあると思うが、インターネットではみつからず、日本にいるあいだにズボニックにロシア語翻訳を送って尋ねた。誰かにきけばすぐにわかるだろうとのこと。バフチャル・アマンジョール氏にも日本からメッセージして探してもらった。もちろん知っているとの返事をいただいたが、オリジナルのカザフ語のテクストを返信いただくことはできなかった。

 

 カザフスタンで直接相談すればすぐみつかるだろう、と考えていた。しかし現地でも慌ただしく、それを相談する隙間もなく結局みつけることができなかった。時間をかければ自力で見つかるのかもしれないが、このインターネットの時代でもやはり言葉の壁は大きい。それにしてもどれだけパソコンの翻訳機能にも世話になっただろうか。

 

 明日の早朝、ともにカザンへと向かうセルゲイ・レートフと落ち合って、ウズベキスタンレストランで美しい青い装飾の皿の上の羊肉やナン、赤々とした料理を食べ、夜遅くならないうちにホースクラブに戻った。料理をつくって乾杯したり、リハーサル映像を観たりしながら作品についてみなで語り合ったリビングは静かなものだ。

 

 翌朝4時にタタールスタンのカザンへと向かう。ここから先が長いツアー(*第一部7章)だ。この先は演出家、作曲家というより、演奏家とプロフェューサーのモードになる。各地のコントラバスのレンタルのこと、お金のこと、さまざまな心配はつきないが、まずはこの「草原の道 トランス・ステップロード」ツアーの最大の目的である「さんしょうだゆう」の初演を無事に終えることができ、ひと安心と思ったら、イルクーツクに帰るシベリアのディーバ、もはや女帝のごとく君臨するマリーヤ・コールニヴァが飛行機に乗り遅れたという知らせ。なんと間抜けな、と意地悪く思わずほくそ笑むが、思えば行きは私が乗り遅れた。

 

 飛行機の中でズボンのポケットに入ったままのメモ書きを見つけ、昨日上手く言えなかった弦楽四重奏のメンバーたちの名前を声に出して小声で呟いてみた。

 

ファースト・ヴァイオリン ソフィア・カドゥノヴァ

セカンド・ヴァイオリン カミーラ・ヌルガリエヴァ

ヴィオラ スニヤート・アクマラル

ヴィオロンチェロ カイエル・ケノヴァ・サイーダ

 

 スムーズにいうのはやはり難しい。しかにその名を何度も口ずさめば愛おしく、それは私にとって歌詞であり歌なのだ。