ユーラシアンオペラを彩る海外アーチストたち②

 

 

マリーヤ・コールニヴァ(歌手 / ロシア)

 

1985年にイルクーツクに生まれて今も暮らす。以下はコールヴァとメッセージをやりとりしながら、自身の来歴も含めて質問に筆談で答えてもらったものを元にまとめた文章による。

 

(母方)

 

 「母の両親はイルクーツク近郊の農村出身です。母の父親であるセルゲイはセメイスキー(ロシア正教古儀式派)の出自を持ちます。母の祖父母はひじょうに親密な共同体のなかで、宗教的にも地域的にも固有の文化のなかで暮らしていました。彼は子供時代に、古く小さな小屋で暮らしました。たとえば衣服、家庭内の日用品等、歌、などセメイスキーに残る文化を覚えている。しかしそのころにはすでに多くのセメイスキーの文化は失われ、彼はそれを継承することができず、文化を意図的に保存する必要がありました。それは自然な流れであり、彼はその後、村の外へと出ました。」

 

 「祖母のリュドミーラもその村の出身でした。しかし残念なことに、彼女は自らのルーツについては何も言い残さなかった。だからその家系について私はなにも知らない。彼らは縁のない田舎で暮らし、そこで亡くなりました。彼らはガルキ村(イルクーツクから北に50キロほど)で出会いました。結婚して何年間かそこで暮らし、母と姉妹が生まれました。母はその村で多くの時を過ごし、自然に囲まれ、新鮮な空気、質素できびしい生活、彼女はまだその感覚をよく覚えています。ある時点で、祖父と祖母はイルクーツクの街に出て暮らすことを決めました。しかし祖父は都会の生活に馴染まず、家族を残し田舎に戻り、生涯を村のトラック運転手として生きました。祖母リュドミーラには二人ずつ姉妹と兄弟がいましたが、ヴァレリーとネルヤは一族の中でははじめての「知識人」だといえます。ヴァレリーは村を出てイルクーツクでロシア語と文学の教員になるための教育を受け、将来の妻となるニーナと出会いました。彼らはすぐにイルクーツク近郊のフベデンシナの村に移って校長になり、言語と文学を教えました。私が子供の頃はよく彼らの家にしばらく滞在したものです。彼らは大きな農場をもっていた。ベリーなどの果実の木が茂る庭があり、野菜や香草があり、牛、鶏もいた。変わった面白い名前が牛たちにつけられていたことを思い出します。ノーチカ(夜 黒すぐり)ペストルーシカ(小さなネズミのような生き物の名前?)、ゾーリカ(黄色や白の蝶)。私はヴァレリーとニーナのところで過ごすことがとても好きでした。子供が4人いて、みんなとほんとうに良い時間を過ごしました。ネリアも村からイルクーツクにやってきました。大学の外国語学科を卒業しました。その後、教員になりました。」

イルクーツク(ロシア)
イルクーツク(ロシア)

 

(父方)

 

 「父方の家系は昔は貴族階級に属するプーシキン一族の末裔でした。祖父のレオニードは軍人でその職務でイルクーツクに訪れ、祖母リリアナと出会い、結婚しました。私の父が生まれましたが、彼らの生活は長く続かずに、祖父は祖母と息子を残しモスクワへと戻ってしまいました。だから私は祖父についてはなにも知りませんし、会ったこともないのです。祖母は冒険的な傾向のある性格で、たくさんの旅をする写真家でした。留守が多いので私の父は曾祖母のタチアナから教育を受けた。父の母方の祖先については、特別なことはなく「ふつうの」人々でした。

 

 私の父母は青年愛好家によって組織された劇場の俳優サークルで出会いました。彼らは、ロシアとヨーロッパの演劇に関心をいだき、そこでロシアのフォークロアも学んだ。ほどなくして、彼らの劇場はイルクーツクの市立劇場として認定された。父は演出家として、母は広報デスクとして現在もそこで働いている。私が小さかった頃、父と母はいつも私を仕事場である劇場や、出張子供劇場、特にたくさんの伝統建築や少数民族の暮らし、シベリアの文化を伝える、イルクーツクから50キロにある屋外博物館「タルツィー」に連れて行った。そこで両親たちが演劇をしている間に、私はいろいろな建物のなかを歩き回り、その中でたくさんの民俗音楽のハーモニーも聴こえてきました。あとで劇場の俳優の一人がそのころの私の様子を教えてくれました。」

 

「広大な緑の野、光り輝く太陽、小さなマーシャ(マリーヤ)はその野原の真ん中に立ち、物思いに沈むように遠くを見つめていた。大きな青い瞳には、果てのない青が映っていたよ。」

 

 「小さい頃から私は音楽的な子どもでした。歌うことや、子供のための演劇プログラムに参加することが大好きでした。6歳の頃、母が音楽学校の試験に私を連れて行きました。ヴァイオリン教師は私の音楽的な素地と感覚を称賛し、絶対音感をよりたしかにするための弦楽器教育の重要性から、私を生徒にすることを望んだ。しかし母はピアノ教育を受けさせることを決めました。私は合唱学校に入り、子供の頃から作曲も試みていました。16歳の頃に、ヴァレリー・ブリューソフ、アレクサンドル・ブローク、ソフィア・パルノークたち「銀の時代」といわれる詩人たちの詩を歌にすることをはじめました。古代の中国の詩に曲をつけたこともあります。私ともうひとりのソプラノ歌手、ギター、フルート、打楽器、ときどきチェロ奏者参加して、グループを組んでそれらを含む歌を歌っていました。それらの詩の音節や韻のもつメロディー性に強く惹付けられ(私の頭のなカで詩から旋律が生まれた)、題材、テーマも多様でした。現在もアレンジを加え改作を試みており、より興味深くアカデミックな根拠をもつものになっています。」

 

 「音楽学校を卒業した後、州立大学で哲学とジャーナリズムを専攻しました。私は子供の頃から読書が好きです。やがてロシア語とロシア文学についての教養を深めたいと願いました。現象としての「言語」は我々の意識の表象であり、自然現象でもあり、遊戯の資源でもあり、新しい創造の源です。とりわけロシアの現代文学、なかでも詩に惹付けられました。エレーナ・シュヴァルツは現代詩人の中でも最も愛する詩人になりました。海外文学では、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ヴァージニア・ウルフ、ウンベルト・エーコ、ヘルマン・ヘッセ、フリオ・コルタサル、ミロラド・パヴィチを挙げます。特にエーコについて「迷宮」をテーマに論文を書きました 。現代思想においては、ジュリア・クリステヴァとジャック・デリダに関心を持ち続けています。その後ショパンを記念した名を持つ州立芸術学校「ヴォーカルアカデミア」を卒業しました。作曲コースによく出席し、彼らと音楽をつくっていました。そこで、音楽を書こうという意思がさらに促され、作曲という行為に確信をえました。でもまだ私はその道を歩み始めたばかりにすぎません。

 

 私にとって、古典音楽、ジャズ、ある種のポピュラー音楽、実験音楽、民俗音楽など音楽の多様性は魅力的です。形式の統合と分散はそれらから新しい概念をもつ芸術の創出を生みます。それから「歌手」である私が作曲をしているということが大事です。創作の過程で声ということについて考え、感じます。ハーモニーも大切ですが、作曲の始めに訪れるのは、声による旋律です。作曲をしているとき、「知」だけではなく、心や身体の反応を見いだすことができます。歌う場面では、自ら獲得してきた表現を重視することもあれば、直感的に、即興的に創作される必要もあります。そこから生ずる「声」を認めることができると、音楽が新たな領域を獲得します。このプロセスの中で、私にとって、ヨガ、気功、瞑想、太極拳の経験が支えとなります。それらの修養が自らのリズム、肉体と魂との結合を感知させ、音楽をより豊かなものにし、われわれを新しいフェーズへと導きます。」

 

 

◎マリーヤとの東京でのコラボレーション

ユーラシアンオペラ 東京 2018 「Continental Isolation」

バイカル(ロシア・ブリヤート共和国)篇/バイカル・黒海プロジェクト日記 /2017

草原の道日記2019①/カザフスタン「さんしょうだゆう

 

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