リトアニア篇「旧社会主義圏のサウンドスケープ」


十字架の丘
十字架の丘

 

 ④ リトアニア2004 2008

 

1 貧乏音楽家「贅沢病」になる

2 星と調和の女声合唱 スタルティネス

3 リトアニア再訪

 

 

 

 


1 貧乏音楽家リトアニアで「贅沢病」になる

 

 2004年。チェチェン武装勢力によるテロが続き、危惧されながらリトアニア・ロシアへと出発。ギター奏者、著述家の近藤秀秋氏が率いるExias-Jという即興音楽アソシエーションでのツアーだった。リトアニアでは首都で、ヴィリニュスJAZZフェスティヴァルに出演した。

 

 ヴィリニュスは旧ソ連時代から、打楽器のウラジミール・タラソフ(ロシア文学、JAZZ研究者の鈴木正美の翻訳で自伝「Trio(法政大学出版局 2016)」が出版されている)ヴャチェスラフ・ガネーリン(ピアノ)、ウラジーミル・チェカシン(サックス等、リード楽器)の「ガネーリントリオ」を生むなど、アヴァンギャルドJAZZに涵養な地であるようだ。主催者のアンタナス氏もその文化を誇りに、海外からのアーチストの招聘にも力を入れている。世界で名の知れる大御所もアメリカやヨーロッパから参加していた。日本からはわれわれの他、サックス奏者の梅津和時のバンドも招かれていた。EXIAS-Jはダンサーや映像も含めての公演だった。全て日本からのメンバーで構成されているため現地のアーチストとのコラボレーションはなかった。

 

 リトアニアのこともなにも知らなかった。ラトビアのリガ出身のバイオリニスト、ギドン・クレメールのCDで、故郷バルト三国の作曲作品を集めたCDを愛聴していたのだが、自身によるライナーノートの文章がまさにそのものが音楽の印象。このCDを持参して飛行機の中で聴いた。

 

「私たちはこのCDのために実に様々な作品を選び出しましたが、それでもこれらにはお互いに共通する要素、ある独特の色彩があるように思えます。色といえば、私はどういう訳か、白から黒へのグラデーションのことをよく考えます。北極圏へ旅した時に感じたことですが、この灰色の濃淡は実に多様な表情を生み出すことがあります。バルトのことを考えると、私はその灰色の海のことを思い浮かべます。これは多分に主観的な連想ですし、バルトの音楽が灰色であるとは勿論決めつけられません。しかしそれは、やはりこの北半球の世界に属していると言えるでしょう。想像力に身を任せると、私の瞼にはしばしば霧や湖、寂しげな海辺の光景が浮びあがってきます。このような風景は、私が常に目指している静寂さ、密度の高さを発見することを可能にしてくれます。」(「わが故郷から バルトの音楽」ギドン・クレメール CDライナーノーツより)

 

 リトアニアからは、バリス・ドバリョーナス、ヴィータウタス・バルカウスカスの二人の作曲家が選ばれ、ドバリョーナスはこのCDのなかでは最も古い時代の作曲家だ。社会主義リアリズムに傾倒し、1940年ソ連編入(その後ナチドイツの占領後、ソ連が再占領)後リトアニア共和国国歌も書いたため独立後は評価が低い。

 

 フェスティヴァルでは本番まで一週間近くあり、その間ホテルのレストランはミュージシャンパスで無料だった。貧乏人根性で毎晩ただ酒をしこたま呑みまくり肉料理を食べていた。本番の日が近づく頃、足先に痛みを覚えはじめ、その痛みは増して行く一方で、歩行が困難になってきた。何が原因かもわからなかったので、同行メンバーのみなさんが心配してくれた。ダンサーの方が身体管靴底用に持参した底の厚いサンダルを貸してくれたり、靴が悪いのでは、ということで同行メンバーの奥さまが靴の買い物を手伝ってくれたり。本番会場は大ホールだから、足もとまでは見られないだろうから、まぁいいかと、お借りした超厚底サンダルを履いてステージに立ったのを思い出す。

 

 バルトの神秘的な風景を見るには至らず、ひぃひぃ言いながらぼろぼろになって歩き疲れ、身体のほかの部分にも支障をきたしつつ、ロシアヘと移動し、それが原因とは思わないのでシベリア鉄道で酒を飲み続けて下痢にもなり、2週間ほどのツアーを終えた。

 

 

 帰国後も、これが原因かもしれないですと、虫が足の中に入ってしまうという奇病の写真を送ってくれる心やさしきメンバー。当時はじめて購入したパソコン使い、インターネットで、「足 激痛 原因不明 虫」などとさまざまなキーワードを入れてしらべると、酒、主にビール、プリン体、肉の大量摂取による「痛風」それ以外に考えられないのであった。しばらくは申し訳ない気持ちで、メンバーにそれを伝えることができなかった。その記事に書いてあったとおり、数ヶ月をおき前ぶれなく再発をくり返したが、幸いにも2年ぐらいで完治。

 


2 星と調和の女声合唱 スタルティネス

 

 バルト三国は合唱が盛んなところで、「バルト地方の歌謡・舞踏フェスティバル」もユネスコ無形文化財になっている。独立運動と合唱の関係は深く、エストニアではペレストロイカ以降4年間、禁じられた民謡を復興し、歌、合唱による三十万の大規模なデモや祭りが繰り返され、無血革命で独立を達成させた。歌と革命というとチェコ・スロバキアの民主化革命の「ビロード革命」の劇作家であったチェコの初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルとアメリカのルー・リードの蜜月も思い出される。社会主義政権下で数々の弾圧を受けながら革命の象徴的存在であった1970年代から活動する地下ロッックバンドTHE PLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSE(プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニバース)にとってルー・リードらのヴェルベットアンダーグラウンドやフランク・ザッパなど、アメリカの前衛ロックの影響は大きかった。

 

 リトアニア北東部にはスタルティネスという主に女性によって歌われてきた多声による合唱がある。いくつかのグループ形態と形式によって同時に異なる短いフレーズがカノン(輪唱)で、反復されながら歌われる。男性がこれに楽器で参加することもあり、シンプルな群舞もともなわれる。それは星形のフォーメーションをとることもあるようだ。

 

 調べると、「sutartinėやsutartinisの語は動詞sutarti 〈調和する〉、〈息を合わせる〉や名詞sutartis 〈合意〉、〈契約〉と関連がある。」と語源につ いての解説があった。

 

 労働や暦についての内容の歌が多い。ポリフォニーはいくつかの旋律が「多声」により同時に演奏されている状態のことをいう。西洋のクラシック音楽の進化においては、バッハにより、カノン(輪唱)、フーガ、技巧的に洗練された対位法へと完成される。後にベートーヴァンは、聴覚の衰弱が進行するなかで、この対位法理論を研究し、それを実践する創作を行った。聴感覚を失う中で、より理論のもつ数理性と視覚性から生まれる響きに頼って創作したのであろうか。しかしオーケストラが巨大化され、楽器の種類や数がふえると、声部が複雑になり、それを制御しながら、そこでポリフォニーを成立させることは難しい。西洋古典音楽の進化は基本的にはハーモニー(和声)の洗錬が主となる。

 

 民俗音楽にはもっと原初的なさまざまなポリフォニーがみられる。 アフリカ赤道あたりのピグミーといわれる人々(身体的にはほぼ150cm以下なので背が小さい)はダイナミックで多様なポリフォニーが知られている。自然発生的に自由に複数の声が交錯してゆく。自由な混声状態だが、人々はリズムのサイクルを共有しているようにみえる。たとえばジェームス・ブラウンのR&Bやソウルミュージックをさらにプリミティブにしたファンクミュージックは、そのようなアフリカン・ポリフォニーの音楽の変容した姿にも思える。JBの歌とアクションが主旋律として中央を貫くが、楽器演奏がポリフォニックだ。各楽器の音がそれぞれのパルスをもちながら、共通するグルーブのなかで有機的に絡み合っている。

 

 ジョージアやコルシカ島のポリフォニーも有名だ。ハーモニー主体の合唱とは異なるが、西洋音楽の合唱のように声の高低でパートが明確に分れている。そのため結果として自然にハーモニーが形成される。リトアニアのスタルティネスは、リズムのサイクルによるノリ(一定の拍子の共有)がないように聴こえる。それぞれのパートが延々と重なりながら進行し、接着点が希薄だ。全員がほぼ同じ高さの声で歌うので、西洋古典音楽では不協和音として回避される2度の音程が頻繁にぶつかりあい、不思議な不協和音が生まれている。

 

ポリフォニーは、平たく言えば、それぞれが好き勝手自由にやっているのに、なぜか調和もとれているみたいな状態ともいえる。 日本の古い音楽にはハーモニーもポリフォニーもないが、音楽用語にあてはめると「ヘテロフォニー」がある。たとえば何人ものお坊さんが読経する「声明」や、祭や飲み会で一つの旋律をみんなで歌って(斉唱)それがずれている状態を思い出しただきたい。「ヘテロフォニー」は西洋音楽的な発想からすると「音楽」という認識にすらならないかもしれない。さらに「カコフォニー」は、意識的に「ずれ」 ているわけではないの産物による偶然の不協和状態を指し、不快にすぎないという認識になる。もちろんそれは「西洋(古典音楽)」からみればの言い方だ。

 

「もっと本質的なのはさまざまな声があることである。実際、それは一致へと向かっているが、そこには声の多様性と非融合性がつねに保たれている。」(ミハイル・バフチン「ドストエフスキー論」)。

 

「ポリフォニー」という言葉は、共同体論や思想的言説でもでもしばしば援用される音楽用語だ。ロシアの思想家ミハイル・バフチンは「対話」のなかにかならず存在する「不一致性」を重要視する。そこでは「ハーモニー」という「一致」、調和を前提にしたコミュニケーションは「モノローグ」に過ぎない。西洋音楽、西洋社会社会、キリスト教はこの「一致」と調和のとれた整合性をつくりながら歴史を歩んでおり、やがてその限界も露わになる。

 


3 リトアニア再訪

以前、このテクストで作曲を試みたことがあります。未完成のまま柴田暦さん(vo)といちど演奏しました。
以前、このテクストで作曲を試みたことがあります。未完成のまま柴田暦さん(vo)といちど演奏しました。

 

 この小さな国に再び訪れる機会があるとは期待していなかったが、2008年に再訪の機会を得た。ロシア、ウクライナと巡演し、最後の地がリトアニアだった。ヴィリニュスでも工科大学のホールやカウナスの劇場でコンサートを行った。薩摩琵琶、笙、を含む現代曲の演奏と即興演奏だった。

 

 リトアニアの首都「ヴィリニュスの旧市街」は、1994年からユネスコの世界文化遺産に登録されている。カトリック国であるリトアニアは、ヨーロッパ諸国では最も遅く1300年代にキリスト教を受け入れた。それゆえに十字架や教会にも、それ以前の原始宗教の名残をとどめているそうで、たしかに装飾が印象的だった。

 

「リトアニアの伝統的な十字架は独特のもので、建築・彫刻・鍛冶、素朴な絵画などがモチーフになっています。十字架には、古くから伝わる植 物、太陽、鳥、世界の樹木などが装飾模様として刻まれています。この装飾模様は当時の宗教、バルト教を表しています。十字架は故人の記念 のため、魔除けのため、恵みを受けるため、感謝するために作られました。十字架作りが禁止されたロシア帝国時代(十九世紀後半)や旧ソ連時代(二十世紀の50ー80年代)でも、リトアニアでは十字架が作られており、十九世紀頃から、様々な十字架の形はリトアニアのアイデンティティを表現する宗教的・習慣的な意味を持つ国民の象徴となりました。シャウリャイ市郊外の十字架の丘は、十九世紀に入ってから恵みを求め、感謝を表すために作られた十字架が世界中から集まっている場所です。このような丘は、お そらく世界の中でも唯一の場所でしょう。現在、大きな十字架は2万本以上立てられ、その中には非常に表現豊かなものから素朴な ものまで、じつにさまざまな 十字架で埋め尽くされています。」(在日本リトアニア大使館のホームページ)

 

 ヴィリニュスで走っていたバスの車体には、リトアニア出身の映像作家、詩人ジョナス・メカスの写真が車体に大きく印刷されていた。人口の少ない小さな国では超前衛芸術家も誇りとなりうるのだろう。ナチスの収容所に囚われていたメカスは1949年にアメリカへと脱出し、ニューヨークでフルクサス運動やジョン・レノンらとも関わりながら映像作品を創作。故郷のリトアニア語で書かれた詩は、森の静寂のなかの独白のように分断された言葉によって書かれている。私も朗読と音楽の曲としてメカスを用いたことがあり、詩集「森の中で」(書肆山田 村田郁夫訳)の巻末の、詩人、映像作家の鈴木志郎康(大学一年生のとき、詩の創作の演習ゼミに出席していた)の解説によると、メカスは自身を「私は田舎者である」といっている。

 

 

私は

自分自身を

組み立てようと

試みる、

 

すべてを

開いた

ままにして、

どこに

行くかも

わからぬ

ままに—

 

ただ

直感

即興

導か

れ、

 

堅く

踏み

固められた

道を

避け

ながら

 

(ジョナス・メカス「森の中で」(書肆山田 村田郁夫訳より)

  

リトアニアのお店で薦められたCDのいくつか。リトアニアの伝統音楽、おばあさんの民謡、鳥の声真似歌、キリスト教以前の音楽、それからロシアのアヴァンギャルド系。先々、この中で、アヴァンギャルドは、セルゲイ・レートフ(sax)、ウラジミール・ヴォルコフ(cb)、ユーリ・パルフェノフ(tp)と、三人のミュージシャンとコラボレーションすることになりました。縁があった。
リトアニアのお店で薦められたCDのいくつか。リトアニアの伝統音楽、おばあさんの民謡、鳥の声真似歌、キリスト教以前の音楽、それからロシアのアヴァンギャルド系。先々、この中で、アヴァンギャルドは、セルゲイ・レートフ(sax)、ウラジミール・ヴォルコフ(cb)、ユーリ・パルフェノフ(tp)と、三人のミュージシャンとコラボレーションすることになりました。縁があった。

 「ヨーロッパ最後の中世」ともいわれるヴィリニュスやカウナスの街中は、たしかにヨーロッパの古く小さな宗教都市をおもわせる小路が多い。そんな街角にいくつかの小さなCDショップをみつけた。鳥に関するものが多く、絵本、民謡、童謡、鳥の泣きまね(数十種類の鳥の声の模倣と 歌との中間のような作品)のCDや楽譜をみつけた。森の国だ。

 

 当時はパソコンを海外で使うこともなく、WIFIという言葉すら知らない。あてずっぽうにCDショップを散歩しながら探し当て、路地の角にひっそりと佇む小さなCDショップも偶然みつけた。中に入ると、当時のわたしが探し求めていた前衛的な音楽にも詳しく、セルゲイ・レートフやウラジーミル・ヴォルコフなど後に共演することになるロシアアヴァンギャルドJAZZのCDを紹介してくれる。そういう店では自分のCDを置いてもらったりして商品と交換してくれる場合もあった。

 

 

 名前も知らなかったような海外の街にひっそり、きっと売れもしないだろうが、自分のCDが佇んでいるというのは不思議で、なんだか嬉しいものだ。言語の壁でがある書籍の文化ではむずかしいことだろう。何度か行く海外の街にはいくつかそんな店があった。いまはインターネットやデータの時代なのでほとんどなくなってしまったのかもしれないし、そうやって店を探す楽しみも少なくなった。

 

 このとき自分のCDと引き換えにいただいたなかの一枚が、後にファンになったソ連時代からのアヴァンギャルドパンクバンドのアウクツィオンだった。約10年後には、参加メンバーと共演し、バンドのコンサートを観に行くこともできたが、この時は名前すら知らなかった。別の店では、民俗音楽を中心に紹介してもらった。いまでもたまに聴くのが「Kūlgrinda」だ。キリスト教を受容以前は、文字を用いない民族ラトビア、リトアニアなどバルト海の神話の海の雷の主神Perkūnasに捧げられた音楽とのことだった。

 

  街中にある古びた体育館のような場所に人が集っていた。かつては、ソ連映画で見たコムソモール(青年団)の若者が、レクリエーションパーティーなどでか集った場所だったかしら、と想像しながら中に入ってみると、中古レコード市だった。ほとんどが古びたLPレコードだった。それにしてもヴィリュニュスの街のこの大きな古い体育館によくもこれだけの中古レコード盤が集ったものだ。これだけの分量の音楽が部屋の中で聴かれてきたいうことだが、LPということは旧ソ連時代のものということになる。ソ連時代の使用済みのレントゲンフィルムに検閲で禁じられた欧米のジャズやロックを刻んだ「肋骨レコード」の話しも聞いたことがあるが、人たちはどんなふうにレコードを聴く日常を営んできたのだろうかと思いをはせた。

 

 私はレコードプレーヤを持っていないので、古いレコードよりやや少なめな中古CDコーナーへ。わたしが買ったのは、ロシアのアルハンゲリスクからヴィリニュスに移住した打楽器奏者ウラジミー ル・タラソフがコンセプチュアリズムで知られるウクライナ出身のイリヤ・カバコフのインスタレーション「共同キッチン」での共演作のパフォーマンスが収録されたCDだった。無造作に表裏一枚のカヴァーアートがディスクケースに挟まれているだけで何も情報がないので、数年後に気になって調べてみた。ロシア文学者の鴻野わか菜氏がこのように解説している。

 

「ソ連の共同住宅を舞台にした作品。住人達の罵詈雑言が、紙片に書かれ、円筒形の部屋の天井から一面につるされている。書かれた個々の言葉は下品極まりないのに、無数の紙片がゆらめく全体の光景は美しく、不思議な清潔感が漂っている。散文的な日常を描いたはずのこの作品は、実は、悪も浄化される死後の世界なのかもしれない。共同住宅全盛期に生きたソ連人たちの多くは、彼岸に旅立ってしまったのだから。」(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター 1998年 http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/kabakovI.html )

 

 コンセプチュアリズムは「ソッツ・アート」という別名があり「ソッツ」とは「社会主義」の略語だ。古い体育館で、無造作に並ぶ箱の中から偶然のように出会った一枚にそのような背景があるとは全く知らなかった。

 

 こうして、たまたま訪れた街で音楽や詩にあらためて出会い直す。それが、後にそれぞれの地のアーチストと直接コラボレーションを行いながら創作する、私のユーラシアン・オペラの原点なのかもしれないと思う。

 

 ある秋の良く晴れた日、友人とあてもなく車に乗って奥秩父の廃墟になった峠の集落を訪ねたことを思い出した。秩父のセメント鉱山関係の仕事を生業としていたであろう、5軒ほどの小さな廃屋があった。ぼろぼろになった家屋の中に不法侵入した。壁にかけらたままの暦の日付を確認し、空き家になって15年ほどだということがわかる。その下に何枚かレコードが散乱していた。近寄ってみると歌手の日野てる子のハワイ風のジャケットのLPだった。こんな山奥で南国風のエキゾチックなレーコードを、この個室の存在しない小さな家屋で夜、家族で聴いたりするひとときがあったのだろう。秩父の街中まで出てレコード屋で買ってきたのだろうか。盆踊りや野外の宴が行われるくらいの、小さな空き地もあった。子供たちの遊具もそのまま朽ちて散乱している、まだ人間の息吹のざわめきを感じることができるその場所で、楓や森の木々の乾きはじめた葉が擦れ合う音しか聴こえない。ふと風がやむ。

 

沈黙に,

沈黙に

耳を

澄ましながら、

 

沈黙が

決して

語らぬことを

知ら

ないで、

 

問いに

なんの

答えも

ない

ことを

知ら

ないで、

 

いかなる

問い

にも

答えは

ただ

沈黙、

沈黙

しか

ないことを

知らないで_

 

私は

なおも

歩む、

沈黙を

信じないで、

 

(ジョナス・メカス「森の中で」)

 

 
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